第5話 結城愛之助との出会い
「てらこや」の教室は、普通の教室のように教師が黒板の前に立って授業をし、それを生徒が見ているというスタイルではない。生徒は多くて5、6人。大学の空き教室を利用した「教室」には椅子が数脚と机が二つ。それぞれにマンツーマンで受け持ちの教師役の学生がつきっきりで教えるのだ。これは、スタッフに教員希望の学生が多いことと生徒側の熱い希望による。最近では、発達障害やグレーゾーンと診断された若者もぽつぽつと訪れるようになった。結城愛之助はそのような熱意のある青年だという。
「教室」のドアを開けたとき、米はかすかに笑い声を立てたりおしゃべりしたりする年配のご婦人たちに迎えられた。彼女は軽く一礼すると、先ほどまで書類で確認していた、25歳という年齢よりも老成して見える結城愛之助の隣に座った。
「こんにちは、結城さん。私が榊美咲の後任、田村です」
米はぐっと汗のにじむ手のひらに力を込めた。
「よろしくお願いします」
愛之助がにこりと笑う。米がスタッフに迎え入れられるまで、彼の担当は英文科の美咲だった。彼女の適性と愛之助の漢字の読み書きがしづらいという特性がしっくりと合わないことから、スタッフ会議で検討が重ねられた結果、教育実習を終えて自信をつけた米が愛之助の担当になることが決まったのだった。
「髪、きれいですね」
「は?」
米は愛之助の不意打ちとも言える賛辞に間の抜けた返事をしてしまった。
「いえ、榊先生は茶色の髪でしたから。もちろん似合っていましたが、僕は黒髪の女性が好きなんです。髪の毛、丁寧にトリートメントされているんでしょう?艶が出ていてきれいですよ」
米は、真面目な自分の抱える家庭の闇から生まれる劣等感から、せめて外見だけでも整えようと気を配ってきた。愛之助の指摘する黒髪も、行きつけの美容室ですすめられた高価なシャンプーとコンディショナー、ヘアオイルを使って整えている。そんな自分の目立たない努力を評価してくれる人がいる。ただそれだけで米は胸がいっぱいになり、頬が赤くなるのを感じた。
「ありがとうございます……」
恥ずかしさから、米は愛之助から目をそらした。だが、彼の落ち着いた姿はしっかりと胸に刻み込まれた。
「なんだか、結城さんの方が先生みたいです。私、どうしてもあがり症で」
そうつぶやくと、愛之助は眼鏡を指で押し上げてふっと笑った。
「そうですか?落ち着いているとしたら、ただ社会人経験が長いだけですよ。きっと田村先生もいい先生になれますから。僕を最初の栄えある生徒にしてください」
授業時間が始まった。私語の時間はおしまいだ。米は愛之助の目標を聞いた。「てらこや」では、生徒の自主性を大事にしている。その確認だった。
「年賀状を書けるようになりたいんです」
愛之助の目は真剣だった。
「年賀状ですか。最近はあまり書く人もいませんよね」
「僕は昔から書きたかったんです。文字の入力は音声入力に頼れますが、なんとか手書きで、ひらがなに漢字を交えて書きたくて。出したい人がいるんです」
「そうですか。いい目標ですね。古風で素敵です。私も年賀状は毎年書いていますよ」
「では、田村先生に出しますよ。いちばんに」
「出したい方に出してからでいいですよ。うらやましいです。最近はみんなSNSで済ませてしまいますから、かえって迷惑かと心配で。どんな方に出したいんですか?」
何気なく聞くと、愛之助の顔は曇った。ぎりっと唇をかんでいるのがわかる。
「……僕をずっといじめてきた子です」
「すみません!」
米はあわてて謝ったが、不思議に思った。結城愛之助は、どうして憎い相手に年賀状を出したいのだろう。普通は縁を切りたいのではないだろうか。
いつのまにか米は、この「てらこや」で自分と愛之助の人生が交錯した今、彼の生き様が足跡として刻まれてきた地図を見たいと考えていた。
「いいえ、気になさらないでください。さあ、僕に漢字とひらがなのじょうずな書き方を教えてください」
愛之助には笑顔が戻っていた。愛之助は自分の髪を褒めてくれたけれど、彼には雪明かりの中でともるらんぷのような、ほのかに、だが確かに人を癒す笑顔が似合う。米はひらがなを書くプリントを用意しながらしみじみ思った。
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