07

「離せというのが聞こえないの? …ちなみに仕事だけど、随分前に辞めてあるから。これが、どういう状況か解るわよね?」


殺意しかない冷え切った瞳に射すくめられた二名…どちらかは定かではない悲鳴が上がるが、聞かなかったことにしてエマは喉元に張り付いていた手を振り払った。


「じゃあ、ご愁傷さま。もう最期だから、いちおう挨拶はして行こうかしら…」


ようやく、格の【違い】に感づいたのだろう。エマからは、素人でも感知できるほどの殺意が湧出していた。 


「…そうはいかないよッ。育ててもらった恩も忘れて…一人で出て行くっての!? アンタと過ごした時間、どんだけアタシが耐えたと思ってんだっ」


本能的な恐怖を催したのだろう、しばらく言葉に詰まっていた樹里亜だったが、身の程知らずにも執拗に追い縋ると右肩を掴んで強引に振り向かせた。


「耐えた……アンタが? 一体何に耐えたというのよ。アンタ達ときたら、湯水のように金使いは荒いわ、横柄な態度でなけなしの稼ぎまでも絞りとって…それで『我慢してやった』なんてよく言えるわね!」


「言わせておけば好き勝手言いやがってっ、アンタはウチらの小間使いなんだから、今まで通りアタシ達の生活費を稼ぐのが当前でしょうが。今更ふざけんのも大概にしてよっ」


「【 黙 れ 】」


「いぎっ……!!」


濃厚な殺気の膜が、エマを包むように湧出する。


「……黙りなさい。いい歳をして恥ずかしくないの?」


獰猛な金色の瞳に射竦められた樹里亜が、無様な声で呻きながら膝をつく。

だらだらと汚ならしく汗をかく様子は、正視に堪えなかった。 


「エマ、許して…許してよお。…アンタから奪ったもの、時間かけてでも返すからさ…見捨てないで…」


這う這うの体で転がり出てきた美菜子が樹里亜を抱えて庇う様を、エマは目を眇めて睥睨する。


「いいえ叔母さま、こちらは謝罪など求めていませんし、訣別は決定事項なので。おっと、言い忘れる所だった。…薄々気付いているとは思うけど、叔父さまのこと…待っても無駄よ」


追いすがる叔母に凍るような笑顔で応え、エマはもう一つ思い出した風の口調で続けた。

なにか思う処でもあるのだろう、動揺をみせた叔母の様子に、エマは艶然と笑った。


「どういうこと!? アンタ、なにか連絡もらっていたの?」


「どうもこうも。とっくの前から知ってたのよ……だって、あの男を逃がしたの、私だもの」


「聞き捨てならないわ! お父様が私達を捨てて逃げたですって? なんて恩知らずなっ、ちゃんと働いてるからこの家で生活できるのよっ」


「うふふふ…ああ、ごめんなさい? ちゃんと働いてる? それはどの口が言うのかしら。まともに働きもせず、遊び三昧のクズの癖に……やっぱりアンタ達は、いま自分達が措かれている状況すら把握できていないのね。言っておくけど、アンタ達がのうのうと生活していた資金はね、どうしてたか解る? 父親が借金して賄っていたのよ」


「ふ、ふざけんな! 誰がそんな嘘信じるかっ」


樹里亜が振り被ったモップが迫る。


─────ドガァッ…!!


「ギャッ!」


ぶつかる、と思った瞬間、傍らに控えていたハンクが樹里亜ごとモップを蹴倒した。


「すまん……見ていられなかった…」


「ううん、助かった。ありがとう…」


隠れているように算段していたのに出てきてしまった彼に、エマは小さく肩を竦めてみせる。


「痛…」


チリリと痛む頬を撫でてみると、掌には結構な出血量が付着した。


「エマ、大丈夫か?! いま手当するっ」


「……私は大丈夫よ。それより、よくも傷付けたわね。許さない…」


ぺろりと付着した血液を舐めとった瞬間、エマの眸がじわりと孔雀色に染まる。

室内で風も起こる訳もないのに、エマの髪は揺らぎながら毛先から砂金色に塗り潰されていく。


「吾、へクセの裔なり。目の前の咎人の罪科を示せ」


エマが頬に付いた傷を、指先でなぞった瞬間だった。


「ぎゃあああぁあああっ!!」


突如、美菜子と樹里亜の顔面が弾けて裂け…大量の血飛沫と醜い悲鳴が上がった。

ぼたぼたと滴る血液が、斑に絨毯を染めていく。

 

「…顔が…私の顔があぁっ!」


「きあああああああああっ…鏡、鏡はどこ!? アタシの顔、顔が…っ」


「もう二度と戻らないつもりで家を出たのだけれど…“これだけは”していこうと思って、戻ってきたのよね」


「お前、まさか…戻ってきた理由は…」


叔母、美菜子が傷を押さえながら息を呑む気配に、エマは摂氏零℃の笑顔で応えた。


「解るでしょ、復讐よ。アンタ達は私を蔑ろにするに飽き足らず、悪びれもしなかった。さて、もうそろそろ10分経ったかしら?」


エマはリビングに据えてあるアンティークの柱時計を見る。柱時計の長針は、ちょうど16時10分を示していた。


「10分…? なんの10分よ…」


「うふふ…これで、ついに楽しいお遊戯はお終いよ叔母さま、次には地獄が来るわ。私からのせめてもの置き土産よ」


「アンタ、何言って……」


「外を御覧なさいな」


言われたとおり、カーテンを薄く牽いて外を確認する美菜子だが、戻ってきた彼女の顔色は蒼白になっていた。

自身と娘の人生の終焉を、ようやく悟ったのだ。


「じゃあ、私は行くわね。貴方達を除いて、この世界の凡ての記憶記録から私は去る。でも憶えておきなさい……決して、貴方達は許されない。罪は傷として刻まれて…その身が朽ちるまで付いて回るから」


「エマ、待って! ごめんなさい、ごめんなさい、謝るから…見捨てないでっ…」


血で汚れた手がエマの服の袖を鷲掴んだが、すかさずハンクによって払いのけ排除される。


「エマ…待っ、」


風に乱された髪を抑えながら、美菜子はようやく自身の悪行に気が付いた。しかし、既に何もかもが遅過ぎていた。


「今更すぎ。待ったなんて聞かないわよ…」


エマが窓を開け放つと同時に、乾いた真冬の風が吹き込んできて室内を豪快に荒らした。

エマの怒りに同調した風の魔物が一気に雪崩込んできてカーテンを引き裂き、椅子を引き倒したのだ。


「御機嫌よう。…アナタ達の心に、常に地獄がありますように」



吹きすさぶ風のその中で、にっこりと残酷に艶然と微笑むエマと、寡黙に傍に控えるハンクの姿が、まるで白昼夢の様に掻き消えていく光景を愕然と見送ったのも束の間…傾れ込んできた取り立て屋に乱雑に取り押さえられながら、美菜子は涙を流した。


その涙の理由を、誰も知らない。

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