第4章 波のない海 ⑤
舟はもとの速度をとりもどしていたので、陸はあっという
暗い海をのぞけば、水底の砂地や、
気のままに動き回る海洋生物も豊富で、
明かりが射しこむおだやかな水の下は、自然そのままのアクアリウムさながらだ。
ぐるりと遠方へ視線をはせれば、離れるほどに灰色がかって見える暗い海面が広がっている。
よどんではいない。
透明度がたかく、凪いでいる。
水がきれいなのだ。
朝がくればこの海は、どんなふうに見えるだろう?
大陽は、ひとり、思いはせた。
きっと、さらしだされた海底の白さと、空の青を反映した海面の色が融けあい、南国の海辺のように見えるにちがいない。
それは透きとおった青、……アクアマリンだろうか?
それとも、エメラルドグリーン?
それを明かしてくれる手がかりがないかと、大陽は、蒼暗い頭上をふり仰いだ。
(どうして、日が昇らないんだろう?)
空の状態に変化はない。
彼が感じてるほど、時間が経過してないのだろうか?
なにげなしにテールの方を見ると、目が出会った。
大陽は、無言のまま、外した視線を海にもどした。
浅いようであり、深いようでもある透明な深淵。
距離感をよみにくいが、水底の砂地が明瞭に見てとれる。
潮騒も聞こえない。
無限にも思える静寂に、心が吸いこまれてしまいそうな感覚があった。
「ほんと、静かだよな。波がないみたいだ…」
「波なら、舟のまわりに生まれている」
「これは、波紋…っていうか、航跡じゃん!」
そこで視線を泳がせ、肩越しに迫りつつある浜辺を視界におさめた大陽は、
「ん?」と。
食い入るように、目を凝らした。
(目の錯覚…?)
まさかと思ったが、海面が動いてないようなのだ。
やたら、静かだと思ってはいたが、事実、波がないのではないだろうか?
それを証明するように、周辺の水面は鏡のように凪いでいて…。
舟が生みだす航跡をのぞけば、乱れなどないように見えた。
水際にしぶきが上がらないためか、近づきつつある海岸線が、浜の白さにぼかされて判然としない。
大陽の常識では、海岸には、打ち寄せて白くあわだちながら退いてゆく波のくり返しがつきものなのに…。
「波は、動くもの、干渉する物体が生みだすものだ」
「じゃなくて、どうしてっ?」
「那辺の常識で理解することは難しいでしょうが、働きかけなければ、移動すること……循環すること、蒸発することもない。
停滞し、層をなして留まることはあっても、塩分が水際で結晶化し泡立つこともなく、雲も生まれない」
「なへん? 働きかけなければ……って…」
そうこうしているうちに、陸地が迫って、大陽は、明確な意味をもたない声をあげていた。
「…なっ、なななななな…――」
予想だにしなかったなりゆきに平静でいられなくなった大陽の喉が発したのは、言葉にならない擬音の羅列。
水上をいくはずの舟が、砂地に乗りあげながら、その衝撃も止まるけはいもなく、すいすい前進している。
水上を移動しているときと同様、まったく振動がない。
にもかかわらず…
彼らを乗せた白木の舟が、白い砂浜の上をすべるように登り進んだのだ。
これという衝撃もないというのに、底にあたる砂を軽く左右にはじきとばしていく。
その
遅ればせながら、舟のふちに手を伸ばしてみたが、揺れないので力む必要がない。
それでも、力が入る。
「そんなに驚くことはないだろう。
水上を滑らせるように、砂上を滑らせただけだ」
テールがこともなげに言うのと前後して、舟の速度がゆるやかになり、静止した。
浜の中腹に鎮座した小舟は、わずかに底が埋もれているだけなのに、傾くこともしなかった。
(すごい……びっくりした…。けど、なんで…?)
