バレリーナ・花
popurinn
第1話 雑巾を持って
バレリーナのバッグの中身。
バレエシューズとレオタード。トウシューズにタイツ。
タオルと髪を留めるゴムの束。
ふくらんでいるバッグには、夢と希望が詰め込まれている。
でも、
花が肩に下げたバッグには、そんなものは入っていない。
入っているのは、何枚もの雑巾と、床の滑り止めに使う松脂の入ったビニール袋。団員たちの汗を拭き取るためのタオルが数枚。衣装が破れたときのための、裁縫道具もある。誰かのトウシューズのつま先が潰れたときのための、替えのトウシューズが三足。
花はバレエ団の白いビルにあるスタジオで、バッグを持ち上げた。
ずっしりと、重い。いつもより雑巾やタオルの枚数が多いのだ。
今日は東京の青山で行われる、大きなコンクールの開催日だ。このコンクールは、
日本でいちばん有名なバレエコンクールだ。日本版ローザンヌといえる。ここで優勝したバレリーナは、一年間、日本にある著名なバレエ団のプリマとして招かれる。
名前は全国区で知られるようになり、出身バレエ団には、入団者が殺到する。
バレリーナにとってもバレエ団にとっても、重要なコンクールなのだ。
「何、グズグズしてるの? みんなより早く着いて準備しなきゃ、だめでしょ!」
後ろから甲高い声が響いた。振り返ると、スタジオの入口で、義母の美佐子さんが仁王立ちしている。
「ほんとにのろまなんだから。なんのためにこのバレエ団にいると思ってるの? タダでご飯が食べられると思ったら大間違いよ」
こちらをにらみつけた顔は、まだ起きたばかりに見えた。中高のはっきりした顔立ちだが、化粧もしていないせいか、どこか薄ら寒そうに見える。だが、三十年前は、中部地区でいちばんのバレリーナといわれただけあって、凛と立つ姿は美しい。
花はあわてて動き出した。壁の時計は、午前七時。コンクール開催は、十一時だ。まだじゅうぶんに時間はあるはずだが、美佐子さんは三時間前に花が会場に到着し、準備をさせる。
「23サイズのトウシューズは持ったでしょうね。玲奈と真央にとって、今日、失敗が許されないのよ!」
美佐子さんは眉間に皺を寄せ、苛立った声を上げた。今日のコンクールの出来が心配でたまらないのだろう。
玲奈と真央は、美佐子さんの連れ子で、花と同じ年、17歳の双子だ。今日のコンクールの優勝候補とささやかれている。二人共、三歳から、美佐子さんの厳しい稽古を受け、お互いをライバルとして技を競ってきた。愛知県の小さなバレエ教室を開いていた美佐子さんが、花の父と再婚し、この多摩地区にあるスワンバレエ団に入団してからは、めきめきと上達をとげ、いまではバレエ団の顔となっている。
「さ、行きなさい!」
美佐子が叫んだ。
追い出されるようにスタジオを出た花は、表に出た。
さっと冷たい風が頬を撫でる。
ふと、花はスワンバレエ団のビルを見上げた。ところどころ白いペンキが禿げかかった八階建てのビルは、どこか頼りなげに見える。花の両親がここにスワンバレエ団を開いた頃、この建物はピカピカして眩しいほどだった。花のほんとうの母親である麻里子がプリマとして踊っていた頃だ。
ところが六年前、花が十一歳になった年、麻里子は病魔に倒れた。
父が再婚相手の美佐子を連れてきたのは、その翌年。父とすれば、バレエ団の存続のために、美佐子の力が必要だったのだろう。おかげで、スワンバレエ団は、プリマを失っても続いていくことができた。だが、その父が交通事故であっけなくいなくなってしまうと、誰が予測しただろう。
そこからだった。花の生活は変わってしまった。
バレエ団の跡取り娘から、雑用係りへ。
花への態度を豹変させた美佐子に、花は歯向かうことはできなかった。歯向かえば、家を追い出されるのはわかっていたから。
駅までの道は、ゆるい下り坂になっている。
花は肩の荷物を担ぎ直すと、歩き出した。ふうふうと両手を息であたためながら、それでも、バレリーナらしく背筋を伸ばして。
12月の風は、花を追い立てるように吹いてきた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます