お迎えの深緑

 高校受験のための塾の帰り、いつも深緑の車がコンビニの前に停まっていた。

 ハザードランプを点滅させ、エンジンの音が低く唸るようにじわじわと迫ってくる。そんな、今では珍しい、古い車。


 塾のビルの階段を降り、アタシがいつも見かけるときには、運転席には誰も乗っていない。田舎では珍しくない路上駐車の光景、でも田舎には珍しい古いおしゃれな車。乗っているのはきっと初老の紳士。なんて、最近読んだ小説のおじさまを妄想してしまう。


 排気口から昇る白い煙と、アタシの吐く息の色を重ねてみたり。

 渡る必要のない横断歩道を渡ったりしてさ。


 でも、現実の答え合わせがつまらないものだということを、アタシはまだこの短い人生の中で知った。


 少し憧れていた深緑の車が、アタシの家の駐車場に停まるようになったのは、冬が終わり、桜も散った新緑の頃だ。


 新しい制服に袖を通すことにも、通学を共にする友達も出来た頃。まぁ、同中だけど。


 ……分かっている。


 多分、アタシが感じているよりもずっと、お母さんはアタシを待ってくれていたんだ。


 気がついてはいた。なんというか、持って帰ってくる香りが違ったから。


 別に特別遅くなるわけでも、酔っ払って帰ってくるわけでもない。

 いつもの洗剤の匂いとは別の、芳香剤の香り。


 アタシはお母さん以外の家族を知らない。父親も、兄弟も、祖父母も、同年代のいとこもみんな居ない。幼いころは泣いたりしていたとお母さんは話していたが、思い出せない。


 ただ、お母さんがアタシを大事に思っているのは、うぬぼれではなく感じているから、アタシ自身の環境がそんなもんかなという納得はしている。

 だから、お母さんの機嫌が良いのは嬉しかったし、相手がいるのもその内話してくれるだろうと、その時はドヤ顔で祝福してあげよう…



「……って、アタシは思っていたんだよ、マドカさん」


 鏡越しに相手に視線を向けながら、アタシは深くため息をついた。


 マドカさんはチラッと鏡のアタシに視線を向けると、また手元に視線を落とし、アタシの髪を櫛でといていった。


「前来た時も聞いたわよ~。またウチに染めに来たってことは、あんまり好転はしていないみたいだけど?」


「そう、です」


 言葉に詰まると、マドカさんはククっと口角を上げて笑みをこぼした。肩でそれをごまかすように口元をこするけど、目つきで面白がっているのが分かる。それが何ともカッコイイ。


「マドカさんかっこよ」


「あん?」


「いえ……」


 思わず漏れたつぶやきに、威嚇するような短く低い牽制。アタシは身震いするところを必死で堪えた。


 マドカさん、彼、いや彼女は、アタシが通っている美容室の美容師だ。


 何頭身よと思わず目を見張る小顔に長身。鼻筋はくっきりと、目も大きい。笑うと洋画の俳優さんのように日本人離れした雰囲気をまとっている。


 ピタッとした白のパンツに、美容室のロゴの入ったポロシャツから伸びる筋肉のラインがクッキリと入った長い腕と、大きく筋張った手は、マドカさんの性別をハッキリと物語っているが、彼……彼女は、出会ったころからカッコいいという言葉が嫌い。詳しくは知らないけれど、聞いたことはないし、それでいいと思う。


 マドカさんのカラッとした性格とその口調は、アタシを含めお客さんからとっても好評で、それがこの美容室の真実だ。


 そんな話しやすい大人な存在に、幼いアタシは全てを話し、自分でもバカバカしいくらいの感情を形にしてもらっている。



 赤紫のインナーカラー。黒に近いくらい暗く、でも赤紫。

 緑の、反対色。



 あの日、「会ってほしい人がいる」と、そうお母さんがアタシに告げたとき、緊張しなかったといえば嘘。


 けどね、ほらやっぱり! と、気づいていた自分が誇らしくもあった。


 でも、そこまで。家に近づいてきた深緑の車、その光景にアタシの思考は停止した。


 ハザードランプがレースカーテン越しでも眩しく、いつもの路上駐車ではなく家に駐車した車は、聞き覚えのある重低音を少しだけ響かせ、静かになった。


 車のドアの開閉音、インターホンの音、なんとなくしかもうあの時のことは覚えていない。アタシが妄想した初老の紳士は、お母さんより少しだけ若いくらいの、あの芳香剤の香りがする男性だった。



 カゾクニナリタイ。

 イッショニサンニンデクラシタイノ。



 珍しい話でもない。予想もしていた、答えも用意していた展開。


 その言葉をどちらが言ったのか、どんな顔でどんな声でアタシに言ったのか、覚えていない。



 何がいけなかったのか。

 深緑の紳士がいなくなった?

 憧れだけで知りたくなかった?

 アタシが先に見つけた気でいた?

 お母さんがとられた?

 お母さんにとられた?



