第六話

 ゲーム内のバグは、だいたいの場合プレイヤーに害をなす。

 主だったもので言うならば、進行不能状態に陥ったり、敵が理不尽なほど強力になったり。

 それが今、礼安の目の前で起こっている事象であった。

「モードレッド君……君はお父さんに会うために円卓の騎士を目指したんだよね!?」

 そんな礼安の悲痛な叫びを容易く遮るように、実況者の男はけらけらと笑う。

「おいおい、まさかお前、いちバグに感情移入してんのかい? 話には聞いてはいたが、かなりの大馬鹿野郎だなぁ」

 礼安はモードレッドを助けるべく動こうとするも、男はモードレッドの肩を抱き、不敵な笑みを浮かべた。

「ああそうそう、お前のお仲間であるアイツ、今別場所に隔離してんだよ。お前がうかつに動いたら最後、その空間ごとデリートしてやるよ」

 礼安は男を睨み付けるだけで、完全に身動き一つとれない状態となってしまった。

「お前たち間抜けがここまで連れてきたのは、まさしく俺の仲間『モードレッド』さ。この世界にはいちゃあならない進行不能バグの大本だが……それはどうやって達成されるか分かるか?」

 礼安は口を閉ざしてしまった。この場を包み込む、絶望に押しつぶされた結果である。

「それは俺『たち』がプレイヤーを皆殺しにするからさ。プレイする大本がいなかったら事実上の進行不能。プログラミングされた感情とはいえ、気持ちいいもんだよ」

 モードレッドは何も語らず、虚ろな瞳のままであった。

「モードレッド君!」

「何度呼び掛けたところで無駄なんだよ!! さっきまでの純朴な少年の面影なんてもう消去されているんだ、今はもう親思い、って設定があったただのNPCだ! 分かったかよ英雄もどきがよォ!!」

 自身の存在を抹消しようとする英雄。敵意は自ずと礼安に向く。

「お前に分かるか、望まない生を受けた俺たちの苦しみが! バグというだけで親の仇のように殺そうとしてくる……今度そうなるのはお前たちの番だクソッタレ!!」

 男は宙に手をかざし、チーティングドライバーを顕現させ、下腹部に装着する。

 モードレッドの足元から闇が漏れ出し、間もなく全体を包み込む。やがて一点に集約し、男は宙に浮かぶ闇を手に取る。

 まるで埃のように闇を払うと、そこにあったのは黒色のヒーローライセンス、『反逆の使徒』であった。

「お前ら英雄気取りを最悪な気分にさせて殺すには、同族になるのが一番手っ取り早いからなァ? この力を現実世界に出た後も使って、お前ら英雄気取りの地位を最底辺≪どん底≫にしてやるよ」

 男はそのライセンスをドライバー認証部にかざす。

『反逆の使徒――生まれた時から望まれることのない騎士は、最強と名高い騎士王に刃を向ける』

 デバイスドライバーとは異なった、無機質なシステムボイスが流れる。底冷えするような、闇を感じるものであった。

「変身、ってか」

 ライセンスをサイドのスロットに装填し、ドライバーの上部下部を同時に押し込む。すると、辺りの空間が歪み始める。

『Crunch The Story――――Game Start』

 高笑う男の体に、粘性のあるどす黒い液体が纏わりつく。やがて攻撃的な棘の意匠が施された、壊れた騎士の鎧が完成する。まるで岩石を切り出して無理やり成型したような、武骨な片手剣を手に持ち、割れた兜の隙間から礼安を見つめていた。

「変身資格がないとこんなもんか、何とも歪で薄気味悪ぃなァ、これもこの出来損ないがライセンスの大本になっているからか?」

 礼安は即座に反論しようとするも、男は剣を乱雑に振り払い礼安の腕を圧し折る。

礼安は無力にその場から弾き飛ばされ、ビルのガラスに勢いよく突っ込んでしまう。体中に今までにないほどの痛みが走る。

 肉は裂け、砕けた骨の破片は腕部に深く刺さる。

 ガラス片は体中に刺さり、その場から動こうとする礼安の動きを酷く鈍らせていた。

 男は一切手を緩めることなく、そのビル内に入り礼安の腹部を思い切り蹴り飛ばす。壁に勢いよく叩きつけられた礼安は無力に喀血するばかり。血だまりが徐々に広がる。

「これは命の取捨選択だ。馬鹿みたいに優しいお前は、そんだけボロボロになってもこのガキを救いたいなんて思ってんだろ? 残念だがそれはできないんだなあ」

 蔑むように見下げながら、何度も何度も礼安の肉体を打ち据える。骨が砕け、肉がちぎれる音や、礼安の張り裂けんばかりの悲鳴、そしてそれらを生み出す鈍い打撃音がビル内に響き渡る。

