第58話 劣等剣士と堕天使②

「なあ、ティア? あのさ、ちょっと確かめたい事があるんだけど」

「……? はい、何でしょう?」


 エルディから離れようとするわけでもなく、身じろぎをするわけでもなく、ティアはそのままの体勢で訊き返してきた。


「お前はさ、今のこの状況、どう思う?」


 この状況、というのはもちろん、エルディに抱き締められている状況である。

 彼女は迷った様子で、「どう、と申されましても……答えようがありません」と答えだけだった。 


「いや……その、恥ずかしいとか、嬉しいとか、嫌とか……俺にこうされて、どんな気持ちなのかなって思って」

「えっと……それでしたら」


 ティアは少しだけエルディの方に身体を寄せると、面映ゆい表情で言葉を紡いだ。


「きっと、嬉しいんだと思います。でも、少し恥ずかしいという気持ちもあって。なんだかむず痒くて、そわそわもしてしまっていて、胸が苦しくて……自分でもどう表現していいのかわかりません」

「……離した方がいいか?」


 少し緊張した面持ちで、エルディは訊いた。

 これは、エルディにとっては確認の意図が強かった。この答えによっては、前に進むべきなのか今の距離感を保つべきなのかの答えもにもなると思ったからだ。

 すると、ティアは──ゆっくりと首を横に振った。


「いえ……もう少し、こうしていて欲しいです」

「そっか。よかった」


 エルディはほっと安堵の息を吐いて、抱き締める腕をほんの少し強めた。

 この返答から読み取れる答え。それは、もう少しだけ関係を進めても良いという事だろうか。

 彼女の肩を抱いたまま、無言の時が流れた。

 服越しに、彼女の鼓動が伝わってくる。堕天使でも、どうやらドキドキすると鼓動が早まるらしい。

 ここが、変え時だろうな──エルディはそう自ら決心し、こう問いかけた。


「なあ。ティアはさ、人間の恋人関係についてはどう思ってる?」

「恋人関係、ですか? 一般的に男女が愛し合う関係の事ですよね?」

「ああ」

「素晴らしいと思います。天使も男女に分かれていますが、そうした関係にはならないので」


 曰く、天使にも男女はあるが、物質界の生物のようにオスとメスで繁殖するわけではない。天使とは神によって生み出される生命なのだそうだ。

 従って、恋愛、そしてそれに基づいて生殖・繁殖するといった発想もないらしい。恋愛感情とは、きっと天使にとって不要なものなのだ。

 つい最近まで天使だった彼女に、こんな質問をしてしまっても良いのだろうか──一瞬、そう思わなくもない。だが、それでは何も変わらない。エルディは勇気を振り絞って、核心へと迫る問いかけを重ねた。


「じゃあさ、ティア。俺と、そういう関係になる気は?」

「えっ、それって……⁉」


 驚いた拍子にティアは身体を少し離して、エルディを見上げた。

 そこには驚きと恥ずかしさからか、顔を赤く染めている。


「そう。俺と恋人関係に、って事。嫌か?」


 訊くと、彼女はぶんぶんと首を横に振った。


「そ、そんなわけないです! そんなわけないですけど……ッ」

「けど?」

「その……私、堕天使ですから」


 そんな資格ありません、と付け足し、ティアは視線を逸らした。

 やはり、彼女にとっては自身が堕天使であるという事が負い目になっているらしい。出会った時からずっとそうだ。

 ただ、それも仕方のない事だと思う。

 天界では、堕天使は魔族や魔物と同じように扱えと教え込まれていたのだという。それはいわば洗脳に近い。

 そうした価値観で生きてきた中で堕天使になってしまえば、自分に価値を感じないのも当たり前であるし、自己肯定などできるはずがない。

 だが、そのままではいけないと思う。なぜなら……彼女は、この先も堕天使としてこれから生きていかなけれならならないからだ。

 だからこそ、エルディは彼女にこう言い放った。


「それがどうした?」

「えっ……?」

「実際そんなの、知ったこっちゃないだろ。俺には関係ない話だしな」


 そう、知った事ではない。

 天界のルールだとか、常識だとか、良し悪しの基準だとか、そんなものは天界の中だけで通ずるものであって、物質界で通じるわけではない。

 確かに彼女は堕天したかもしれない。だが、それだけだ。少なくともエルディにとっては、それだけの話なのである。


「俺はもともと天使としてのティア=ファーレルを知らない。ずっと堕天使のティアと過ごしてきた。でも……俺は、そんなお前と一緒にいるのが心地良いと思えたんだ。俺がそう思えた人は、天使としてのティア=ファーレルじゃない。堕天使としてのティア=ファーレルだ」


