第49話「残夏」
その日の空は、やけに薄っぺらく見えた。
(晴れてんな……)
絵に描いたような、いや、まさに絵のような真っ青な空。
そして微かに雲が走る。それもまた、薄っぺらい青空に貼りつけたような雲だった。
「……」
そっと手を伸ばしてみる。
詩的な喩えだけど、本当に手が届いてしまいそう。
頭上にある、一枚の紙。指でつつけば穴が開きそうで、空の青と雲の白の境目は切り取り線みたいな感じ。
なんて、酷くどうでもいいことを考えてみる。そんな哀れな自分を夏の暑さのせいにしようとしても、体を蝕む熱気はいつの間にか冷めていた。
九月。あれだけ聞こえていた蝉の声が、今では何だか恋しい。
夏が、静かに終わる。
「……もう秋かぁ」
それほど眩しくない、滲むような陽の光に目を細める。
薄っぺらいと思っても、今日の空の彩は鮮烈に感じる。
それは……何だかんだ言って、綺麗だと思った。
ところで、最近私はあることに悩まされていた。
「……」
薄ら目を開け、その日の朝はじんわりと意識を覚醒させた。
微かに頭が熱を帯びて、体が酷く重い。そして手元の携帯を掴んで時間を確認する。
「まだ五時か……」
朝の五時。部屋の中はまだ暗く、目を凝らせば微かに灰色の朝日が差し込んでる。
とはいえ、とかく体が重い。じんわりと熱くなる頭に、私は死んだ目つきで体を起こした。
「……きっつい」
一応、何となく理由は理解してる。
多分私は、最近よく眠れていないのだ。
「やっ」
「……いらっしゃい」
日曜日。その日は珍しくお客が来た。
ドアを開ける。そこには、とても見知った顔が不思議そうに首を傾げた。
「朝香? なんか調子悪そう」
「……」
チェーンを外し、私はおぼつかない足取りで踵を返した。
後ろからぱたぱたと足音が追従する。
何も言わない。でも、変に気を遣う感じでもなかった。
「朝香、元気してる?」
部屋を珍しそうに見回す。
大きな瞳と、まるでさらに染め直したような真っ黒な髪が揺れた。そして流れるような痩躯と、飄々とした佇まい。
そんでもって、
「相変わらず細ーっ。ちゃんとご飯食べてる?」
ぺたぺたと私の腕や手を握ってくる馴れ馴れしさ。
何も変わらない幼馴染。沈黙を保っていた私は流石に恥ずかしくなった。
「……志季には言われたくない」
東雲志季。小学校から私のつれだ。
なんやかんやで中学、高校と一緒になってる。でも、高校から一人暮らしになった私の部屋を訪ねてくるのは、意外に珍しいことで……
「あっ、そ。……でも、なんか顔色悪いね」
「最近眠れなくてね。寒くなったり、暑くなったりしてるからかな」
「そーか……朝香は割と体調崩しやすいからなぁ」
「風邪ひいてるわけじゃないんだ。……ここに来たのって、もしかしてお母さんになんか言われた?」
うちの母は割と過保護だ。放任主義を気取っているけど、ここぞという時に親ばかを発揮してくる。一人暮らしは普通に許可した割に、ちょくちょく連絡をしてくるのだ。
見れば、志季の手にはスーパの袋が下げられていた。中には野菜とか色々入っているみたいだ。
「そ、そ。様子見てきてくれって。ちゃんとご飯食べてるかもあれだから、暇があったら作ってきてくれって、おばさまが」
よっこいしょ、と廊下のキッチンに袋を置いて、中を取り出す。私は部屋のベッドに腰かける。
「別に私だってちゃんと生活できてるよ。料理だってちゃんとするし……でもさ、志季がこう部屋に来るのって珍しくない?」
「そうかな? 言われてみれば……そうかも」
ぼんやりと呟く。がさっと、空のビニールを握った音が響いた。
「でも、学校で毎日会ってるんじゃん。だから、不思議なことはないんじゃない?」
「……ん。そっか」
私の気のない返事に、志季は怪訝な顔をした。
近づいて、ゆっくりと私に手を伸ばす。見下ろす形で、私のでこに手を当てた。
「ほんとに大丈夫?」
「……うん?」
「必要なら、これから毎日通ってあげようか」
掌ごしに見える志季の顔。優しい小さな笑顔が見えた。
何だか安心する。変わらない、お節介な幼馴染の一面。
「なんか……お母さんみたい」
そんな腑抜けた返事に、志季はへらってした少しだらしのない笑みを返す。
「善意の隣人だよ」
「……」
その笑みは、ちょっとだけ寂しそうでもある。
「で、朝香。髪ボサボサだね」
「……」
「服も寝間着のまんまだし。着替えた方がいいよ」
「……」
