第21話 誘惑幻夢〈河原崎沙衣〉

 もしかして、うちにもそのうちトシエの幽霊が出るんじゃないかって思った。


 二見さんの話を聞いたあの日から。


 だけど、それは杞憂だった。俺らのことなんてどうでもいいらしい。

 忘れた? 忘れてくれたなら万々歳だね。


 そのまま、そんな幽霊話も記憶から遠ざかるほど時は流れて行った。



 ──そして運命のあの日が来る。



 俺はもう25才になっていた。



 昨日の夕方、二見さんが俺の家を訪れた。


「急にごめんなさいね。実はね、お隣の茉莉児さん御夫妻が先日、交通事故で亡くなられたそうなのよ。自損事故だそうよ。ご存じだったかしら?」


「いえ、全く。事故で?」


 俺は全く知らなかった。


 流石に両隣の家族構成は知ってるけれど、近所の人と親しく付き合ってる訳じゃない。会えば挨拶くらいはするけど、深くは知らないし知る必要もない中で暮らしてる。


 隣の人にそんなことがあったなんてビックリだ。

 そういえば、隣の駐車場から車が消えてから結構経ってるかも。そういう訳だったんだ。


 でも、何で俺に茉莉児さんの家のことを?

 二見さんが知らせに来るなんてまさか、トシエの幽霊絡みじゃねーだろうな?



「もう、家族葬で済ませたそうよ。でね、茉莉児さんのお宅に一緒にお悔やみに行きませんか? 私たち両隣だし、お線香くらいあげたほうがいいと思うのよ。シンさんに伺ったら明日の夜8時くらいなら都合がいいらしいの」


 まあ、世間ではそういうものなのかな? 断るのも失礼だよな? 隣とはいえ、その夫婦はほとんど知らない人だったけど。オヤジは出張でいないから、俺がかわりにお悔やみを言えばいいか。


「わかりました。父はあいにく出張で‥‥。俺でもいいですか?」



 オヤジに連絡すると、オヤジの部屋のクローゼットの奥に喪服のスーツがあるから、一応着ていくように言われた。俺は喪服なんて持ってないし。言われるままおくればせながらの香典も用意した。


 なんか、ウエストはベルト締めればなんとかなったけど、ズボン足首出る。まあいっか。


 ああ、めんどくせぇ。


 んー、茉莉児さんちでトシエのお化けに会ったりして? なーんてね‥‥‥



 ******



 俺が二見さんと茉莉児さんの家にお悔やみに行くことになった当日。


 今夜もうるさいオヤジはいないので、レイラは友だちとオールでカラオケ。夜明よあは部活の友だちの家にお泊まりパーティーだとかで夜はいない。


 スマホは機内モードにして、夕方からはひとり家で読書しながらくつろごうと、ビールとポテチを買い込んであったのに、終わるまでお預けだ。


 だけど行くのは隣だし、お悔やみはほんの30分もかからないだろう。



 ──そして俺は、かつて二見さんにより、トシエの幽霊が目撃された茉莉児さんの家に足を踏み入れたのだった。


 そこで起こったことは‥‥‥



 ******



 先に二見さん、次に俺が位牌に手を合わせた。


 その直後だった。


 余韻さえ残す間もなく茉莉児シンさんが二見さんに言った。



『で、どうですか? この家の中で何か悪いもの感じます?』



 平静を装いながらもトシエの幽霊の存在を未だに気にしているであろう茉莉児シンさんは、霊感があるらしき主婦の二見さんを迎え、頼る気満々だった。


 まあ、そうだろうな。気にならないワケがないよ。


 だって、トシエが消えた理由は、茉莉児さんのみぞ知る、だからね。



 茉莉児さんは二見さんに、家中をチェックして貰うことを流れるような会話で誘導した。


 俺は茉莉児さん図々しい‥‥と思ったけど、俺だってトシエの幽霊の存在は気にはなってたから黙って従った。


 二見さんは迷惑だっただろうけど、大人なせいか、すんなり引き受けていた。



 早速、茉莉児さんを先頭にして、二見さんと俺が続いた。



 3階と2階は何事も無くスルー出来た。


 途中、これも流れるような話術で、俺にお祓いにかかった費用負担を暗に求めて来たけどスルーした。


 密かなる俺の命の恩人でなかったら、瞬間ざけんなみぞおち一発喰らわせてやったところだ。自業自得のくせに。


 ──ふふん、俺は知ってんだぜ?



 そして事が起きたのは1階の洗面台の鏡の中だった。



「‥‥‥ヒィッ!!」


 その前から少し様子がおかしかった二見さんが悲鳴をあげて後ずさり、俺にぶつかって来た。



「二見さん、大丈夫ですか?」


「みっ、見たっ? 今のっ‥‥‥」


 俺の腕にしがみつきながら洗面台の鏡を指指した。俺はリアルでここまでびびってる人の顔を初めて見た。



 鏡を見たけど、普通だった。俺の腕にすがってる二見さんと俺が映ってる。背景にも不審なところは無い。


「何か見えたん───」


「ヒッ!!」



 俺が言いかけた時に、ガタッと壁にぶつかる音と同時に、今度は隣の部屋の扉を開けていた茉莉児さんが悲鳴をあげた。


 そこの部屋は知っている。茉莉児シンさん本人の部屋だ。


 その部屋は、あれこれ思い出深い。


 幼き頃、茉莉児さんと一度だけ、その部屋で一緒に食ったラーメンを思い出す。そして‥‥‥


 かつて、小学生の頃の俺が立てたトシエ殺害計画。下見とリハーサルで1回と本番で、計2回ほど忍び込んだあの部屋───



 茉莉児さんの悲鳴に俺は二見さんの手を咄嗟に払い、トイレの扉に背を預けてひきつっている茉莉児さんに駆け寄りその肩を掴んだ。


「茉莉児さんっ、どうしたんですか?」


 茉莉児さんは、酸素不足の金魚のように口をパクパクさせたまま、その他は固まってしまっている。その見開いたままの目線を追って、開いている扉から、茉莉児さんの部屋の中を見た。


