あの子が優しくしてくれているお姉さんを叩いたり馬鹿だと暴言を吐いているのを見たときはショックだった。


 そんなこと、言うのもするのもよくないよ。


 あの子の傍にいられて、隣で優しく窘められたら良かったのにな。


 人はされたことを相手にしてしまうものだと、人間に関するあらゆるものを学ぼうとしたときに読んだ書物のどこかに書いてあったのを思い返す。


 君が優しさに包まれて、いじめられずに育っていたら振る舞い方がきっと違ったんだろうな。


 切ない気持ちで眺めていると、ある先生が厳しく注意してくれていた。このまま誰にも注意されることなく大きくなっていたらと思うと、いてもたってもいられない気持ちが風にのってどこかへ言ってくれたような心地だった。


 ありがとう、あの子を窘めてくれてありがとう。


 注意されたあの子はというと、我に返ったというのか、自分がしていたことがどれだけ良くないことだったのか気づいてショックを受けたような様子で、もうその人へ暴力も暴言も振るわなくなってくれた。


 よかった、本当に良かった。えらいね、ちゃんと気づけたんだね。


 叱るのも注意するのも大事なことだ。これも一つの愛の形に違いないし、成長を促す要素の一つだ。間違ってるって、悪いことしてるって気づかせるための行為なだけでなく、嫌われる覚悟がないとできないことだ。


 嫌われても良いから、相手のためを思って出てくる言葉と行動。


 全部が全部そういうわけではないだろうけれど、今回のは間違いなくやられている側のためのもので、この子の成長のための物でもある。


 残念なことに、叱るという行動は時に相手を支配するために使われることもあるのだろうから、全部が全部相手のためではない。


 注意してくれた先生に心からのお礼を言った。聞こえなくてもいい。聞こえてないから、届かないからといって、何も言わないでいられはしなかったし、言わなくてもいいなんてこと、言っても無駄なんてこときっとないって信じていたから。


「ありがとう。あの子を叱ってくれてありがとう。あなたは良い先生だ。これから先何かいいことがたくさんあってくれますように」


 あの子を見守っていて気づけることはたくさんあった。今まで食糧でしかなかった人間に対する知識が深まってくるのを実感できたし、いろいろなことがわかって、見ていて辛い生活の中でも少しだけ楽しかった。楽しむことができていた。


 もしかすると、人と関わるということ、切磋琢磨するということは、お互いの技量や能力を競い合わせるだけでなく、人の振る舞いを見て思ったことや失敗したことを通して学ぶこと、人との付き合いを通して成長することでもあるんだろう。


 自分一人で失敗して学ぶのもありだけれど、人から学べることもまた多くあるわけだからね。心の切磋琢磨はそうやって行っているのだろう。


 悟ったようなことを思いつつ、ちゃんと叩くのも暴言吐くのもやめて反省しているあの子の頭をそっと撫でた。気づかれなくとも、実際に触れたわけでなくとも、僕はきっと無駄だと思わないしこういう行動をきっとこの先ずっとやめることはないだろう。


 ゲームで周りの誰よりも強くなれて、1対3でも勝てて嬉しそうにしていたことがあった。


 すごい! ゲームが上手なんだね!


 温かく見守りながら褒めていたのも束の間だった。徐々に除け者にするのがエスカレートし、もうやりたくないと言っていてもやれと言われて泣かされていた。


 すごく怯えていて、コントロールを投げてよこされて、嫌がっていても無理にさせられそうになって、勝てば怒られて怒鳴られて雰囲気が悪くて、楽しかった遊びがちっとも楽しくないものへとなっていった。


 強くなるということは孤独になるということでもあるんだとあの子が悟っていて、それは必ずしもそうではないんだと否定したかったけれど声は届くことがなかった。


 いや、もしかすると本当に、誰よりも強いということは孤独なのかもしれない。


 届かなかった声を自分の中で反芻していて、何かが引っ掛かり、何かを思い出しそうになりながら、あの子の思ったことを肯定しなおした。




 ある日、あの子の母親は付きまとってるのはあの子を守るために頑張ってるんだと言いくるめられていたことがわかった。


 あの子が付きまとわれるのが嫌だとか、帰るのが遅くなるのが嫌だと相談していたにも関わらず、守ろうとしてくれてるんだからと言って黙らせ我慢させていた。それどころか、愛想よくするようにと言いつけているだけでなく、守ってくれる子たちがいてあんたが羨ましいなんてことまで言っていて、なんとも歯がゆいのだった。


