第8話

 こちらの都合はお構いなしに「明日行く」とだけ小杉から連絡が入った。おかげさまで、こちらは大急ぎで準備をしなければいけなくなった。上司の命令には迅速に忠実に従うのが社会人の常識、とのことだった。よくある話だ。若者に対して常識を説く輩ほど常識に欠けている。とはいえ、私は言われたことをするしかない。

 大隈の重機の扱いには目を見張るものがあった。大きな重機は障害物に一度も阻まれることはなく、作業開始からものの十数分で緑の壁はなくなった。

 その後は調子に乗った大隈の意見に従って、バス降り場までの道を踏み均しながら、邪魔な枝を切り、時には木を切って少しだけ道を拡張した。切った木は少し細かくして、重機の荷台に乗せた。見た目以上に積載可能なようで、一度で道は広げられそうだった。移動するときは、重機の荷台に慎重に乗り込み、大隈の運転で道を進んだ。


「どうだいシロちゃん。俺の重機さばきはなかなかなもんだろう。いやあ、最初は必要ないと思ったが愛着が沸いてきちゃったなあ」


 大隈は愛おしそうに重機を撫でた。


「いや、まあ実際すごいですよ。なんていうか、大隈さんは器用ですね」


「俺も最近気づいたのよ。若い頃は大雑把な仕事ばっかりしてたから気付かなかった」


 大隈は口を大きく開けて笑った。私も釣られて少し笑う。荷台の雰囲気に気を使ってくれているのか、大隈の声はいつにも増して大きく明るかった。


「千花、疲れてないか?」


「べっつにい」


 恐る恐る、同じく荷台に、ただし対極に座っている千花に声をかけた。千花のご機嫌は変わらずで、気まずい空気が漂う。それでも、律儀に手伝ってくれているのが、千花らしいというかなんというか。なんとか機嫌を直して貰おうと作業中も移動中も努めて声をかけた。


「足元気をつけてな」


「こんな明るい中で? 私を落ち着きのない子供とでも思ってます?」


 荷台から降りる千花はツンとそっぽを向いた。


「重いけど持てる?」


「持ってるの見えませんか?」


 切った木を積み込む千花はそう言ってむくれた。


「いやー、意外と早く終わったよ、ありがとう」


 作業終わりの私からの言葉に、千花からの返答はなかった。

 流石に傷つき、うなだれる。私が悪いのはわかっているので、うなだれる以外にできることがない。それでも、バス降り場で春さんの作ってくれた弁当を食べるときは一緒に座ってくれたので、少し安心した。完全に嫌われてしまったのではないと信じたい。

 大隈が話し、私が返し、沈黙。私が話し、大隈が返し、沈黙。三人がそれぞれ二個、計六個のおにぎりがなくなるまで、この流れが延々と繰り返された。

 ちょうど無言のタイミングで三人とも食べ終わり、無言で手を合わせる。これからの、気まずい帰り道、もとい、気まずい生活を想像して、どんどんと気が沈んだ。考え込んでいるうちに話すきっかけすらも掴めなくなっていた。

 大隈が「よしっ」という掛け声とともに、手を叩き、立ち上がった。私と千花は軽く目を見開き、大隈を見上げた。


「気まずいから、先に帰るわ。シゲさん、こういう空気は苦手だ」


 大隈はそう言うと、颯爽と重機に飛び乗り、カウボーイのような掛け声とともに発進してしまった。これまで、重機はかなりスピードを落として走っていたらしく、大隈の姿はみるみるうちに見えなくなった。ポカンと大隈が消えた方向を眺める。この時ばかりは千花も唖然としていた。


「……帰る?」


 千花は気まずそうに無言で頷く。立ち上がり、無言で村への帰路を歩き始めた。

 歩くと村までは案外遠い。二人きりで無言で歩くには耐え難い距離だった。大隈に文句を言いたくなる。一方で大隈の気遣いも感じた。小さく深呼吸をして、心を落ち着ける。


「まだ怒ってるのか?」


「別に怒ってない」


「怒ってるじゃん。ごめんな」


「だから、怒ってない! 修くんが何か抱えてるのはわかるし、話して欲しいの。話してくれないと聞いてあげられないから。でも、私がどうして話してくれないの、なんて怒るのもおかしいから。……だから不貞腐れてただけ。ごめんね」


 千花は照れくさそうに笑った。申し訳なさそうで、バツが悪そうで、そして寂しそうな笑顔は、私の蓋を一瞬開けるには十分な代物だった。一度、肩に思いっきり力を込め、一気に力を抜く。そのまま、どうしようもないほど重たいくせに、しつこく開こうとする口を抑え込むことををやめた。


「俺はな、鳴きたくないんだよ」


「悲しいときは泣いてもいいと思うよ」


 がらりと表情を変えて、キメ顔を向ける千花に苦笑する。切り替えが早い。

 小さく息を吸い込んで続けた。


「雉も鳴かずば撃たれまいって言葉知ってる?」


「余計なことを言っちゃダメみたいな意味の言葉だよね? 昔話由来のことわざだっけ?」


「そうそう。その話は、俺なんだよ」


「……どういうこと?」


 ある男が愚かな軽口で身を滅ぼす。お話としては序章の部分だったと思うが、私の頭にこびりついているのはその部分だった。どこに伝わる話だったか、とにかくそう言う昔話がある。結末はうろ覚えだ。

