山の人
ジリリリリリー!
その音が鳴り響くと同時に、僕の右手の人差し指が目覚ましのボタンを押し、上体は垂直に起き上がる。
ベッドから足を下ろし洗面所まで歩き、歯磨き粉を握れば、その感触により月半ばであることを実感する。
自宅では平日二回、休日は私用がなければ三回。決まった量を歯ブラシに乗せ、決まった回数右の手首と腕を動かす。
蛇口を捻り決まった量の水をコップに注いで口に含み、決まった回数口を濯いだあと再び蛇口を捻り、決まった回数顔を洗い決まった回数タオルで顔を拭く。
それから台所で決まった枚数に切った食パンを……と、くどくどしく述べているわけだが、要はこれが僕の一日の生活リズムだということだ。
いつからかはわからない。おそらく、学校生活や社会人としての日々を送るなかで、自然と培われてきたものなのだろう。
当然、それは今現在の職場でも変わらない。
タイムカードの印字欄には、一定の空白を挟みながら同じ時刻が縦に並んでいるのだから。
そして今朝も建物の正面玄関を通り、ホルダーから出したカードをレコーダーに入れて戻すと、事務室に入って自分の机に鞄を置いた。
「岸川君おはよう」
最初に声をかけてきたのは、僕より二歳年上の女子職員である芥川さんだった。
「おはようございます。あれー?」
「え? 『あれー?』って何? なんか顔に付いてる?」
「いや、芥川さんが一番早く出勤してるのって初めてだなあと思いまして。何かあったんですか?」
そう訊きながら、パソコンの電源を入れると同時に椅子を引く。
「は? 何もないけど。心身共に」
「そうですか。良かった、生活リズムが狂ったわけではなかったんですね」
僕が安心して言うと、芥川さんは目を細めた。
「岸川君さあ、いつもそんな調子じゃ疲れるでしょ」
「は? 僕が? いえ、心身共に問題ありませんが」
「ううん。勤務態度とか見てれば、なんとなくわかるよ。家でも変わらないんでしょ。たまには息抜きでもしたら」
「息抜きですか……?」
窓から緩い風が流れて、室内に新緑の匂いが漂った。
「うん。趣味ぐらいはあるでしょ?」
「趣味ですか……趣味……ですか……趣味」
「あ、いや、そんな考え込まないでもいいから。そうだ、今度みんなでご飯にでも」
「おっはよーございまー!」
僕と芥川さんの会話は、むさ苦しい挨拶に遮られた。
「ういっす! お、キシヤンは相変わらずだけど、ユミッチも早いっすね」
ユミッチ……誰のこと?
「柏木君おはよ、ふふ、ふははは」
「な、どうしたんすか? ユミッチ」
「うん、ごめん。同い年なのに、見た目も中身も対照的な二人だなと思ってさ。お、そろそろ朝礼の時間だよ」
僕は、ハッとして卓上カレンダーの日付けを確認した。
1993年5月19日 水
「いや、今日は朝礼の日じゃ……」
顔を向けた先には誰もおらず、廊下からユミッチこと芥川さんと柏木の燥ぐ声が聞こえてきた。
「岸川君、どうかしたのか?」
コピー室から戻る際、主任が廊下ですれ違いざまに言った。
「どうかと言いますと?」
「いや、なんか思いつめたような顔してるからさ」
「いえ、別に……いつもと同じつもりですが……どうも」
会話を切り上げその場を後にしたものの、それは主任の指摘通りだった。
今朝の事務室での何気ないやりとりから、何故だが気分が晴れない。
書類整理にしてもタイピングにしてもいつものリズムで行えず、自然と仕事は遅くなり、午前中に終わらせるはずだった業務も午後へと持ち越しになった。
「あ、来た。岸川君、天狗食堂って知ってる?」
事務室に入った途端、矢庭に芥川さんが駆け寄ってきた。
「天狗? いや知りません。なんせ越してきて、まだひと月……と四日しか経っていないもので」
「そっか……そこの山に行く大通りの途中にあるんだけど、山菜料理が美味しいお店でさ。柏木君が奢ってくれるって言うから、一緒に行こうよ」
その柏木は今どこにいるのだ? どうせまたそこらで油でも売っているのだろう。
「誘ってもらって申しわけないんですが、弁当持って来ちゃってるし、早めに午後の仕事に取り掛かりたいんで」
「そう……何かあったの?」
「リズムが狂ったんです」
「は?」
芥川さんが困惑した表情を浮かべた。
「あ……いや、時間通りに仕事が出来なかったという事です」
「へえ、珍しい。まあ、たまにはそんな時だって」
「たっだいまー!」
僕と芥川さんの会話は、再び柏木の馬鹿に遮られた。
「いやー暑いっしょ! マジで汗ばむ陽気ってやつ? これだから外回りは嫌なんすよ。でも昼飯には間に合ったな。そうだ、キシヤンもこれから」
「ああ、それ今私が聞いた。でもお弁当持ってきてるんだって」
「マジ? じゃ、しょうがないか。でさユミッチ、日曜の山登りの件どうよ?」
