第38話「夏の残響」(後編)
それから一週間経った、ある日のこと。
帰宅した私は部屋の窓から、外を眺める。雨が降っていた。少し強い雨が。
「大丈夫かな、有希ちゃん」
今日は部活で遅くなるって言ってたけど、こんな雨の中で帰ってこれるのだろうか。
困ったらお母さんに車出してもらうんだけど……有希ちゃん、連絡とったのかな。
「……うーん」
不安はじわじわと膨らんでいって、私は一度リビングに行こうとする。
そうして部屋の扉を見ると、ドアが軽く半開きになっていた。
「……」
ドアをもう一度、ちゃんと閉じてみる。
でも、また小さく開いてしまう。私は軽くため息を吐いた。
(不便だなー、これ)
三日前にドアが壊れてしまったせいで、完全に閉まらなくなってしまった。元々ノブを捻る時ぎこちない感触したけど、いよいよ壊れてしまったみたい。
明後日には修理が来るみたいだけど、それまで半開きのまま生活しなきゃいけない。ドアには「入る時はノックして!」って紙を貼ってある。
そんなことをしてると、ピンポンの音が聞こえた。下に降りてインターホンを覗くと、暗い画面の中で知っていた顔が薄っすら見えた。
「……っ、今開けますから!」
私が気づくと、すぐに扉を開けた。
そこに立っていたのは、有希ちゃんじゃなくて霜月さんだった。
「霜月さん」
「あっ、ごめんね。驚かせちゃって」
「ううん。でも、お姉ちゃんまだ帰ってなくて……」
霜月さんは少しだけ雨に濡れていた。その様子が気になって、私は家に来た理由を聞く前に、そんなことを呟いていた。
「ちょっと待って。今お風呂用意しますから」
「えっ? あっ、いいよ別に。私は……」
「このままじゃ風邪ひいちゃいますよ」
遠慮する霜月さんを、結局私は強引に家に上げてしまった。
お風呂に入った後、私の部屋に上がってもらう。ちなみに服は私のを貸した。身長的に私と同じぐらいだから、割りとピッタリだった。
「……ほんとごめんなさいね」
霜月さんは本当に申し訳なさそうに縮こまっていた。ちょっと強引すぎたかな。でも、体調崩すよりはマシだ。
「別にいいですって。……有希ちゃんに会いに来てたんですか?」
紅茶を出しながら、私は今更聞いてみる。霜月さんは「ありがとう」って律儀に返事をした後、
「有希ね。最近授業についていけてないからって、苦手なところを教えて欲しいって頼まれたの」
「えー……私の心配、してる場合じゃないですね」
有希ちゃん、実はそんなこと霜月さんに相談してたんだ。……そう考えると、姉妹共々お世話になりっぱなしってことで、恥ずかしくなってきた。ほんとそうかも、って霜月さんも笑ってるし。
「……お姉さんは心配なのよ。自分のことが疎かになるぐらい……由佳ちゃんのことが」
「……」
一瞬だけ、その笑顔は陰ったのは気のせいだったのか。
私は考えていた言葉を飲み込んで、別のことを霜月さんに聞いていた。
「有希ちゃんとは付き合いは長いんですか?」
「えっ……うーん、一緒に話すようになってからは、半年ぐらいかしら」
なんだ。もっと長いのかと思った。それにしては距離が近い気がする。
「もしかして、有希ちゃんがぐいぐい感じでした? お姉ちゃん、結構初対面の人でも物怖じしないから」
「ふふっ、そうだね。初対面の時も、はきはきと喋る凄い子だなあって……思って」
最初は友達を通しての付き合いだったらしい。でも、自分にはない快活な感じに惹かれて、一緒にいることが多かったみたい。
私と霜月さんは、ずっと有希ちゃんの話をしていた。霜月さんは私よりもずっと有希ちゃんのいいところを教えてくれる。私が時折驚くほどに。
本当に、隣で有希ちゃんを見ているみたいで。
その瞳は、とてもキラキラしていた気がした。
「それにしても……有希ちゃん遅いですね」
流石に気を遣って、私は携帯で連絡するために立ち上がった。
「ちょっと連絡してきます」
「あっ……別に大丈夫よ。近くまで来てるかも……」
「それかもしれませんが……あっ」
立ち上がって、霜月さんの首元を見やった時。ふと服にタグが付けっぱなしだったことに気づいた。
「ごめんなさい。首元のタグ……」
「えっ? あっ……あぁ、大丈夫」
「すぐ取ります。ちょっと動かないでください」
鋏を取り、私は霜月さんの隣でしゃがみ込む。
気を遣って新品を渡していたのだけど、思わぬミスを犯していたみたいだ。私は慎重に刃を通し、タグを外した。