 根回しというやつか……。付きまとってる子が差別的なことを言ってるからあの子は同級生から意地悪されて誰からも信用されていないっていうのに。


 あの子をストーキングして意地悪している子の二人は従姉妹らしかった。そして、付きまとってる子が髪の色を差別的に言ったから、せっかく片方からおうちに呼んでもらえた上に遊んでもらえていたのに、相手の子の父親が髪の色で差別的なことをいうやつが良いやつなわけがないなんて怒気を含んだ声であの子を怒鳴りつけてさっさと帰るように言っていたし、あの子が言ったわけじゃなかったから否定していたのに、遊びに誘ってくれた子は言ってたと、笑ってたと父親に告げ口をし、それ以来遊んでもらえた子から意地悪されるようになっていた。


 あの子はただの笑い上戸だよ!!


 それだけじゃなく、相手の子がどう思ってやっていることなのかよりも、大切なのは本人がどう思っているかだろうに。


 僕だったら、あの子の気持ちを尊重してさっさと追い払うんだけどな。


 切ない気持ちであの子の傍に寄り添った。どんどん誰にも相談できなくなっていって、気持ちに蓋をしていっているのが悲しいのだった。


 子どもだからって、何も思わないわけでも、何も考えないわけでもないのに、子供のくせにだとか、まだ小さいから言っても無駄だとか言われていたけれど、この子は誰よりも感性豊かだし、わかりやすく大人が話せていないだけだと思いながらずっと見てきた。


 頭が痛いとか、ニキビの原因にストレスがあって、この子がストレスだとか言っていたけれど、鼻で笑われて相手にしてもらえていなかった。


 あの子がいじめられて笑われたときは憤慨して、口には出さずとも全員同じ目に遭ったり苦しい思いをしてしまえなんて思ってしまったけれど、あの子に手を差し伸べてくれる子がいて、少しだけ安心できた。


 良かった……。でもどうして?


 安心するとともに湧いてきた疑問だった。


 周りの子は反対していたけれど、日頃の行いが行いだから信用できなくて、どうにも判断に迷った。


 どちらも信用しきれない。


 だから少し調べようと思った。あの子はこの子と仲良くなってうまくいくのかどうか。


 まず信用されていなかった時点でダメだと思った。自分が正しいことをしようとして手を差し伸べたのは間違いないようだったけれど、それでも賛成できなかった。みんなと一緒になっていじめていたからでもある。


 その子は本当にやめたほうがいいよ……。


 しかし、あの子はどっぷり懐いていたし、僕が味方したいと思った子のことをどこかで引きずっているようで、今度は味方するんだと張り切っていて悲しくなってしまった。


 繰り返さないようにしたかったんだね。でも、本当にやめたほうがいい。君は君を信じてくれて、君のことを本当の意味で大事にしてくれる人と、ちゃんと大切に扱ってくれる人と仲良くなった方がいい。お願いだから、自分のこと大切にしようよ。義理堅くなんてならなくていいんだよ。


 そんな思いで、手を差し伸べた子に関する怖い夢を見せて警鐘を鳴らしたけれど、あの子は諦めようとしなかった。それどころか怖い夢を見たことすら覚えてくれなかった。


 一度失敗したから、今度はちゃんとやろうって、立派だけど……。


 上手く言葉にできなかったし、あの子が言うことを聞かそうとしている大人に反抗をしている様子をみて諦めることにした。それにそもそも、言うこと聞かせることは好きではないし、注意するだけしたのだからあとは本人次第だという気持ちがどこかにあったのも確かだった。


 できれば傷ついてほしくはない。でも、言うこと聞かせてまで止めるなんてことはできなかった。


 これはあの子の人生だ。あの子がやりたいようにやって、経験を積んで、いろいろなことを学んで成長する。


 僕はただ、あの子が殺されたり死んでしまったりしないようにするサポートをするだけだ。だから、もう余計な口出しはしないようにしないと。


 そんなある日のことだ。付きまとってくる嫌な子に誘われて、付きまとってる子が仲良くしたがっている子のおうちに連れていかれる出来事があった。


 少し遠い場所だったし、どんどん空が暗くなっていった。ちょうどいいから利用しようと思った。いろいろなことを思いはしたけれど、このままだと本当にこの子が危ないと思ったからだった。


