蚊帳家族
線香をあげ手を合わせたあと、隣にいる孫を見ると、その視線は精霊棚の上へ注がれていた。
「ヒロ君も、お爺ちゃんと一緒に拝んでみなさい」
妻の声掛けに反応した孫は、私の真似をするように手を合わせた直後、柏手を打った。
「こら、仏様の前ではパチンてやらない」
息子に嗜められると、孫はキョトンとした表情のまま固まった。
これには妻も息子夫婦も、そして私も笑い、一気に茶の間は賑やかになった。
「でもヒロ君、こないだのタケ伯父さんの時は、ちゃんと出来てたもんね。ずっと静かにしてたし偉い偉い」
そうやって、妻が孫を抱きかかえるのを見ていると、今年も自分にとって"短い夏休み”が訪れたことを実感するのだ。
そしてその期間だけ、私は離れの部屋に"お泊り”をすることが決まっている。
「父さん、今年ぐらいは俺が向こうで寝ようか」
「いいのよ、そんな気使わないで。たまにはひとりきりになりたいんだって。あとね、似てるんだって」
「何が?」
「お父さんが昔泊まった部屋によ、造りも大きさもね」
妻の言う通りだった。
私が子供の頃、それこそ本来の夏休みになれば、ふたりの兄と共に伯母の家に宿泊するのが恒例となっていた。
その際、部屋割りにより誰かひとりが離れ座敷で眠らなくてはならなかった。
普段は物置きとして使用されていた六畳一間のその家屋は、板壁や天井のあらゆる箇所が削げ落ち、暗くなれば「お化けが出そうだ」と兄たちは怖がって近づこうともしなかった。
だが、逆に好奇心を刺激された私は、率先して部屋を使わせてもらい、夜になると床に就くのが楽しみになっていたのだ。
結局最後まで、お化けや幽霊を見ることは出来なかったけれども。
「あら、どこ行くの?」
台所に行った妻が声を掛ける。
「いや、お泊りの下準備でもしようかとね」
「食べないのこれ? せっかく切ったのに」
「うん、あとで貰うよ」
妻が座卓に置いた皿から、西瓜を一切れ取り冷蔵庫にしまうと、裏口から離れに向かう。
中に上がれば、埃っぽさや黴臭さが微塵もなく、今年も定期的に手入れがされていたことを知った。
「ねえ、あなた」
振り向くと、妻が戸口に立っていた。
「さっき言い忘れたんだけど、去年蚊遣器割っちゃったでしょ。代わりのが一個あったんだけど、でもそれ使っちゃうと慎吾たちのが……」
「ああ……そうか」
「また、納戸とか探してみるけどね」
「ありがと……あと、いつもありがと……ここの掃除」
「……去年も言ったわね」
そう言って妻は笑うと、母屋の方へ戻っていった。
「あれ、どこか行くのかい?」
買い物袋をぶら提げ、裏口から出ようとする妻に声を掛けた。
「無かったのよ蚊遣器。だから買いに行こうと思って。毛染めと一緒に」
「いや、いいよ。蚊帳があったから」
「かや……どこに?」
「あそこの押入れにね、こう、六巾の風呂敷に包んであったんだよ。奥の方に」
「そう……気がつかなかった」
私は食べ終えた西瓜の皮を捨て、離れに戻ると畳の上に蚊帳を広げた。
するとその瞬間、頭の中でカラカラという音が鳴リだした。
それは、映写機の回転する音と同じだった。目の前には、かつての自分の家族が映し出されていた。
まだ若い父と母。そして学帽を被ったふたりの兄。季節は夏なのだろう、四人とも薄手の服を着ている。
それはまるで、遠い昔日の思い出を刻んだフィルムが、蚊帳というスクリーンに……。
「使えるのそれ」
「びっくりした!」
振り向くと、妻が戸口に立っていた。
「うん……それ程傷んでもなさそうだし。生地が丈夫だからかな。で、なに?」
「出前、もう来たから。竹寿司さんでよかったのよね?」
「うん。もうそんな時間か……」
茶の間で皆と夕食を済ましてから風呂に入り、寝巻に着替えてから、また離れに戻る。
妻から渡された四つの鈎を、それぞれ長押に引っ掛け蚊帳を吊り下げ中に入ると、四面ともにひとつずつある継ぎ足しの跡がハッキリと見える。
どれも蚊帳の生地と同じ麻だ。
日頃倹約を心掛けていた母のことだから、きっと襤褸になった夏着でも利用したのだろう。
網戸越しに夜風が吹き込み、白く透けたその生地が揺れると、再び頭の中でカラカラという音が鳴り出し、正面にボンヤリと小さな影が現れた。
私はそっと、部屋の灯りを消した。