 どれも当たっているようで、どれも違う気がする。

 頷きはしたはず。でも、あれから二人とはまともに話せていない。


 どうしていいかわからずに、アタシはマドカさんを頼ったのだ。


「別にいいわよ? 相談込みで有料だし」


 彼女は本気とも冗談ともつかない口調で、アタシのまとまりのない話を聞いてくれた。

 そして、


「色でも入れてみる? 学校厳しい?」


 聞いた話の解決にはならないけれど、と前置きをしてから、言葉にならない感情を表現することを教えてくれたのだ。


 目立ちすぎなければと、小声で答えたアタシの意をくんでくれた彼女は、光に透かさないと目立たないくらいの濃い紫のインナーカラーを入れてくれた。


「赤紫は緑の反対色なのよ。まぁ補色って言い方が一般的かしら?

 別にあなたが反抗したいわけじゃないのは分かってるけどね。何かしら感じていることくらい、色を入れた時点でみんな気づくわよ。

 まぁ、ワタシから見ればかわいいやきもちよねって言ったら、失礼なんでしょうけど。ワタシも若い時を思い出すわぁ」


 優しく笑い、出来栄えに満足そうに頷く仕草に、その時アタシは涙が出たんだ。


 それから数えて、まだ三回目の来店。アタシの感情は落ち着いてきていると思う。


 ただもう、どう話していいのかわからない。今回はそんな愚痴。


 話題にはならないけど、カラーは気づかれていると思うとか、友達はすぐ気づいたとか、もっとすごい髪の子もいるから全く注意されたりはしないとか、普通の会話。


 もうあの人がいるのにも、話さないけど慣れたという報告。


「そのまま言えばいいのに」


「ムリ」


 そんな進歩のないアタシの愚痴。


 ただ今回違ったのは、お店を出ると、あの車が待っていたことだ。


「迎えに来たよ、乗りなよ」


 彼はそう言って後部座席のドアを開けた。心臓が跳ね上がるように脈打ち、助けを求めようと後ろを振り返ると、マドカさんがニンマリと笑って手を振っていて、アタシはこれが偶然ではないということを悟った。



 美容室から家までは電車で四駅分、車だとそれなりに時間がかかる。


 車内だとそこまで音が気にならず、後ろの席でも充分会話ができる。お母さんが助手席にいるときはいつもそう。ただ、今は二人。お互い一言も発さないまま時間が過ぎていた。


「マドカくんに、来ているのを聞いてさ。迎えに来たんだ」


「……そうですか」


 短い返事になることに自己嫌悪を覚えながらも、言葉は出ない。


 そんなアタシに、彼は少し笑った気がした。


「実はマドカくんね、僕の教え子なんだ」


 その言葉に、視線を彼に向ける。

 その動きを感じ取ったのか、アタシの言葉を待たず、彼は笑みを浮かべたまま、少し嬉しそうに話しだした。


「彼が……、彼って言ったらダメなんだっけ?……んー、マドカ君が高校生の時に家庭教師として、家にしばらく通っていたんだ。最終学年入ってすぐ、受験まで。だから一年ならないくらいかな。当時マドカくんは学年上位でさ、家庭教師なんて本当は要らなかった気もするけど。彼さ、出席日数満たしたら、テスト以外学校に行ってなかったんだ」


 アタシが知らないマドカさんの話。耳は傾くけど、なんだかチリチリと最近味わい続けた感覚が胸に広がる。


「理由を聞いたら、自分が周りと違うって気づいていて、距離を置こうってしていたって、今みたいに表情豊かじゃなくてね、淡々と言ってた」


「……それで、どうしたんですか」


 話を繋げるための言葉を、アタシから彼に投げたのは初めてかも知れなかった。彼の話が上手いわけではない。ただ、今アタシを救ってくれている彼女のことが気になっただけ。


「なにも。決まった日に勉強を教えに行ってただけ。伝えたことはあるけど、大したことじゃない。自分は別に先生じゃないから、やることやって、学校行きたくないならいいんじゃないかってことと、自分は君とは違うけど、価値観はそれぞれだからそんなもんかなって思ってるってだけ。そしたらさ……」


 そこまで話すと、彼は肩を揺らして笑った。


「マドカくん、その年受験しなかったんだよね」

「え?」


「いや、親御さんからは国立大の外国語専攻って聞いていたんだけど、彼は前々からずっと美容学校志望でご両親を説得していてさ。なら自分の金で受けなさいって言われるのを待っていたみたいでさ、好機とばかりに家を出て、二年間友人とルームシェアしてアルバイトで学費と受験料貯めて、本当にその道に進んだのは…、お客さんとして体験済みだね。……まぁ、専門学校の学費がいくらルームシェアでも二年で賄えるわけがないから、親御さんが途中で折れたんだろうけどね」


「マドカさんらしい、のかな」


 アタシなんかよりももっとハッキリとした反抗を果たしていたマドカさんの過去に圧倒されつつも、現在彼女には納得しかない。それと、会話らしい会話ではないけれど、今までで一番彼の声を聞いている気がする。


「そんなことがあってか、そのままにはできなくてね。専門的なことは分からないけど、車が必要な時に付き合ったり、たまにご飯食べたり、連絡とったりし続けてたわけで……、君の後を尾けたわけではないからね」