 あの子に失敗させて嫌わせた上に、これだけ遅くまで家に帰してもらえないことが起きれば、さすがの親も動いてくれるはずだと思ったんだ。


 さすがにもう付きまとわれなくなるだろうし、親も追い払おうと重い腰を上げてくれるはずだ。


 驚いたことに、母親はそれでも付きまとってくるやつの肩を持とうとしていたけれど、計算通り、父親が怒ってくれた。


 そのあとは付きまとっていた子が仲良くなりたい相手が、あの子が何をしても芸能活動で売れないよう父親に言いつけると憤慨し、付きまとってくる子は小さい子がこれから何をするかなんてわからないのに「小説書いたりする?」なんて聞いて、あの子は「わからないし多分書かない」なんて言ったことで、別にそんなのたいしたことじゃないなんて無責任なことを言っていたし、あの子は酷く責め立てられて怯えていた。


 大人になってから「女の子が〇〇したくらいで」なんて言っていたけれど、自分も同じことをすでにしていたのだった。


 あの子はこの集団と関わると、選択を迫られるたびにいうこと聞かせようとしているのか、顔色伺わせるようなことを何度も言われて本音を言えないようにされて、見ていて本当に腹立たしいのだった。そうやって何かを言えばこうこうこうでなんて言い方をして、本当に許しがたいことだった。


 そのあと、あの子が助けてくれた子と帰ろうとしていると、付きまとってくる子があの子に差別的なことを吹き込んで、一緒に帰るのを邪魔しようとしていた。


 好きにさせてあげればいいのに。


 そんなことを思いながら陰鬱な気持ちで眺めていると、あの子が自分の気持ちを素直に言っていて思わず目を見開いた。


 よくぞ……よくぞ自分の気持ちを伝えた!


 そのあとは付きまとってきた子から不当に恩知らずと言われ、味方できなかった子からは僕のときには味方しなかったのにといったニュアンスで責められていた。


 あの子が味方できなかった子に関しては、僕は何も言うことができなかった。こちら側から謝罪したいくらいだった。しかし、付きまとってくる子に関しては文句を言いたくてたまらなかった。


 母親に根回しをしてあの子が嫌だと言っても黙らせるようにしていたし、なにもかも許しがたかった。


 卑怯なやつ。


 あの子がまた自分の気持ちに蓋をしそうになっていて泣きそうになった。泣きたいのはあの子のほうなのに。どういうわけか切なくて、あの子が自由でいられることを願わずにいられなかった。


 そうやって、素直に言いたいことを伝えて一緒に帰りたい子と帰っていてほっとできたかと思えばそうではない。


 あの子が言ったわけではないのに、付きまとってくる子の差別的な言葉を使って、やけに突っかかってくる子があの子をちくちく攻撃していた。


 別にあの子が言ったわけじゃないだろうに。


 思わず深いため息をついてしまった。


 こんなこと言いたくも思いたくもないけど、君はそっちの世界では何をしても、何をどう頑張ってもひとりぼっちなんだ。誰も君を信じない、誰も君を理解できない、君は誰からも必要となんてされていないし、君は孤高で孤独でい続けるんだろう。


 それはきっと、誰よりも強い子だからなんだ。


 体が強いとか、喧嘩が強いとか、そういう強さではなく、君は誰よりも優しいから心が強い子なんだよ。


 君だって、強くなるということは孤独になることだって悟っていたでしょう?


 こっちへおいでよ。また遊びにおいでよ。僕とずっと一緒にいよう? ここなら楽しいことがたくさんあるし、君より強い人が少なくとも一人はいるよ。気さくなやつはすごいやつなんだ。


 僕なら君のことを本当の意味で大事にできる!

 

 だから、もう疲れたでしょう? こっちで一緒に暮らそう? そんなところ、無理していなくていいんだよ。


 ここなら居場所がある。君はひとりぼっちにならない。僕は君を大事にできる。一人にしないし理解しきってみせるし、君がどうしてそう思ったのか、どうしてそんなことするのか、どうしてそんなことをいうのか、理由もちゃんと聞くから……もうそんなとこにいるのはやめようよ。


 そんなことを思いながらそっと手を伸ばしそうになっていると、気さくなやつが優しく肩に手を置いて声を掛けてくれた。


「なあ、少し休もう?」


 その言葉に我に返りながら頷いた。


「うん。あはは、疲れてるのすら気づいてなかったみたい。ありがとう」


「ああ……気晴らしになんか見に行くか? 本の虫と三人でさ! 広がる青空に漂う白い雲を眺めながら、断崖絶壁を見渡して風に乗って空を飛ぶんだ。波が白い泡を立てながら岩にぶつかってる音がして、俺たちは風を切る音に包まれながら遥か彼方を目指してぐんぐん飛んでいくんだ」


 すごく夢のような話で、聞いていて胸が軽く、爽やかになってくるのを感じる。でも……。


「気持ちはすごくありがたいけど、もうそばを離れないって決めたんだ。他の誰からももう『吸精』しない。あの子のだけをいただく。本当の本当にそばを離れるつもりはない」


「……そっか。お前にさ、話したいことがあって……」


 気さくなやつはとても真剣な面持ちで話しかけていてくれた。話したいことってなんだろう?


