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何分経っただろうか。井上先生とヤサとヤサの母親が一緒に歩いて来たのを見て、私と田丸さんは立ち上がった。
「藤田、お疲れ。傷はナートした。結構深かったから、ナートしなかったら出血止まらなかったかもな。で、CTとレントゲン撮ったけど、そっちは大丈夫そうだ」
「あ~良かった……」
私は安堵で大きなため息が出た。
「頭の傷は、まあしばらくは痛いだろうが、大丈夫だろう。抜糸は一週間後だな。打撲もひどくなさそうだったし、骨折もなし。硬膜下血腫もなし。起こしていてもおかしくない状況ではあったから、検査できて良かった。あと、湿布処方しようかと思ったけど、保険ないから、そこらへんのドラッグストアで買ったほうが安いだろ。帰りに寄って買ってくれ。藤田、居残りしてくれた技師たちに感謝しろよ」
そう言って井上先生は白衣のポケットに手を突っ込んだ。
「本当にありがとうございました」
私は頭を下げる。
「なあ、ナース足らねえって看護部長がうるせえんだけど、戻る気ないのか?」
不意を突かれた質問だった。戻る気……
「なさそうですね……今のところ」
苦笑するしかなかった。井上先生も、それ以上は強く言ってこなかった。
「そうか。まあ、元気にしてるんならいいんだけど。会計して帰れよ」
そして、ヤサとヤサの母親に向き直って「お大事になさってください」と言うと、井上先生は白衣をだらしなくヒラヒラさせながら、去って行った。ヤサが、少し血色の戻った顔で私に向き直った。
「さーや、ほんとうにありがとう。せんせい、ウチドコロわるかったらしんでたっていった。きず、ぬわなかったら、バイキンはいって、ぐちゃぐちゃになっていたかもしれないって。さーや、おかあさんの、いのちのおんじん」
「そんな、大袈裟だよ。でも、本当に大したことなくて良かった」
母親がヤサに話しかける。
「おかあさんも、ほんとうにありがとうございましたって、いってます。さーやも、あと、あのおとこのひとも」
そう言って、ヤサは少し離れて私たちを眺めていた田丸さんを見た。
「さーやの、かれし?」
ヤサが言う。
「違う違う。私の職場の上司の人なの。田丸さん」
「田丸です。大事にならなくて、良かったですね」
「はい。ありがとございました」
ヤサと母親が頭を下げる。
「かれしじゃない? なんだ、かれしかとおもった」
母親の命に別状がなくて安心したのか、ヤサは少し冗談ぽく笑った。
「残念でした。彼氏じゃありません」
私も少し笑って返してから、「会計お願いします」と受付に声をかける。
「検査と初診料で、十二万円になります」
「じゅうにまんえん!」
大きな声を出したのはヤサだった。保険が使えない分、全額負担だ。この値段は仕方ない。それでも、ナート、CT、レントゲンをやってこの値段であれば、良心的とも言える。ヤサはさきほどまでの笑顔は消え、両手で顔をごしごしとこすった。私は、受診を勧めてしまった手前複雑な気持ちがした。
「ヤサ、分割払いできるから」
「ぶんかつ、おねがいします」
ヤサの焦りように、日本語のわからない母親は不安そうにしている。そこへ田丸さんがすっと前に出て「カードでお願いします」と、自分のクレジットカードを受付に出した。
「田丸さん!」
「あ、いや、病院に分割払いに来るの大変ですから、僕に分割払いしてください」
そう言って田丸さんは穏やかに微笑んだ。
「いつでも、いくらずつでも大丈夫です。まずは、お母様が元気になることが一番です。そのために、ヤサさんは頑張って働いて、お母様を支えてさしあげてくださいね」
ヤサは田丸さんに頭を下げた。
「かならず、ぶんかつばらい、します。ありがとございます。さーやとたまるさん、いのちのおんじん」
私も、ヤサが分割でも厳しいようなら立て替える覚悟はしていたが、十万を越えたらちょっと痛いな、と思っていた。まさか田丸さんが立て替えてくれるとは思っていなかった。
「では、クレジットカードで承ります」
