第40話「月の呼吸」
小さな熱が生まれる。
それは飲み込むにも、吐き出すにも辛い熱。
体を蝕んで、頭を白熱させる。その不快感に耐えられなくなった時、私の意識は覚醒していた。
「……あ」
最悪の目覚め。でも、目を閉じて呼吸を繰り返せば、不調は自然と引いていった。
ゆっくりと体を起こす。スマホを点けると、時間は夜の9時を表わしていた。
(……1時間ぐらい寝てたのか)
とりあえず風呂に入らないと。一応帰ってきてすぐ顔は洗ったけど、何とも言えない不快感は拭えない。寝ている間に汗もかいていたみたいだし。
寝室を出て、リビングに向かう。
その時、点けた覚えのない灯りがリビングに灯っていた。不思議に思いながら、私はドアを開けると、
「おー、おかえり」
そいつはテレビを見ながら、弁当を食べていた。自分の家でもないのに、我が物顔でくつろぐ彼女に私は軽いため息をついた。
「……合鍵持ってるとはいえ、連絡ぐらいほしいんだけど」
「いいじゃん。ユカリの顔に見に来るのに、理由なんて要らないだろ?」
彼女……市村由来は、カッコつけた彼氏面で軽くウインクする。
由来と書いて、ユラと読む。ちなみに私は縁理と書いてユカリ。お互い変な読み方すると、付き合う前にどこかで話した気がする。
彼女とは半分同棲みたいなもので、たまに週末とか遊びに来る。茶髪にまるで子供みたいに笑う彼女がいると、何となく寂しいリビングも華やぐ気がした。
私も茶髪にしてみようか……今は軽くパーマ当ててるだけだけど、黒髪だとどうも印象が暗い気がする。なんて、どうでもいいことを考えながら、リビングに向かう。
「お酒でも飲む?」
「あぁ、大丈夫。先に帰り道で買っちゃったお茶飲みたいし」
私の提案に、由来はテレビを見ながら答えた。私は自分の分だけ紅茶をいれると、由来と同じくテーブルの上に座る。
由来は音楽番組を見ている。私は基本、一人の時は配信でドラマか映画をずっと見ているから、由来がいる時はテレビにチャンネルを合わせているのが、何となく珍しかった。
すると、由来はいつの間にか私の方を向いていた。猫みたいに丸い瞳がこっちを向いて、
「もしかして、具合悪い?」
「ちょっとね……早引きさせてもらった。病院に行ったら軽い風邪かもって」
「えー? 大丈夫かよ。私の薬、あげようか?」
「大丈夫。薬と漢方はちゃんと飲んだし。さっきまで寝てた」
私は紅茶をすすりながら答える。由来は所在なく箸を揺らしながら、
「ふーん、あんまり無理すんなよー。ご飯はちゃんと食べた?」
「帰りに王将食べてきた。あんまりお腹に入らなかったけど」
「そっか。まぁ、早めに寝ないとなー」
そう言って、また箸は弁当の具に向かう。
少しだけ、また体が熱くなっていく気がした。どのみち、あんまり体力は戻らないのだろう。由来の言う通り、早く寝た方がいいかも……
「……そだ。由来、今日は泊まっていく?」
「そのつもりで来た。……って、具合悪いときは邪魔だよな」
珍しく気を遣う由来。私が覚えている限りでは、こう切り返してくるパターンはあんまりない。ちょっとだけ驚いた。
「……ううん。邪魔じゃない」
だから、熱のせいもあって。素直な答えが出た。
「むしろ、こういう時に傍にいて欲しい、かも」
するすると出てきた言葉に、由来は無邪気に笑って、私の髪を両手でバサバサと触った。
「なんだよー! 可愛い奴め!」
「……痛い」
「じゃあ、電気消すね」
「おーう」
その後、話も適当に。そのまま私達は休むことにした。
由来も勝手知ったる我が家のように、風呂に入り、そのまま私の寝間着に着替えてくつろいでいた。それがいつも泊まっていく時のスタイルで、私も「洗顔とか適当に使って」とか、「布団も適当にどうぞ」とかテキトーな指示してる。
ベッドに入って、私は目を瞑る。
……が、せっかく真っ暗にしたのに、由来はランプスタンドを点けて、本を読み始めた。
「……由来。寝ないの」
「んー。今更だな、別に照明つけてても寝れてるじゃん、ユカリ」
そーだけどさ。確かに、寝る前に本を読みだすのは、由来の習慣だった。
ならばと、私もスマホで音楽アプリを立ち上げて、鞄からイヤホンを取り出した。
こういう倦怠感が強い時とか、自律神経が乱れている時とか。そういう時、音楽を聴いて瞑想のようなことをすると、ある程度気持ちが落ち着くのだ。
「ちょっと音楽聞くね」
「おー」
文庫本片手に、由来は了解する。私は両耳を塞いで、また横になって目を瞑る。
イヤホンから流れてるのは、最近聞き始めたバンドの新譜だった。気の抜けた、それでもどこか力強く聞こえる女性ボーカルに、最近少しずつハマりだしたのだ。
耳を打つ音と、瞼の中の闇の中で、私は呼吸を繰り返す。
やっぱり少し疲れてるみたいだ。起きてた時に薄らいでいた体の重さがのしかかるみたいで、落ち着いてたはずの呼吸が少しずつ熱を帯びていく。
気がつけば、またさっきの熱の中にいた。思わず目を開けると、自分が数分間寝ていたことを自覚した。
「……」
聞こえていた音楽は、別のトラックに移っていた。空回りするみたいに流れる音楽に、私はイヤホンを外して、起き上がった。
「……ん。どったの、ユカリ」
由来が気づいて、本に落としてた視線を上げた。うす暗い部屋の中で私たちは目を合わせる。
「ほんと、体調悪そうだな? 明日、病院行く?」
「……」
私はぼうっとして、由来の言葉を聞く。
そのまま、もう一度布団を被って横になった。
「って、おい。無視ですか、ユカリさん?」
由来が不服そうに私の体を揺らす。私は、布団に潜ったまま、
「大丈夫。多分、明日には平気になってると思うから」
「……そーか」
そう言われたらしょうがないと、由来は引き下がった。私は寝返りを打って、そのまま天井を眺める。
「なんか、安心しただけ」
「……?」
ふと呟いた言葉に、また由来は首を傾げた。私はお構いなしに、
「別にしんどくて寝てても、由来はちゃんといるんだなーって。ただ、安心した」
「……」
そう言うと、由来は少し驚いた顔をして……どこか嬉しそうに私の頭を撫でた。
「……当たり前じゃん。ほんと、今更そんなこと言うなんて、ほんと具合悪いんだなー。ユカリは」
そのままくしゃくしゃと私の頭を撫でる。その手に、私は軽くキスをした。
「……!?」
「ありがと、由来」
不意打ちに驚いたのか、由来の顔はどこか赤い。
というか……そっか。
「あぁ、ごめん。金曜で明日休みだし。泊まりだったらしたかったよね、由来」
「はっ……!?」
「具合悪くて、気づかなかった。明日の夜なら私も空いて……」
言い終わる前に、由来は枕を私の顔に押し付けていた。
「さっさと寝ろ、馬鹿!」
流石に怒らせちゃったか。由来はそっぽを向いて、また読書を再開した。
押し付けられた枕。それを抱いて、私はクスリと笑った。
「おやすみ、由来」
その声に、由来はムッとしながら……でも、またいつもの優しい顔に戻って、
「おやすみ、ユカリ」
ただ一言。一日の終わりを、私たちはお互いに呟き合った。
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