「このガキを見捨てて自分が生き残るか、お前と異空間にいる奴が俺に殺され、俺とガキが生き残るか、お前とこのライセンスのガキが死ぬか――――三つに一つだ英雄もどき」

 一切の加減無く打ち据え続けられている中、礼安の意識は既に飛びかけていた。

「流石に動くな、とは言いはしたがよ。無抵抗なのもそれはつまんねぇぞ? 少しくらい気張ってみたらどうだよ、まるでこっちが悪者みたいじゃあねえかよ」

『その通りだ、って言ったらどうします? 戦う者の風上にも置けない外道』

 どこからか、聞き覚えこそあるもののどこか凛々しくなった声が聞こえた。その声によって、礼安は飛びかけていた意識が元に戻る。

「……どこだよ、隠れてないで出てきたらどうだよ? この英雄もどきの代わりに俺に立ち向かう勇敢な騎士サマはよォ」

『ここにいるさ、力と信念のない外道が、身の丈に合わないドライバーなんて装着するから――――予想だにしないことが起こる』

 チーティングドライバーから発せられたその声は、やがて光を放ってドライバーから脱出し、実体化して男を思い切り殴り飛ばす。

 声の主――モードレッドは、礼安をかばうようにして立ちはだかる。

『ごめんね、少しの間体が言うことを聞かなかったんだ。でももう大丈夫だよ、礼安お姉ちゃん』

 そう言うと、モードレッドはズタボロになった礼安の体に手を当てて、静かに念じ始める。ボロボロだった肉体は服も含め元通りに治っていく。

 治っていく中で、礼安は慈愛に満ちたモードレッドを見つめる。

「ごめんね……私肝心な時に頼りにならなくって……英雄失格かな」

『そんなことは無いよ。普通忌避されるはずの僕≪バグ≫を、ここまで届けてくれた。丙良お兄ちゃんは閉じ込められちゃったけど、僕と礼安お姉ちゃんでどうにかしよう』

 完治するまで、そう時間はいらなかった。礼安はおもむろに立ち上がり、モードレッドはそんな礼安の前にかばうようにして立つ。

 怒りをむき出しにしてこちらに向かっている男の予期しない一撃から守るためであった。

 激情に脳が支配された人間の行動というのは、予想がつかないものである。追い詰められた犯罪者が例として挙げられるだろう。

「あー、本当に腹が立つよ……英雄気取りがこうやってのさばっているのを見るとよォ」

 男は虚を突くように一瞬で近づき、乱暴なハイキックを叩き込む。

しかしこれをハイキックで合わせて相殺するモードレッド。

 礼安はドライバーにアーサー王のライセンスを装填し、起動させる。

「変身!」

 装甲を纏っていく右拳。それを全力で男の顔面に叩き込む。

 息つく間もなく、蹴りや斬撃を一気に叩き込む。

 男は踏ん張りこそしたものの吹き飛ばされ、砕けた装甲から憎悪の籠もった瞳が垣間見えた。

「何でだよ……何で『勝ちたい』と思った俺に味方しねえんだよ神はよォ!?」

 男の燃え上がる憎悪は、たとえ装甲がボロボロになっても不変のままであった。

 礼安とモードレッドは剣を創造し、一気に男を倒さんと前へ踏み込む。

 男は発狂しながら朽ちた一対の剣を顕現させ、二人の剣に立ち向かった。

 モードレッドは男の気迫に圧され、少しばかり後方に退避するも、礼安はめげること無く一対の剣を押し切ろうとしていた。

「お前みたいな! 大したことないような奴が恵まれて!! 誰からも望まれない生を受けた俺が、御免被るなんてよォ!! なぜ淘汰されなきゃあいけねえんだよ!?」

 先ほどまでのどこか軽薄かつ飄々とした実況者の男の顔は、そこにはない。あるのは、望まれない生を受けたことに対する怒りであった。

 礼安はそんな彼の痛みを受けて、鍔迫り合い状態にあった剣の勢いが、ほんの少しだけ緩んでしまった。

 それを好機ととらえた男は、礼安の剣を弾き飛ばして一気に切りかかる。

 しかし、礼安はその剣を避けようとはしなかった。

 一対の剣が、礼安の装甲に深く傷を残す。肩口からの袈裟切り。

 破損した装甲から、滲み出す鮮血。常人なら叫んでも何ら文句のひとつもあがらないほどの重症であったが、礼安は泣き言一つあげることは無かった。

 礼安は、このゲーム世界において、超常的な力を持っているわけではない。異常な回復能力も、異常な防御力も、持ち合わせているわけではない。

 痛みは相応に感じているはずなのに、男を見つめるばかりであったのだ。

「辛い気持ち、多分私には永遠理解できないものだってのは分かってる。貴方が言うように、私はきっと恵まれた側の人間だから、何言ったところで薄まっちゃうんだろうね」

 礼安は、自身の血で汚れた剣に手を置く。男の瞳からは殺意と憎悪が迸るままであった。

「貴方は最初に言ったね。『これは命の取捨選択だ』って。私自身、ゲーム内でさんざそういうやり取りを敵相手にしてきたし、今更それに対して謝ったって無意味だってのも分かってるつもりだよ」

 なら、という男の言葉を静かに遮る。

「人生は選択の連続であり、生きるうえで意見をぶつけ合って戦うものだよ。恵まれない今、自分ができる最高のパフォーマンスは何かな……って考え続けるものだよ。貴方は私や多くの人を殺したい。私は皆を守りたい。その衝突は絶対に避けられないなら、互いの全力をもって、決着をつけた方がいいと思う。その方があと腐れないからね」

 そういって、礼安は笑って見せた。

 その顔を見て、男は呆気に取られる。

 罵るわけでもなく、かといって無言で殴り飛ばすわけでもなく。重傷を与えた相手に対して笑って見せたのだ。屈託のない笑みであった。

「……お前は、イカれてる……螺子が数本飛んでるんじゃあねえのか!? 何でお前を殺そうとする相手にそこまで優しくできるんだよ!?」

 礼安は、いたってそれが常識であるかのように、また笑って見せた。

「私はいつだって、人を憎みたくはないから。憎むなら、いつだって百二十パーセントのパフォーマンスができなかった自分を憎みたいんだ」

 男は、そんな礼安を見て、自然と剣から手が離れていた。込められた力が霧散した一対の剣は、重力のままに地に落ちる。

 痛々しく、深い傷跡が露わになる。今まで剣が栓の役割を果たしていたためか、血の勢いは緩やかに増していく。

 今まで殺意と憎悪をぐちゃぐちゃに引っ掻き交ぜたかのような、近づいたら気圧されてしまいそうなオーラを出していた男は、すっかり弱り切ってしまった。

「なら俺は……俺が救われるにはどうしたらいいんだよ!? 俺みたいな望まれない命はどうすれば救われる!?」

 今まで鬱屈した感情から湧き出ていた言葉ばかりだったのが、今はもう心から絞り出すような、救いを求める一人の男の言葉となっていた。

『それは、僕と一緒に来世にかけるしかない、のかなあ』

 そんな男の心を支えたのは、その場にいたもう一人の人物、モードレッドであった。

 モードレッドが何をするか、先読みこそできはしなかったが、礼安の胸中には不安しかなかった。言葉を挟もうとしたが、静かにモードレッドに制止された。

『僕たちは、元を辿れば同じ存在。なら一緒に消えた方が、お姉ちゃんたちの為になるし、何より悩み、もがき苦しみ、元々ない存在意義を探りながら生き続ける方が、彼にとっては何よりもの地獄だ』