※
毬栗頭の少年がふたり、上がり框に置かれた風呂敷包みを床の間まで運んだ。
そして、中の品を取り出して広げると、包まっては転げ回りキンキン声をあげ始めた。
そこへもうひとりの毬栗頭、ふたりよりは幼い男の子が寄ってきて、遊びに加わろうとしている。
だがそこで、三人の動きが止まった。
彼らの父親が近づいてきたからだ。
それだけではない。長男らしき少年が顔色を変えて、品の一部分を凝視している。
そこには、子供の掌大ほどの破れ目ができていたのだ。
その品は、彼らの伯母宅から譲り受けたばかりの蚊帳だったのに……。
直後、場面が変わり、畳に座るひとりの女性が映し出された。
彼女は少年達の母親だった。そして隣に置いた裁縫箱から針と糸を取り、蚊帳の破れ目を布きれで継ぎ合わせている。
彼女が裁ちバサミで切ったのは、成長して合わなくなった、長男のランニングシャツだった。
右を向く。
そこには一家が、家財道具を纏めている場面が映し出されていた。
親類の職人が建てた家へ引っ越しをする、晴れた日の午後だ。
東京の大学へ進学した長男の姿は無い。
玄関前にトラックが停められると、四人で荷物を運び始めた。
父親の知人である運送業者の男が、荷台に積まれた蚊帳を指差す。
運んでる途中にどこかに引っ掛けたのだろう、畳まれた上面に割と大きな鈎裂きがあった。
直後、また画面が変わり、母親が裂け目を継ぎ合わせている。
今回使われたのは、ゴワゴワになった父親の開襟シャツだった。
左を向く。
三人の家族が縁側に腰掛け、百日紅の花を眺めながら会話をしている。
この日は次男に続いて、三男も家を出る日だったのだ。
そこへ、一匹の仔猫が近寄ってくる。
怪我をして、近くの神社で蹲っているところを母親が見つけて介抱し、結局家で飼うことになったのだ。
父親が、猫の歩いて来た方を見て声をあげた。
衣桁に掛けていた蚊帳の端に、爪で引き裂いたような跡ができていたからだ。
場面が変わる。今回母親が使ったのは、箪笥に仕舞い込んだまま着られなくなり、貰い手もなかった自分のワンピースだった。
後ろを向く。
茶の間に一組の夫婦がいた。
ふたりは、帰省する息子たちを迎える準備をしていた。
家には蚊遣器も蚊取線香もあったが、母親は念の為にと、納戸から蚊帳を取り出した。
だが手にした箇所に、囓られたような跡を見つけた。
場面が変わる。恐らく、息子たちが元の生活に戻っていった後だろう。今回、裁縫道具を扱っていたのは父親だ。
母親は疲労の為か、隣で竹婦人を抱いて横になっている。
父親は慣れない手付きで、布きれを継ぎ合わせている。それは、引っ越しの際に処分し忘れて、他の衣類に紛れ込んでいた次男のランニングの切れ端だった。
突然、母親が悲鳴をあげて起き上がる。
彼女の側に、すっかり成長した飼い猫が寄ってきた。
そしてその口には、一匹の鼠が咥えられていた。
蚊帳はその後、増築した離れ座敷の押入れにしまわれ、今日まで使われることはなかった。
横になる。
今度は瞼の裏に、四方からこちらを見下ろす一家の姿が映し出された。
ランニングシャツを着ているのは、毬栗頭の長男と次男。ワンピース姿の母親と開襟シャツの父親も、また若返っていた。
初めて伯母宅へお泊りした日の夜、気持ちが昂り眠れなかった三男は、帰宅した直後に眠気がさし、廊下で大の字になった。
そうして三男が寝付くのを確認したあと、他の四人は何かを探すように辺りを見回しては、両手を広げて……。
※
「あ、来た。おはよう」
「おはようございます。お義父さん」
台所では、妻と嫁が朝食の支度をしていた。
「おはよう。慎吾とヒロ坊は?」
「もう、そろそろ来るんじゃない。あの蚊帳で大丈夫だった?」
「うん、大丈夫だったよ。もうグッスリ眠れた」
茶の間に入り、精霊棚の前に座って線香をあげ、手を合わせる。
目を瞑っても、もう瞼の裏には何も映らない。
代わりに耳元で、蚊の飛ぶ音が聞こえてきた。
だがそれもすぐに、パチンという音と共に消えた。
(了)
初稿∶SSG 2020/4/1
第二稿∶カクヨム 2021/8/17
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