Lost

酒田青

第1話

 こないださ、古道具屋に行ってさ、と彼は会話を転換させる。さっきまで話していた彼の実家の猫の話は動物が苦手なわたしには今一つ響かなかったし、そのほうが助かる。彼はぬるくなったと思われるビールを最後までぐいっと飲み干し、また話し始める。てのひらを向かい合わせて四十センチくらい離し、これくらいの、とありもしない何かを見るような目をする。

「地球儀を買ったんだ」

「地球儀?」

 わたしは微笑んで興味深げな声を出す。本当は何も考えてないし、この会話が面白くなるようには思えなかった。わたしは彼に興味がなかった。飲み会の席でたまたま隣になり、話さないわけにはいかないから話し始めたのだった。会社では挨拶程度しかしない仲だったし、彼だって壁際の席で正面の席の友人が飲みすぎてトイレに駆け込んでしまったから隣のわたしに話しかけただけだろう。この飲み会は部長が主催した部長のための飲み会で、テーブルの端のわたしたちは部長にお酌をしてあげる必要も盛り上がっているふりをする必要もあまりなかったから、会話だってしなくてもいいはずだった。でも、黙ったままでビールをあおるのは確かに気まずい。会話は必要だった。

「そう、地球儀。青くて、国境とか地域名とか書いてないやつ。きれいだよ。つるっとして触った感じもぬめっとしてて」

「へえ、珍しいね。ぬめっとしてるのは塗料の素材かなあ」

「多分ね。古道具屋の主人は何か変わっててさあ、髪が長くて白髪で、陰気で笑った顔が想像できないくらいでさ。小汚くって。この地球儀、元々はどういう商品なんだろうと思って訊いても、何も言わない。仕方ないからその地球儀を買って――八百円だったかな――千円札出しておつりもらうときに、ちっちゃい声で『拾った』って言ってた」

「拾った?」

「うん。何か、そこらに落ちてたみたいだよ。河原だったかな。そんならタダでよこせよって思ったけど、まあ気に入っちゃったからまあいっかって。千円しないしね」

「君も何で気に入っちゃったかなあ。そんな得体の知れないものを。大丈夫? 汚くない?」

 彼の苗字を一瞬思い出せなくて、「君」と言ってしまった。彼はそれが嬉しかったらしい。表情が明るくなった。

「何か先輩女子って感じでいいよね。おれのほうが年上だけど」

 そういえば彼は大学院まで行ってからうちの会社に入ったのだった。同期ではあるが、二歳年上だ。

「まあ、さっきも言ったけどきれいなんだよ。見た目つるっとしてて、ぴかぴか光って。取り憑かれたみたいに好きになった。……あのさ、見に来る?」

「え?」

「部長盛り上がってるし、抜け出しても気づかないよ。うちすぐそこのアパートだから、ちょっと見に来なよ」

 畳敷きになった貸し切りの部屋の中、部長は真っ赤な顔で新入社員の男女を侍らせて人生論を語っている。その周りでは年かさの社員が宴もたけなわの盛り上がりようだ。笑い声がさざなみのように起こっては遠ざかり、また起こる。いい加減飽きてきていた。わたしは飲み会が得意ではないし、恋人と疎遠になっていて鬱々としていたのだ。隣にいるこの松村君は、真面目すぎるところもあるけれど爽やかで気遣いもできる人だ。少しくらい、いいだろう。たとえ地球儀を見せることだけが目的ではなかったとしても。

「行ってみようかな」

「そう? じゃあ、早速行こうか」

 彼はグレーの背広のジャケットを手に持ち、立ち上がった。会費が事前に徴収されていてよかった。あとから責められることも、払いに行って理由を訊かれることもない。わたしもカーディガンを整える。気分転換。そう、気分転換だ。

 そろそろと部屋を出て、酒と煙草の匂いがする賑やかな通路を歩き、店員の威勢のいい挨拶を背に、わたしたちは夜の繁華街に足を踏み出した。


     *


 彼のアパートは駅にかなり近く、今の時間は部屋の中にまで外の人々の声が届いた。車の音もするし、こんな部屋で眠れるものだろうかと思うくらいだ。居間兼寝室に通され、つくねんと床に横座りする。色の少ない、寂しい部屋だ。とにかくベースの壁紙とフローリングの白とこげ茶に合わせればいいものとして家具などを揃えたらしく、その二色のものか、ネイビーのカーテンくらいしか目につくものがない。