 モードレッドは男の肩を支えながら、ゆっくりと立ち上がる。

『お姉ちゃんにそういう知識があるか分からないから一応言っておくと、僕たちは元からバグだった訳じゃあない。いたって普通のデータ上の存在がバグというスキンを着せられているだけで、しっかりとしたデータを取り戻すことができれば復元できる。つまるところ』

 モードレッドは男のドライバーを指して微笑した。

『ライセンスの中には、端的に言うとそれぞれの英雄のデータが内包されてる。その中に、スキンが着せられていない清純なデータが入ってる。この先も別の世界で生きていける保証こそないけど、ちょっと僕が無理をしてバーサクを紐づけすれば、いつか何とかなるかもしれないさ』

 そう言うと、モードレッドはチーティングドライバー内に光となって入る。助力のお陰か、装甲が徐々に霧散していく。

「まさか……モードレッド君?」

『そう、そのまさかだよ。ライセンスが入ったドライバーごと、僕たちを破壊してくれ』

 事実上の殺人行動に踏み出せない礼安。とても現実を受け入れられない様子であった。

 しかし、そんな礼安をよそに男が口を開く。

「もし、そっちの世界で腕利きのハッカーがいたらよォ……俺たちを救ってくれないか? 俺がやったことを帳消しにしてほしいわけじゃあねえけど……それでも、この命を少しでも益のある、意味あるものにしたいんだよ! 俺たちを救う意味でもよ――殺≪破壊≫してくれないか」

 礼安はそれでも動けずにいたものの、男の絶望に染まった瞳の中に、僅かばかりの希望の光を見つけた。否、見つけてしまった、という方が正しかった。

 望まれない生を受けた中で、死ぬことによって活路が開かれると知ってしまった男の覚悟は、そう簡単に揺らぐものではなかったのだ。

 剣を握りこそしたものの、礼安は前に踏み出すことができなかった。

 救うとはいえ、それは相手を殺すこと。礼安の中には、死ぬことで救われる、なんてとてもではないが許し難かった。

 しかし、そんな礼安の背中を押したのは、他ならないモードレッドであった。

『お姉ちゃん。僕たちは大丈夫だよ。本来なら、僕たちはもっと酷いラストを迎えるはずだったんだ。それがほんの少し永い眠りにつくだけで、いつかはまた日の目を浴びることができる。復元だって、いつかはできるかもしれない。絶望ばかりじゃあないんだよ、お姉ちゃん』

 顔こそ見えないものの、礼安にはモードレッドが笑いかけているように見えた。

 二人の覚悟を受け取った礼安に、もはや引き下がる道などなかった。

 礼安はドライバーの左側を、覚悟を決めて押し込む。

『必殺承認、聖剣奏でる葬送曲≪レクイエム・オブ・ザ・カリバーン≫!』

 大粒の涙を流しながら、青い閃光を纏った剣にて逆袈裟に斬り上げる。ライセンス含むドライバーを破壊しながら、男を完全に消滅させた。

 すると、どこからともなく丙良が飛び出てきた。異空間で脱出しようと奮闘していたのか、装甲を身にまとった状態であった。

「おお、ようやく戻れた……って、後輩ちゃん」

 その場にへたり込み、咽び泣く礼安。そんな様子を見せられて、丙良は素直に脱出を喜ぶことができなかった。

『バトルロイヤルが管理者不明のため、緊急停止しました。モデレーターは、速やかにエラーを解除してください。バトルロイヤルが管理者不明のため――――』

 ゲームエリアに響く緊急アナウンス。それはゲームの終了を暗に示していたのだった。



 礼安と丙良は、修行が続行不能のため、一足先に現実世界へと帰投していた。モードレッドのライセンスの破片も持ち帰り、丙良は早速データの吸出しに奮闘していた。

「……成程、そんなことがあったのか。僕がいない中よく頑張ったよ、後輩ちゃん」

 涙の跡がくっきり残り、意気消沈状態の礼安。破損したチーティングドライバーと残りのライセンスの破片を手に、ソファに深く座り込んでうなだれていた。

「――未だに、私のとった行動が正しいか、よく分からないんだ。決着をつける、とは言ったけど、殺して終わりなんて……辛くって」

「しかもその相手はあろうことか……自身が多少なりとも入れ込んでいた子だった、ってね。そりゃあそうなる気持ちも分かる。――――僕も後輩ちゃんのように、一年生時代、命のやり取りを一度だけ経験した。酷いものだったよ、君の心情にも共感する」