「それは……」


 マドカさんの顔を見ればすぐに察せられた。

 それに、そんなことする人を、お母さんが選ぶわけがないという確信がある。けど、口にはできなかった。


 またしばらく会話のない時間が流れる。バックミラー越しに見える彼の表情は穏やかで、出会ってから今までまともな会話のないアタシを乗せていることへの気まずさは見られなかった。


 目が合って、またドキリとする。


「髪、もっと明るくしても似合うと思うよ」


 ちょうど赤信号で停車し、直接また視線を合わせ、彼は優しく笑う。


「赤みががった紫、緑の反対色でしょ?」


 鼓動が跳ね上がる。目を見開いて視線を返すアタシに、彼はやっぱりと少し寂しそうに、でも満足そうに頷いた。


「少しはマドカ君の勉強ものぞいていたしね。分かるところもあるんだ。……いいんだよ。受け入れにくいのは当然だろうしね。そういう可能性も話し合った上で、お付き合いさせてほしいって思っているわけだし。君に話したいと思ったんだしね。いまは、お互いお母さんを大事に思ってさえいれば、それで良いと自分は思うよ」


 反応を待つつもりで言葉を切ったのか、沈黙。言葉にはない気遣いを感じる。多分、子供のアタシには急なことだと、受け入れにくいことだからと、二人は、待ってくれているんだろう。



 違うの。心の準備はしていたの。

 でも、もう何がダメかよくわからないの。

 会話のきっかけなんていくつもあるのに。



 彼が良い人物であることも、アタシに優しさや気遣いを向けてくれることも、待っていてくれることも、会話がなくても毎日挨拶くらいのやりとりを欠かさないことも、分かっているのに。


 マドカさんの時みたいに、目の前で泣ければ何か変わるのかも知れない。

 けど、今は感情が表に出ない。


「それにね」


 と、変わらない優しい声で、それでも彼は話してくれる。

 でも次に彼が口にした言葉は、優しい雰囲気が一変し、いたずらに成功した男子みたいに得意げだった。



「マドカ君の友人で、時代に逆らってこんな昔の車乗ってる自分が、普通なわけがないんだから。気にせず君が思うように過ごしてくれたらいいなと思うんだよね。この言葉には、結構説得力がある……と思うんだけど」



 ストンと、胸に何かが収まるような感覚。腑に落ちたようなそんな感じの。


「家族にはなりたいけど、父親ではないんだし、お父さんとか思わなくても別にいいよ。まぁ、自分で言うのもなんだけど……」


 ルームミラー越しに彼を見ると、少し困ったようにまた優しく笑いかけてくれている。目じりにしわが浮かんでいるのが、あったのか無かったのかも分からない。それくらい見ていなかったことに気づく。


「ふふ」


 と、思わずこぼれたアタシの声、アタシの耳に届いた笑いに驚く。そしてまたそれがおかしかった。


「ふふふ」


 またこぼれる。

 分かった。なんで受け入れられなかったのかを。なんとなくだけど。


 深緑の車の紳士が、お母さんに。


 お母さんが、彼に。


 アタシが考えていた二人が、アタシの知らない色に染められた。気持ちを無視された気がしたんだ。

 でもそれはアタシの勝手な思い込みで、紳士なんて居なかった。



「かわいいやきもち」



 マドカさんの言葉が思い出される。彼女は知っていたんだろう。彼の一面を見れば、彼が紳士ではないってことも、でもいい人だってことも。始めから、家族を望んでもなければ、アタシのお父さんになろうなんて考えていないこと。マドカさんから連絡したのかもしれない。きっとそう。


 彼はただ、お母さんを愛していて、お母さんの持つ全てを受け入れている。その中にアタシも入っている。


 聞けやしないけど、そんな感じ。


 器が大きい? ううん、今知った彼の一面からは、アタシへの挑戦って言い方がしっくりくる。お互いお母さん好きなら大丈夫でしょって言われているみたい。


 それから、また会話はなかった。ほどなく家に到着し、駐車場に入れる前に彼はアタシを先に降ろしてくれる。いつもなら先に家の中に入っていたけど、今日は彼が降りてくるまで待っていた。


「ありがとうございました」


「! いいえ、こちらこそ」


 たったそれだけ。でも、目を見て話した。彼が驚いていて、少し気分が良かった。



 夜。ぼんやりと今日のことを思い返していた。少しだけ勇ましかったアタシはまたどこかに行ってしまったけれど、自分の部屋の居心地は悪くなかった。


 これからの家族、アタシたちを、アタシはまだ知らないけど、昨日までよりは大丈夫。きっとお父さんとは呼べないけど。車以外の好きなものや、年齢くらいは、知りたいと思える。


 だから多分大丈夫。


 きっと劇的なことなんてない。


 現実の答え合わせは、たまにしか面白いものはないんだから。


 またすぐマドカさんに会いに行こう。

 アタシはそう決めていた。

 紫のままだけど、トーンを明るくするんだ。もう深緑の正反対色じゃなくていい。


 でも彼女は言うんだろう、アタシのこの決意を面白がって、


「良かったじゃない」


 と、カッコイイ笑顔で。


「でも、髪が痛むからまた今度ね」


 って。

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