第8話…見えない姿

 この痛み、覚えている。

 どうしてこんなにも朧気な記憶なのに、身体はその痛みを忘れられないのだろうか。

 遠い、遠い記憶の中で浮かび上がりそうな何か。思い出したいのに、今はもうその気力も尽きた気がする。


「ネヴィル様……」


 寮に戻る事ができず、学校を飛び出した。

 もしかしたら今頃、私を探したりしているだろうか。だがもう、戻りたくない。

 学校の側には川が流れていて橋の上から見下ろすその下では、こちらへおいでと私を呼んでいる気がする。身を投げるのがこんなにも容易いのかと今、知った。

 どこかで幼い子供が遊んでいる。

 私も幼き頃にネヴィル様とよく遊んだものだ。

 お母様、と呼ぶ女の声も聞こえる。

 あぁ、最後にお母様に会いたかった。そしてできるなら、ネヴィル様の側でそんな存在になりたかった。

 だがもう、ネヴィル様の隣にはいられない。それが許される女ではなくなったのだ。



☆ ☆ ☆



 ネヴィル様の声を聞いたような気がした。

 フロタリア、と呼ばれたような気がした。



☆ ☆ ☆



 朝の目覚めには程遠く、室内は薄闇で、燭台に灯された蝋燭の火がボォッと天井を照らしている。


「フロタリアお嬢様が目を覚まされました!」


 声の方に顔を向けると、寝台近くの脇に立って、心配そうに胸元で両手を握り締めている侍女が見える。


「フロタリア、大丈夫か?」


 私には侍女の姿しか、すぐにはわからなかった。だから彼女以外の誰かが私の名を呼ぶ、とても切羽詰まったその声で徐々に気づいたのだ。

 あぁ、またか。夢か現実か、あの嫌な感じ。

 だが、今日は少し違う気がする。

 わけのわからない身体の痛みと粘ついた不快感、沸いてくる恐怖が絶望で包むのだ。


「フロタリア、フロタリア」


 部屋には他に医師、それに両親やネヴィル様まで。

 いったいどうして揃いも揃ってこんなにも深刻そうに、それでいて安堵の表情なんかしているのだろうか。

 私はただ単に目を覚ましただけなのに。


「お父様、お母様。いったいどうなさったのですか?」


 寝台の側に膝をついた状態で私の手を握り、目に涙を浮かべる母に聞いた。


「フロタリア、貴方覚えていないの? 倒れてずっと目を覚まさなかったのよ、もう三日も」


「三日?」


 すると、母の隣にいた父が足すように言う。


「本来なら今日から学校に入る日だ。なのに三日前に突然倒れて、意識不明に陥っていたのだよ」


 私はまだ頭が把握しきれないらしく、今日が学校に入る日だという事も三日も意識がなかった事も理解が追いついていかない。


「よく、わからない……」


 医師の診断の結果、身体には特に異常はないものの、倒れた原因と意識不明に陥った理由はわからないという。

 まるで何か悪い魔法でも掛けられたかのようだと、両親は不審がる。


「ネヴィル様はどうしてここに?」


 彼は寝台から少し離れた窓辺近くで様子を窺っている。


「フロタリアが倒れたというコーンエル男爵からの文が学校に届いてね。それで急ぎ、やって来たのさ」


「あの、エマ様は……?」


 不意に口から出た誰かのそれは私の知らないはずの名前。いったい、誰だっただろうか。

 不審そうに首を傾げるネヴィル様を見ていると、誰かもう一人の姿が見える気がする。

 ネヴィル様が宝物のように見つめる、誰か。


 結局は倒れた原因も何もわからず、学校へは遅れて入学する事になった。

 だが、当然ながら母は大反対。もしも学校で、もしくは寮で再び倒れるような事があったら、と心配なのだ。


 ネヴィル様が言った。


「大丈夫ですよ。できる限り、俺がついていますから」


 学舎や寮以外で婚約者と行動を共にする令嬢は多い。それは周囲を警戒し、断固たる自分の地位を確保する為でもある。


「ネヴィル君が側にいてくれるのなら幾らか安心だ」


 父は母に同意を求め、母も頷く。だが……。


「嫌、嫌!」


 ネヴィル様が私の側を離れないなんて。嬉しいはずなのに、身体が拒否を求める。 どうしてだか、震えが止まらない。

 何か、とても重要な何かを忘れてしまっている気がする。

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