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約束の午後二時。待ち合わせをした喫茶店に木内さんはいた。あとから三人来ます、と店員に伝えているのだろう。奥の、八人くらい座れそうなコの字型のソファ席にいる。木内さんは、私が働いていた頃と全然変わらないように見えた。黒髪を後ろできつく結って、柔らかい表情の中に強い信念を感じさせる女性。木内さんの隣に、知らない女性がいる。五十代くらいだろうか。もじゃもじゃしたパーマで、丸い金縁の眼鏡をしている。柄物の派手なトップスは、「大阪のおばちゃん」といったイメージだ。あの人がシェルターの関係者だろうか。
「お久しぶりです」
私は席に近付き声をかけた。
「藤田さん、お久しぶりです。今回はご連絡ありがとうございます」
木内さんは落ち着いたトーンで話す。久しぶりに会えたことを本当に喜んでくれているように見えた。
「こちらこそ、急なお願いでしたのに、すぐに対応してくださって、ありがとうございます」
「こういうことのほとんどは、急を要することですから」と少し寂しそうに笑って「残念なことですけど」と言った。私たちは、コの字型の席につく。
「お願いしたいのは、こちら、岡野さんです」
私は真帆を紹介する。
「岡野真帆といいます。このたびは、よろしくお願いします」
真帆は、例の男に後をつけられていたら困る、と思いつけてきたマスクとサングラスを外す。殴られたアザは濃い紫色になって、切れていた唇は腫れてきている。それを見た木内さんともう一人の女性は、悲しそうな顔をした。
「ソーシャルワーカーの木内と申します」
「民間シェルターの運営をしております、
安田さんの声は、想像より高く、若々しかった。
安田さんがいくつか質問をし、真帆が答え、私たちが望む通り、真帆はすぐにシェルターに入ったほうが良いだろう、という結論になった。警察への被害届は出さず、しばらく静かにシェルターで暮らす。真帆もそれを望んでいたため、このまま安田さんと一緒にシェルターへ向かうという。
「藤田さんと、田丸さん、お二人はシェルターまでは一緒に行けませんので、ここでお別れになります」
安田さんが言った。
「はい。わかっています」
女性をDVから保護するシェルターは、場所が知られては大変なことになる。せっかく隠れているのに、相手に追いかけられてしまっては元も子もない。例え友人でも家族でも、居場所を教えるわけにはいかない。
「岡野さんと連絡をとりたい場合は、こちらにお手紙をください。電話でのやりとりはできませんが、お手紙はできますので」
そういって安田さんが取り出したパンフレットには、民間シェルター東京本部の連絡先が載っていた。
「この、本部の連絡先以外は、何もお伝えできません。手紙も差し入れも、全て職員が先に開封することをご了承ください」
「はい」
徹底して真帆を守ってくれるなら、私は不便さも寂しさも、仕方ないと思った。
「冴綾ちゃん、本当にありがとう。いつか安心して自由に過ごせるようになったら、必ず会いに行くからね。この恩は絶対に忘れない」
真帆は、うっすら目に涙を浮かべて言った。腫れた目は潤んで、余計に痛々しい。
「うん。いつか必ず、会おうね。まずは、ゆっくり休んで」
「ありがとう。田丸さんも、ありがとうございました。仕事急に辞めることになってすみません」
「大丈夫ですよ」
「板木さんや椎名さんにも、会いたかったです」
「しばらく休んでから、ゆっくり会えばいいんですよ。二人とも、そんなことで文句を言う人ではありません」
真帆はひっそりと微笑んだ。
「はい。ありがとうございます」
「では、ちょっとあっちで、いいかしら」
安田さんに言われて、安田さんと真帆はトイレに立った。何か二人だけの話があるのかもしれない。その間に、木内さんがコーヒーのお代わりを店員に注文する。私は、ほっとしたからかお腹が空いて来た。メニューを見ると、スイーツが充実している。
「木内さん、私パンケーキ頼んでいいですか?」
「わ、いいですね、私も食べようかな」
「田丸さんも食べますか?」
「美味しそうですね。僕も頼もうかな」
そう言いながら三人でメニューを眺める。トイレのほうから人が出てくるから、真帆かな? と思って見ると、キャップをかぶったスポーティな女性だった。安田さんとの話、長いのかな、と少し気になる。また人が出てくるから見ると、妊婦さんだった。髪の長い若い妊婦だ。大きなお腹が歩きにくそうで、そろそろ臨月くらいかな、なんて勝手に思う。元気な赤ちゃん産んでください、と背中に密かに願う。
「私、これにします」
木内さんは大量にホイップクリームの乗ったパンケーキを注文し、私は果物の乗っているもの、田丸さんはシンプルなジャムのものを注文した。真帆も安田さんも戻ってこず、三人でパンケーキを食べる。