平然としているテールをよそに、大陽は、まっすぐ海までのびてる一本の痕跡を見つめた。
ふつう、舟を浜にあげるなら、船底が砂に埋まらないよう、板か丸太を線路の横木のように敷いて、その上をおすものだ。
ワイヤーでも伸びて、海からひっぱりあげられたのではないかと後方を振り返ってみたが、彼が背にしている船首にも、その先にも、それっぽい仕掛けを見いだせない。
ほんとうに無いのか気になっても、身をのりだして死角になってる部分を確認することまではしなかった。
船底が海岸にきざんだ直線と左右に散った砂の痕跡に目をもどした彼は、その入江の海に波がないという事実も同時に見ている。
小舟が通ったあとの水だけが、おだやかなたわみをみせている。
そのあたりをのぞけば、水際に見られる湿った砂のラインも一定していた。
(どうして…? 湖でも、これだけ広くなれば、
「大陽?」
舟が陸にあがったのに、いっこうに動きだそうとしない連れを見て、テールがもの問い顔をしている。
その彼も大陽も、横木に腰かけたままの姿勢だ。
「なんで、海に波がないんだ?」
「そう作用するものがないからだ」
「作用するもの…」
一瞬、考えた大陽は、薄い闇がひろがる空を視界のはしにとらえた。
「月は?」
「衛星は存在しない。それに象徴されるものなら、地上に生まれおちる…」
「象徴されるもの…?」
「《
「…。ここは、自転してないのか?」
「遅々とした素材の流転はあるが、大地が回転することはない」
大陽は、かっと目を怒らせた。
「――
恫喝されようと、テールは冷静なまなざしで大陽の反応を観察していた。
瞳の色合いが、つややかな金属や鉱物をおもわせるので、そんな表情をすると、まったくといっていいほど感情が読めない。
「ここは、こう
「なんだよそれ…。どこだよ…――暗くて…。……太陽も月もなくて、自転もしてないって…。そういうのか?」
「そうだ」
肯定されたことで、にわかに言葉を失った大陽が、二度、三度と、まばたきした。
キッと、唇を引き結ぶ。
「…。…だって、じゃぁ、こんな浜だって、できないはずだ。
波が…。水と大地の摩擦…。浸食……堆積作用。動きがなかったら、こんな地形……」
「これは、太古に形成された愚者の概念造形……模倣のなごりだ。
昨今は、働く力がわずかだから、大きな変化はない。
刻みつけられた痕跡は、なんらかの力に変化させられないかぎり、存在し続ける」
「って、どう
死んだ惑星みたいじゃないか」
大陽の指摘に、テールは黙したまま黄金の双眸を伏せた。
「なぁ?」
「なんです?」
「これって、現実?」
「…さぁ? 少なくとも、わたしにとっては、事実です」
大陽は、うつむきがちに船底をみつめた。
あらためて視界にいれて気づいたが…。
舟を形づくっている板には、微妙な色彩の変化があっても、木目らしいものがなかった。
季節による寒暖差が、ないのかもしれない。
もしかしたら、地球ではないのだろうかと。
考えても、事態が突飛すぎるので、テールの言葉を信じる気になれない。
ストレスまぎらせに、ぶんと頭を左右に振る。
これが夢なら、そのうち覚める。
現実だったとしても、容易には信じられない事態だ。情報源が、ひとりでは少なすぎる。
街にいけば、ほかの人間がいる。
答えを得られるに違いない。
それが望むものでも、望まないものでも…。
「そうだな…。……行くしかないか」
口ではそういったが、大陽は、すぐに腰をあげようとしなかった。
太陽がない。月もない。大地は自転もしていないという。
そんなのは、やはり、ありえない。
現実だとしたら、詐欺としか思えないのだが、トリックの規模が大きすぎて、種など予測つかないし、受け入れがたい。
(自転してないっていうのは、嘘だな。
ここには、水も空気も、重力もある。でも…。海岸に波がないっていうのは……)
大陽がぐずぐす思案していると、テールがぼそっと口をひらいた。
「陽と月と星が、空にない大地は嫌いか?」
「そう
「光源は地上にある九つの太陽と、《日》《月》に象徴される《光輪》(と)…。
主にセンシュウの太陽の日差しが、大気中に散乱するが……。
この地のすべてが白日のもとにさらしだされることはない。
薄闇に包まれているのが常だ。
中央の太陽が暴走する前は、空の色も均等だったが、いまは差異がある」
「センシュウ…。真ん中にある国だっけ? そこには太陽があるのか?」
大陽が聞き返すと、テールは溜息まじりに笑った。
「状況をのみこめていないようだな。おさらいしながら行こうか?」
「え? うん…」
説明を聞くのは気が進まなかったが、テールが腰をあげたので、大陽もつられて立ちあがった。
舟はあいかわらず安定していて、ぐらりともしなかった。
舟のふちをまたぎ越え、砂地におりた二人が、ざかざかと足をかむ砂の上を歩きはじめる。
白い浜辺は、それ以前に歩いたものの痕跡で、ごちゃごちゃと荒れていた。
明らかに人のものと思われる足の跡――はだしのものもあれば、履物によるものもある。
砂地なので、明確な形は残らないが、鳥や獣、軟体生物が残したとおぼしき痕跡もあった。
遠方に、薄墨を流したような闇がおりているが、
光を発するテールといっしょに行動している大陽のまわりは、明るく鮮明だ。
注意をはらうべきものには、ことかかなくて…。
視野の上方に、金色っぽい髪の毛先が垣間見えたり、
足もとにあるべき影がみあたらなかったりしていたが、大陽の目と意識は、自身の状態より、外のようすにむけられがちだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます