第21話 無い勇気
屋上に続く不気味な血痕をたどり、私とカズは急いで階段を昇る。屋上へ続く階段の踊り場にも真司の姿はない…。ただ不気味な血痕だけがそこには残っている。
「真司…いるのか?」
私は恐ろしくなって声をかけたが、返事は一向に返ってこない。その時、何かの鎖がこすれるような音が階段奥から聞こえてきた。屋上の扉の方からだ…。
「真司!いるのか?」
私は先ほどより声を張り上げて屋上の扉方向見て声をかけた。
「兄さん、どうしたの?」
あっけらかんで拍子抜けするような声で真司から返事があった。屋上前で真司とあが揉み合いになっているという事態も想像したが、そんなことは全くなかったようだ。
最悪の事態を想像していたなら早く屋上に足を進めるべきであったのだが、足が前に出なかった…。植え付けられた恐怖心はそんなに簡単に摘み取れるものではないのだ…。カズも一緒だ…、異常なのは真司なのである…。
「真司…大丈夫なのか?」
「あぁ、大丈夫だよ!ここにいた実験体も屋上に入れておいただけだよ。兄さんお手柄だね。」
真司にとって”あ”はもう人ではないのであろう…、人間と認識していない…。私はまだ”あ”に対しての道徳心が働いてしまう。
「戻ろうか。もう体育館は使えないから、自衛官の人にどこに行くべき聞こうかな。いつもの場所にいるかなぁ。」
真司の革のジャケットは血を含んだのかところどころ黒く変色し、斑模様の不気味なジャケットになっている。それは真司の心が少しずつ闇に染まっていく様を表しているように見えてしまっていた。
「真司…大丈夫なのか?」
「大丈夫だよ。」
何度も同じ質問をしているような気がする。しかし、肉体的な怪我の有無を聞いているのはなく、心がという点では質問の意図が違っている。しかし、大丈夫でない人間に大丈夫かと聞くのは悪手であり、質問された側は大丈夫と答えるのだ…。私はそのことを理解していた…、しかし大丈夫かと聞くことしかできなかった。
私たちは再度いつもの校舎裏へ向かうために、グラウンドへ足を運んだところ正門に人だかりができているのが見えた。大勢の人間を自衛官の鈴木さんが一人で必死に制止しているようである。
想像していた通りだ、先ほど起こった体育館での出来事で避難所に対して見切りをつけたのであろう。悪いことにそれを先導しているのはあの時の男だ…。
「どうしてくれるんだ!あの時、俺たちを出していればこんなことにはならなかっただろ!」
例のごとく、自衛官につかかっている。皆、不安とストレスでそのはけ口を探しているようにも見える。一人が声を上げるとそれが増え、どんどんと人が増え、20人近くの群衆となっている。
到底自衛官の一人で止められる勢いではない。焚きつけられた群衆ほど怖いものはない…、”あ”などとは比べ物にならない。知恵を持っている分、より狡猾な分、人の方が厄介である。
ある男の一言が発端となり群衆は暴力に訴えかけ始めた。その一言は真っ赤な嘘である…、しかし、人は信じたいものを信じるのだ。自衛官が”あ”を匿っている、さらには口減らしのためにその”あ”を体育館に放った…そんな根も葉もない嘘であった。
しかしその一言における「匿う」ということに関しては、自衛官は”あ”を隔離しようとしていることは事実としてあり、その一片だけをとった場合それは事実なのだ…。実際に、”あ”になったかはまだ定かではないが、自衛官は保健室に佐々木さん、浦井さん、教室には噛まれた女性…、そして屋上には”あ”が2人を隔離している…。その発言に対して、鈴木さんは反応してしまった、それを群衆は見逃さなかったのだ…。
一対一であれば鈴木さんは鎮圧も可能だったのであろうが、複数相手にはやはり分が悪い…。暴力に訴えかける群衆に対しても、鈴木さんは手を出そうとはしなかった。殴られ、蹴られ、地に倒れこんだ。
「いまだ、皆!」
あの男の号令で正門を乗り越えて群衆が外に出た。侵入防止の突起は入ってくるものに対しては凶悪な牙となるが、外に出るものに対しては全くの無意味であった…。
あっという間の出来事であった、数人が門の向こうに行き、そのものが中にいる人間を引っ張り上げるように補助し、群衆は門の外へ旅立っていった。
私たちはその光景を黙って見ていた…。何もなすすべがなかった…。砂埃が立ち込め、今までいた人たちは門の向こう…、まるで監獄の内と外のような光景だ。安全など確保されていないはずの門の向こう側の人間は歓喜にあふれている、一方でこちら側は呆然と立ち尽くす私たちと倒れた自衛官…。どちらが本当の地獄なのかわからない。
どこからか不気味な鼻歌が聞こえる…。その歌は懐かしく、聞き覚えのある歌であった…。歌はどうやら倒れている鈴木さんが歌っている様だ…。
