第5話 得鳥羽月その1

この後囲碁クラブに顔を出すから後よろしくね、と伯父が去っていった後、風変わりな来訪者の為にお茶を入れて、祖父の部屋から古いアルバムを引っ張ってくると、縁側の片隅で借りてきた猫のように縮こまっていた燈子は、勢いよく腰を浮かせた。


何というか全身から緊張が滲み出ていて、見ているこちらが気の毒に思えてくる。


来訪を嫌悪したつもりはなかったのだが。


「す、すみませんっっお手数をおかけしまして」


「いえ。お気になさらず。僕もいつも家に居るわけでは無いので、尋ねて来られたのが今日で良かったです。ええっと・・・・・・燈子さん?」


「っひゃい!っっ」


思い切り声を上ずらせた彼女がアルバムに伸ばす手がぶるぶると震えている事に気づいて、知らず知らずのうちに威圧的な態度でも取っていただろうかと気になった。


共同プロジェクトが落ち着くまでの間は、西園寺メディカルセンターの近くに部屋を借りて暮らしているので、実家に戻ってくるのは月に1、2度程度だ。


古い家は人が住まないとどんどん傷んでいくから、ちょくちょく戻ってきなさいというのは、伯父夫婦と、早々に長男夫婦との同居を決めて家を次男坊に譲って出ていった両親からの言いつけで、それを馬鹿正直に守る必要もないのだが、車で戻れる距離に住む唯一の甥っ子として、海外暮らしの従兄一家に代わって伯父夫婦の様子を確かめる意味もあって定期的にこちらに戻って来ていた。


が、当然今日まで祖父誠一郎を訪ねて人が来たことなんて一度もない。


亡くなったのは10年以上前のことだし、祖父の友人たちのほとんどがすでに他界している。


恐らく自分と同世代だろう吉住燈子は、よほどおばあちゃん子だったのだろうか。


あまり他人に興味を持たない辰己が、この時初めて吉住燈子の人となりを知りたいと思った。


これまで、女性に見惚れられることはあっても、こうもあからさまにおびえられたことはなかったのだ。


もしや男性恐怖症かと思ったが、伯父とのやり取りは普通に行えていた事を思い出して、それは違うなと結論付ける。


「あの・・・僕、なにかしました?」


折角こんなところまで祖父を尋ねてやって来てくれた相手に、不快な思いをさせたのなら申し訳ない。


出来るだけ柔らかく尋ねると、びくんと燈子が肩を跳ねさせた。


「へ!?い、いえ、違うんです!あの・・・・・・・・・霙依さんのこ、声が・・・・・・」


これまで誰にも指摘されたことの無い部位だ。


高圧的な口調で喋ったつもりもなければ、下手な下心を含ませたつもりもない。


「僕の声、苦手ですか?」


生理的に受け付けないとかだったら、もうこればっかりはどうしようもない。


縁側にアルバムを置いて、それを彼女のほうへ滑らせる。


「い、いえ・・・・・・その逆で・・・・・・・・・私、あの・・・・・・霙依さんの声を聞くと・・・緊張するというか・・・落ち着かないというか・・・・・・嫌いじゃないんです!そうじゃなくて!ド、ドキドキして・・・・・・あああいえあのっ・・・へへへへんなこと言ってすみませんっ」


真っ赤になった頬を押さえて狼狽える彼女の表情は困惑そのもの。


嘘を言っているようには見えない。


ひと目惚れならぬひと聞き惚れというやつだろうか。


ということは、さっきの強張った表情は、苦手意識から来ていたものではなかのか、とホッとする。


「・・・・・・はあ」


それはどうもと答えて良いものかよくわからずに、曖昧な返事を返せば、燈子が意を決したように、カバンの中から古びた封筒を取り出した。


「あの・・・・・・気持ち悪いって思われたら・・・すみません・・・・・・い、遺伝なんだと思います・・・うちの祖母の・・・」


「遺伝・・・」


「あの、ご迷惑を承知で申し上げます・・・・・・実は、この手紙、私の祖母から、誠一郎さんへのラブレターなんです」


祖父の誠一郎と、武井家の紀代乃が幼馴染で、それぞれが結婚後も家族同士で交流があり、その縁で母親が霙依に嫁いできたことは子供の頃から知っていた。


が、そこに吉住淑子ひでこという人物が入っていた事は今日この瞬間まで知らなかった。


名前も聞いた覚えがない。


誠一郎も淑子ひでこも、それぞれ別の人と結婚しているし、辰己の記憶が正しければ、この家に吉住淑子ひでこが祖父を尋ねてきたことは一度もない。


あの時代の結婚と言えば、親の決めた相手を娶ったり、嫁いだりするのが当然なので、二人が実は愛し合っていた可能性も考えられなくはない。


なくはないが、どうも現実的ではないのだ。


「・・・・・・・・・それは・・・あの・・・なんというか・・・えっと・・・・・・拝見しても?」


辰己の見てきた祖父母は、夫婦仲も良くて祖父は体の弱い祖母をことさら気遣っていた。


自分が生まれる前にいくらかの遺恨があったとしても何ら不思議ではないが、亡くなる直前まで祖母の体調を心配していた祖父に、遠い昔に結ばれなかった恋人がいたというのはなんとも複雑な気分である。


まるでモノクロ映画のようだ。


「もちろんです。身勝手だとは思ったんですが、祖母の遺品の中にひっそりと隠されていたこれを見つけて・・・なんていうか、居ても立っても居られなくなって・・・誠一郎さんに届けてあげたいって思ったんです・・・・・・それで、ここまで来てしまって・・・・・・」


受け取った便せんをそっと開いて、旧字で綴られた文章をどうにか拾い上げる。


そこに書かれていたのは、誰にも告げずに胸の内に押し込めた淑子ひでこの一途な恋心で、彼女ははなからこの手紙を届けるつもりが無かったことが窺われた。


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