そうだ。思い出した。基本的に、志季は面倒くさい性格をしていたこと。
よく言えば面倒見がよくて、悪く言えばいちいちうるさい奴だった。
「でさー、志季。最近部活でも調子悪そうって聞いたからさ」
その後、テーブルに座って私達はもさもさとドーナツを食べていた。
自慢じゃないけど、うちの周辺はほとんど何もない。スーパーとコンビニが一件ずつぐらい。だけど、駅前にはドーナツの露店販売をやってて、100円セールの時にはもれなく露店の値段も100円にしてくれる。
「あー、それってもしかして藤白先輩?」
「そっ。朝香、あの先輩と仲いいんでしょ?」
私の一つ上に、藤白先輩という超絶面倒見がいい人がいる。
絵に描いた大和撫子で、当然のように文武両道。おまけに優しい。
いや……そのおまけの優しさ八割のおかげで、自堕落な私のことも気にかけてくれていんだけど。
「いい先輩だよ。私の面倒大体見てくれるし」
「へぇ?」
「おまけに話が合うんだ、不思議と。めちゃくちゃ正反対の人間なのにね」
どういうわけか、藤白先輩は私とよく話してくれる。私も結構人見知りだけど、先輩と話すのは割と楽だった。
まぁ、それはちゃんと話を聞いてくれる、先輩の律義があるからだろうけど。だから、先輩は話を聞いてくれるだろうなんて、こっちは勝手に安心感を抱いてる。
「単純に甘えてるだけなんだよ。きっと」
「……ふーん」
「ほら、いつも志季とか話すみたいに、先輩と話すわけにはいかないじゃん。でも、藤白先輩が逆に気を遣ってくれるもんだから、こっちが無意識に警戒解いてるわけで」
よくないなぁ、と思うけど。そろそろ改めなくてはいけないかも。
「……」
「……ん。どうかした?」
気がつけば、志季がドーナツで口を隠しながら、じっとこっちを見つめていた。
意味深な視線。私は手にしたミルクティーを無意識に戻す。
「なんか……深刻な視線……」
「……別に」
そのまま志季は視線を外して、もしゃもしゃとドーナツを食べる。
気のせいか……一瞬だけなんか剣呑な雰囲気が流れた気がする。
「なんか……まずった?」
恐る恐る聞いてみる。でも、志季は少し冷たい顔で、
「別に。朝香は色んな人に愛されているな、って」
「は……?」
「褒めてるんだよ。気にかけてくれる人がいるってことは、貴重だよ」
「いや……なんか褒められてる感じしないんだけど」
なんだこの空気。いや……空気というよりかは……
「志季……?」
「……」
「っ……?」
ゴクン、と私は口の中のドーナツを飲み込む。
口当たりが悪くて、喉も通りにくい。乾いた口の中では、オールドファッションの生地は引っ掛かりを覚えてる。
何とも言えない。そして、おもむろに志季は立ち上がった。
「……久々に泊まっていこうかな」
「へっ!?」
なんだ。なんでいきなりそんなこと言い出すんだ。
「それは……構わないけど」
「そっ。なら、決まりね」
決まり。いや、何が決まったのだと言うのか。
今までの経験から推察するに、志季は今怒っている。全然見当がつかないけど、志季の中で何かが火を点いたのだ。
しかし、困ったことに。私は今、そいつの正体を全く分かってない。
「……」
背中に、何だか冷たいものが伝った気がした。
体がじわりと熱くなる。ふと、未だに残る夏の微妙な暑さを思い出した。
結局、志季は本当に私の家に泊まっていくらしかった。
日もすっかり落ちてから、志季は私に代わって、夕飯を作ってくれた。
ただし……白菜と肉団子の鍋。九月と言えど、この暑い日にだ。
「……やっぱり怒ってない?」
「……別に」
味ぽんを入れながら、冷たい声で志季は言葉を返す。
鍋につけようとした箸が凍りそうになる。やばい、なんでこんなに怒ってるんだ。
「い、いただきまーす」
私は笑顔を空回りさせながら、変に元気な声で鍋を食べ始める。
鍋なんて実家以来だ。こういうの、一人じゃ作らないし。
豪勢に鍋の中には鱈まで入ってる。私は白身を崩さないよう、肉団子と一緒に慎重に掬った。
「でも、すっごい気合い入ってるね」
「……」
「肉団子もお手製でしょ? 美味しいよ、これ」
「……」
私はとりあえず話すが、志季はただただ静かに鍋を食す。
なんかこんなの初めてかもしれない。最近学校でも、こんなのへそ曲げられたことはないはず。
ただ、一瞬だけ。私の方をちらっと見て。
「ほんとに美味しい?」
「えっ……う、うん」
「……そう。よかった」
うっすらと、微笑んだ気がした。
(……?)
