第三十二話
「……ん?」
振り下ろしたはずだった。
手が動かない。ピクリともしない。
一体、何が起こってるのだろうか?
「はぁ……どうしてこうなったのやら」
真横からどこかで聞いたことのある大人な男性の声が聞こえ、視線を向けると年老いた男性が僕の腕を掴んでいた。
「な、何してんだよっ! 離せっ……離せやぁ!」
僕は年老いた男性に唾を吐くように言葉を投げ、腕を払おうと必死に暴れる。しかし、年老いた男性は余裕の表情、否、僕を可哀想な目で見つめ、いとも簡単に腕を捻ってハサミを奪ってみせた。
「返せっ! 返しやがれ!」
「もう止めませんか? 小好さん」
「なっ、何で僕の名を……」
戸惑いを隠せないでいると、後ろから声が聞こえてくる。
「し、ししし、
「ちょっと予定が空きましてね。少し早く来てみたらこんなことになっていました」
オフィスで一番偉そうな人にそう聞かれ、呆れたように答える年老いた男性。
――東雲さん……どこかで聞いた名前だ。
記憶の中でその名を探してると、隣にいた年老いた男性である東雲さんが声をかけてきた。
「それにしても、まさかわたしとの約束をすっぽかして、こんなところにいるとは思ってもいませんでしたよ」
「……」
僕はその言葉を聞き、難しい表情で首を傾げる。
東雲さん? 約束? すっぽかす?
今日の僕の予定は確かタブレット代を……
「あっ! し、東雲さん⁉」
「もしかして、忘れていたんですか?」
東雲さんは仏のような笑みを浮かべているが、逆に恐怖を感じる。
僕は「いや、その……ごめんなさい」と言うしかなかった。
本当に申し訳ない。忙しい東雲さんとの約束をすっぽかすなんて。
ドタキャンより酷いことをしてしまった。
「別に構いませんよ。ちょうど会えましたし。それに状況からして色々あったんでしょ? そうですよね、課長さん」
東雲さんは冷え切った声でオフィス内で一番偉い人に問いかける。
「あ、はい。実は……」
課長は引きつった表情で瞳を泳がせながら、包み隠さず全てを話した。
日高さんに対するパワハラ。
日高さんの退職に対する態度、行為。
パワハラ上司であるオッサンの言動。
それと僕が取った行動。
現状の真相を全て聞き、東雲さんは「なるほど」と一言。
それから二度手を叩いて、オフィス内の皆に向かって話し出す。
「正直に申しますと、どちらとも警察のお世話になっても何らおかしくないと言えます」
「東雲社長それは――」
「まあまあ落ち着いてください、課長さん」
軽いジェスチャーと柔らかな笑みで課長を黙らせる。
「こちらとしても、このタイミングで警察沙汰になるのは困ります。商品の発売はほとんど決まっていますからね。ですので、そちらの会社側を通報するつもりはありません」
その言葉に課長を始め、社員たちは安堵のため息をつく。
「ですが、会社側を通報しないで、小好さんだけを通報するのは流石に筋が通りません。もし小好さんだけを通報してしまった場合、小好さんは警察側に全てを話すでしょう。ですから、ここはお互い訴え合わないというのはどうでしょうか?」
その言葉の後、東雲さんは僕と課長の顔を見た。
続けて、僕と課長は顔を数秒見合わせる。
僕の頭は落ち着いている。
誰が何と言おうと、自分が行った行為は許されない。
どんな理由があろうとも、人を殺そうとする行為は大罪だ。
警察に訴えられれば、間違いなく刑務所行き。
だがしかし、それは相手も同じか。それ以上。
僕より大罪ではないものの、個人ではなく会社の問題となる。
倒産まではいかないと思うが、計り知れない損害が出ることは間違いない。
それを理解した上で、僕と課長は会話を始めた。
「こちら側としては、東雲社長の意見に乗りたいと考えております」
「僕のほうも同意見です。でも、一つだけ条件があります」
「条件?」
「はい。今後、僕と日高さんに関わらないください」
僕は目の前でオロオロするオッサンを睨みつける。
オッサンは恐怖で声が出ないのか、口を動かして「関わらない関わらない」と何度も言っていた。
「承知致しました。条件を守ると約束します」
「では、これでこの話は終わりということで」
「分かりました」
課長との話を終え、僕は日高さんに駆け寄る。
まだ日高さんは座り込んだまま。だけど、怯えた表情はなく、ホッとした表情をしている。
「日高さん、大丈夫?」
「あ、はい。大丈夫です」
「立てる? 抱っこしようか?」
「子供扱いはやめてください」
僕の言葉が気に食わなかったようで、少し頬を膨れさせて小さな手を使い立ち上がる。
一瞬、足に力が入らなかったのか態勢を崩したが、何事もなかったように振舞い、自分の荷物を取りにデスクへ。
「あっ、小好さん」
「は、はい」
東雲さんに呼ばれ、僕は振り返る。
「あの時は申し訳ございませんでした」
言葉と共に出て来たのは、少し膨らんだ茶色の封筒。
間違いなくタブレット代の二十万円である。
「いえいえ、こちらこそ今日は約束をすっぽかし、僕の酷い行為を止めていただきありがとうございました」
申し訳なさと感謝の気持ちで、頭を深々と下げる。
東雲さんには二十万円以上の価値のある行動をしてもらった。
正直言って、受け取りにくい。
「そんな大したことはしてないです。約束のほうも結果的には会えたのですから問題ないですよ。それより頭を上げてタブレット代を受け取ってください」
「本当に……ありがとうございます」
感謝を述べ、もう一度頭を下げる。
東雲さんは「いえいえ」と言い、僕の後ろを見て口を開く。
「後ろの女性がこちらをじーっと見て待っていますよ。早く行ってあげてください」
「あ、はい。では、失礼します」
最後に頭をペコっと下げ、小走りで日高さんのもとへ向かう。
「帰る準備は出来たようだな」
「はい、完璧です」
「後輩に挨拶はいいのか?」
僕の問いに日高さんは「もう伝えることは伝えたので」と一言。
最後に無言で一人立ち尽くす女性に視線を向け、微笑みながら「さようなら」と声を出さずに口だけ動かした。
「帰りましょうか」
「本当に良かったのか?」
「これでいいんです。彼女は立派ですから」
満足気な表情で日高さんは歩き出す。
少し遅れて僕も歩き出し、日高さんの横へ。
相変わらず小さい。小学生みたいだ。
微笑ましい表情で日高さんを横目で見てると、日高さんがもじもじし始める。
安心してトイレに行きたくなったのかと思い、聞いてみようとした瞬間、日高さんが前を見たまま僕にこういった。
「助けてくれて、あ、ありがとうございました……」
僕は予想外の言葉が飛んできて驚き、頭と体が完全停止。
まさか感謝されるなんて思ってなかった。
なんか嬉しいというか不思議な感じ。むずがゆいというか。
「何ニヤニヤしているんですか? エレベーター来ましたよ」
「あ、うん。ちょっとボーっとしてた」
「そうですか」
僕たちは会話を終え、エレベーターに乗り込む。
その間は沈黙が続き、横目で見る日高さんの顔はなぜか茜色だった。
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