おまけ:姉妹
ようやく私は安息を得ることができた、そう思っていたのに――。
私とレイン様の間には間違いなく距離がある。それは仕方のないことだ。なんの理由もなしに私のような人間を救いに来るはずがない。たまたま運命が世界に対して悪戯をしただけのこと。レイン様が言うように、私には生きることのできる場所なんてなかった。だからこそ、レイン様が私を呼ばれたとき、これ以上ないほどの幸運に見舞われたと思った。私には勿体ない言葉をさらりと流すレイン様に、見惚れないはずはなかった。
でも、そんなふうにレイン様の下へやってきたのは、私だけじゃなかった。
レイン様が私を迎えてくださり、部屋へと案内された。東京の高級スイートに似て壮観な景色を望む部屋だったが、その先に広がる光景には見覚えがなかった。部屋の中も、全く不自然というほどではないが、どこかが違っている。それは、床が絨毯から無機質な金属張りになったとか、キッチンと思しき場所に見慣れたガスコンロがないとかいう、単純な変化に寄らない。それでも、そんな違和感はすぐ慣れてしまう。
部屋でレイン様を迎えた一人の人間がいた。丁寧な言葉づかいで主人を迎えるような発言をし、恭しい態度を取っている。レイン様ほどの人になれば侍従くらいつくのだろうと、勝手に考えていた。
とはいえ、侍従にしてはかなり若い気がする。私よりは年上のようだが、レイン様よりは若く見える。二十代前半と言った様子で、艶のある黒髪を編み込んでシニヨンを作っている。服装はよくあるメイド服や、かっちりしたスーツでもない。カジュアルだが、品を感じさせないわけでもなく、しかし、どことなく、誰かに仕える者としては礼節に欠いているような気がする。
それにレイン様の侍従と聞いて思い浮かぶのはどちらかと言えば、あのホテルや、最初に私の部屋にやってきたときに行動を共にしていた二人の方がふさわしい。銃火器を携帯し、どこか物騒ではあるものの、従うという意味では彼女たちの方がぴったりに思えた。
「そちらの方が話をされていたという方ですね?」
レイン様の正面に立ち、少し顔を上げ、目を見て話している。表情は穏やかで、自然に口角を上げていた。
「そうだ。これからここで一緒に暮らすことになる」
そう言って振り返り、手で前に来るようにと促す。
いまだ判然としないが、つられて私は一歩踏み出した。どことなく顔を合わせづらく思い、かといって大胆に視線を外すのもはばかられたため、首元辺りを見ていた。細く華奢で、きめ細やかな肌をしている。
「初めまして。アリス・ノーツと言います。よろしくお願いしますね」
無遠慮に向けられた笑顔に、わずかに気が引ける思いがした。昔は苦手だった。こうして初対面にも関わらず、明るいコミュニケーションを取ることができる人物が。少しは克服できたと思っていたけど、今になってちらつく顔がある。それを振り払うことができず、私は言葉に詰まる。
「七星燐だ。お前と同じ人間だよ」
代わりに私を紹介したレイン様の言葉にハッとした。
今の妙な紹介の仕方は何だったのだろう。同じ人間って――まるで、レイン様が――。
「そうなんですか。わざわざ気を遣ってくださったんですか?」
「そういうわけでもない。わかってるよ、お前が別に側に人間を置いてほしいなんてことを望んでいないことくらい。ただ、まあ、成り行きだ。私にとって最後の、ちょっとした後悔の清算みたいなものだ」
「それは、よかったです」
「ああ」
知らない顔をしている。レイン様が、まるで普通の人のように談笑をしている。とてつもない悪寒がした。こんなのは、間違ってる。
踏み出そうとして、前髪に隠れていないレイン様の左目がこちらを見た。吐き出しかけた言葉を飲み込んで、私はその目から視線を逸らすことができなくなる。
「燐、お前にとってもアリスは必要になるはずだ。とくに最初はわからないことだらけだろうからな。とりあえず私がいないときは、アイツに聞くといい」
「お話は伺っています。いろいろと大変なこともおありでしょうが、一応の先輩として、私なりにお手伝いをさせていただきたいと思います」
気立てのいい娘が、よく整理された言葉を発している。それは私にとって胸を刺す痛みに似ている。
ここにも居場所はない、そんな予感が背中から這いあがってくる。こんな明るい居場所は私にはふさわしくない。そして、アリストと紹介された彼女も。
「あの、」
「はい?」
「――あなたは、誰ですか?」
「……えっと?」
当然のように困惑している。違う、違う、そうじゃない、そうじゃないんだ。困惑なんてどうでもいい。けど、これはいったいなんだ。私はこんなものを夢視てここまで来たんじゃない。私は、私は――。
肩に手が触れた。
「今日は疲れているだろうから、もう休むといい。部屋に案内してやる」
言葉につられるように、私は足を動かす。ぺたぺたと地面をたたく足裏はとても冷たい。
◇
知らないってなんだ?