 首を傾げていると、少しだけ視線を逸らし、口を真一文字に結んでからゆっくりと開いた。


「もしもの話なんだが……」


 言い澱み、もう一度黙り込んでしまった。一体どうしたのだろうか。


「もしかして、他のみんなみたいに見ているのがつらくなっちゃった? もしそうなら、遠慮しないで。君にも辛い思いしてほしくないんだ」


 セラピストに相談して話を聞いてもらっていた時のことをふと思い出し、大切な友の言いづらそうなことを自分で考えて思い浮かべて答えてみたけれど、ゆっくりと首を横に振って否定された。


 じゃあ、どうしたというのだろうか?


「違うんだ。あの、な……。もしもの話なんだ。少し小説でも書こうかなって気を起こしていてお前に聞いていることなんだ。落ち着いて、自分だったらどう思うかを考えて聞いてほしい。あの子が絵から想像して物語を書いていて、つい楽しそうで俺もやってみようって思ってさ」


 その言葉を聞いて、あの子が帰り道、思い込みの激しいやつからいろいろ言われるようになったときに創作活動しても夢が叶わないからなんて言われていたことが頭にちらつき、少しだけ腹が立つのだった。


 ああ、でも、落ち着いて。今回は友人からの頼みなんだから。


「すごく楽しそうだね! どんなお話?」


 興味津々な様子を包み隠さずに尋ねてみると、気さくなやつは少しだけほっとしていた。


「お前を主人公にして、お前の大好きなあの子のことも登場させようと思っていてな。このまま書いちゃうと、ただの甘々な恋愛小説にしかならないから少し面白い要素を入れようと思って。いくつかいれる要素を考えているところだ。一つ目、あの子が実は双子だった! 二人ともそっくりで見分けがつかなくて、一体どっちのことが好きなのかわからなくなりながらも片方を選び取る話。二つ目、あの子本人が実はもう死んでいて、違う子といっても、あの子のコピーが成り代わっていた! 三つ目、実はあの子が二人に分かれてしまっていた! 四つ目……」


「ちょ、ちょっとまって?! なんであの子が複数人いる話ばっかり? もう少し選択肢にバリエーションがあったほうがもっと面白いんじゃないかな? それに……そのどれも、全部切ないよ。どの話にしたって、君の表現を聞いた感じ僕はあの子がどちらか気づけてない話なんだろうし、きっと死ぬほど悩み苦しんでしまうしショックだよ……それはすごく切ない。消えてなくなりたくなりそうだ」


「そう……そうか」


「うん。そうだなー……あの子があっち側で好きな子ができて、僕はそれを見てショックを受けるんだ。立ち直れなくなりそうなくらいのね。それでも最終的に僕を選んでくれる……とかどうかな? 小説なんだから少しは幸せを夢見たっていいんじゃないかなって。えへへ」


「そいつはいいな。いやー、バリエーションが少なすぎる俺って小説書くの向いてないのかもな」


「あはは、きっとそんなことないから。最初は引き出しもバリエーションも少ないところから始まるんだよ。きっとね」


「ありがとな。いいもん書いてみるよ。書けたら真っ先にみせるからな」


「楽しみにしてる」


 会話を終え、気さくなやつがどこかへ、恐らく本の虫のところへ行ってしまうのを見送った後、あの子の様子を見守りながら振り返り、今のは不思議なやり取りだったようにしか思えなかった。


 気さくなやつはあんなことを言っていたけれど、小説を書くのが下手とは思えなかった。何か意味のあるやり取りだったんじゃないかと考えていると、あの子に嫌がらせしてくる同級生二人に、だるまさんが転んだで数を数えながら背中を向けているときに後ろから勢いよくタックルされて酷く頭と体を打ち付けられていた。


 あまりの勢いと、躊躇のなさに目をむきながら見てしまった。


 許せなかった。あの子自身も酷く怒っていたし、なによりもその躊躇のなさが驚きだった。


 一緒に遊んでいた人は見てなかったなんていって誰も味方する人なんていなかった。


 そんなやつらともう遊ばないで良いんだよ。


 きっと君は遊んでもらえたのが嬉しかったんだね。嫌がらせしてくるのに遊ぼうとしてくれて、仲良くなれるかもしれないって思えて嬉しかったんだね。


 でもね、世の中にはわかりあえない人たちもいるんだ。悲しいことに……。そうやって、仲直りのフリ、友達のフリしていじめをして、嫌がらせをして、心に血が通っていないかのように、何とも思わない人だっているんだよ。


 そんなことを思いながら、怒り狂っているあの子を慰めた。


 許せなかった。人はどこまでも残酷になれるのだと知った瞬間でもあった。


 それでもあの子は、どんなに憎しみにまみれても、どんなにひどいいじめにあっても、優しい気持ちがずっとあって、僕にとって特別で他のどの人間とも違う、大切にしたい宝、光の魂だった。


 そんなあの子を見守っていたある日、とても面白い出来事があった。


 あの子が弟の真似をしていて、徐々に相手と同じタイミングで同じ言葉を発するなんて芸当をしていて興味深かった。


 そのうち先読みできるようにもなっていてすごかったけれど、弟が酷く嫌がっていたし、母から怒られもしていた。


 それだけでなく、あの子の地域には雑談を挟んで話の要点をすぐには話さない習慣があるようで、長話に辟易したあの子はもっと会話を短くすればいいのにと考えるようになっていた。


 あの子はどうせこういうのわかっているんだから飛ばして話せばいいなんて弟と話していて、わかりきっていることは飛ばして先を考えて会話する遊びを開発していた。


 すごく面白かった。はたから見れば理解できないないようでも、兄弟の会話が成り立っていたし、頭の発達に何か関係があるんじゃないかと思われる興味深い遊びだった。


 あの子は一人遊びの達人だったけれど、二人遊びにおいても、友達がいない代わりに弟がいてくれたおかげで達人になりつつあるのかもしれない。


 そんなことを思いながら微笑ましく見守った。気さくなやつと会話するときに取り入れてみたいとも思える遊びだった。


 そういえば、最近気さくなやつも本の虫も見かけないなあ。本気で小説づくりに取り組んでいるのだろうか?


 本の虫は気さくなやつにずっとくっついていて滅多に離れないけれど、あの二人が一緒にいることに違和感はなかった。小説の題材を僕が主人公じゃなくて、気さくなやつ本人を主人公にして本の虫との話を書くのなんてきっと楽しいだろうに、どうして僕が主人公なのやら。


 僕は主人公なんかよりも気さくなやつのサポートがきっと合っているだろうになんて考えていると、薄暗い洞窟が頭に浮かんできた。すごく懐かしい場所、すべての始まりの……。


 考えに耽っていると、気さくなやつがそっと肩に手を置いてくれる感触で我に返った。


 噂をすれば影が差すとはいうけれど、頭に思い描いても本人が登場することもまた然りなんだろう。


 なんてことを考えていると、また何か引っかかるのだったが、それがなにかわからなくなった。


「よっ! 調子はどうだ? 今日はなんだか楽しそうだからさ、良いことでもあったのかな? なんてさ」


 さっそく弟とあの子のやり取りを話してみようと思っていた矢先、たまごサンドが気に入ってずっとたまごサンドを食べていたあの子が、ついに自分で作ってみたいと言い出し、とってもまずいたまごサンドを作っているのが見えて二人して笑ってしまった。


「あはははは! ……ゆで卵に水はないだろう! ホットケーキ以外作ったことがないにしてもだ! ゆで卵に水……!」


 気さくなやつは腹がよじれそうになりながら大笑いをしていた。


「たまごの色が水を混ぜた時の色だったから色を合わせればいけるって思っちゃったらしいよ。味の概念が抜けてたのかな? うーん……。絵と料理は違うって学べて良かったんじゃ……ないかな」