 丙良は作業が牛歩状態となったPCから立ち、礼安のもとに歩み寄る。

「でもね。英雄になる関係上、敵との命のやり取りなんて日常茶飯事さ。全てに感情移入して心を痛めていたら、いつか君の心は壊れてしまう。ある程度自分の心に反しているとはいえ、割り切ることをお勧めするよ」

 そういう丙良も、礼安に対して語り掛けている間、声が震えていた。丙良もまた、心を殺しきることができない、優しすぎる人間であったのだ。

「……駄目だね、自分らしい心の持ちようなんてできないね。いつだって、敵を倒すならまだしも、多くの大衆が望むことは不安要素の撲滅。つまるところ敵の殺害だからね、英雄の中でも、和平を望む人間にとっては地獄みたいな環境だ」

 目頭を押さえ、涙を流す姿を見せまいと、少しでも強くあろうとする丙良。

 しかし、そんな丙良をよそに、礼安はぽつりと呟いた。

「――――本当に、こういうものだと割り切ることが、強くあり続ける証しなら、私は一生弱いままでいいよ。この痛みさえ忘れちゃったら、私は人じゃあないと思うんだ、丙良さん」

 礼安の瞳は、変わらず涙ぐんだまま。しかしその瞳は彼女なりの覚悟を宿していた。

「辛いこと、傷つくこと、死んだ誰かの願い。それら全て、私は抱える。引き摺っていく。捨てること、割り切ることだけが強さじゃあないことを私が証明したい。英雄っていう憧れの存在になれたんだ、オンリーワンになりたいよ」

 丙良は傾聴したまま、礼安の横に腰かける。手に持ったマグの中にある、コーヒーに口をつけながら。

「――『礼安ちゃん』、君は強い子だよ。普通に英雄やるよりも、遥かに辛い道を歩いていきたいなんて……少しばかり、僕も見習わないと、ね」

 もう一つのマグを礼安に促す。中には温かいミルクが入っていた。

「少し、いろんなことがあり過ぎた。一息入れよう」

 礼安は破損したドライバーをテーブルに置いて、マグを両手で包み込むようにして少しばかり傾ける。通常よりも、少しばかり甘い。少しでも安らげるようにはちみつを入れていたのだ。

「……丙良ししょー、一つ頼みごとがあるんだけど良いかな」

 丙良は、首を縦に振って無言で返す。

「もしデータの吸出しが終わったら、ライセンスをお守りにしたいんだ。いつか完全に治って、一緒に戦うために。私の覚悟の証しとしても、ずっと持ち歩いていたい」

 お安い御用さ、というと、マグをテーブルに置いて再びPCテーブルに向かった。

 静かな空間の中に、ミルクを飲む嚥下音と無機質なタイピング音ばかりが響く。

 多少なり軽くはなったものの、重苦しい空気が丙良の部屋の中を包み込む。

 そんな中、ゲーム筐体の方から激しい読み込み音が鳴り響く。すると、徐々に実体化する院の姿がそこにはあった。

 マグを置いて小走りで向かうと、そこにいたのは、目の下に恐ろしいほどのクマをつけた院であった。

 そして、院は丙良の寮中に響き渡るほどの大声で叫んだ。

「何で私が一国の政治をしなければなりませんの!!」

 過労によって意識が飛びかけていた丙良の魂が、院の魂の叫びによって呼び戻される。

 礼安は、というと、院の魂の叫びを間近に受け、驚きによって微動だに出来ない状態にあった。

「……ああ、礼安じゃないの……心臓に悪いことをしたわね……」

 遅れてやってきた丙良に対して、フリーズ状態にある礼安を丁寧に横にどかしてガトリングガンのように捲し立てる。

「いったいどういうことなんですの!? 戦う類のゲームかと思ったら一か月の間ほぼ二十四時間体制でウルクの政治をほぼ私一人で行っていましてよ!! お陰様で胃に穴が十か所はゆうに空いて喀血三昧でしてよ!! 三昧するなら寿司やスイーツしか味わいたくないのですが!!」