私は歌を思い出した…、童謡の通りゃんせだ…。通りゃんせの歌詞を思い出し私は身震いした…。行きはよいよい…帰りはこわい…。そういう事だ…この避難所から出ていった者への戒めであろう…。もし帰って来た場合は承知はしないぞ…という。
「鈴木さん、大丈夫ですか…。」
私は不気味な鼻歌を歌う鈴木に恐る恐る近づいた。鈴木さんは不敵な笑みを浮かべ、正門の方をじっと見ていた。
「帰りはこわい…、覚えておいて下さい…。」
鈴木さんはぼそっと外にいる人々に向けて呟いた。その呟きには暗い感情がこもっていた…。
「鈴木さん立てますか?」
「肩を貸しますよ。」
私は鈴木さんの手を取り引っ張り上げようとしたが…力及ばず…大勢を崩し私も地面に倒れるところであった。非力な私は出しゃばらず、真司とカズに任せることとした…。
「鈴木さん、他の自衛官の人たちはどこにいるか?わかりますか?」
「多分、無線で入っていた情報だと…体育館にまだいると思います…。」
あの大惨事の後だ、事態の収拾にもそれなりの時間がかかるであろう…。しかし、体育館で生活していた人はこの避難所には何人残っているのだろうか…、先程避難所を去った人々はあの口ぶりからすると体育館で生活していた人の様にも思える。
体育館では、自衛官の人たちが現場の整理をしていた。元は人であった”あ”を丁重に扱い、袋に詰めている。例え”あ”になったとしても、なくなってしまえば人と同じ仏様と言うことなのであろう…、袋の前で手を合わせている姿も見えた。
「丸尾さん、あの男を屋上に入れときました。」
「真司くん、ありがとう…、危険なことをさせてしまって申し訳ない…、我々も努力はしているものの人力が足りず…。」
丸尾さんは申し訳ないという感情を出しつつも、テキパキと体育館の事後処理をこなしている。
体育館から死体が片付けられた頃、丸尾さんはパンパンと手を叩いた。その合図で自衛官の3人は丸尾さんの元にさっと集まった。
「すまない、中西くん、真司くん、カズくん、こちらへ来てくれないか?」
丸尾さんは手招きして呼んでいる。先程の召集の合図は丸尾さん達の中では当たり前なのだろうが、素人の私たちには伝わらなかった。
「ありがとう。では、報告!」
丸尾さんが皆に報告する様に促した。私はあまりの大きな声にビクッとしてしまったが…周りの人たちは誰もそんなそぶりを見せなかったので、かなり恥ずかしくなった。
「15名から20名程度の避難民が、正門を突破し、避難所外へ逃走しました。」
「鈴木隊員!いつかは起こっていたことだ、気にするな!」
丸尾さんもやはり薄々気づいていたのだ、この避難所生活ももう長く無いとということを。それが少し早まったくらいだという認識なのであろう。
「これからは正門警備を2名に増やす!一方で、我々は人力が足りん…。そこでだ、中西殿、真司殿、カズ殿これからもご協力をお願いできるか?」
指揮官としてのお願いであろう…私たちを呼ぶ敬称が違う。そう、これはノーとは言えないやつだとすぐに察知した。しかし、真司はいの一番に声を上げた。
「丸尾さん、手伝うにも条件を出させて貰ってもいいかな?条件というのは、”あ”に対しては自分の裁量で好きにさせてもらえないかな?」
まっすぐな目で丸尾さんに向かって条件を出した。私にはそれが何のメリットがあるのか理解不明であった。そんなことただ自身を危険に晒すだけではないか…。
「好きにしてもらって問題ないです。しかし、もし真司殿に何かあったとしても責任は取れませんが、それでも良いですか?」
「あぁ、構わない。」
体育館での惨状を見る限り、丸尾さんも私たちに構っていられない様子だ。ましてや、自分の部下でも無い私たちにまで手を手を煩わせられたく無いといった雰囲気も感じ取れる。
「他の二人も何かあるかな?」
丸尾さんは私とカズにもそう尋ねたが、何も思いつかなかった。お願いされたものの何をするのかもわからない状況だ…。
「私たちは何をすればいいんですか?」
「あぁ、説明すべきでしたね…。あなた方には見回りをお願いしたい…。特に、屋上と隔離部屋の辺りの…。」
隔離部屋と聞いて私は身震いした…。
なんとも隔離部屋とは不穏な名前だ…、多分だがあの噛まれた女性が隔離されてる部屋のことだろう…、まだ発症していない様だが、時間の問題なのだろう…。
「もし、もしもの事だか、避難所内であに遭遇した場合は全力で逃げてください…、そして我々に知らせてください…。噛まれた場合はあなた方とはいえ…。」
その続きの言葉は容易に想像できる…。隔離部屋…その言葉が頭に浮かぶ。
「丸尾さん、浦井さんはどうなったんですか?」
「ぁぁ…。今は保健室のベッドに縛り付けている…。人が寝静まった頃に屋上に運ぶ予定だ…。」
