第10話
今日は朝から大変な目に遭っている。それもこれも全部、刈谷と小杉のせいだ。何が大変なのかというと、もちろん車谷の嫌味が、だ。そのネチネチとした言い草に、私は大変げんなりしてしまったわけなのだが、刈谷や小杉の嫌味のように嫌悪感を抱くことはなかった。同じ嫌味でも言われる相手によって感じ方は違うということだろう。とはいえ、嫌悪感がない分、車谷の嫌味は脳髄に直接響いた。
「本当にいい加減にしてくださいね。ここにいらぬ厄介事を持ち込まないでください」
「すいません」
車谷の叱責に反論する余地はなく、私は力なく頭を下げた。
そんな私を見て満足したのか、車谷は軽くため息をつくと「今度からでいいので」とそっぽを向いた。その言葉をあと一時間早く聞きたかったと苦笑した。
一応、村にとって重要人物である車谷には説明しておかなければならないだろうと思い、あいつらの怪我について、昨日の様子と千花の猛攻をあわせて説明したのだが、そのことに関しては車谷は興味がなさそうで、彼の関心は私がそんな異物を村に引き込んだことだけにあるようだった。
「あのー、もう一度言いますけど、千花がそいつらに怪我をさせてしまって仕返しに来るかも知れないんですよ。警察とか言ってましたし。なので、もしかしたらここに荷物を運んで来づらくなるかもしれないので、次回は食料品を多めにお願いできますか?」
この村がどういう仕組みで生活しているのかは知らない。知ろうともしてこなかった。しかし、普通ではないだろうということは薄々感じてはいた。
――嘘だ、しっかりと感じていた。自分は何もするべきではないと、見て見ぬふりをしてきたのだ。
だが、もしこの村の運営が明るみに出せないようなものであるのならば、今回の件は致命傷になりうるのではないだろうか。あいつらが警察に駆け込めば、マスコミにたれこめば、下手をすれば日本中にこの村のことが伝わることになるだろう。反響によっては国が動くなんてこともあるかもしれない。ともすれば物資が滞ることは容易に想像できる。今、私はたとえこの村がどういう村であろうと、村人が不自由にしている姿は見たくない。そう思い始めていた。
「問題ありません。いつも通りで結構。それよりも、今回の村人からの要望は?」
「問題ないって。警察に言うとか言ってましたよ? それってまずいんじゃ」
「ですから、問題ありません」
「マスコミにリークされてここが明るみに出るかも」
「それも問題ありません。何とでもできます」
「そんないくらなんでも、もしかしたら村の人たちが困ることに――」
「ですから、問題、ありません。それよりも村人の要望は?」
車谷は苛立ちを隠そうともせず、私の言葉に被せるようにして答えた。問題ないらしい。マスコミはどうにかできても不思議ではないが、警察も問題ないとは。なんだか車谷の方が怖くなってきた。
諦めて村人の要望リストを渡した。車谷はリストをじっと見つめると、「承りました」と無感情に言うと、リストを折りたたんでスーツの内ポケットにしまった。挨拶もせず、ヘリに乗り込む。
車谷は逡巡する様子を見せた後、ヘリの窓から顔を覗かせた。
「どうしたんですか? あなたはそんなに首を突っ込んでくるタイプでもないでしょう。いまさら何のつもりです」
ハッとする。言われるまで自分らしくないということに気付かなかった。不思議と嫌な気持ちはしなかった。
軽く微笑み、車谷の問いに答える。
「わかりません。でも、もしかしたら何か変わったのかも」
車谷は私の顔をジッと見つめ、「そうですか」とだけ言い残して飛び去っていった。いつも通り東に飛び去っていくヘリを、前ほど憎らしくは思わなかった。
車谷を見送り、結局今日の仕事はそれが最後だった。
手持ち無沙汰な時間は、倉庫の整理、事務所の掃除を念入りにして潰した。時間を潰しているという感覚もこれまでに比べて小さくなっている。というよりは、そこに目が行く瞬間が減ったという感じだろうか。とにかく目の前のことをやった。目の前に何かが来るように動いた。そうしたら、長いと思っていた一日は、案外大した長さではないということに気づいた。
事務所一階のソファーに腰掛け、大きく伸びをする。無警戒な声が喉から溢れた。
チラリと時計に目を向ける。五時十五分。ここに来てから初めての残業だ。そう思うと、少し笑えた。
ふと、只野に電話を入れてみようかと思った。本当に浮かび上がるようにふわりと浮かんだアイデアで、なぜ浮かんだのか疑問なほどだった。だが、浮かんでみれば、こっちに来てから一度も連絡を取っていないこと、そういえば刈谷の件で只野に被害が行くかもしれないことを思い出した。そうなってしまうと今度は逆に、連絡しないことのほうがありえないような気がしてそわそわしてきてしまう。しかし、困ったことにこの村は当然のように電波が悪い。春さんの所を訪ねてWi-Fiを貸してもらえばなんとかなるだろうが、人の家で私的な電話を聞かれることには抵抗があった。