「‥‥‥‥!」



 ──トシエがいた。



 あの光景。



 頭から血を流してうつ伏せで倒れている。


 俺が見たトシエの最後の光景。一枚だけど俺、記念写真も持ってる。


 そのままの姿がここに。



 俺の足は部屋の入口でフリーズしてしまった。すぐ後ろにいるはずの茉莉児さんを振り向くと、そこにはもういなくて、玄関に向かって四つん這いでアワアワ逃げている。


 その間に、気を取り直したらしい二見さんが、俺の横から部屋を覗き込んだ。


 トシエはムクッと立ち上がった。


 血にまみれたその姿。


「‥‥‥キャー!! これッ、トッ、トシエさんだわッ!! トシエさんの幽霊よ」



 二見さんはそのまま風呂場の奥までひとりで逃げ込んだ。


 俺は膝がカクカク笑ったまま、入口で立ち尽くす。


 数歩、よろよろと後ずさると、背中がトイレの扉にぶつかった。


 立ち上がったトシエの姿から早戻しのように血糊が消えて行く。

 その姿は俺とかわらない歳に見える。当時のままの綺麗なトシエがそこにいた。


 瞳は濁った虚ろ。その瞳が俺を捉えた。


 ふふっ‥‥と、首を傾げて妖艶に、小さく嗤った。

 


 着ていた衣類を一枚ずつ剥がし、床に落としながら、トシエが俺の前まで一歩一歩ゆっくりと来た。



 ──俺は‥‥ここで殺される? トシエの幽霊に。


 咄嗟に頭によぎったけれど、余りの恐ろしさに俺は声さえ出せない。



 トシエの指が、震える俺に向かって伸びて来た。


 冷えた指先が俺の両頬を包む。


 俺は、ただ観念して目を瞑った。



 そこからスーッと意識が飛んだ。



 この異常事態はすっぽり抜けて、日常になっていた。


 暖かい毛布に包まれて寝床でまどろむ心地よさへと。




 ──暗転。



 誰かが俺に口づけしている。


 何度も、優しく、軽く、俺の下唇を弄ぶ。


 誰? 


 暗くて顔がよく見えない。



 あー、おまえリア? ナナ? アヤ? ユイ? セナ?


 いや、どれも違う。


 熱を帯びて行くキス。その気になっていく俺。


 今までの誰とも違う感触とテク。



 ──いいや、もう誰でも。



 この甘い誘い。のってやんよ。ただし、後腐れはなしだぜ? マジで付き合うとか、結婚とか、興味無いんで。



 俺はそそられて、うずうずとわき起こる本能のまま、それに応える。


 イイネ。このまま二人、溶け合おうぜ‥‥‥





 不意に、二見さんの声がどこか遠くで響いた。




 《お願い、気がついてッ! 沙衣くんてばッ!!》



 《しっかりしてッ、沙衣くんてば!》




「痛ってーッッッ!!」


 風呂扉の縁にぶつけた足の小指が悲鳴をあげていた。


 俺は今、不意に二見さんに引っ張られ、風呂場に引きずり込まれたらしい。


 

「痛たたた‥‥ あれ‥‥俺‥‥‥???」



 痛みで夢うつつから我に返った模様‥‥‥俺?



「‥‥‥沙衣くん、大丈夫? あなた今‥‥‥」


 二見さんは俺と目が合うと、さっと反らした。



「俺‥‥‥今、何を?」


 記憶がモヤって飛んでいた。


 なんだかこんな非常事態の最中に下半身の様子がおかくなっている。


 俺、混乱してる。なんだ? この快感の名残。



 考えてもわからない。



 自分、恐怖の余り、頭があっちこっち方面に暴走してんの?



「あの‥‥今‥‥俺、どうなってたんですか? 何かしてました?」


「シッ! いいから、黙って! こっちが先よ。シンさんが逃げて向こうにいるの‥‥‥」


 キッとした口調でたしなめられた。


 なんだか、俺を変な目で見てるような? この際どい最中に俺がぼやっとしてたからか? それとも、俺の股間の変化見破られてる?


 落ち着いて誤魔化せ。もうちょい俺、しっかりしねーと。


「えーっと、俺、見ました。茉莉児さんは向こうに‥‥‥玄関の方に行ったような‥‥‥あ、ガタガタ扉を揺する音がしますね」




 風呂場の扉を半開きにしながら二人でトシエの様子を窺う。


 ここからでは死角が多すぎて狭い廊下しか見通せない。



《‥‥‥沙衣?‥‥‥あれ、今の沙衣?‥‥‥いら‥‥ない‥‥‥沙衣なんて‥‥‥い‥‥らない‥‥》



 トシエはトイレの扉に向かってボソボソ呟いていたが、スッと向きを変えた。玄関のドアがガタガタ鳴っている方へ向かって。


 たぶん茉莉児さんが玄関から出られずにもがいている。



「茉莉児さんを、シンさんを助けに行かなきゃ‥‥‥」


 二見さんがトシエの後ろ姿を見据えたまま、焦りを滲ませた声でつぶやいた。



「‥‥‥今わかったの。こうやって少しずつシンさんの生気を奪ってたんだわ‥‥‥気づかれないように‥‥‥」



 

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