また一名…あによる被害であとなった様だ…。真司とカズは複雑な面持ちでじっと前を見ている。
「この体育館はもう使い物にならないな…。まぁ、体育館にいた人の大半は外に行ってしまったようだが…。」
散乱した荷物、ところどころに付着する赤黒いシミ…、流石にここで寝泊まりしようという猛者は丸尾さんのいう通りいないであろう…。
そんなとき、体育館の電灯がジージーという音を鳴らして5分ほど消えたのちにまた再度点灯した…。
「こちらも時間の問題か…。樫木隊員、今のうちにプールを頼む。相村隊員、皆が避難している教室に懐中電灯を配る準備を!鈴木隊員、休め!以上、解散。」
丸尾さんの号令で皆が散らばり、各々の仕事に戻った。私たちも屋上と隔離部屋の確認を行うために校舎に向かうことにした。
「ナオキは大丈夫かな…。」
「あいつはああ見えて強いやつだ…、きっと大丈夫…。」
「あぁ…。乗り越えるさ…。」
親を失う気持ちは非常によくわかる…。今まで当たり前にあったものが無くなるのだ…、喪失感…。更にナオキの場合は父親がもうあになっていたとはいえ、自らが手を下した…その後悔…悔恨…、計り知れない。
「隔離…部屋はここだな…中が見えない様に上手くしてあるなぁ…。」
「一応、中開けて確認しておく?」
部屋は静かであるものの人の気配はある…。外からは音が聞こえない様に上手く隙間も埋められてるため、開けない事には中の様子を伺えないのだ…。
私が扉を開け、真司が中へと入って行った。扉は開ける時に引き戸特有の音が鳴った。
床を蹴る音が聞こえる…、その音はだんだんと大きくなる…。
「兄さん、カズ、ダメだ!」
真司は部屋の中の光景を見て端的に言葉を発した。決して内容がわかる様な言葉ではなかったが、危険だということは伝わった。
大人しい印象だった女性は見る影もなく、顔中を掻きむしった様に傷だらけである。更には、大きな口を開け真司の腕に向かってその足を進めている。
そんな光景を見ても私の足は動かなかった…。ただ、駆けて来る女性を見ながら呆然と立ち尽くしている。
「くっ…。」
真司は駆けて来る女性に向かって蹴りをぶちかました。あは大きくのけぞりその速度を落とした。
しかし、一瞬の出来事であった…。よろけて倒れるかと思われたあは足のバネを使う様に真司に飛びかかる…。真司もその飛びかかりをかわす事が出来ず。防御姿勢をとった。
「いっってぇ…。」
真司の腕に歯が食い込む…。人間の咬合力とは思えないくらいの力に声が漏れる。
「真司!」
私はやっと足が動いた…。しかし、遅すぎた…もう事が起こってしまった後なのだ…。カズは何か武器になりそうな廊下にあった消化器を取りに行っている…。
自分の不甲斐なさが心底嫌になった…。いつも先輩面して真司達にいい顔をしていたが…いざという時こうも…何も出来ない…動かない。
「兄さん、あれ!」
真司は黒板の下に留められた物を指差した。
私は無我夢中でその黒板の下に留めらた、大きな三角定規を手に取り、無い勇気を振り絞り真司のもとに駆け寄る。
「うあぁぁぁ!」
自分を鼓舞するかの様なその叫び声を上げ、三角定規であを殴る。
しかし、あはびくともしない…。更に真司の腕に食い込む歯に真司はいてもたってもいられない様子で空いた左腕であの顔面を殴る。
「あぁぁあ!」
真司の殴りによって右を向いたあの顔面に私も何度も何度も三角定規で殴る。その時、三角定規があの目に刺さった…。
私は三角定規を持ち替え、一番鋭利な角度の部分を深々とあの目に突き立てた…。深く深く…刺さった後…私は大きく振りかぶり三角定規を殴った…。
吹き出す血…、倒れ込む、あ…。呆然と立ち尽くす私…。
「いてて、ありがとう…兄さん…。」
噛まれた真司の皮のジャケットは血を吸って…艶かしく光っている。
「真司…手は…。」
「ぁぁ、やられちゃったよ…。でも分かった事がある…、この皮のジャケットはあいつらでも噛みちぎれない…。俺はまだ、直接噛まれた事がなかったって事に…。」
真司は震えていた…。自分は感染しないと私が嘘をついたばかりに、噛まれても平気だと思っていた。しかし、現実はただ、致命傷になる様に噛まれていなかっただけなのであった…。
ジャケットを脱ぎ、腕の傷を確認する…。ジャケットは歯を通さなかったが、ジャケットの上から噛まれた傷が痛々しく赤く光っている…。あの時見た傷と同じだ…。
「兄さん…。俺…。」
「すまん…。」
よい言葉が見つからなかった…、私の嘘が真司を危険にさらした。私の嘘を真に受けたことで恐怖心を捨て、強気、いや…無謀なこともできたのであろう…。しかし現実が見えてしまった今…。
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