第11話 若紫の君へ届ける声

 果たして、愛之助は脳出血という診断だった。彼は救命センターに運ばれ、家族が呼ばれた。患者家族の待合室で愛之助の家族が待機する仲、米はひっそりと廊下の片隅で泣いていた。

(私が、愛之助さんを書店に連れて行かなければよかったのに。私のせいだわ)

 どんなに愛之助の家族に慰められようと、自責の念は消えなかった。以前美咲に対して抱いていた心の澱は、愛之助と出会ってから清水となって心の中から流れ去っていたが、彼を想い、自分への怒りで泣く間に、再び米の胸の中に溜まっていた。

 心臓が苦しい。自分が倒れればよかったのに。病気に倒れた彼と代わってあげたい。

 ついにたまらず嗚咽をもらす彼女の後ろに立った女医は、香織だった。

「香織さん……」

「お願いがあるの」

 香織はボイスレコーダーを手にしていた。

「あなた、『源氏物語』を専攻している学生さんなんですって?そして、愛之助の恋人。そうでしょう?」

 高飛車な言い方をしつつも、その口調は優しく、思わず米は涙を拭いて、はいと答えた。

「『源氏』の一節を少しでも覚えてない?」

「少しなら」

「じゃあ、このボイスレコーダーにあなたの覚えている文章を録音させて。そして。愛之助に聞かせたいの。愛する人が、愛する文学を吹き込んだ声を聞かせてあげたい。私にできることはそれだけなの」

 香織は目を伏せた。米ははっとした。

「香織さんは、愛之助さんのことを、もしかして」

「……参ったわね」

 香織のブラウンの瞳から一筋の涙がこぼれる。

「そうよ。私は、愛之助のことが好き。でも、ずっと素直になれなかった。喧嘩して、ちょっかいを出すことでしかあいつとつながることができなかった。本当はね、すごいと思っていたのよ。あいつは、障がいを持ちながらもそれを乗り越えていこうとしている。勉強を重ねる私よりもずっと文学を愛していたわ。私が投げ出した『源氏』を、あいつは愛することが出来た。心の中に宝物を持っていたの。私なんかよりずっと心が豊かで、努力家で……そんなところが、好きだった。そうよ、認めるわ。あいつが……命の危機に瀕するこのときにしか、あふれる気持ちを口に出せない馬鹿な女だわ、私」

 二人の女はお互いに同じ男性を想って涙に沈んだ。米は香織の気持ちを受け止め、香織は幼なじみとして米を認め、二人は抱き合って泣いた。自分以外の誰かを想う、温かい愛の涙が、あふれた。

 やがて、香織は録音の準備をした。米はしばらく考えて、「若紫の君」にふさわしいある一節を口ずさんだ。

「明け行く空はいといたう霞みて、山の鳥どもそこはかとなうさへずりあひたり。名も知らぬ木草の花ども色々に散りまじり、錦を敷けると見ゆるに、鹿のたたずみありくもめずらしく見給ふに、なやましさも紛れ果てぬ」

 録音を終えたあと、香織が尋ねた。

「どういう一節?」

「これは、『源氏』の「若紫」という巻にある一節で、病気になった源氏の君が、春の山の風物に心癒されて病気による苦痛が完全に取り紛れてしまう箇所です」

「そう。愛之助は春が好きだった。さすがだわ」

 レコーダーを白衣のポケットに入れると、香織は微笑んで去って行った。米は、自分の声が愛之助にどうか届くようにと香織の背中に向かって一礼した。


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