私がレイン様の何を知っている。私はただ偶然に出会っただけ。なにも知らないなんて当り前じゃないか。
でも、何かが違うんだ。いまさっき目にしたレイン様は、あんな彼女は、私にはとても暖かすぎて、吐き気を覚える。
もっと厳かで、霧のようで、はるか彼方にいるような人のはずなのに、あれじゃまるで、あの二人は、家族みたいじゃないか……。
◇
「すまないな、しばらくは迷惑をかけることになるかもしれない」
七星燐を部屋へと通したあと、レインは戻ってきて早々そんなことを口にした。宛先はほかでもないアリスだった。
「いえ、構いませんよ。なにかあればお呼びすることはあるかもしれませんが」
「もちろんだ。あまり重くは考えなくていい。アイツはアイツでしばらく苦しむことにはなるだろうから。ただ、その矛先がお前に向くのだけが心配だよ」
「それこそ、考えすぎです。私だってここに身を置かせていただいている以上は、必要な働きはさせていただきます。そういう条件で、私はここにいるのでしょう?」
「そうだが、どうしてもな……」
「お姉さまは少し、私に対して甘すぎますよ」
「まったくだな。お前はこの娘のことになると途端に過保護になる」
話に割って入ってきたのはレインの従者の一人、メルカだった。大仰な足取りで部屋へと入ってくる。
「わかってるよ。でも、これは私の責任の話だって何度も言っているだろう」
「それが過保護なんだよ。いいじゃないか、コイツだって何もできないわけじゃない」
メルカが入って来るなり、アリスは一歩身を引いた。いつもの癖だ。
アリスはレインに拾われたもう一人の人間だ。故あって彼女と生活を共にしている。と言っても家族とは少し違う。お姉さまと呼ぶのは子供時代の名残のようなもので、実際は人間ではないレインとそのような関係になることはない。どちらかと言えば、燐とのこれからの関係の方が姉妹に近いといえるだろう。
とはいえ、アリスもまたレインのことを敬う存在であることも間違いのないことだ。ただその在り方が、本来の従者であるメルカやベクターとは違っている。彼女はただの侍従ではなく、また家政婦でもなく、かといって娘でも姉妹でもない。家族には近すぎる。そして主従には遠い。第三の関係性が二人を繋いでいる。
「アリス、私は出てくるよ。すぐに戻るけど、燐の対応はお前に任せる。気にかけてやるのも、放っておくのもお前の自由だ」
「わかりました。そうさせていただきます」
にっこりと作り笑顔にも見える表情を返す。けれど、けっしてこの表情は仮面ではない。ありきたりな笑顔もまた、暗黙の了解を告げ、レインはそれを承知しながら、後ろめたい思いをせずにはいられなかった。
◇
ああ、嬉しい。もうなんだっていいじゃないか。
悩んでいたことは忘れよう。それに、やっぱりそうだった。レイン様はほんとうに神さまだった。だから、そう、見ていてくれたんだ。信じる者は救われるって、そうやく確信できる。
私は、それでいいんだ。
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