 声を震わせながらフォローをいれてみたけれど、笑うのを我慢しきることはできなかった。


「見たか? 母親と弟の反応! たまごサンドをこんなにまずく作れる子なんて世界にたった一人だろうさ! ははは! 水! たまごサンドに水!」


 親も弟もまずいといって食べようとしないたまごサンドを、あの子は責任を感じたのか一生懸命食べようとしては吐きそうになりながら飲み込んだ末にギブアップしていた。


 その様子を見ていると、自分の中で何かがメラメラと燃え上がってくるのを感じた。


「……僕も食べたい」


「……は?」


 気さくなやつは何を言い出したんだと目を真ん丸にしながら僕を見ていたけれど、僕は胸の内で燃え上がる何かを消すことはできなかった。


 あの子の作ったサンドイッチをこちら側で再現し、一生懸命頬張った。


「お、おいおいおい! 大丈夫か?!」


「入ってるのは水だけだから体に害はない……うっ」


「やめとけやめとけ! 味覚と精神衛生上良くないって!」


「食べる! 食べきってみせる!」


「急にどうしたんだ! 言ってみてくれ! 俺を困惑させないでくれええ!」


 気さくなやつが急に気が動転してしまっていて、思わず大笑いしていると突っ込みが入った。


「いやいや、大笑いしたいのはこっちだし気が動転してんのはそっちだろ!」


「あははは。読まれちゃった? ごめんね。なんだかさ、親も弟もあの子の料理がまずくて食べれないって罵倒してるのを見たら僕は食べきってみせたくてたまらなくて。なんだか悔しくて。なんだか胸の奥で炎がメラメラと燃え上がってるような、そんな不思議な感覚があったんだ」


 素直に自分の気持ちを吐露すると、気さくなやつは顎に手を当て何やら考え込んだ後口を開いた。


「そいつは嫉妬と愛が混ざったものじゃないか? 僕の方がもっと家族らしい家族だ! 本物の家族なんかよりも愛が深い! だからこの程度完食してみせる! そんな気持ちじゃないか? 自分の方がもっとちゃんとあの子を愛してるって証明したくてたまらないようなそんなライバル心……いや、対抗心っていうんだろうかな?」


 気さくなやつの分析は的確だと思った。


 この心の内で燃えている対抗意識はきっとそういう感情だ。


「かもしれない。とにかく、僕はこれを食べきってみせる」


 ひきつった笑みで気さくなやつがもう一度僕を止めようとしたけれど、完食してみせたときには呆れたような笑みに変わっていた。


「本当に好きなんだな……」


「うん!」


 ニコニコしていると、あの子の母親がまずいサンドイッチに改良を加え、ずいぶんと美味しいたまごサンドに変身していて素直に感動した。


 あの子が感動しながら母を褒め、美味しくなったサンドイッチを食べながらリベンジしたいと言っていて思わず頭を撫でたくなった。


 ふと、改良されたたまごサンドも食べてみたくなってこっち側に再現したもの出して食べてみた。


「……美味しい」


 対抗心がメラメラ燃え上がるのを感じる。


「おいおいまさか!?」


「料理練習する」


「そうなるかー」


「ふふふ、そうなったよー」


 気さくなやつは笑いながら本の虫を呼んでいた。


「俺も手伝うよ。料理は一人でやる方が自由でいいかもしれないがな、複数人でやる方が楽しくはあるから。それに俺は料理が得意だ」


 気さくなやつと本の虫は微笑みかけながら一緒に料理を学ぶ気満々なようだった。


「……! ありがとう!」


 仲間がいる喜びと温かさ、やりたいことがあるおかげで湧いてくる活力を噛みしめながら、あの子を見つめた。


 こっちにきたら、たくさん仲間がいるんだよ。料理も教えられるし……。君がこっちにきてくれたら幸せになれるからね。


 その後はいろいろな料理を気さくなやつと本の虫の手伝いの元で作った。


 まずは味噌汁、次に目玉焼き、次は卵焼き、焼き魚、チャーハン、シチュー、カレー、ビーフシチュー、ピラフ、いろいろなサラダ、とにかくたくさんの料理。


 喜んでくれるかな。次はいつ来てくれるかな。そういえば、あの子が死にたいと初めて言ってからこちら側に遊びにきてくれなくなったな。夢を見てはくれているのだけれど。


 ふとした気づきだった。もしかすると精神的なダメージが深すぎてこちらへ来れなくなってしまっているのだろうか?


 首を傾げていると、あの子がふとした拍子にテーブルの縁を掴んだときにべたべたした感触があった影響で、テーブルの上だけでなく横と下側まで拭くようになっていた。


 周りは潔癖症だと言っていたけれど、あの子を理解したくて僕も同じようにテーブルがべたべたしているのを触ってみた結果、同じように上だけでなく横も下も拭こうと思わされたのだった。


 えへへ、僕たちおそろいだよ。


 あの子がたくさんいじめられていても、性格が悪くなって暴力的になっても、寄り添うことはやめなかった。


 一緒に冒険へ行く夢を見た時は相棒になって一緒に行動し、一生懸命九九を覚えようとしているときは夢を見せずに集中できるように応援した。


「どうか無事に覚えられますように」


 あの子の頑張りが実って覚えられていた時はわがことのように嬉しかった。


「君が頑張ったから覚えられたんだ。掴み取ることができた実力だよ! 君は本当に数字が好きで得意な子になれるよ」


 嫌なことはたくさんあっただろうけれど、僕にとって君の新しい一面をたくさんみることができた一年だった。


 見ていて辛いことばかりではなかった。人という生き物をよく知ることができたし、君がホットケーキ以外の料理を作ってみようと勇気を出して一歩踏み出したのも、掃除するときの着眼点が広くなったのも、僕にとっては微笑ましい成長だった。何より、弟と遊んでいた内容が特に興味深いもので、真似して遊んでみたくなれるくらいには面白そうだったよ。