 この話を聞いたのは、事の終わった少し後だったが、初めてこの話を知ったとき、変な笑いが涙と一緒に腹の底から溢れて止まらなくなったことを覚えている。


「当たり前だけど俺には家族がいたんだよ。まあ、今もいるといえばいるんだろうけど、いるうちには入らない」


 話し始め、私の足は止まってしまっていた。千花に謝り、また歩き始めようとしたが、千花は、今日できたばかりの切り株に腰掛けた。千花は軽く微笑み、隣を勧めた。大人しく、腰掛け続きを話す。




 私は母が大好きだった。

 どんな時も明るい母で、母の笑い声が響けば家中が明るくなるようなそんな母だった。母が幸せそうなら私も幸せだったし、父も幸せそうだった。母の幸せを見て、幸せそうにする父の事も私は大好きだった。

 あるとき、私は体調を崩して早退することになった。

 当然家にも連絡はされたが、繋がらなかったらしい。私の症状といえば微熱がある程度で、実のところそこまでしんどいわけではなかった。今ほどピリピリとした世の中ではなかったし、家の鍵も持っていたので、結局私はそのまま帰ることになった。熱があるくせにやけに元気だった私は、いつもとは違う時間に帰路に着いていることに変に興奮し、いつもとは違う道で帰った。いつものように用水路を流れる木の葉を追いかけながら帰るというのも悪くはなかったが、より一層の非日常を味わいたくて、こんな時間に一人で歩いているところを大人に見せつけたくて、商店街のような人通りが多い場所を選んだ。

 母を見つけたのはある喫茶店の一席だ。ガラス越しに母を驚かせてやろうとワクワクしながら近づいた。きっと母は驚いたあとに、私の体調を心配し、手を繋いで一緒に帰ってくれるだろう。私がそんな計画を実行に移さなかったのはガラス窓に近づいた時にやっと母の表情がはっきりと見えたからだった。

 母は笑っていた。いつものように周りを明るく照らすような太陽のような笑顔ではなく、自然とこぼれてしまったような、顔を赤らめた少女のような笑顔だった。その笑顔は周りを照らすことはなく、ただ正面に座る見たこともない男性にだけ向けられていた。きっとその声は、いつも聞いているこちらも一緒に幸せになってしまうような声とは違う笑い声なのだろうとわかった。でもきっと誰よりも幸せそうな声で笑っている。

 それに気づいて歩みを止めた。私は母の幸せそうな姿が大好きだった。邪魔をしたくなかった。だからそっと窓から離れて、足取りを弾ませながら家に戻った。

 お母さんはなんであんなに幸せそうだったのだろう。夕食の時にでも聞いてみよう。自分も母にあんな顔をさせたい。そうだ、お父さんにも教えてあげよう。お父さんも母さんの笑顔が大好きなのだから、きっと一緒に喜んでくれる。

 家の鍵を開けて布団に入り、帰ってきた母と、さらにそのあとに帰ってきた父に心配され、「大丈夫だよ」などと言いながら夕食の席につくまで、私はずっとウキウキしていた。本当に話してしまうその瞬間まで、私はずっと嬉しかった。

 その先のことはあまり覚えていないし、わざわざ思い出したくもない。父は母が幸せならなんでもいいわけではなかったし、母のあの幸せそうな表情は私たちがいないからこそ浮かんだものだった。

 大好きだったはずの母の声はもう思い出せない。思い出すのは最後の最後にお別れを言う、ノイズの入ったように歪んだ母の声だけだ。大好きだったはずの母の顔はもう思い出せない。思い出すのは黒く光のない瞳と、その奥に映った口元を歪めた幼い私の顔だけだ。




 ゆっくりと、ポツポツと、溢れるように話した。その間、千花は急かすでもなく、頷きながら聞いてくれた。この話を誰かにしたのは初めてで、一生言うことはないだろうと思っていた。だって、話さない理由を話すなんて滑稽だろう。でも、話すことができた。話終わってみると、思っていたほど後悔はしておらず、思っていたほど清々しくもなかった。言ってしまったという気持ちに、後悔と清々しさがほんの少しずつ乗っかっているような感じだった。どういう顔をするべきかわからなかったので、無理に明るい表情を作った。


「まあ、以上だ」


 千花は考え込むようにしていたが、伏し目がちに、迷うような表情を浮かべた。


「そんなことがあったら何も言いたくなくなっちゃうよね。わかるよ。でも……」


 千花は、言葉の続きを口にしなかった。私に気を使ってくれたのだろう。でも、続く言葉はわかったので続きを受け取った。


「言ったほうがいいことだってある、だろ? わかってるよ。これまでもそんな場面はいくらでもあった。むしろそんな場面の方が多いくらいだ。でも、もう俺には何を言うべきで、何を言わないべきかわかんないんだよ」