その時、思いのほか私達は距離が近づいていた。タグを切るせいか、霜月さんの首筋に私の顔が近くにあって。
何も考えてなかった。何も考えず、私の口は意志とは無関係に動いていた。
「……お姉ちゃん?」
ふと、口から零れた言葉。
この時、なんで私はそんなことを言ったのだろう。
霜月さんはついさっきお風呂に入ったばかりなのに。
来ている服は、私が渡した新品の服なのに。
何故__一瞬だけ、お姉ちゃんの匂いが、気配が。霜月さんから感じられたのか。
「……っ」
そして霜月さんは、私から少しだけ距離を取っていた。
その表情から、目を離せなかった。目を伏せて、何かをしてしまったような……罪悪感に駆られたような顔に。そして、そんな表情をしていた自分自身に気づいたのか、霜月さんはハッとなって口元に手をやる。
「……」
沈黙が流れる。
そして、よせばいいのに__私は思う。二人は今まで学校に居て、もう一度うちで合流する予定だったんじゃないかって。
有希ちゃんはまだ来ないけど。
その有希ちゃんと……霜月さんは。今まで、何をしていたんだろうって。
「……霜月さん」
手を伸ばそうとすると、彼女はビクッと震えた。
そんな姿がいたたまれなくなって、私は素直に聞くことにした。
「霜月さんは、有希ちゃんのことが好きなんですか?」
「……」
「もちろん友達としてじゃなくて、恋人として」
その問いに、また霜月さんは黙り込んでしまった。
それでも、ゆっくりと。その想いを吐露してくれた。
「うん。ごめんね、妹さんの前でこんな話して」
「いえ……別に」
だって。お姉ちゃんの話をしている霜月さんは、私よりも楽しそうに笑っていたから。少なくとも、私はあんな顔は出来ない。
霜月さんの想いは、きっと特別なものなんだって分かるから、だから。
私は、一瞬だけ自分では信じられないことをしていた。
口元が触れる距離に近づいて、私は霜月さんの瞳を覗き込んでいた。
「……由佳ちゃん?」
流石におかしいと思ったのか、霜月さんが聞いていた。
でも、距離は離さなかった。私はジッと相手の目を望む。……色目を使うっていうのはこんな感じなのかな。相手を誘惑することを意識するっていうのは。
それで霜月さんの顔が、少しだけ赤くなるのを私は見逃さなかった。
「……有希ちゃんとは、どうやってするんですか?」
口にしながら、胸の中には重たい何かが押し寄せる。
お姉ちゃんの顔を思い出す。そして、霜月さんの顔も。
二人がお互いを……恋人のことを想う顔を思い出す。その度に、私は何かとてつもない違和感に支配される。
何故だろう、ずっと一緒にいた有希ちゃんが遠く感じられて。
二人のする顔が、私にはとても出来ない顔をしていて。
そもそも__今私が抱いている、この感情は。
「霜月さん」
そんな名前を付けられない想いのまま、私は最悪なことを聞いていた。
「有希ちゃんとしたこと……同じことを、私にできますか?」
雨はずっと続いていた。
部屋の中で、私はずっと膝を抱えてうずくまっていた。
あれから、どれだけ時間が経ったのだろう。気がつけば、ドアを叩く音が聞こえて……私はようやく我に返る。
「有希ちゃん?」
そこに立っていた有希ちゃんは、何だか驚いたような顔をしていた。私は出来るだけ笑顔で答えるようにする。
「有希ちゃん、遅い。霜月さんもう帰っちゃったよ?」
「……」
有希ちゃんは黙ったままだ。そうして、ゆっくりと近づいてきて、
「……由佳。なんで」
「えっ?」
響いた声は、震えていた。
怒ったような、泣きたいような……そんな顔。そんな顔で、有希ちゃんは、
「なんで、香凛にあんなこと言ったの?」
「……」
私は意味を理解する前に、自分のドアを見やった。
それでふと思う。__あの時、有希ちゃんが壊れたドアの前に立ってても、気づけなかっただろうな、って。
だとしたら。
有希ちゃんは怒っているのだろう。自分の恋人に、あろうことか迫った妹。
でも、私は……そんな有希ちゃんの表情に、安心してしまった。
「あぁ、そうだよね……うん」
やっと、自分のしでかしたことに実感が湧いて、罪悪感と自分への怒りが頭の中で渦巻いていく。
「霜月さん、言ってたよ。私と有希ちゃんは違う人間だから、同じことはできないって」
「……」