受付の人が会計を済ませ、田丸さんは涼しい顔でカードを受け取った。嫌味のない、スマートな所作だった。
一番近いドラッグストアに寄って、湿布を買う。
「お母さん、一番痛いのどこ?」
ヤサに聞いてもらうと、腰だという。私は車の後部座席でヤサの母親の腰に湿布を貼る。ヤサの母親は「ふ~」とため息を吐いて、私に両手を合わせて「オークンチュラン」と言った。
「ありがとうございます、の、いみ」
ヤサが教えてくれた。私は湿布を貼った場所にそっと手をあて「どういたしまして」と微笑んだ。そのとき、急に泣きたくなるような感情に襲われた。私の心臓のもっと奥深いところに隠していた何かを細い針で突いたような、ちくちくする痛みを伴って、泣きたくなった。何と呼べばいいか自分でもよくわからないその感情を堪えて、何事もなかったような顔をして、私は助手席へ戻った。
帰りの運転は、丁寧でスムーズであることは変わらなかったが、とてものんびりしていた。行きの田丸さんの運転は、よほど急いでくれていたのだとわかった。
「さーや、たまるさん、ありがとございます。ふほーたいざい、わるいこと、わかっています。でも、おかあさん、カンボジアにいたら、おかねないです」
後部座席からヤサの声。
「ヤサは、ほかにご家族いないの?」
「いない。おとうさん、しんだ。きょうだい、いない。おかあさんとふたり。さいしょ、カンボジアにしおくりしていた。でも、ヤサのむらのひと、みんなまずしい。おかあさんだけ、おかねもちになれない。みんなにわける。おかあさん、まずしいまま」
「村の人たちも、ヤサが技能実習で日本に来ていること、知っていたんだね」
「そう。みんないいひと。でも、おかねひつよう。にほんは、みんなおかねある。おかあさん、かんこうビザでにげてきた。そのまま、いっしょにいる」
私は、何を言えばいいかわからなかった。不法滞在は、確かに悪いことなのだろう。でも、今ここで心細そうにしている親子を引き裂いて、母親だけ貧しい村へ返すことは私にはできないと思った。でも、村の人々は貧しいままであることに変わりはない。それに、不法滞在は入管法違反であり、罪である。ヤサと母親を許すことは偽善なのか。何が正しいことなのか、わからなくなってしまう。
「藤田さん、今は難しいことは考えずに、ヤサさんのお母様の怪我が早く良くなることだけを考えませんか?」
運転席から田丸さんが言った。
「正義は、見る角度によって大きく変わります。一つだけの側面なんて、ないと思いますよ」
「田丸さん……」
「なんて、偉そうでしたね。すみません」
「いえ、そんなことないです。そうですよね。今は、お母さんの傷が良くなることを祈りましょう」
「はい。それがいいでしょう」
田丸さんの運転は優しかった。私は、静かに寄り添う親子とともに、丁寧な運転に揺られながら、すっかり暮れ切った夜を眺めていた。どこの国にも平等に訪れるであろう夜は、同じ色なのだろうか。今日の夜は、ことさらに暗い気がした。
翌朝、コンビニに浜田さんはいなかった。もしいれば、昨日の車のお礼を言おうと思ったのだ。でも、外にもいなくて、レジにもいなくて、いつまでもコンビニにいたら仕事に遅刻してしまうから、私はすぐにお礼を伝えられないことに罪悪感を持ちながら職場へ向かった。
朝の挨拶も、仕事中も、田丸さんはいつもと同じだった。田丸さんにもお礼を言いたかったのだが、言い出すタイミングがなかった。お昼の休憩中はまわりに人が多くて、言い出せる雰囲気ではなかった。結局、何も言い出せないまま仕事は終わった。
「じゃ、今日も誰かと一緒に帰るように」
板木さんが言って、仕事は終業した。真帆は彼氏の迎えが来てすぐに帰って行った。板木さんと椎名さんも一緒に帰る約束ができていた。田丸さんは、また当たり前のように更衣室を出た私のところへ来て「では、帰りましょうか」と言った。
雪はおおかた溶け切って、日陰に残るのみであった。それでも十分に寒い夕暮れ、田丸さんと並んで歩く。
「昨日はありがとうございました」