 自分で言いながら、なんと愚かなのかと情けなくなる。

 ずっとともに生きてきた歪んだ処世術は、大人になった今では染み付いた癖のように緩慢に私を縛っていた。できないというよりは、したくないに近い。でも、したくないだけだろと言われれば、それは違うと声を荒げるだろう。そういう中途半端な楔に成り下がっていた。

 笑みは自然と自嘲が混じったものになる。千花は聞き疲れたのか、大きく伸びをした。


「無理やり聞いといてなんだけど、私にもわかんないや。気持ちはすごいわかるし」


「そっか」


 私も千花に釣られるようにして背を伸ばした。凝り固まっていた筋が伸びて、変な声が漏れる。


「でも、修くんがもう言うぞってなったときは思いっきり叫んでほしいな。たしかあのお話って、お父さんは死んじゃったし、雉も鳴いたせいで撃たれちゃったけど、女の子は話して幸せになったんでしょ? どうなるかなんてわからないんだよ。言いたくても言えないこともあるんだしさ、今だって思ったら鳴いちゃいなよ」


 私はそのお話の結末を覚えていなかった。だが、千花が言うには女の子は幸せになるらしい。そんなこともあるのか、と思った。


「そっか」


 私は呟いた。

 千花の声は深く響くようで、ある種の実感のようなものが込められているような感じがした。だから私には「そっか」としか言えなかった。それ以外の言葉を吐くだけの何かは私の中にはなかった。

 チラリと千花の表情を伺ったが、そこに込められた感情を読み取ることはできない。


「でも、とりあえず明日の来訪では修くんは鳴かないんだね?」


 千花が言った。

 少し考える。考えたが、脱力するようにしてうなだれた。本当は頷いたのだが、うなだれたように見えただろう。

 刈谷が許せないのは本当だ。非難し、責め立ててやりたいのも本当。でも、いまさら私が刈谷に歯向かうのは違うような気がしたし、わざわざトラウマを乗り越えるような相手でもないとも思ってしまった。いざという場面で、トラウマに固まってしまうのも嫌だったし、固まらないことも嫌だった。

 案外、激情に任せれば、古く錆び付いたトラウマなど簡単に引きちぎって、大きな声で鳴けるのかもしれない。だがそれすらも、私があの日を、そしてそれから過ごしてきた日々を簡単に捨ててしまうようで嫌なのだった。

 嫌な理由はいくらでも出てきた。もはや古いトラウマが自分の中でどうなっているのかすらもわからない。古傷が痛いのか痒いのかわからなくなった感覚に似ていると思った。


「考えすぎだと思うけどねえ」


 千花は私の気持ちを察したのか、いたずらっぽい、どこか見透かしたような顔で私を見る。

 私は曖昧に首をかしげた。


「まっ、修くんは話してくれたわけだし、私の機嫌も直りました。めんどくさい女モードは終わりにして村に帰ろっか」


 千花は勢いよく立ち上がり、目を細めて、ニカッと笑う。私も雑念を振り払うようにして、勢いよく立ち上がった。モヤモヤとした気持ちは、体に少し遅れるようにしてついてきた。


「ほらほら、悩むのは後! 修くんにはこれから悩む時間なんていくらでもあるよ! まずは日が暮れる前に村に着くのが先! 明日は千花ちゃんも協力してあげよう」


「助かるよ。ありがとう」


「本当は嫌だけどねえ。限界まで我慢してあげよう。限界が来ちゃったら知らないけど」


「勘弁してくれよ」


 限界が来た千花が何をするのか考えたくなかった。予想もできない。怒りに任せる姿が想像できないだけに、不安が大きく膨らむ。


「我慢するよ? 大丈夫、我慢強い方だし。そんな私が我慢できないってことは向こうが悪いんだよ」


 千花の笑顔が恐ろしく感じた。諫めるように手のひらを向ける。


「まあ、待てよ。ほら、明日来る奴は絶対にムカつく奴だけど、急に千花が怒ったら、俺もびっくりしちゃうから。大隈さんもびっくりするし、他にも誰かいたらびっくりするかも。だから、限界が来てもこらえてくれ」


「そっかー。修くんたちがびっくりしちゃうのはいけないなあ」


 千花は腕を組み唸っていたが、顔をあげて何かを閃いたように人差し指を立てた。


「よしっ。じゃあ、限界が来たら合図を出すよ」


「合図って?」


「えーと、そうだなあ。……ここはシンプルに『もうムリ』にしよう。それから五秒後に爆発するから、修くんは心構えをして」


「え、嫌なんだけど」


 急に爆発されるよりも、そっちの方が恐ろしい。その五秒間を経験したくない。

 千花は私の言葉の続きを聞く前に「駄目です。決定です」と元気よく言うと村の方に走り出してしまった。

 私は右手を無様に伸ばした状態で取り残される。これは、私も走らないといけないのだろうか。まだ村までは結構な距離がある。絶対に走りたくない。それなのに、数秒後には小さな溜息とともに走り出していた。

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