 学年が上がり、新しい先生が担任になり、楽しそうな毎日を微笑ましく見守っていた。


 見ていて嫌なことももちろんあったけれど、あの子が幸せそうにしている様子が増えたのが何より嬉しくて、一緒に喜ぶことができた。


 しかし、ある時事件が起きた。


 またみんなで寄ってたかって、人の話に耳を傾けもしないで罵詈雑言を浴びせていた。


 それだけじゃなく、言いがかりに人格の決めつけ、あの子が悪い子認定されたときほどではないけれど、心無い言葉をたくさん浴びせられていて怒りに染まりそうになっていると、本の虫と気さくなやつがそっと肩に手を置いて落ち着かせてくれた。


「人間って、成長するやつもいれば成長しないやつもいるんだな」


 気さくなやつの言葉に強くうなずいていると、本の虫はいつも持っている本をぎゅっと抱きしめていた。


 どうして誰も話を聞こうとしないんだろう……。


 あの子と一緒に泣きそうになっていると、どうして戻ってきてほしくなかったと思ったのか、話を聞こうとしてくれる子が現れた。


 信じがたいことに、入院していた子からの申し出だった。


 どうして聞こうと思ったの?


 今までのことがあったから、警戒心しかわいてこなかった。


 あの子は大泣きしていて落ち着くのに時間がかかっていた。だから、少し待ってほしいといっていた。落ち着くまで待ってほしいと。


 それなのに、嫌いなら、話を聞く気がないならさっさとどっかへ行けばいいのに、自分の思い込みでこいつはこういうやつだからといってあることないこと言ってくるやつがいた。心の底から憎たらしくて、恨めしくて、一発殴って黙らせてやるべきじゃないかと思ったけれど、あの子は拳をふるったりしなかった。


 先生が注意して黙らせてくれたおかげでそいつはそれ以上しつこく何かを言うことはなかった。


 そうして、静かにしていてくれて、関係ないことを話ながら待っていてくれたおかげで、あの子は少しずつ落ち着いて話せる状態にまで持っていくことができていた。


 いつも嫌なことを言われていたこと、戻ってきたとき心配で見つめていたら罵倒され、体育館へ行く途中にすごく嫌なこと言われて心底戻ってきてほしくなかったと思ったことを素直に伝えると、そのときのことを思い出したのか、また泣き始めてしまった。


 相手の子は相手の子で、保育所に通っていた時に首を軽く締められて怖かったことや、嫌だと思ったことをしないでほしいと言うことを伝えていた。


 見守っていたけれど、保育所の時以来、その子に直接何かしていただろうかと疑問だったけれど、見るのも嫌なことをしていたという意味で言っていたのだろう。


 先生はお互い嫌なことをしないようにと注意してその場は丸く収まった。あの子は自分の何がダメだったのかわからないから、嫌なことされてると思ったら言ってほしいと言っていた。


 人と人が歩み寄って、これから折り合いつけて上手くやっていけるのかと期待していたけれど、そうはならなかった。ならなかったんだ……。


 それはとてもショックな出来事だった。


 あの子としては普通にしていただけだったのに、学校来るのやめてもらえる? や、その席座ってるだけでも嫌だと言われていて酷くショックを受けていた。


 先生もそれを見て無茶なこと言わないように言っていたけれど、いじめと嫌がらせはエスカレートしていくばかりだった。


 あの子は帰らず席も離れなかったので「約束を守れ」「嘘つき」「悪ーい」「嫌なことしてたら言えって言っただろうが!」なんて暴言を浴びせられて心がどんどん死んでいって、酷く落ち込んで……どす黒い炎を心のうちにたぎらせているのが見えた。


 見ていられなかった。


 視線を落としていると、気さくなやつが隣で強く拳を握っているのが見えて、思わず顔色を窺ってしまうと、怒りで顔が真っ赤になっていた。


 あまりにも怖すぎる顔をしていたから見なかったことにしながらも、見守っていてずっとそうだったように、自分も同じ目に遭わされたかのようなショックを受けてさすがに胸が痛くて苦しくてたまらなかった。