「美加さんはジュースがいいよね」

 冷蔵庫を開けた松村君は早くもわたしを下の名前で呼んでいる。何故だか不快には思わないのでそのままにする。

「炭酸系ある?」

「あるよ。スプラウト」

「じゃあそれ」

 松村君の部屋はなかなかの狭さだ。整えられたベッドと片づいた調度類で少々ましに見えるが、この居間兼寝室は十畳程度だろう。駅に近いからそんなものだとは思う。まあ、わたしよりはましか。最近は恋人が来ないから部屋は片づいていないし、元々セキュリティーに重点を置きすぎていて、部屋が安全な分払える家賃にするためにひどく狭い。

「地球儀は?」

「あ、ちょっと待って。地球儀は、しまってあるんだよ」

 松村君がコップを持ってきた。わたしには透明な炭酸飲料。自分には温かいブラックコーヒー。

 ベッドの横の木目調の小さなテーブル――おそらく松村君の食卓も兼ねている――にそれは小さく音を立てて置かれ、わたしはお礼を言って飲んだ。冷たさと炭酸の刺激とが、さっきまで飲んでいたビールを忘れさせる。松村君はクローゼットの扉を開いて中に体を入れ、ごそごそしていると思ったら大きめの四角い箱を取り出した。段ボール箱だ。それを床に置き、中身を取り出す。出てきたのは円盤状の銀色のもの、それから彼の言っていた青い地球儀。確かに美しい。ぴかぴかして、トルコ石のような海と様々な色の陸地が見える。

 彼は円盤をテーブルの上に置き、地球儀をその上に持ってきて手を離した。驚いたことに、そのまま円盤から五センチほど離れて浮いている。磁石で浮いているのだろう。まじまじと見ると、てっぺんの北極の氷が透明がかって美しく、砂漠地帯はテレビの画面で遠景を見るよりも細かくリアルだ。これはほしくなって当然だな、と思う。

「きれいでしょ」

「まあね。日本って緑色だね。ちっちゃい」

「地球儀、今まであんまりちゃんと見たことなかっただろ」

「まあね。そんなに興味ないしこれくらいきれいな地球儀じゃないと見ないかも」

 はは、と彼は笑いながらコーヒーを飲む。彼は黒髪を掻き上げた髪型をしていて、家に着いてからは少しそれを崩していた。

「美加さんは何の学部出たの?」

 彼は微笑み、あぐらをかいて足を抱える格好をした。

「経済学部。就職しやすいと思って」

「へえ、すごいな。おれは単純に行きたい学部に行って、しばらくモラトリアムに研究してた。生物学部。どうも研究者としてはモノになりそうにないって気づいたときには大学に六年もいて、慌てて就活したら全っ然採用されなくてさ。就職できてよかったよ」

 わたしたちは楽しく話した。わたしはさっきまで彼に全く興味がなかったのが嘘みたいに思えた。彼は朗らかで明るく、優しかった。わたしは久しぶりに男性と打ち解けた気分で話した。

 わたしたちが言葉少なになり、キスを交わし、ベッドに潜り込んだのは、当然のことだった。


     *


 目覚めたとき、わたしは自分の部屋でも恋人の部屋でもない場所にいることに驚いた。常夜灯の下では何もかもうっすらと見え、それでここが見覚えのない場所だとわかった。起き上がり、隣で寝息を立てる松村君を見る。彼はぐっすりと眠っていて、あどけない顔をしていた。ほっとした。同時に、わたしは彼とつき合うだろうと思った。彼の頬を撫でる。温かく湿った皮膚がわたしの手に吸いつき、短く生えてきた髭が肌を傷つけそうにざらつく。

