第25話 窮地突破〈河原崎沙衣〉
ぐえっ‥‥‥苦しい‥‥‥
生き物のような黒髪が俺の首を、顔を締め付ける。巻きついた髪に覆われて、前がほとんど見えない‥‥‥
──子どもの頃は、いつか訪れる『自分の死』、という運命にすごく恐怖を感じていた。
だからかも知れない。このままでは継母に殺されると知った時、恐怖は怒りとなって、子どもらしからぬ行動にも出た。
相対性殺人計画。
その苦難の時期も過ぎ去り、家事と学校でいそがしい日々を送った俺。
遊ぶ暇などあまり取れなかったけど、俺にとっては妹たちの母親代わりをすることが俺の生きる道だったから、不満など、そこまでは感じなかった。
忙し過ぎるとストレスも感じたし、家族とはケンカもたくさんしたけれど、いつの間にか仲直りしてた。他人だったらこうはいかない。
だけど、いつしかレイラも大学を卒業し、夜明も成長し、それほど世話を焼かなくても済むようになって来ると、徐々に自分のことを考えられるようになった。
気づけば自分は低学歴の、僅かな金しか稼げない、仕事さえろくろく選べないような能がない下らない人間になっていると気づいた。
家計を補助するために、妹たちの学費を稼ぐために、ただただ働いて来た。妹たちの将来の計画を考えながら、家事をしながら。
レイラが去年大学を卒業し、無事社会人となり俺の気持ちにも余裕が出た。
家計も多少は助かるけれど、レイラの給料は奨学金の返済もあるし、レイラの将来のために貯金もしなきゃいけないから、家計にはそこまでは出させるわけにもいかない。
なんだか人生、ステップアップ出来てるレイラが羨ましく思えて。
俺だって自分のためだけに、自分のことだけ考えて生きることが出来てたらって、今さらながら思わずにはいられなくなった。
今からでも人生やりなおしたいって思って、だからって自分だけのためにこの家を飛び出すことは出来ない。俺がわずかながら稼いで家計に協力し、金も家事も生活全般きっちり管理しているからこそ、この家は成り立っているのに。
こいつらは、3人とも肝心なとこが抜けている。任せたら乱雑な部屋と無計画な家計になるのは目に見えてる。まだ、夜明の大学受験が残ってるってのに。
すっげージレンマ。俺は家族のためにこのまま耐えるしかない。それが不幸だとは言えないけれど、でも‥‥‥
歳を取る毎に内面が腑抜けになっていく俺を感じてた。
フラフラ流されるままの脱け殻のような、将来の目標も無い、プライベートでも女にもだらしない生き方になってる。ヤバいかもとは思う。
女同士であっちでバチバチ勝手にやっててくれればいいけど、矛先が急に俺に向いて後ろから刺されたりする可能性だって無きにしもあらず。
けど、俺は誰とも付き合ってるつもりはないから、恨まれる筋合いは無いつもりだけど。
最近じゃ、生きていたい気持ちはあるけど、こんなにもクズで無価値な俺はいつ死んだっていいやって思って生きていた。
俺が死ねば保険金で夜明は大学を出られるはずだし。レイラの奨学金も返済出来る。妹二人の将来のためになるはずだ。
俺がいなくなって家がゴミ屋敷になったところで残った家族は死ぬわけじゃない。食いもんは、惣菜買ってくればいいだろ。後はこの家は、金さえあればなんとかなるんだ。
俺は自分の為に生きて来なかった。人生の肝心な時期に自分の為の時間をほとんど無くして生きて来たから。
今頃になってそのツケの症状が出始めた。
俺の中には、ぽっかり空虚が広がっている。
気がつけば、家でも外でも奴隷のようにただ働くだけの、他人への愛情さえ持ち合わせてない、がらんどうな生き物だ。
──結局、こんな人生なら俺は生まれて来なけりゃ良かったのに。
生まれて来るべきじゃなかったんだって気づいてた。
なのにこうしてリアルに死が迫ると、マジで死にたくなくて、必死にもがいてる自分が滑稽だ。
誰だって死にたくは無いよな。怖いし。
死を選択するのはただ目前の苦しみから、この空虚な自分から逃れたいだけで。
生きてる以上、体は絶対的に生を求めてる。遺伝子が司る生存本能には逆らえない。
──もう‥‥意識が飛ぶ。グェッ‥‥‥息が出来ないって‥‥相当苦しい死に方だよな‥‥‥
プルプル震えて熱く痛くなっていた顔は、もう感覚がわからない。
絡みつく髪に抗う俺の手には、段々力が入らなくなって来てる。
あー‥‥今日死ぬことになるなんて、夢にも思っていなかったな‥‥
アア‥‥オレ、モウダメダ‥‥‥
掴んでいた髪から、俺の指先が滑り落ち、腕がだらんと下に下がった。
いてっ‥‥‥
力が抜けて下がった俺の手に、冷やりとした固いものがコツンとぶつかった。
これは‥‥‥
あの時の遠い昔の想いがフッと蘇って通り過ぎた。
《やったー!! ついに見つけたっ!! これがあれば俺とレイラは生きられる‥‥‥》
初めてこいつを見つけた時、めっちゃ歓喜した。
当時、これまで生きて来て一番嬉しいことだったかも知れない。
心の底から生を求めてたあの日々。
幸い、幼少の俺は手を汚さずに済んで、これを使うことはなかったけれど、俺にとっては御守り的存在となっていて、これを大切に持ち続けることは俺の心の安定に大いに役立っていたと思う。
──俺の緑青のナイフ。
他に頼るものなんて何も無かった。
おい、俺のナイフ。ガキの時と全く変わらぬままの無力な俺を助けてくれよ。
なあ? 後れ馳せながら俺たちの本番が来やがったみたいだぜ?
そのざらつく柄を、ブレながらも手探りでなんとか掴む。
前も見えぬままナイフをがむしゃらに振り回す。最後の望みを懸けて。
ザクッ‥‥ザクッザクッ‥‥ザクッ‥‥
テンションのかかった髪が切れる振動が俺の首に伝わる。
‥‥‥ピシ‥‥ピシピシッ‥‥‥
もっと、もっと切り落とせ!
ザクッ‥‥ピキッ‥‥ミリミリミリッ‥‥‥
俺を絡め取り締め付けていた張りつめた髪の力の均衡が、遂に崩れた。
同時に俺は後ろによろめく。
俺はゲホゲホオエオエしながらも相手の顔を見つめ、ナイフの切っ先を白無垢さんに向ける。
上半分顔が隠れた、白い美しい姿に戻ってた。飛び散ったはずの血も消えてる。
「ハァ、ハァ‥‥俺、あんたになんもしてねーのに‥‥ひでーな。ッゲホッ」
《おかしなことを‥‥‥》
女は、クスリと小さく嗤った。
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