「真帆、遅いですね。安田さんとの打ち合わせって、そんなに時間かかるんでしょうか」
私はパンケーキにナイフを入れながら木内さんに聞く。
「そうですね。人に寄りますが……」
そう言いながら、木内さんはホイップクリームをパンケーキに纏わらせながらほおばる。
「んー美味しい。藤田さんは、お元気にしていました? お辞めになってから、全然会えませんでしたから」
「はい。なんとか。今は、工場の勤務です」
「田丸さんが上司さんだって言っていましたね」
「はい」
「ナースに戻るつもりはないんですか?」
私は苦笑した。
「それ、井上先生にも言われました。看護部長が、ナースが足りないっていつも愚痴っているそうです」
「あ、井上先生に会ったんですか?」
「はい。年明けくらいに、ちょっとお世話になって」
「そうでしたか。先生、何も言ってくれないんだから」
そう言いながら、木内さんはペロリとパンケーキを平らげた。そしてスマートフォンを確認すると、「お、大丈夫そうだ」と言った。
「では、私はこれで失礼しますので、お二人はゆっくり食べていてください」
そう言って立ち上がった。伝票で自分のパンケーキの値段を確認し、財布を開けている。
「え? ちょっと待ってください。木内さん、先に帰っちゃうんですか?」
私の口調に、木内さんはちょっと得意げに笑う。
「やっぱり気付きませんでしたよね」
「え、何がです?」
「安田さんと岡野さんは、もうお店を出ています」
「ええ!」
「今、二人は合流して、シェルターの運営する車で移動中だそうです。だから、私ももう店を出ます」
「どういうことですか? お店に裏口があるんですか?」
「いいえ。万が一、DVの相手が後をつけていてもバレないよう、安田さんはすごい種類の変装をするんです。そして保護対象者にも変装をさせます」
私は、トイレから出てきたスポーティな女性と妊婦さんを思い出す。
「まさか」
「ふふふ。これ以上は、口にしないでおきますね」
プロだ、と思った。真帆一人守るために、こんな用意周到なことをしてくれる。思い返しても、どっちが真帆でどっちが安田さんだったのか、わからない。私は、木内さんに相談して良かったと思った。
「木内さん、本当にありがとうございました」
「いいえ、私は仲介しただけですから。私も、安田さんに感謝です。いつでもお手紙書いてあげてくださいね。シェルターに入る女性は、望んで入ったとしても、突然今までの世界と完全に遮断されるので、孤独を感じる方も多いのです」
「わかりました。手紙まめに書きます」
「では、私が店を出てから、十五分以上は待ってから出てくださいますか? 念には念を入れて」
そう言って木内さんはにこっと笑った。
「わかりました」
言われなくても、私のパンケーキはまだ終わっていない。
「では、藤田さんもお元気で。田丸さん、付き添いありがとうございました。失礼します」
木内さんは、颯爽と去って行った。もともと仕事のできるタイプの人だと尊敬はしていたが、手際の良さと丁寧さ、そして信頼関係。すごい人だな、と改めて思った。
「変装、全然気付きませんでしたね」
パンケーキを食べながら田丸さんに言った。
「はい。まったく」
好きな人でも気付かないものですか? そう聞きそうになって、デリカシーがないか、と自分で思った。好きなのに、しばらく会えなくなるのだ。そんな寂しいときに、配慮のないことは言うものじゃない。
「この東京本部の住所、田丸さんも控えておきますよね?」
代わりにそう言った。いつでも手紙が書けるほうがいいに決まっている。田丸さんは少し首をかしげて「いや、お手紙は藤田さんが書いてさしあげればいいと思いますよ」と言った。僕も手紙が書きたいので住所を教えてください、なんて、恥ずかしくて言えないか。
「手紙を届けたいときは、いつでも言って下さいね! 一緒に送りますから」
そう言う私を、田丸さんは少し不思議そうに眺めてから、「では、そのときはよろしくお願いします」と言って微笑んだ。
二人でゆっくりパンケーキを食べて、コーヒーをお代わりして、結局三十分以上経ってから店を出た。まだ日の入りには早く、初夏の訪れを感じさせる明るい夕方。少し傾き始めた西日が眩しくて、街路樹は輝いていて、空気は心地よく温かくて、私は世界がこんなに美しいと、にわかには信じられなかった。
「世界が、きれいです」
独り言のように、思わず呟く。
「そうですね。きっと、昨日から張り詰めていた緊張の糸が緩んだのでしょう。気持ちがほっとすると、景色がきれいに見えるものです。本当に、お疲れさまでした」