しばらく、頭を悩ませるが、部屋の隅に黒いものがあることに気づき、一人気恥ずかしさに苦笑する。そういえば、この事務所には電話があったではないか。
電話に近づき、昔テレビかなにかで見た様子を思い出しながらダイヤルを触ってみる。なんとなく使い方はわかりそうだ。受話器を肩と頭で挟み、左手でスマホを見ながら、只野の携帯番号を回した。
「……はい。只野ですけど」
「もしもし、急に悪いな。白坂だけど」
怪訝な様子だった只野の声に瞬時に熱がこもった。どうして電話に出ないのか、どうして連絡してこなかったのか、今は何をしているのかと矢継ぎ早に質問が飛んでくる。
「悪い悪い。電波が悪くてスマホがなかなか使えないんだよ。この電話も最近見つけたんだ。仕事は、まあ、ぼちぼちやってるよ」
「そっか。ぼちぼちやってるならいいよ。元気そうでよかった」
只野の変わらず情深い様子に、自然と笑みがこぼれた。
「それで、電話した理由なんだけどな」
「なんだよ、俺と話したくなったからじゃないのかよ」
「違うんだ。期待に添えなくて悪いな。実は昨日ハゲ階段が俺の所に来てな」
「なんだって! 大丈夫なのか?」
「ああ、こっちはなんとか。それで、実はあいつらの言うことを聞かないとお前がどうなっても知らないって脅されてたんだけどな、言うこと聞かなかった。ごめん」
電話の向こうからは返答が聞こえず、怒らせてしまったのかと思ったが、数秒後には只野の大笑いする声が飛び込んできた。
「聞かなかったたのか! そうかそうか。やったじゃんか」
只野の嬉しそうな声音を聞いて、私も嬉しいのだということに気づく。
本当のことを言えば、私の行動は言うことを聞かなかった、と言えるほどのものではなかった。私はつい小さく呟いただけ。情けない事実で、胸を張るには到底足りない。だがそれでも、私にとっては大きな変化だった。実際のところ主役は千花で、私は脇役以下の役割だったとしても、それでもつい踏み出してしまった小さな一歩を、嬉しいと思うことくらいは自由だろう。
「ああ、やったよ。……でも、お前に迷惑がかかるかも」
「そんなことどうでもいいんだよ。俺だってお前には迷惑をかけた。本当に悪かったよ」
「え? あー、そういえば」
言われてみれば、そうだった。只野との話を刈谷に聞かれて、私はここに飛ばされてきたのだった。今では遠い昔のことのように思える。
只野が「そういえば、って。お前忘れてたのかよ」と呆れた声を出した。
「そうだな。忘れる程度のことだったってことだよ。だから、お前も気にするな。もう切るよ。残業中だろ?」
「いや、話せてよかったよ。……必ず戻してやるから、もう少し待っててくれよ」
「うーん、そうだな。待ってるよ。でも、そんなに急がなくてもいいぞ」
思っていた以上に朗らかな声が出た。
「――そっか。じゃあ、のんびりやるよ」
只野の優しげな声とともに電話は切れた。電話してよかった、話せてよかった。柄にもなくそう思った。
「おい! シロちゃんいるかい!」
しみじみと感じ入っていたのに、大隈の大声が私の周りに漂っていた空気を一瞬にして吹き飛ばした。驚いたやら呆れたやらで変な笑いが漏れる。
今日は何でもない一日だったが、思いのほか何でもないことの密度が高い
。
「どうしたんですか?」
わずかに耳鳴りのする耳を叩きながら大隈に応える。
大隈は自分で入ってきたくせに、煮え切らない様子で頭を掻いた。
そんな様子の大隈を見るのは初めてだったので、不思議に思い、もう一度「どうしたんですか?」と首をかしげた。
「いやー、そうだな。シロちゃん、一杯どうだい?」
大隈は目を泳がせながら、落ち着かない様子で、手に抱えた風呂敷を掲げた。物と物がぶつかるような音がして、大隈は慌てて、もう片方の手で風呂敷を抑える。風呂敷の頭からは一升瓶が覗いていた。
「ええ、いいですけど」
大隈の様子を不審に思いながらも、承諾した。ちょうど飲みたい気分だったし、大隈には今回の件でちゃんと礼を言わなければいけないとも思っていたから、むしろこちらからお願いしたいことだった。
「そうかい。じゃあ、お邪魔するぜい」
大隈はパッと表情を輝かせ、事務所の敷居をまたいだ。社長と飲みに行くと決まったときの大隈の表情を思い出して、顔が綻んだ。おじさんの表情を見て顔を綻ばすとは、数か月前の私は思いもしなかっただろう。
「日本酒ですか?」
「おうよ。グラスを二つ頼むわ」
小さめのグラスを二つ取り、大隈と向かい合うようにしてソファーに座った。大隈は自分のグラスにさっさと日本酒を注ぐと、こちらのグラスにも「まあまあ、一杯」と常套句を嬉しそうに言いながら注いだ。