「そうだよね。有希ちゃんと霜月さんは特別って、やっと理解できたよ。……顔の似てる私が誘ったら、霜月さんもコロッと行っちゃうかと思った」
「……っ!」
最後の一言に、有希ちゃんは私の首元を掴み上げた。
「香凛は……そんな子じゃない!」
「ぐっ……」
首を押さえられたことに、私の息は細くなる。
そのうめき声に気づいたのか。有希ちゃんはハッとなって、また手を離した。
「ごめん……由佳」
掴んだ手を、震えるもう一方の片手で抑えた。その姿が痛々しく見えて、咳き込みながら私も謝罪する。
「謝るのは私の方だよ……有希ちゃん」
取り返しのつかないことをした私は、決して届かない言葉を口にする。
そして、思い出したかのように、頬から涙が伝った。
その夜。私は暗闇の中で息を吐く。
苦しい。胸の中には何かがつっかえたみたいで、そんな私を追い詰めるように記憶が反芻されていく。
私の隣に特別なもの。
姉の恋という特別。でも、私はそれを飲み下せなくて。
なんで……なんでこんなことになったんだろうと。
有希ちゃんは怒って、私を睨んで……首を。
「……あ……ぁ」
自分の手を首を掴んだ瞬間。全身に電気のようなものが駆け巡る。
頭は真っ白になって。私は力が抜けた体と、手をベッドに投げ出す。
(……何、今の)
もう一度、首に手を添えて、力を入れる。
痛みを感じる。その痛みが、あの時の感覚に繋がる。
有希ちゃんが本気で怒った時の、あの痛み。
その痛みが、私に別の意味を与えてくれる。
(……苦しい)
その痛みを、何度も考える。頭の中で、心の中で。何度も。
(……苦しい)
その痛みは、きっと有希ちゃんの顔を見た時。霜月さんの顔を見た時。二人の特別に触れた時の痛み。
そして、思い出す。
学校で霜月さんと話した時の、彼女の言葉を。
「そっか……やっと分かったよ。霜月さん」
数か月後、私は家を出ることになる。
志望した高校に無事に受かったのだ。それで次の学校は、寮に入ることになるから、その日は支度を済ませて家を出る日だった。
お母さんとお父さんにはお別れを言ってある。あとは、
「……有希ちゃん」
両親はすでに仕事で家を出て、玄関で見送ってくれるのは有希ちゃんだけ。
有希ちゃんは泣きそうな顔をしていた。でも、何も言えない。例の一件から、私達は一言も口をきいていない。
だから、私は。
「ごめん。お姉ちゃん」
そう言って、荷物を持って玄関を出た。
視界の端で、何かを言いかける有希ちゃんが見えた。
それでも私は足を止めない。……逃げるみたいに、家を出たんだった。
それから半年経って。
夏の終わり。私は部活の友達に別れを告げて、一人通学路を歩いていく。
あれから、ずっと考えていた。
私の世界は全く新しいものに変わって、今まで過ごした時間も、有希ちゃんとの日々もまるで無かったかのように錯覚してしまう。
でも、それでも。私の罪は決して消えない。
「……」
ふと、右手を首に当てる。
この癖も、直ってなかった。何度も止めようとしたけど、毎夜私はその痛みを感じている。
この痛みだけが、私の苦しみに意味を与えてくれる。
(……馬鹿だな、私)
この気持ちに意味なんてない。私の罪も、決して許されるものじゃない。
それでも気づいてしまったんだ。あの時、私は。霜月さんが言ったみたいに、
__当たり前だったことが、当たり前じゃなくなるのって、怖くないかしら。
「……ほんと、怖いですよ。霜月さん」
そう、本当にそうだった。
いつも一緒に過ごしてきた姉は、当たり前のように恋を見つけて。
私が当たり前だと思っていた世界は、少しずつ歪んでいった。普通の日常に生まれた、大切な人の、大切な人。私はなぜ歓迎できなかったのか。
そう思っても、受け止められなかったのだ。
霜月さんを想う、姉の顔はあまりにも見たことがない顔をして。
その異常を、霜月さんは当たり前のように受け止めていて。それが私には息苦しくて__
気がつけば、また私は首を手に当てていた。私は精一杯、自分を憐れむ笑みを浮かべてみせた。
「……ほんと馬鹿だ。私」
そうして、冷たい風が吹き抜ける。
いつの間にか、秋の足音が訪れていた。この夏も、じきに終わっていく。
私の嫌いな季節。でも、姉は好きだって言った瞬間。
あの人が好きだった季節が、終わろうとしていた。
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