そういう田丸さんの表情はいつも通りの菩薩なのだけれど、なぜかいつもより少しだけ、爽やかに見えた。爽やかな菩薩。おかしな表現だな、と思いながらも、確かに今はリラックスしている、と思った。パンケーキでお腹が満たされているからかもしれない。初夏の陽気が気持ち良いからかもしれない。真帆が安心して過ごせる時間が保証されて、ほっとしたのかもしれない。それらの全部があわさって、夕暮れ前の空がいつもより美しい。
家に帰って、ヤサとおっちゃんに、真帆は安全なところへ行けたことを報告する。ヤサは安心してくれて、おっちゃんは「あの男がまた来たら、すぐにおっちゃんのところへ逃げてこいよ」と心強い言葉をくれた。そういえば、夜寝るときはおっちゃんは玄関のドアを閉めているのだな、と変なところを思い出した。
コンビニへ行くと、浜田さんがレジにいた。客がはけるのを待って近寄ると、浜田さんは私に気付いた。
「昨日はすみませんでした」
「田丸、すぐに来ましたか?」
「はい。おかげさまですぐに来ていただいて、安心して過ごせました」
「それは良かった。彼女は、大丈夫でしたか?」
「はい。真帆は、えっと私の友人なんですけど、ちゃんと安全なところへ隠れることができました。ありがとうございました」
「ああ、それなら良かった。別に俺は何もしていないし、彼女が無事でいられるなら良かったですよ。話には聞きますけどね、ああいう男。本当にいるんですね」
「ええ、恐ろしい話です。それで、浜田さんにちょっと聞きたいことがあって」
「なんですか?」
「田丸さんを呼んでくれたのって、やっぱり、田丸さんが真帆のこと心配するって思ったからですよね?」
「え? 真帆って、あの暴力されていた子ですよね?」
「はい」
「田丸は、彼女とも知り合いなんですか?」
「え?」
「藤田さんのことは、同じ工場の子だって知っていましたけど、あの真帆って子も知り合いなんですね」
「はい。同じ工場の同僚です」
「ああ、そうでしたか」
「田丸さんから、相談を受けていたとか、そういうわけじゃないんですね」
「相談? 何の?」
「恋愛とか」
浜田さんは何を聞かれたのかわからない、といった顔をした。
「恋愛相談? えっと、田丸と真帆って子の?」
「違うんですか?」
「違いますね。田丸に、好きな人がいるのかどうか知りませんが、少なくとも、あの真帆って子じゃないと思いますよ」
浜田さんは口の端で笑いながら答える。
「そうなんですか。てっきり田丸さんは真帆のことを好きだから、あんなに一生懸命になってくれたんだと思っていました」
浜田さんは、口の端で笑いを堪えているように見える。
「そういうわけじゃないと思いますけど。何にせよ、安全なところに行けたなら良かったです」
そこへ客が入ってきたので、私は会計を済ませ、コンビニを出た。日の落ち始めた空には、昼間木内さんが食べていたホイップクリームみたいな白い雲が、夕焼けに染まっていた。明日は晴れるようだ。真帆も今、どこかからこの空を見ているだろうか。
翌日になって仕事へ行くと、更衣室で椎名さんが駆け寄ってきた。
「ちょっと、岡野さん辞めたって、知ってる!?」
椎名さんはすでに作業着姿だったので、着替えてから私を待っていたようだ。
「あ、そうなんですか」
「そうなのよ、昨日板木さんに聞いたのよ。なんでも、岡野さんのご実家で何かあったらしくてね、急に辞めなきゃいけなくなったんですって。藤田さん仲良かったでしょ、何か知らない?」
板木さんは、真帆は実家に帰ったと説明したようだ。
「いや、聞いていません」
「そうなの? 誰にも何の挨拶もなしに、辞めちゃうような非常識な子じゃないから、何事だったのかしらって心配してたのよ。でも藤田さんも知らないんじゃ、よっぽど急を要することなのね、きっと。大事じゃないといいけど」
椎名さんは思案顔で腕を組んでいる。
「実家で何かあったなら、まだ落ち着いていないかもしれませんね。少ししたら連絡してみますよ。何かわかったら、椎名さんにもお伝えします」
椎名さんは少し安心した顔を見せ「そうしてくれる?」と言った。噂好きなご婦人だが、根は良い人なのだ。
「ところで、藤田さんも昨日体調不良って聞いたけど大丈夫なの?」
「あ、はい。生理が重くて……」
私は体調不良ということになっていたようだ。
「若い頃は辛いわよね。今日も無理しないようにね」
「はい。ありがとうございます」
「じゃ、今日はおばちゃんが若い子の分も働かないとね~」
明るく言いながら作業場へ向かう椎名さんに、本当のことを言えない罪悪感を持ったが、真帆と手紙のやりとりができたら「元気そうですよ」と報告しようと思った。工場内のカレンダーを見ると、昨日の欄に「田丸、出張」と板木さんの字で書いてあり、いつか田丸さんが言っていた「板木さんは従業員のことをとても考えてくれている」という発言は、本当なのだな、と思った。
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