 彼女が堕天していなければ、きっと今も物質界を見守る天使として空を徘徊していただろう。

 でも、それだとエルディとは出会えなかった。この安らぎも、この生活も得られなかった。

 彼女にとって堕天とは間違いなく不名誉に違いないのだけれど……その御蔭で安らぎと幸せを得た人間が、ここにいる。

 そして、それはきっとティアも同じだ。

 不幸や理不尽で天界を追放されてしまっていたが、その代わり天使では得られなかったものが、堕天使の今なら得られるはずである。

 それが、今のこの生活ではないだろうか。人間と犬と物質界で暮らす、新しい生活。それは、天使であったならば得られなかったものだ。

 エルディは彼女にその事について気付いてほしかった。もう堕天使でいる事を恥じなくても、卑下しなくても良いのだ、と思ってほしかったのである。


「できるだけ長く一緒に過ごせたらいいな、なんて思ってこうやって家を買って……正直、何でこんな面倒な事自分でもしてるんだろうって思ってた時もあるんだけど、その理由は今ならもう明白でさ」


 ティアの肩をそっと掴んで、その碧眼をじっと見据える。

 彼女は瞳を震わせたまま、エルディの次の言葉を待ってくれていた。

 エルディは小さく息を吐いてから、自らの気持ちを紡いでいく。


「俺……ティアの事が好きなんだと思う」


 その言葉を聞いて、ティアはその碧眼を大きく見開いていた。

 信じられない、とでも言いたげで、現実を直視できていない様子で愕然としている。


「いつからかはわかんない。いや、もしかしたら最初からだったのかな。でも、ティアは堕天使っていっても天使族なわけで、人間の俺がそんな感情をティアに抱いていいのかなって思ってたりとかして、ずっと誤魔化してた。ただ、それじゃあきっと、お前は変われないんだよな。ずっと堕天使である事を恥じて、後悔して……俺は、それが嫌なんだよ」

「どうして、ですか……?」

「だって……お前がこの世界に堕とされてなきゃ、俺達は出会えなかったろ」

「エルディ様……!」


 ティアの瞳にじわりと涙が滲んだ。目尻には今にも流れだしそうなほど涙が溜まってしまっている。

 エルディはそんな彼女の顔をじっと見てから、決意の言葉を紡いだ。


「もし、ティアが俺と同じような気持ちでいてくれるなら……その、なってみないか? 恋人同士ってやつに」

「私なんかで……いいんですか?」


 ティアは少し迷った様子で、上目でこちらを見上げた。

 洟を啜り、肩が僅かながらに震えていて、泣くのを精一杯我慢している。


「〝なんか〟じゃなくて……俺はティア〝が〟いいんだけど?」


 エルディが柔和に微笑んでそう答えると、そこで彼女の瞳から大粒の涙が零れ落ちた。

 慌てて彼女は自らの顔を隠そうとしたが、もう手遅れだった。彼女の涙はとどまる事を知らず、ぽろぽろと頬を伝って流れ落ちていく。

 顔を赤くして、どうして涕涙しているのか自分でもわかっていない様だ。


「す、すみません……私、自分の気持ちがよくわからなくて。胸があったかくて、どきどきして、それなのに涙が止まらなくて……これって、どういう感情なんですか? 私、どうしちゃったんですか? どうすれば良いのでしょう?」


 きっと、ティアは今持っている感情を体感するのは初めてなのだろう。男女の中で恋愛がない天使族では持ちようがなかった感情。その初めての感覚に、どう対処していいのかわからず、あたふたとしている。

 そんなティアが面白くて、思わずエルディは吹き出してしまった。


「ど、どうして笑うんですかっ? 私、今凄く困っているのに……エルディ様、酷いです!」


 ティアは恨めしげにエルディを睨みつけて言った。

 そんな睨みつける表情でさえも愛おしいと思ってしまう。それほどまでに、もう彼女を好きになってしまっているのだろう。

「ごめんごめん」と平謝りしながら、指で頬を伝う涙を指で拭ってやりながら、こう提案する。

 

「俺……それを治す方法知ってるかも。試してみるか?」


 きっと、ちょっとした儀式で治るはず。その確信がエルディにはあった。

 この世界で彼女の涙をとめる事ができるのは、エルディだけなのだから。


「どうやるんですか……?」

「多分、こうするんだと思う」


 エルディはティアの顎を持ち上げて上を向かせると、そのまま顔を寄せて──そっと、唇を重ねた。

「あっ」と小さく漏れる彼女の吐息と、一瞬重ねるだけの短いキス。彼女は潤んだ瞳を大きく見開いて、惚けた様子でエルディの方をじっと見ていた。


「……どうだ?」


 唇を離してから訊いてみると、彼女ははっとして自分の胸や頬を慌てて手で触れていた。


「ほんと、です……苦しいのは治りました。でも」

「でも?」

「もっとしてほしいって、なってしまいました」


 ティアはおずおずと恥ずかしそうに、こう言った。

 きっと、彼女も今の行為にどんな意味があるのかを悟ったのだろう。

 ただの同居人、ただの仲間、そういったいまいち言語化されていなかった曖昧な関係から、恋人関係になるための儀式。もしかすると、彼女はそんな風に考えたのかもしれない。


「じゃあ、もっとするか?」

「……はい。もっと、して下さい」


 その言葉とともに、二人は互いに目を瞑って──また、唇を重ねる。今度は一瞬ではなくて、何度も何度も重ね合わせていた。

 追放された劣等剣士と堕天使は、新たな関係となって、そしてこれからも新たな生活を築いていくのだろう。

 二人のスローライフは、まだ始まったばかりなのだから。

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