二、君がくれる感情は、言葉は、いつも。 ※注



 夢から覚めた時、自分の頬をつたう涙をそっと拭う指先があった。ぼんやりとする頭は、視界に映るものさえ曖昧にして、その行為を拒否するという選択肢すら思い付かないようだ。


 あたたかいその身体に抱かれて、優しい指先に触れられている。完全に油断していた櫻花インホアは、冷たい水でもかけられたかのようにびっくりして、慌てて起き上がろうとしたが、止められる。


「急に起き上がったら、危ないよ?」


「あ、あれ? 私、どうして········君、もしかして、なにか、してませんよね?」


 昔の夢を見ていた気がする。すごく嫌な夢。でも、いつの間にか心地の良いものに変わって、気付けばあの黒い靄のような感情が晴れていた。


 目を覚ました櫻花インホアは自分の今の状況を確認し、困惑する。それもそのはず。肖月シャオユエに抱き上げられた状態で、彼の白い衣の胸元あたりをしっかりと掴み、膝の上に横向きで座っていたのだ。


 起き上がろうとした時に止められてしまったため、今もその体勢のまま動けずにいた。彼の右腕が自分の肩の辺りを支えていて、左手は先程まで頬をつたう涙を拭ってくれていたが、今は櫻花インホアの左手の上に置かれている。


 衣を握りしめたままの櫻花インホアの右手を気にして、抱き上げた格好のまま、その場に座ったのだろう。


 櫻花インホア肖月シャオユエの衣の胸元を掴んでいた手を、そっと放す。


「なにかしてない、とは言えないかな?」


 言葉に詰まって、櫻花インホアはうぅと唸る。


「と、とりあえず、この体勢をどうにかしたいのですが······」


「俺はこのままでかまわないよ。地面は岩だらけで冷たいし固いから、ゆっくり眠れないでしょ? 倒れたんだから、休まないと」


 もっともらしい理由で肖月シャオユエが返す。どうやら、放してくれる気はなさそうだ。正直、心地好いと思っている自分がいて、櫻花インホアは諦める。


 涙の痕を見つめて、肖月シャオユエは青銀色の眼を細める。

 櫻花インホアは身体を預けるように力を抜いて、俯いたまま口元を緩めた。その笑みは、前に一瞬だけ見せた寂しそうな笑みに似て。


「私は、きっと、疫病神なんです」


 だから、ひとりでいるのが一番良いのだ。

 この強運は、自分だけに齎されるため、周りの人間は逆に不幸になってしまう。


「それは、違うと思うけど?」


 このたった数年の間に、たくさんの人々をその手で救ってきた。そこに小さいも大きいもないが、その誰もが最後は笑顔になっていた。


 誰も不幸になんてなっていない。


 それに、あの日、森の中で再会した時のことも。

 そのきっかけも。

 あれは自分の幸運と、櫻花インホアの強運が合わさって起きたのだと、今なら解かる。


「あなたは、俺にとって光だよ」


 その言葉を、初めて聞いた気がしなかった。

 櫻花インホアは顔を上げ、じっと肖月シャオユエを見つめる。逸らすことなく見つめ返してくるその瞳に、彼の誠実さを感じた。


「私がどうして地仙のまま、地上に留まっているのか······訊かないんです?」


「前にも言ったけど、あなたが話したくなったら話してくれれば、それでいい」


 本当は、もう、夢の中で見てしまった。あの悲惨な光景が、櫻花インホアの心を蝕んでいるのだという事も、知っている。


 優しい櫻花インホアには、耐え難い苦痛だろう。自分のせいで配下が全員殺されたのなら、尚更だ。


 それに天界に戻れば、その原因となった神に会うかもしれない。


 天帝は櫻花インホアを大層気に入っていると、弁財天も言っていた。

 呪いを解くためとはいえ、天仙になって天界に昇ることは、櫻花インホアにとって、必ずしも喜ばしいことではないのだ。


肖月シャオユエ、ありがとう」


 その言葉と表情に、肖月シャオユエは静かな笑みを湛える。


 優しい言葉。優しい声音。その穏やかな笑みも。全部。


 自分だけのものになればいいのに――――。


 再び、左手で櫻花インホアの頬へと触れた。


 まだ冷たいままのその頬は、肖月シャオユエに触れられた途端、赤みを帯びる。それが嬉しくて、触れたまま親指だけ動かして撫でると、戸惑いを隠せない琥珀の瞳が見上げてきた。


 櫻花インホアはどんどん近づいて来る綺麗な顔に対して、どうしたらいいか解らなかった。出逢ったあの時のように、口付けされてしまうのではないかと思うと、心臓がなんだか騒がしい。あの、力が抜けてしまうほどの激しい口付けは、忘れようとしても忘れられるはずはなかった。


 そんな感情を見透かすように、肖月シャオユエがふっと悪戯っぽく笑みを浮かべる。


「口付けすると思った?」


「からかわないでくださ········」


 言い終わる前に塞がれた唇は、こうなることを求めていたかのように緩く開かれ、受け入れてしまっていた。


 あの時のように貪るような激しいものではなく、優しく気遣いのあるそれに、櫻花インホアは逆に絆されてしまう。


 無意識に右手が肖月シャオユエの衣を掴み、気付けばしがみ付くようにしっかりと握りしめていた。


 この感情を、なんというのだろう?

 考えるだけで、胸の鼓動が速くなり、頭が痺れてくる。


 君がくれる感情は、言葉は、いつも。

 自分だけに向けられているのだと、知っている。

 嘘偽りのない、その想いは、きっと――――。


 ゆっくりと目を閉じた櫻花インホアは、それ以上考えるのを止めて、その身をただ委ねるのだった。



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