「うん、行ける行ける! でも大丈夫かなあ、私そういうの……」
下品な髪色の男についていく華奢な後ろ姿を見送ったあと、緩い風が頬を流れていくのを感じた。
――日曜の山登りの件どうよ
窓の向こうには、緑豊かな山肌が見える。
何という名前の山だったか? 同僚や近隣との付き合いで、度々耳にした事はあったが確か……。
ゴゴゴゴゴゴ……
奇怪な音がした。
雷かとも思ったが、上空には疎らに白い雲が浮かんでいるだけだった。
きっと気のせいだったんだろう。
自分の席に戻ろうとした時、今度は十二時を告げるチャイムの音が聞こえてきた。
「本当にこんな格好で良かったの?」
「もちろんです。このくらいの標高の山なら、服装はこのようにシンプルで動きやすいものの方が適しています。それにそのTシャツとジャージズボン、よくお似合いです」
繁々と自分の服装を確認する芥川さんに、僕は説得するような調子で言った。
「へー、今日の岸川君なんか頼もしい。でもびっくりしたよ、『僕も行きたい』だなんて。山登りとかよくするの?」
「はい、学生時代はワンゲル部でしたから。言ってませんでしたっけ?」
「うん。初耳」
当然だ。昨夜決まった経歴なのだから。実際、山なんて中学での林間学校以来、十年近く登っていない。
昨日の昼休みに職場を抜け出し、村で唯一の図書館に行き、山岳関係の本を幾冊か借りてきた。
そして退勤後に、自宅で読み耽っていたのだ。昔から泥縄式は嫌いだったが、思うように時間が取れなかったのだから仕方がない。
それもこれも、柏木の魔の手から芥川さんを守るため。
僕のリズムはあの日から狂いっぱなし。仕事だって捗らないままなのだ。
だがその元凶も、今日は姿を見せていない。
「彼がだらしない人間だというのは承知していましたが、まさかここまでとは」
「本当だよ。二日酔いで起きられなくなるなんて。ちょっとしか呑んでないとか言ってたけどさ、絶対嘘だよあいつ。でも芥川君だけで十分安心だね」
「ただ、少し気になる事があるのですが……」
僕は、登山口に立てられた大きな木製看板を指差した。
「デカデカと[女人禁制]なんて書かれてますけど、大丈夫なんですかね?」
「ああ、そんなの大昔の決まり事でしょ。もう女の人だって気にしないで登ってるよ」
芥川さんは僕の質問を笑い飛ばすと、ザックを肩に掛け颯爽と歩き出した。
「あ、待ってください、今日は僕が先導します。それと、こっちのザックを持ってください。くれぐれも油断は禁物です。命取りになります」
「命取りって……いくらなんでもそれは……。うん、でもわかった。岸川君も張り切ってるし」
「はい。では、僕についてきてください」
そこからの行程は、感極まりない出来事の連続だった。
ふたりの目に映った山野草の説明をする度に、彼女は目を輝かせながら聞いてくれるのだ。
それらが全て、付け焼き刃だとは疑いもせずに。
「キシヤンてすごいね。今日は一緒に来られて良かった」
「キシヤン……いえ、こちらこそ。芥川さんとふたりで……ふたり……」
「どうかしたの?」
「はい、こんなよく晴れた休日なのに、他に人の姿が見えないんですよね……ここ、正規のル―トのはずでしょ」
ゴゴゴゴゴゴ……
「ひゃっ、何、今の音? 結構近くから聞こえたよね、地震?」
「そういえば、揺れているような……てか、これこの前の……」
「あれ? なんだろう、あそこに!」
「あ、駄目だ。そっちには行かないで」
芥川さんは山道を外れ、ブナの茂みへと駆け出していった。
僕はすぐさま後を追ったが、既にその姿は見えなかった。
大声で彼女の名を呼ぼうとしたその時、足元がぐらつき、僕の体は垂直に落下した。
「あっぎゃ!」
直後、右脚が激痛に襲われた。
「な、なんだえこれえ! 地割れかい……やべえよ……やっちゃってねこれ……」
それ以上言葉が続かない。倒れこんだまま見回せば、四方を囲んだ褐色の土。
――女人禁制
脳裏には、看板の四文字が浮かんだ。
四合目辺りから嫌な予感はしていた。良い事の後には悪い事が起こる。それが生活の……否、人生のリズムというもの。
彼女は今どうしているだろう……無事でいてくれているといいが。
探しに行こうにも、この足では立ち上がる事さえ難儀だ。
しかし、あのザックには遭難時の為の非常食やら発煙筒やらが入っている。渡しといて正解だったな……。
「おーい! 何をしている?」
突如頭上から男の声が聞こえ、見上げると穴の縁に大きな人影が見えた。
「本当に助かりました。なんとお礼を言ったらよいか……」
「いやいや、それよりその足を見せてみなさい」
僕は言われた通り、右足を老人の方へ差し出した。
