第59話「夏の幕間」
夏という季節は、私は好きだ。
(……暑い)
中庭。草と土の匂いが立ち籠める。そして蒸し返すような熱気が、私の体をじわりと蝕んでいく気がした。
中庭は広く、時折風が流れる。その度に熱の感触は確かなものに感じた。
……悪くない、と思う。むしろ安心する気がした。
「こんな所にいたの、ゆかり」
ふと、彼女は不思議そうに私の横に立った。
ベンチに座る私には、彼女の長くてふわふわとした髪が覗いた。そして眼鏡の向こうの丸い瞳が、私を見下ろす。
「栞。用事は終わったの?」
「うん。でも、ゆかり。こんな所で黄昏てたら、熱中症になるよ」
そう言って、彼女はペットボトルを渡してくれた
氷のように冷えたスポーツドリンク。掌に冷たく濡れて、体が持った熱が、スッと引いていく気がした。
「……ちょっと考え事してた」
「そう言って、いっつも考え事ばかりしてる」
「うん……まぁ、そうなんだけど」
私は苦笑しながら答える。栞は悪戯気に笑って、
「生徒会長、だもんね」
「そんなに立派なものじゃないわ。周りに助けてばっかり」
「でも、今の時期、忙しいでしょう?」
栞はペットボトルの蓋を開けながら呟く。
今は一学期の終わり。生徒会の仕事や、部活。何より期末試験があって、ここ数週間は全く休まる気配がない。
だからこそ……気づかないところで、息が詰まってたのかもしれない。
「……そうかもね」
「……」
溜息をもらすように呟いた。すると、不意に私の手に栞の手が重なった。
「……?」
「約束、したでしょう?」
クスリと、栞が笑う。それでも真っ直ぐ私を見て、思わず私は照れてしまった。
そうだ。栞との約束……悩んだら、まずは相談すること……だった。
「ゆかりはすぐ溜めこむから、ちゃんと吐き出すようにって言ったでしょ?」
「それは……」
「言い訳は聞かない」
私の言葉を封じるように、栞は額を私の額にぶつけた。私は観念して目を瞑った。
「はぁ……分かった。白状する」
「よろしい」
「……って、言っても、とりとめのないことよ? 生徒会の仕事が一部滞ってたりとか、あんまり部活に顔を出せてないこととか……」
言葉にして、一つ一つ吐き出していく。
その度に、頭の中で整理がついていく。栞が私にこういう癖を付けさせたのは、そういう狙いがあったのかもしれない。
栞は黙って私の話を聞く。頭をくっつけたまま、私が一通り吐き出すと、
「よくできました」
「うっ……うん」
全部吐き出し終えると、すっきりした気持ちや落ち着いたせいか、何だか私が栞にあやしてもらったみたいで恥ずかしかった。
しかも……よく考えなくとも、私は今、かなり汗をかいている。私はそれに気づくと、慌てて……
「……っ」
「……お?」
反射的に、体を離してしまった。
私と栞は沈黙する。何だか気まずい。でも、汗が気になって、私は焦りながら誤魔化しの言葉を探す。
「……その」
「……?」
「……栞は、夏は嫌い?」
口元を手で抑えながら、私はどんな顔をしていいのか分からなかった。
……いや、このまま顔を抑えてしまいたいぐらい。何聞いてるんだろう、私……
でも、ここで嫌いって言われたら、何となくショックな気がする。挙動不審になりかける私に、栞は不思議そうに、
「嫌いじゃないけど?」
「……そ、そう……」
「……じゃ、ゆかりは夏は好き?」
少し沈黙が空いて、思わぬ質問が返ってきた。栞は試すように笑い、答えを待つ。
私は少しばかりきょとんとした。さっきもそうだけど、何かを言葉として表すのは苦手だ。
何て言えばいいか、迷う。そして、私は感じたことをそのまま話す。
「好き……かしら。こうして暑い中にいるのも、悪くないし……」
掌を重ねると、また自分の体の中の熱を実感する。
髪を纏めて、熱に当てられる首筋に汗が伝ったのを感じた。
そして、そんな感覚すらすぐに消えてしまうぐらい、夏の熱気は、私の体を溶かすような錯覚を覚えさせてくれた。
「……体が満たされる気がした。全身が沸騰するみたいに暑くて、だからこそ、安心するみたいで……」
迷いながら話す今も、体は暖かく、小さく痺れる気がした。
「……ちゃんと確かじゃないと、安心できないから」