 人はわかりあえる人としかわかりあえない。歩み寄ったと思っていたはずだったのに、それは逆にいじめるための道具にされただけだった。


 引っ越していった子とはわかりあえそうだったのに、入院していた子や、その子との話を聞いていた人たちとはわかりあうことはできなかったんだ。それどころか、どんどん蹴落として理不尽な心の暴力を受けて、いくらぼこぼこにされても容赦なく攻撃され続けた。


 辛くて厳しい現実を目の当たりにした瞬間だった。


 恨めしい、呪いたくてたまらない。なんて冷たい世界なんだろうか。


 そのうち気さくなやつはどこかへ立ち去り、本の虫がそっと背中に手を添えてさすってくれた。


 そうやって背中をさすられて、ようやく自分が泣いていたことに気がついた。


「一番泣きたいのはあの子なのにね」


「……私も悲しい」


「そっか……」


 本の虫を見ると、同じように目から涙を流していた。


 そのあとは本の虫と一緒にすすり泣いた。お互いの背中をゆっくり、温かい手でさすりあいながら。

 

 





 本の虫との記憶を綴じたままにする実験がうまくいったので、優しいあいつにあの子の本当の状態を打ち明けようと考えていた。


 どう話したものか考えつつ、あいつがどう受け止めるのかが少し心配になったから、適当な作り話でもして試してみることにした。


 本を書きたくて題材に二人を選びたいと提案し、あの子が二つに分かれた話を持ち掛けたところ、深く傷つきそうな返事がきてしまい、話すのはやっぱりやめようと思った。


 しかし、隠すとなると今後どう扱うかが大きな壁となった。


「二つの魂って一つに戻せるのかなあ」


 斬った魂はそのまま消滅して輪廻の輪に戻っていく。


 今回のように両方消さずに残したことは初めてだったし、上手に二つにわかれて両方とも生きているのが奇跡的なことだというのを知ったのは後の話だった。


 このまま両方くっつけたら奇跡的に一つに戻ってくれたらいいんだけどなあ。


 そうだ、手芸家に頼ってみるのはどうだろうか?


 思い立ったが吉日。さっそく手芸家の元を尋ねてかくかくしかじか相談してみることにした。


「うーん。魂を縫い合わせるってことだよね? さすがに縫ったことはないなあ。やったことないからかめちゃくちゃ試してみたいって意欲はあるよ。どうなっても知らないけどね! やらせてもらえる?」


「大切な魂だから、さすがにそれは難しいな。話を聞いてくれてありがとな! 十分助かった」


 自分で言えた義理ではないけれど、あいつにとって大切な存在の魂だったからぞんざいに扱うわけにはいかなかった。


 やったことがないこと、わからないことが分かっただけでも十分な収穫だ。じゃあ、これからどうするか。


 和菓子みたいに凍ってる方を包み込む形で今ある魂を引き延ばして一つにくっつけられないかなーなんて考えていると、魂をなんだと思ってるんだと自分で自分に突っ込みをいれたくなった。


「どうしたもんかなあ……」


 結局解決策が見つからないまま時間が過ぎた。




 そのうち、見たくないもの、過去の自分と同じ目に遭っているあの子を見る羽目になってしまい、煮えたぎる怒りのやり場に困りながら、あの子の片割れが眠る湖のほとりへと来た。


「俺さ、どうしたらいいんだろうな。なんで自分と似たような目に遭ってるやつの人生なんか見てるんだろうな。優しいあいつは無理して一緒に見なくていいなんて言ってくれてるんだけどさ、放っておけるわけないだろう……。本当にどうすればよかったんだ。お前を死なさないようにするほかの方法がなにかあったっていうんだろうか。俺はどうしたら良かったんだ」


 誰もいない静かな空間に独り言が飲まれて消えていく。


 水面は穏やかに揺れ、水の音がやさしく穏やかに響き渡っていた。


「お前に話しかけたところでどうしようもないんだけどな。斬って悪かった、突き落として悪かった。痛かっただろうなって思うよ。でも、俺には他の方法がわからなかったんだ」


 風があたりを駆け抜けていく。


 ああ、なんて心地いい風なんだろうか。


「お前をこちら側へ一思いに連れ去ってしまっていれば良かったのかもしれないな。あんな場所になんて残しておかなければ良かった。家族や周りの人間、わかりあえそうだった子、いろいろな人間の気持ちや事情なんて一切無視してお前をあいつとくっつけてしまえばよかったんだろうって、今更思っても遅いか……」

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