「なんだ、たいした怪我ではなさそうだな。大袈裟なんだよ、あの穴だってそんなに深くはなかった。あれを貼れば十分だろう」
老人は立ち上がると吊り戸棚を開け、中の物を探り始めた。
僕は茣蓙の上に座りながら、その姿をマジマジと眺める。
決して小柄とはいえない男の体を背負いながら、梯子を上った巨体。
そして、その身に纏っている装束も手甲も脚絆も全てが白く、肩からは房の付いた布地が掛けられている。
おまけに額には黒塗りの小さな頭巾……借りてきた本にも載っていたが、まさか直接出会う事になるとは……。
「あったぞ、この膏薬を貼ればすぐに楽になる。ほら」
僕は渡された油紙を右足首に貼った。
「本当だ……痛みがどんどん引いていく。どんな薬が塗ってあるんです?」
「まあ、草だのなんだのを色々と調合したんだよ。説明すると、ちと長くなる」
「はあ……なるほど」
確かこれも本に書かれていた。
彼等は薬草の知識にも長けていたと。
「だが、それだけじゃないんだ。神様の力だよ」
「神様?」
「そう、昔から植物には神様が宿っていると言われてるのを聞かんかの? もっとも、ここは山そのものが神様だけどな」
「それって、もしかして」
神体山……。山自体が神として崇められているという、読んで字の如し"神の体の山”。
「それは、初耳でした」
「うん。兄ちゃんみたいに知らないで登る人の方が多いよ」
「おじい……失礼。貴方は、ひとりでこちらに住んでらっしゃるんですか?」
「そうだよ、勝手にひとりで住んでるんだ。ずっと前からな。それにこんな狭苦しい小屋、ふたり以上では住みたかなねえしな」
老人は自嘲気味に笑って囲炉裏に薪を焚べたあと、鉤棒に吊るされた鍋の蓋を開けた。
独特の香ばしい匂いが、鼻先を流れていく。
「そろそろだな。この雑炊でも食ってゆっくり休めや。さっき言ってた娘さんは、それから探したって間に合う」
「そう……ですかね? でも、せめて日が落ちる前には見つけださないと……そうだ! 電話で救助を求めれば」
「そんなもん無いよ。いや、電話だけじゃない。テレビや冷蔵庫、それにパソ……パソなんだ?」
「パソコンですか?」
僕は、老人が差し出した木の椀を受け取りながら答えた。
「そうそれ。要はあんた達が社会生活を送るための必需品は、一切ここには置いてないんだよ」
「それで困らないんですか? それだと時間だって」
「うん、そこは時計でわかるから大丈夫だよ」
「時計はあると……」
※
「それで、結局上手くいったんですか?」
「うん、楽勝だよ。あの兄ちゃんも何も知らなかったらしい」
「あら良かったあ。ホッとしましたよ、娘が『もうひとり来るから大丈夫』って言ってたけど、心配で心配で」
「娘さんは大活躍だったよ。落とし穴も完璧だったしな。しかし別嬪さんだよなあ、あれ本当にあんたの」
「失礼な! あたしが女手ひとつで育ててきた正真正銘の実の娘ですよ!」
「ああ、こりゃ悪い悪い。でも、もともと予定していた男は、どうして来られなくなったんだい?」
「ええ、なんでも二日酔いで起きられなくなったとか……。起きられないといえば先生」
「なんだい?」
「昨日の"捧げ物”に食べさせた雑炊に入ってたのも、あたしが眠剤に使ってるのと同じ成分なんでしたっけ?」
「うん。同じ種類の植物を入れたはずだがな」
「あれ、本当によく効きますね。さすが薬草の知識にも長けてらっしゃる。でも、こないだ馬鹿やっちゃってねえ、服薬の量を間違えて、寝過ごしちゃったんですよお」
「全く……あれほど注意したのに」
「もうその日はすっかりリズムが狂っちゃって。皿を割るわ注文を聞き違えるわ具材を間違えるわ、最悪」
「おい……」
「はい?」
「それ、いつの話?」
「ええ、それが神事の前日だったんですよお。その日も娘が最初のターゲットを連れてきて……」
「具材を間違えたと言ったな。まさかその男に出した品に、他の山菜と間違えてあんたが飲んでる……」
「え! いや、いくらなんでもそんな事は……無きにしもあらず……?」
「いや……もうどっちでもいいや。結果オーライだ」
「そうですね、この話はやめましょう。他の話題を……他の話題と言えば先生」
「なんだよ……」
「前から気になってたんですけど、どうして毎回時間通りに行動が出来るんです?」
「なんだ、知らなかったの? 神様が"お求め”になる時刻が大体同じなんだよ。それで自然と自分にも培われてきたんだ、所謂生活リズムというやつが」
「お求めになる?」
「ここは神様の山腹だけに、腹時計が鳴るんだよ」
ゴゴゴゴゴゴ……
(了)
初稿∶SSG 2020/5/25
第二稿∶小説家になろう 2021/4/30
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