102 浅はかな素人の考え

 郡上家の玄関を崩壊させて現れたのは、ヘドロともアメーバともつかない、黒っぽい半透明の塊だった。

 ユカヤに家の外へ弾き飛ばされたおかげで、飲み込まれずに済んだが……

 それにしても、不定形の物体がうねうねと動く姿は非現実的で、なんとも得体が知れない恐怖を感じる。


「これが悪霊……なのか?」

「はい、悪霊の一種で、人々が発した負の感情の集合体です。兄さま」


 どうやら、現実世界では見えない類のモノらしい。


「ちょっと、観察してもいいか?」

「思念に敏感ですから、飲み込まれたら大変なのでやめたほうがいいと思いますけど……。どうしてもと仰るのなら、五秒間だけ私が守りますよ」

「………五秒だな。分かった、頼む」


 いつでも逃げ出せるように体制を整えてから、悪霊に意識を向ける。


 嘲笑、侮蔑、嫉妬、ざまあみろ、不幸になれ……


 単純だが強力な思念が襲い掛かって来る。ほんの数秒だけで、俺の精神がずいぶんと疲弊したように感じる。


「分かった、もういい。これは、何と言うか……ヒドイな……」

「こうなっちゃうと、アラミタマのほうが可愛く思えますよね」

「叔父さん、人がいいからな……。妬まれて、利用された挙句、馬鹿にされたって感じだろうな」


 感じ取れたのは、ほんの表層の思念だろう。恐らく、奥底にはもっと酷い悪意が潜んでいると思われる。


「そうですね……。そろそろ兄さま、相手の攻撃に備えて下さい。悪霊が動きます」


 毎度の事ながら、何をどう備えればいいのか分からない。

 だが多分、捕まって取り込まれたらかなりヤバイってことは分かる。だから、相手の動きに目を光らせ、全力で回避する事だけを考える。


「なんだアイツ、家を飲み込もうとしてるのか? ってか、シズナと鈴音は大丈夫なのか?」

「姉さまは、さっき落ちて来た男の人を守っています。鈴音は美晴さんと女の人を守っているようです」

「女の人?」


 残るは弟たちぐらいだと思ったが、もしかしたら叔母さんが帰ってきてるのだろうか。とはいえ、何にせよ……


「つまり、動けるのは俺たちだけって事か。奴を家から引きずり出すことはできないか?」

「多分ですが、難しいかと。恐らくあの悪霊は、美晴さんの家庭を崩壊させる為に生み出されたモノですから」


「なんで、こんなになるまで気付かなかったんだ?」

「隠していてごめんなさい、兄さま。対処はしていたのですが、何か想定外のことが起こったようです」

「いやまあ怒ってるわけじゃない。俺じゃ頼りにならないが、郡上家のことなら俺も無関係じゃないからな。事情は知っておきたかったし、何か力になってやりたかったってだけだ」

「美晴さんが、兄さまに気付かれることを頑なに拒んでましたから、私たちもその気持ちを尊重したのですよ。この悪霊も、数日前まではかなり弱ってたのですけど、この短期間で何があったのか……」

「やっぱり、原因を探るしかなさそうだな」

「兄さま、避けて!」


 ユカヤの声に反応し、とっさに横へと転がった。

 さっきまで立っていた場所に、バシャと何かか降りかかり、黒く変色した。


「あいつ、何か飛ばしてきやがったのか?」

「悪霊は、悪意をまき散らすので気を付けて下さいね」

「ああ、スマン、助かった。にしても、こんな悪霊みたいなものって、頻繁に現れたりするものなのか?」

「このタイプは珍しいと言えば珍しいですけど、毎年、何体かは現れますよ」


 黒の飛沫を避けながら、少し遠ざかる。

 そこへ、ケバケバしいオバさんが近づいてきた。


「なんだ、あのオバさん。真っ黒じゃねぇか。しかもケガレ持ちだ」

「悪霊の元凶のひとりですね」


 醜く太った年配の女性は、手にした袋を郡上家の塀の中へと放り込んだ。


「アイツ、何しやがった。まさか、ゴミを投げ入れたのか?」

「あの人、この前も姉さまが浄化したのに、もうあんなに真っ黒になってますね」

「くそっ、なんとかならねぇのか?」

「兄さま、もうすぐ姉さまが来ますから焦らないで下さいね。それと、さっきの人には、私がちゃんとお仕置きしておきますよ」


 あの悪霊は、こういった近隣住人の悪意によって生み出されたものらしい。

 情けないことに、俺にはこの視界を維持することしかできない。

 もちろん、シズナたちが共闘するために必要な、要の役割だとは分かっている。

 せめて何か武器でもあれば……

 とはいえ、精神世界でも有効な攻撃手段なんて、俺に分かるわけがない。

 可能性があるとしたらお守りだろう。その材料に使っている神木粉も、何かの役に立つかもしれない。


「ユカヤ、俺は一度アパートに戻るが、構わんか?」

「……そうですね。あとは任せて下さい、兄さま」


 役立たずのまま、ここでボーっと見ているより、少しでも可能性があるのなら試したほうがいいだろう。

 そう考えた俺は、アパートに向かって走り出した。

 潜った状態のままでは上手く飛べないし、跳ぶこともできない。かといって、監視モードに戻せばみんなの連携が取れなくなる。

 だから仕方なく走っているのだが、壁抜けはできるので障害物を無視して一直線にアパートへと向かう。

 困りものなのは他人の魂だ。ぶつかって吸い込まれたら、またどんな危険な目に遭うか分からない。

 今も、なんとかギリギリで回避した。一瞬だが見知らぬ記憶が流れ込んできたので、少し触れてしまったのかもしれない。


 アパートの部屋に戻った俺は、神木粉を手に……取ることができなかった。

 前の時は光を手に取って剣のように扱えたのだが。

 雫石も同様だ。お守りの効果があるとはいえ、しょせんは神器の欠片ということか。武器にできるほどの霊力が残っていないのだろう。


 完全に当てが外れ、ベッドに横たわる俺の肉体を見つめ、ため息を吐いた。

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