突然のこととはいえ、田丸さんにあれほど迷惑をかけてしまい、申し訳ない気持ちがしていた。
「いえいえ、大丈夫ですよ。お母様の傷は、どうでしょうね」
「朝、ヤサに会いました。痛みは引いているようです」
「それは良かったです」
田丸さんは、本当に安心したように笑った。
「それで、あのコンビニの店長さんにもお礼を言おうと思って朝行ったんですけど、いらっしゃらなくて」
「ああ、浜田のことですか。奴なら、今日はケンちゃんの病院って言っていたから、朝は仕事に出てなかったはずですよ」
「ケンちゃん?」
「ええ、浜田にはね、ケンちゃんっていうかわいい息子がいるんですよ」
「息子!」
思いのほか、大きな声が出てしまった。
「どうしたんですか。大きな声を出して」
「いや、息子さんがいらっしゃるとは思っていなかったので」
「そうですか。娘もいますよ」
子供がいるのか。ということは、結婚しているのか。言われてみれば、別におかしいことじゃない。田丸さんと年が近いということは、三十代前半。結婚していても、不思議ではない。どうして独身だと思い込んでいたのだろう。
「藤田さん、危ないですよ。またぼーっとしているんですか?」
田丸さんにリュックを引っ張られて、私は信号無視を回避した。自分で思っていた以上に動揺している。私は、田丸さんの鈍感さに感謝した。
二人でコンビニの前まで歩いてくると、浜田さんが店の前を掃除していた。
「お疲れさん」
田丸さんが声をかけると、浜田さんが振り向いて「よお」と言った。掃除していた箒を肩にかつぎ、ヤンチャな若者みたいな雰囲気になる。
「昨日は助かったよ」
田丸さんが敬語を使わない場面は初めて見た。
「いや、別に大丈夫だ」
「ケンちゃんはどうだ?」
「変わりなしだ。元気にしてるよ」
「それは良かった」
二人は、少ない言葉でお互いの心中を察することができるほど、親しいのかもしれない。そこには、私の理解を越えた親密さがあった。
「こちらが、昨日車を借りるときに一緒にいた方で、藤田さん。工場の従業員の方」
田丸さんが私を紹介した。
「藤田です。あの、車、ありがとうございました」
「ああ、あなた、よく店に来てくれますよね」
ばあっと体が熱くなった。顔、覚えられていたんだ。恥ずかしい。
「あ、はい。家が近いもので」
「いつもありがとうございます。車のことは、気にしないでください」
「はい」
浜田さんは、私には相変わらずそっけない店員のままであった。そっけない店員は、田丸さんに向き直る。
「で? わざわざお礼言いに来たわけ?」
「いや、最近ひったくりが増えているんだとか。それで、従業員を家まで送っているんだ」
「ほお。そりゃ、ご苦労さんだね」
「これも、仕事のうちさ」
浜田さんは肩をすくめて、箒で掃除を再開した。薄暗い寒空の下、コンビニの灯りだけが煌々と地面を照らしていた。冷たい地面に反射する光は、温かみのない眩しいだけの蛍光色で、私は言いようのない虚しさを感じた。
浜田さんは既婚者だった。お風呂に浸かりながら考える。だからなんだってわけじゃない。でも、乾ききった私の心に数滴の潤いを与えてくれる人であったことは確かだ。それ以上なんて、望んでいなかった。でも、既婚者だとは思っていなかった。お子さんもいて、どうやら病院に行っているらしいから何か病気があるのだろうか……。きっと子煩悩な父親なのだろう。奥さんはどんな人なのだろう。
しんどいことから逃げてきた先に、安住の地があると思ったら大間違いだ。私は、逃げた先でも傷付くのか。入浴剤で緑色になった湯をばしゃりばしゃりと顔にかけながら思う。別に、浜田さんのこと好きだったわけじゃない。そう言い聞かせ、でも今日だけは少し落ち込もう、と両手で顔を覆った。お風呂場は湯気で白く濁り、温かく私を包み込む。大きな丸いゼリーの中に閉じ込められているようだった。このままどこへも出て行きたくないと思った。
ひったくり犯は、私が落ち込んでいるのと同じ頃、捕まったらしい。
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