第三話 記憶
「
結局、自己紹介以外では喋ることがなかった中年の男性が、今になって声を上げた。やはり年齢的にも上司なのか、土掛と呼ばれた男は素直に腕を掴んでいる手を離す。
私は掴まれたあたりをさすりながら、肩越しに二人を交互に見ていた。
「でもね、話はまだ済んでいないんだ。もう少しだけ辛抱してもらえるかな?」
そう言って歩み寄ってくる。先ほどまで威勢がよかった土掛という男はおとなしくなり、中年男性の後ろに、警護官のように立つ。
「改めて自己紹介をしようか。先ほど見せた警察手帳は、なんというか、不完全だからね」
中年男性はあくまで温和そうな表情を崩さない。ある意味でこれが仕事の顔なのだろう。確かに口を一文字に結んでいては、土掛という男以上に威圧感のある表情になりそうだ。
「私は
笑い交じりで名を告げる。鉄板のネタなのかもしれない。けれど、あまり笑いたいと思える気分ではなかった。
「何なんですか、あなたたちは」
「さて、どこから話したものか……」
先ほどの土掛と同じように、勧修寺は悩む素振りを見せる。
「これは推測だけどね、なんとなく引っ掛かっていることはあるんだろう。彼の名前なり、私たちが告げた部署なりのことで」
「なんのことですか」
私は見透かされたことを無視して、あえてはぐらかした。しかし、相手は見るからにベテランの刑事。私のはったりなど意に介さずに話を進める。
「さて、君は自分のことについてどれくらい理解しているのかな? あるいはどれくらい覚えているのかな?」
また、逃げ出したくなる。やっぱり立ち止まるべきじゃなかった。あの男の手をとっとと振り払って逃げてしまえばよかった。
そんな思いがこみ上げ、踵を返そうと、振り向かせた体を動かそうと意識が行く。
それか、アレを使えば。誤魔化すことは、容易い、だから……。
視界の焦点は二人に合う。いっぺんに二人程度なら全く問題にならない。あとは傷つけない方法で、そしてなるべく自然になるように。
けれど、勧修寺という男は、ベテランの勘なのか、私の思考を一言で遮った。
「眼は、やめなさい。私たちは話し合いに来ているんだ」
「あなた、知って――」
「もちろんだとも。だから君に話があると言った」
私はようやく理解した。何もかもが遅すぎたことに。少なくともこの場では。だから、あきらめて向き直る。
「何が聞きたいんですか?」
きっとこれは不法なものなのだろう。
私の眼には特別な力が生まれたときから宿っている。願いを叶えてくれる、とでも言うべきなのだろうか。とにかく、したいと思ったことは、この眼がすべてやってくれた。家族のことも、友達を助けることも、私自身が願ったことのすべてが。
これが普通じゃないことは知っている。誰もができることじゃない。というより、私以外でこんなことが可能な人は見たことがない。少なくとも、これほど万能なものは。
これはすべてを飛び越えることができる特権だ。普通の人が不可能なありとあらゆることを可能にしてくれる。でも、わかってる。これはきっと使いすぎてはいけないものなんだ。いつか、こんな日が来ると私は知っている。
でも、男は意外なところを聞いた。いや、繰り返した。
「私が聞きたいことはさっき話したよ。どれくらい覚えているのか、とね」
「なにを……」
そう言わざるを得なかった。何を聞こうとしているのかが、全く理解できなかった。なぜこの男は、まるで私たちが何かを知っているみたいに話しているのだろう。
「まあ、確かにこれでは聞き方が少し曖昧だね。では、具体的な質問に変えよう。君はいつどこで自分が生まれたかを覚えているかな」
「それは……」
言葉に詰まる。答えは喉の奥にある。けれど舌の先に乗ってはくれない。言葉に、音になって発してくれない。
記憶を掘り起こしても、なぜかわかるはずなのに視えてこない。その記憶の在り処はわかるのに、その扉には、引き出しには、鍵が掛けられている。私はその錠前を解く術を、放棄している。
「では、誕生日はどうかな? 君は何年の何月何日生まれだい?」
「……一月七日です。年は一九八二年……」
「なるほど、そうか。では、君の両親はどんな人かな?」
途端に、止んでいた先ほどの頭痛が再開する。耳鳴りも聞こえだす。加速度的に体に現れる症状はどんどんひどくなる。口が渇く、歯が震え、音を鳴らす。コートに包まれた、制服の内側の、熱を保った体が急速に冷えていくのがわかる。
なぜだろう。何かがつながっていくような気がする。放棄した鍵を手に握らされているような錯覚を覚える。誰かが、引き出しを開けろと、扉を蹴破れと騒いでいる。
振りほどきたいのに、振り払えない。
なぜって?
それもすべて、私、だから。
「知ってます」
「ほう、では聞こうか」
「あなたたちを知ってます」
土掛という男が身構えるのがわかる。遅すぎる。それでは意味がない。
いや、遅すぎたのは私も同じ。意味がないのも同じ。
全部、お前たちのせいだ。
「なるほど」
と、肩に手が触れた。見れば勧修寺のものだった。分厚く、顔と同じ、年季の入ったしわが幾重にも重なっていた。表情は変わらず穏やかなまま。
「なら、仕方がない」
一つ、ため息をこぼしていた。
「それで、私たちと一緒に来る気はあるかね?」
私は首を横に振った。
お前たちと一緒に行くなんてありえない。すべてを奪ったくせに。
「では、出直しだね。次に会う時を楽しみしているよ。でも、お友達とは、ちゃんと楽しい時間を過ごすんだよ。待たせてしまった彼女に悪いからね」
肩の手が離れ、勧修寺は一歩下がった。身構えるような姿勢だった土掛も、体の強張りを解く。二人は、目線で合図を交わしながら去っていった。
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