 ベッドから下りる。足下に服が散乱していた。それらをかき集め、シャワーを借りることにした。一歩踏み出した瞬間、何かが足に絡みついてきた。転ぶ、と思って手をテーブルに乗せて体を支えようとする。ビタン、と大きな音を立て、気づけば彼の大事な地球儀の円盤状の台を叩いていた。申し訳のないことをした。傷つけてしまったかもしれない。そう思って顔を近づける。

 ブウン、とパソコンが起動するときのような音がした。驚いていると、地球儀が輝き始めた。目の前が真っ白になるほどの光。

「何だ?」

 松村君が起き出した。わたしを見、地球儀を見、

「どうしたの? 何かしたの、それ……」

 と不安げな顔をした。

「地球儀の台を叩いたら、こんな風になって……」

 彼はベッドから下り、自分が裸なのに気づくと下着を手に取って慌てて穿いた。

「何だろう? こういうおもちゃなのかな?」

 そろそろと近づき、彼は地球儀に触れた。途端に、驚くことが起きた。彼が触れた大西洋の青い色にさざ波が起きたのだ。

「うわっ、すごいね。よりリアル。これってこういうおもちゃだったのかな」

 わたしも服を身につけ、地球儀を見る。それから北極に触れ、ざらついた感触を味わう。それは氷のように冷たく、わたしが触れた部分は少し溶けてしまった。驚いて手を離す。

「何か、不気味だね」

「うん」

 彼はうなずき、地球儀のスイッチを切ろうとした。まずはわたしがさっき地球儀を起動させたときのように台を叩いた。でも、地球儀は変わらず光っている。台を回したり撫でたり、色々試すがどうにもならない。

「困るね」

「とりあえず、箱にしまうよ」

 彼は先ほどの段ボールを持ってきて、地球儀の台を抱えた。地球儀は輝きながらくっついてくる。できるだけ本体に触れないように箱に入れ、蓋を倒して閉めて、光はどうにか目に入らなくなった。

「何だろうね」

「うん……」

 彼はスマートフォンをいじり始めた。多分ネットでどういうおもちゃなのかを探しているのだ。わたしも同じように調べようとバッグのところに行って手を入れた。そのときだった。

「あっ」

「どうしたの?」

 彼が素っ頓狂な声を出したので、彼が見つめるスマートフォンの画面を覗き込む。英語のツイッターだ。

「カナダで震度七の地震だって」

「七?」

 あまりの大きな数字に驚く。

「震源は大西洋北部」

「へえ」

「津波が起こるんじゃないか、これ」

 彼はテレビをつけた。わたしは彼の焦りようを不思議に思いながらベッドのふちに座って一緒に見始めた。テレビはほとんど放映終了していて、何かあったとしても深夜仕様の下品なバラエティー番組しかやっていない。

「どうしたの?」

 遠くの国の地震なんて、そんなに気にすることだろうか? 彼は懸命にツイッターの画面をスクロールしている。全部英語だ。

「やっぱり」

 しばしの沈黙のあと、彼はスマートフォンをわたしに突きつけた。

「津波だって」

 TSUNAMIの文字はわたしでも読めた。TSUNAMIという文字だけが太字で表示された投稿が延々続く。多分彼はこの文字で検索をかけたのだ。

「海沿いの地域がかなり高い津波に呑み込まれたって。これ、明日日本でも大きなニュースになるぞ」

「どうしたの? 何か普通じゃないよ」

「だってさっき、地球儀の大西洋に触ったんだよ、おれ!」

 ぽかんと彼の顔を見る。

「そんで、波が円になって起きた」

「寝ぼけてる?」

 彼が言う意味はわかる。地球儀がわたしたちのいるこの地球とリンクしていて、起動後に触ってしまった部分でその通りの異変が起きたと言いたいのだろう。でも、そんなことはありえない。

「大丈夫だよ。偶然だよ」

「そうかな……」

「寝起きで頭が混乱して、変に出来事を結びつけちゃうんだと思うよ」

「だといいけど」

 彼の視線はクローゼットに向かう。

「大丈夫。わたしたち明日も仕事でしょ。寝ようよ。わたしシャワー借りるね」

「うん……」

 彼は考え込んだままベッドに座った。わたしはバスルームに向かいながら、彼の思いこみの強さに少し面倒くささを覚えていた。

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