私は不思議に思いつつも、また食事を再開した。
「……志季もなんやかんやで世話焼きだよね」
「……?」
「私、やっぱり志季の言う通り、色んな人におんぶにだっこなんだと思う」
そんなことを考えてみる。我ながら自堕落な性格だから。だから、知らないうちに人に迷惑をかけていることだって多々ある。
流石に、私だって人のお荷物になるのは避けたい。でも、結局のところ、こうして志季に甘えてたりしてる。
「情けないやつだなって思うよ。一応」
だから、反省。我ながら珍しいけど__
「そんなことないって!」
「……!?」
瞬間、志季が大きな声で私の言葉を否定した。
私はビクッと固まってしまった。そして志季の方もハッとなって、固まってる。いや、なんで言い出しっぺも固まってるんだ。
「い、いや……その……だからね」
言い訳するように、志季が真っ赤になりながら言葉を重ねる。
「別に……私は気にしてないっていうか。別に情けない奴だからなんて、思ってないし……!」
こっちは何も言えなかった。いや、そもそもこっちにターンなんて回ってない気がする。
何か言うべきか。そんな時、私の目の前に肉団子が突き出された。
「……!?」
「食べて」
「……!!?」
真っ赤になった志季が、箸でつまんだ肉団子を差し出す。
ここまで来れば、こっちに拒否権なんてなかった。私はごくりと唾を飲み込み、覚悟を決めて口を開ける。
美味しい。食めば出し汁混じりの肉汁が流れてくるし、ポン酢の酸味が味の重さを和らげてくる。さっぱりとした味の割には、噛むほど旨味が長続きする。
私は食レポ並みに集中して、無心に味わう。そして誠意を込めて、
「美味しい……です」
「……」
その一言に、志季は力が抜けたように座った。
まだ顔は赤かった。その表情を隠すみたいに俯いて、
「そう……よかった」
小さな声で呟いた。
私はまだ困惑したまま「お、おう……」と緊張状態から辛うじて解放されたのだった。
その後、私達はテレビを観ながら時間を潰し……
そしてそのまま就寝。だけど……
(……狭い)
思えば、うちに来客用の布団なんてなかった。いや、ほんとは泊まるって言われた時に気づくべきだったんだけど。
私はソファーで寝ようが構わないって言ったけど、志季に駄目って言われてしまった。かと言って、客の志季をソファーで寝させるのも可哀そうすぎる。
結局、妥協案として二人でベッドに寝ることになった。とはいえ、意外に二人入るとベッドは狭い。
(……どうしてこんなことに)
私達は背中合わせに寝ていた。背中には志季の体温が熱いぐらい感じる。もう寝ているんだろうか。
なんやかんやで、今回は志季のペースだった気がする。
ほんと……どうしたんだろ、志季。
「……起きてる?」
その時、あろうことか志季から声をかけられた。私は若干ビクッとなる。答えに困っていると、
「今日はごめんね。色々言って」
「……?」
その声は何だか申し訳なさそうだった。私はううん、と呟く。
「別にいいよ。家のこと色々してもらったし、今日は助かったよ」
「でも……」
「志季が困るなら、それでおあいこ。……ってことで、納得できない?」
「……」
部屋の中は二人だけなのに、何故か外の音の方がやけに耳に響く。
波打つような風の音と、遠のく虫の声。でも、意識すれば志季の静かな呼吸が聞こえる。
「……変なこと言ったよね。さっき」
「……?」
「朝香は色んな人に愛されているって。でも、いいことだと思うよ。そういうの」
確かに……昼間にそんなこと言われたっけ。
「そっかな」
「そうだよ。私も……朝香のことほっとけないし」
「むっ、なにそれ」
志季がからから笑って、私は思わず眉を顰めた。
でも、返ってくる声はすごく穏やかだった。
「頼ってくれていいよ。これからも……ね」
「……」
どうやら、機嫌は直ったみたいだ。
ここは素直に甘えた方がよさそうだ。私は目を閉じて布団を被る。
「私、最近よく悪い夢を見るんだよ」
「へえ?」
「だから、悪い夢を見ないように見張っといてよ。今夜だけでいいから」
まぁ、今のところ悩んでるのはそのくらいか。
そんな頼みごとを言うと、志季は少し悩んだみたいで……
「……っ」
そのまま、私の体を後ろから抱きしめた。
「多分それ、寝冷えだよ」
「へっ……?」
「寝る前は暑いけど、夜中は一気に冷えるから。だから体調壊してるんでしょ」
だから……悪夢を見るんだろうか。言われてみれば、体がきついから悪夢を見てるわけで……
「って……」
おもむろに振り返る。
志季は小さく寝息を立てていた。まさか、もう寝たのか。
「……見張っといてくれって言ったのに」
勝手なもんだ。あれだけむっとしてた顔は、今は安心したみたいに緩んでいた。
私は志季の頭を抱く。そして、そのまま小さく目を閉じた。
「……まっ、いいか」
確かに、今日は暖かく寝れそうだ。
夏だから暑いぐらいだけど。でも、ジワリとした暑さの中でも、その温もりだけは体の中に優しく伝わってきた。
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