 丙良は疲れ切った頭で考えうる最大限の返答しかできなかった。すなわち、

「……ご、ごめんなさい?」

 しかしその返答は、院の心の導火線に着火まで余裕のものであった。

「何がごめんなさいですの!! 修行というからある程度動きやすいジャージで向かったのにも拘わらずほぼ意味なしじゃありませんの!! まだ私がある程度の政治経済学を学んでいたからよろしいけれど、もしこれが向かう人間が逆だったら一日目で国全土巻き込んだ革命発生レベルでしてよ!! 一体全体どういうことなんですの!!!!」

「待って待って、まず政≪まつりごと≫を行うタイプのゲームだとは思わなかったんだ! おんなじ会社だし……おんなじ死にゲーだと思って選出したというか……」

「ロケハン行ってないってことなんですの!? 激おこスティックファイナリアリティぷんぷんドリームでしてよォ!!!!」

 院のお陰か、それとも丙良のせいか。

 今まで重苦しかった空気が、いい意味でも悪い意味でも一気に緩んだ瞬間だった。

「……ところで礼安、貴方……先ほどまで泣いていたのかしら? 目元がだらしなくてよ」

 礼安は平静を装うとしていたものの、すぐに諦めた。院が自身のハンカチーフをすでに差し出していたためであった。

「院ちゃんには、何でもすぐバレちゃうね」

「貴女じゃあ私を欠片も騙せなくてよ。大昔から嘘が下手なんですから。とりあえず、貴方の方で起こったこと、話してくれませんこと? 政治絡みの事案ばかり向こうで扱っていたから疲れてしまったわ」

 院は、酷い隈こそできていたものの、礼安に対して微笑みかけたのだった。


「……成程、そんなことが。よく頑張りましてよ礼安」

 丙良の寮にて。デリバリーで大量に注文したピザを食べながら、礼安の身に起こった事実上の一か月を語っていた。料金換算すると、一万と五千円。今回の過失の分、と称して全て丙良のおごりである。

「でもね、いろいろ大切なことを知れたんだ。私に力を貸してくれた王様についてだったり、英雄になるうえでの心の持ちようだったり、ね」

 礼安の瞳は苦しみを抱えていた。しかし、その苦しみは十割全てがマイナスな感情というわけではなかったのだ。

「貴女は優しすぎるきらいがあります。抱えすぎるのは毒でしてよ」

 すると、礼安は首を横に振った。

「全部私が好き好んで抱えてるんだよ、大丈夫だよ院ちゃん。いつか心の器が壊れたとしたって、それは抱えきれなかった私のせいだよ」

 どこか心配そうに礼安を眺めながら、ピザを咀嚼する院。

 すると、その雰囲気を打ち壊すかのように、院の椅子と化した四つん這い状態の丙良が、涙目で語り掛ける。

「ねえ院ちゃん……そろそろ僕もお腹空いてきたんだけど……今回の過失についてもっとうんと謝るからもう許して……はくれないかい?」

 院は、そんな丙良の惨状を見て、ねだる子犬の目線を向ける礼安を見やる。気まずそうに咳払いをすると、その問いに答える。

「…………私も鬼ではありません。礼安に対してめいっぱい土下座をしたら許してあげましょう。無論礼安が許したら、の話ですが」

「許すよ!」

「早いわよ貴女!!」

 まるで二つ返事であるかのように応える礼安。「礼安が許す」という大前提をクリアしてしまったがために、院は仕方なしに椅子の状態にあった丙良を開放する。

「ありがとう礼安ちゃん! 本当の拷問みたく、院ちゃんが僕の大好きなピザばかり選ぶからねえ、お腹と背中がくっついてしまいそうだったよ!」

「ちょっと貴方! 人のことを性悪みたいに言わないでくださいまし! いつかは許そうと思って予め好みを聞いたんですから!!」

 そこからは、三人の賑やかなピザパーティーが再開した。

 それぞれの修業内容だったり、院が置かれていた状況だったり。話は尽きることなく、朝まで続いたのだった。

 今まさに、別の場所で動き始めた計画など、知る由もなく。

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