第3話 夢見月その1

祖母、吉住淑子ひでこと燈子との縁は、決して深くはない。


父親が小学生の時に亡くなってからは、祖母の家に年始の挨拶に出向くこともなくなって、そのまま疎遠になり、結局次に連絡を取ったのは母親が亡くなってからだった。


父親の兄弟も他界しており、現在は老人ホームで余生を過ごしていることを横浜に住む従兄弟から聞いて、それから何度か会いに行った。


近くに家族もおらず、孫が尋ねてきたのは初めてだとケアマネジャーから言われた時に、急に顔もよく覚えていなかった祖母に親近感を覚えた。


一人残った祖母と、両親もおらず独身の自分がどこか重なって見えたのだ。


住まいを老人ホームの近くに移して、司書の仕事を始めてからは、週に一度は老人ホームに会いに行くようになり、スタッフや入居者とも顔見知りになった。


淑子ひでこは、自分のことを多く語る女性ではなく、居室で一人で編み物をして過ごすことが多かったが、これまで接点がほとんどなかった燈子としては逆にそれが心地よかった。


持ち込んだ本を読みながら、つけっぱなしのテレビやラジオの話題で時折言葉を交わす程度の交流でも、祖母と孫の距離感としては及第点だと思っていた。


やがて痴呆が進んで行くにつれて、淑子ひでこは燈子のことを別の名前で呼ぶようになった。


彼女が口にする”キヨちゃん”という名前に当然心当たりなんてなく、恐らく昔の友人を思い出しているんだろうと深く追求する事もなく、懐かしそうに思い出話に花を咲かせる祖母に話を合わせて、彼女が亡くなるまでを過ごした。


そして、葬儀を終えて、遺品整理をする段階になって、初めてキヨちゃん、という女性のことを知ったのだ。


8年ほど前まで年賀状のやり取りをしていた武井紀代乃という女性の名前を見つけた瞬間、ああ、キヨちゃん!と嬉しくなって、そこから祖母の人生に興味を抱いた。


老人ホームの小さな居室に彼女が持ち込んでいたのは、僅かな衣類や雑貨、毛糸と編み針と古いアルバムが1冊と、数冊の本だった。


入居前にほとんどの荷物を処分していたらしく、彼女の人生の足掛かりとなるものはごくわずか。


恐らく女学校時代に愛読していたのだろう古い少女小説の間に、隠すように挟まれていた封筒を見つけた時には、祖母から自分への遺書だろうかと一瞬期待して、古すぎる黄ばんだそれをまじまじと見つめて、いや違うな、とその考えを打ち消した。


宛名の無い封筒の中に収められていたのは一通の便せんで、そこには祖母が若かりし頃に憧れ焦がれた相手への溢れんばかりの愛情がつづられていた。


読みにくい文体の中に一度だけ出てきた”誠一郎さん”という祖父ではない男性の名前に、これは、淑子ひでこが生涯かけて隠し通した恋心の結晶なのだと理解した。


その瞬間、これをどうにかして誠一郎さんに届けたい、と思ったのだ。


どこの誰だかもわからない、恐らくもうこの世にはいないだろう彼の人生をわずかでもいいから知りたくなった。


とはいえ手掛かりは出せなかった恋文一通と名前だけ。


ひとまず、祖母が繰り返し名前を呼んでいたキヨちゃんなら何か知っているだろうと、年賀状の住所を調べて意外と近場だった事を知り、その週末のうちに武井家を訪ねた。


普段の燈子からは考えられないくらいの行動力である。


その時の燈子は、ある種の使命感に燃えていた。


祖母の恋の謎を解き明かし、このラブレターを誠一郎さんのところへ届けるのは自分にしかできない大切な役割なのだと、そう思い込んでいたのだ。


急行と各駅停車に揺られること40分。


山間の静かな住宅街の一角に、武井家はあった。


建て替えて間もないことを窺わせるモダンな和風住宅のインターホンを鳴らした後で、考えなしのお宅訪問をしてしまったことにようやく気付いて、大福の手土産を渡しての謝罪から始まった初めましての挨拶に、キヨちゃんの息子にあたる現在の家主である英一はきょとんとなって、吉住淑子ひでこの孫です、と名乗った燈子をまじまじと見つめて、お義母さんのお友達のひでちゃんのお孫さん!と驚いた声を上げた妻の言葉で、ようやく事態を理解してくれた。


予想通り、淑子ひでこと、紀代乃は女学校時代の友人らしく、お互いに結婚してからも交流が続いていたらしい。


淑子ひでこが亡くなったことを伝えると、紀代乃は、8年前に肺炎を拗らせて先にこの世を去っている事を伝えられた。


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