「……ふーん」
私の言葉を、また栞は黙って聞いてくれた。
少し思案するように栞は上を向く。だけど、不意に何かを思いついたようで、指を指しながら少し意地悪気に笑った。
「汗臭いの、気にしてた」
「……!?」
「ゆかりは分かりやす過ぎ、顔にすぐ出るよ」
気にしてたことを一発で見抜かれ、私は顔を赤くして何も言えなくなってしまった。カラカラと栞は立ち上がりながら笑う。
「ま、確かに。ちゃんとはっきり言葉にしないと、伝わらなかったり、不安になることもあるからね」
そう言って、丁度頭上で陽を飛ばす太陽に手を伸ばした。眩しそうにする栞の後姿を見ながら、私の中にさっきの言葉が思い浮かぶ。
はっきり言葉にしないと……か。
「じゃあ、栞……」
「ん?」
「私のことは、好き?」
ポツリと、その言葉は私の口から突拍子もなく出てきた。
瞬間、私は後悔しそうになる。
でも、それと同時に。私は栞の答えを、どうしても聞きたかった。
「……っと」
聞いたのは私なのに、途端に目を逸らしてしまう。
栞はただ黙っていた。小さな沈黙。そして間が空いた後に、栞は近づいて、私の隣に座って___
「……ゆかり」
頭の後ろで声が飛ぶ。私は振り返れない。
そして……迷っている時、ぐいっと私の頭を引き寄せられ___
「……!」
栞の力は意外にも強かった。
そうして、振り向かせられた瞬間重ねたキスも……予想以上に強かった。
「~~~!!!」
頭が真っ白になり、心の中で滅茶苦茶叫んだ。
でも、体は一ミリも動いていない。脳裏にはびりびりと電流が駆け抜ける。
予想外の不意打ち。抗えない甘さに、私は真っ赤になりながら固まってしまった。
「なっ……なっ……!?」
どれだけ時間が経ったか分からない。もしかしたらたった一秒だけだったかも……そうして栞は顔を離すと、私の間近でまたいつも笑いを浮かべた。
「……ゆかりは、この方が好きかと思って」
そう言って、栞はまた目を閉じて、
猫みたいに、私の唇をペロッと舐めた。私は思わず叫ぶ。
「も、もう! 誰かに見られたらどうするの!?」
バシンと肩を叩く。でも、全く栞は反省して無さそう。
こんなの、二人っきりの時だけのはずなのに。真昼間、しかも学校の中でやられるのは、完全にアウト。
生徒会長……それが、女同士で中庭でキスしてた。多分見られてないだろうけど、事の重さに私は頭を抱えてしまう。
「あー、もう……これで何かあったら、栞のせいだから……」
「あはははっ、まぁ、大丈夫でしょ」
「あはははって……っ!?」
その瞬間、私は思わず固まる。
校舎入り口から、生徒会の子が近づいてくる。その子は手を振りながら、
「あっ、会長ー。ちょっといいですかー?」
「なっ、なっ……!」
「会長。……って、大丈夫ですか? 何か顔赤いですけど……」
キョトンと、私を見てくる。
バレて……いないみたい。しかも幸い女子。これで男子生徒か先生だったら、私は完全にフリーズしてた。止まった私に対して、栞は平気そうに、
「ん? もしかしてまた問題発生?」
「あっ……はい。ちょっとまたお話を取り持ってもらいたくって」
「そう。なら、すぐに行かないとね、会長?」
そう言って、栞は彼女の前で指を唇に当てた。私はまた顔が熱くなる。
……ほんと、ぶれないな。栞……。
「……分かった。すぐ行きましょう」
「お願いします!」
私が言うと、安心したように彼女は表情を輝かせた。
彼女と栞に促されて、私はその後ろを歩きはじめる。
そして……ふと、思いついた。
「……!」
栞が振り向く。
私は彼女の手を取る。そうして、静かに手を繋いだ。
「……」
私達は何も言わなかった。ただ、クスリと笑って、手を繋ぎながら、栞に先導されるように私は歩く。
彼女はぶれない。でも、決してずっと甘えてはいられない。
(今度は……)
私が、仕返しをしてやろう。
そんな悪い考えに、私は笑いを堪えた。でも、しょうがない。
……全部暑さのせいだなんて、適当な言い訳を浮かべながら、私達は歩き出した。
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