軽くグラスを合わせ一口飲む。旨い。芳醇な香りが鼻の奥にすっと抜けた。いい日本酒は常温がうまい、と聞いたことがある。これはそういう類の日本酒だった。
「おいしいですね。こんなお酒取り扱ったことあったかな」
「だろ? これは俺の秘蔵の酒でよ。いつか呑もうと思ってずうっと大事にしまってたのよ」
「秘蔵って、そんなものここで飲んじゃっていいんですか?」
この村で秘蔵といったら、それは本当に秘蔵だ。もちろん、車谷に依頼すれば同じ酒を持ってきてはくれるだろう。だからこそ、大切に隠していた物というのは、その人にとってこの上なく大切なものに違いない。
「ん? いいのよ。結局、飲めず終いってことになったらしょうもねえだろ。それならシロちゃんと飲んで楽しんだ方がいいわな」
そういうことか。大隈は落ち込んでいるであろう私を励ますために来てくれたらしい。そのために大事に保存していた酒を出してくれたのだ。それで気を使って落ち着かない様子だったのだろう。本当にいい人だ。
そんな人に気を回せず、昨日、すぐに報告に行かなかったことを恥じた。
自分で思っていたほど引きずっていないこと、それどころか意外と吹っ切れて清々しい気分であることを大隈に伝えるべきだった。そうすれば大隈に余計な心配をかけてしまうこともなかっただろう。
これまでのように、曖昧な笑みを作って「ありがとうございます。おかげで少し元気が出てきました」とでも言えばいい。
そうすれば、一番丸く収まる。大隈は気持ちよく酒が飲めるし、私も大隈が機嫌を損ねるかもなどと考える必要はない。でも、ここで大隈に本心を話さないことはあまりに不誠実に思えた。礼儀、とは少し違う。優しさとはもっと違う。とにかく、今大隈に対して取り繕いたくない強く思った。昨日、わずかとはいえ心の内を出せたのに、今は出せないなんて言い訳も通じないだろう。
「実は、そんなに落ち込んではいなんです。千花のおかげかもしれません。今は意外と清々しい気持ちなんです。それなのに、大事な酒を開けさせてしまって、すいません」
頭を下げる私を、大隈はきょとんとした表情で見つめた。その後、先程までのおろおろとした雰囲気はどこに行ったのか、大口を開けて笑った。
「なんで謝るんだ? いいことじゃねえか。清々しいってんならそれが一番だ。酒も本当に俺が、今のうちにシロちゃんと飲みたいって思ったから持ってきただけだぜ。また難しく考えちゃってよう」
「でも、今日の大隈さん、落ち着かない様子だったから気にしてるのかと思って」
私の言葉に大隈はまた落ち着かない様子に戻り、曖昧な声を何度か発した後に、小さく息を吐いた。
大隈は風呂敷に手をいれ、中から木製のコップを取り出した。先ほど一升瓶と当たって音を出していたのはこれらしい。
「これシロちゃんにと思ってよ」
それは大隈が村人に渡している、彫刻が施されたコップだった。彫刻は精巧で、並の腕で作れるものではないことは素人目でもわかった。しかし、コップは精巧で繊細な作品ではあったが、芸術品というよりは民芸品に近い温かさがあった。掘られているのは楽しそうに過ごすたくさんの人たち。酒を飲んでいる人、散歩している人、農作業をしている人、遊んでいる子供。それぞれがしていることは様々だったが、一様に笑っていた。一人一人がこの村の人たちだとひと目で分かった。
見事というほかない造形に言葉を失っていると、大隈が照れくさそうに言った。
「シロちゃんにと思って作ったんだけどよ、いざ渡すとなると照れくさくてな。シロちゃんあんまりこういうの好きじゃなさそうだったし」
「……本当にすごく嬉しいです。ありがとうございます」
私が心の底からの言葉を伝えると、大隈も嬉しそうに笑った。
「シロちゃんはいつかここを出ていくことになると思うけどよ、それを見て俺たちのこと思い出してくれたら嬉しいよ。そういう思いを込めて彫ったんだ」
「当分先ですよ。お別れの品にしては気が早いです」
わざと茶化すように言った。嬉しくて、そうしないとバランスが取れなかった。大隈は「そうかもな」と目を細めて、年相応の笑顔を浮かべた。
「でもよ、早く渡したかったんだよ」
大隈はそう言いながら、私のグラスに酒を注いだ。私も大隈のグラスに注いだ。
まったりとした時間が流れたのはそこまでで、その後は「日本酒は飲みきらないと香りが悪くなる」と大隈が人を集めだして、大宴会になった。私も調子に乗って呑み過ぎてしまい、起きたときには始業時間を大幅に超えてしまっていた。
時計を見て反射的に青ざめたが、すぐに、まあいいか、と大きくあくびをした。
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