人事件、犬事件

 月の子から話を聞き終え、労うために頭を撫でながらいろいろなことを考える。


 あの子は祭りを楽しく過ごしたこと、相手の事情もなにもわからなくて少し心配な出来事があったこと……。


 その日は何事もなく終わり、ほっと胸を撫で下ろす。


 良かった。無事に一日を終えられて本当に良かった。


 どういうわけか、いつも以上に心配で、無事に生きていてくれるだけで安心できて、安らかに眠っているのを見るのがこんなにも満たされる。


 ああ、眠るあの子の傍らで頭を撫でながら添い寝できたらどれだけ良いだろうか。


 いつしかあの子が名付けてくれたように、良き友、良き相棒の柴犬になってぴったり寄り添いながら一緒に眠るのもきっと楽しくて幸せに満ちた日になるだろうな。


 もし同じ世界で暮らせていたなら、もし父親や兄として寄り添えたら、柴犬として傍にいられたら、家族の一員になれたなら……。


 叶わぬ願いを胸に秘め、夢の世界から手を伸ばす。


 あの子がたまに月に手を伸ばしているように、僕もあの子へ手を伸ばす。


 あの子はどうして月に手を伸ばしているのだろうか?


 僕と同じ理由だったら照れくさいけど嬉しいな。


 眠るあの子に夢を見せて、夢の世界へ招くか、生きるためにどこかへ「吸精」しに行くか悩んでいると、なんだか胸が苦しくなるのだった。


 自分でもどういうわけかわからない。


 ずっと傍にいたい。


 傍にいると誓ったような、傍にいようとして自分が苦しんだような……。


 首をかしげながら、あの子の傍を離れてどこかへ「吸精」へ向かうことにした。


 不思議と心のざわめきが鎮まってくるのを感じる。


 これで良いんだ。


 あの子の傍には出来る限り寄り添い、食事のときは傍を離れた。


 食事を終える頃には夜が明け、起きて活動しているあの子の元へ戻り、心配な気持ちと、今日も生きていてくれる喜びを胸に秘めながら見守った。


「お前ってやつは本当に一途だな。他の奴らは気が向いたときにしかきてないんだぞ?」


 気さくなやつが呆れたような、感心したような話し方をしながら現れた。


 隣には本の虫が寄り添っている。


「やあ」


 挨拶はできたけれど、あとに言葉が続かなかった。


 二人は僕にとって大切な仲間のはずなのに、どういうわけかいつものように話しかけることが出来なかった。


 どうしたんだろう?


 何かが欠けているような違和感に首をかしげていると、気さくなやつがあの子の様子を見て顔をしかめるのが見えた直後、あの子の泣き声と周りにいたおばさんたちの騒ぐ声が響き渡った。


 様子を見て目を丸くしていると、気さくなやつがよからぬことを口走った。


 もっとも恐れていること、現実になって欲しくないような、一番の心配ごと。


「こりゃ将来人間関係で躓くだろうなあ。特に男。意地悪されてるだけじゃなくて、庇ってくれてるはずの人間どもが誰も話を聞こうとしない。子供だからってバカにしてるのかわからないが……。言葉にするのが難しいってだけで大人以上に色々なことを感じとる多感さを備えているってのになー。見下してようがバカにしてようがなかろうが、そういう態度と扱いをしてりゃ、大差ないってもんだ」


 沈んでいる僕に気がついてか、気さくなやつはそれ以上なにも言わなかった。


「僕たちのことも怖がるかな?」


 心に渦巻いていた不安を口にすると、気さくなやつは頭をがしがしとかいてなにかを考え込んでいるようだった。


「どうだろうな。俺たちも同じ人間として扱われたら怖がられるかもな」


「それは……」


 どちらにしても複雑な気分になる言葉だった。


 僕たちとあの子は違う生き物だという答えと現実と扱いに向き合い、結ばれることのない運命を受け入れるか、同じ存在として認識された末に怖がられてショックを受けるか……それとも丸く収まる他の扱いがあるのか。


 望みは薄い。


 また遊びたかったな。


「おいおい、もしかして諦めてるのか?」


 黙ってうなずくと、気さくなやつは軽くため息をついて黙ってしまった。


「……素直になりな」


 本の虫がそっと一言だけ発してくれたおかげか、自分の心を素直に吐き出すことが出来た。


「もう一度会いたい、遊びたい。本当は大好きで、ずっと傍にいて恋仲になりたい。でも、あの子はまだ幼い。それにあの子が恋人になることを望むとは限らない。愛しているから、大好きだから、無理強いはしたくない。……嫌われるのが怖い、拒絶されるのが怖い、関係が壊れるのが怖い、もう夢を見てくれなくなるのが怖い。欲を出してすべて失うのが嫌だ。僕だけのものにならなくて良い。あの子には自由でいて欲しい。幸せで、笑顔でいて欲しい。無理強いはしないから、出来れば夢をずっと愛して欲しい。夢を愛し続けてもらえるなら僕の願いは叶わなくて良い。心から愛してるんだ」


「……うん」


「特別なことができなくても、誰からも望まれず、必要とされなくても、どんなに嫌われようが、どんなに孤独にさいなまれようが、どんなに嫌なやつになろうが、僕だけはあの子の味方で、家族で、友人で……支えになりたいんだ」


「……素直。良いこと」


 本の虫は言葉少なながらも慰めてくれて、元気になれるように導いてくれて、褒めてくれて、なんだか照れ臭い気持ちになってくる。


「えへへ、ありがとう」


「……誰かと違う」


 本の虫は横目で気さくなやつを見ている。


 気さくなやつは唇を尖らせて不機嫌そうだ。


「静かなのにうるさいよなー。少ない言葉と小さな声でこんなにうるさいんだから、俺と同じくらいしゃべったら一人でコンサートやオーケストラもんだな? 試すのはただだぞ? もっとしゃべってみないか?」


「あははは」


 久々に心から笑った気がする。


 どこか懐かしさを感じるやり取りに、心の奥底があたたかく感じられた。


 前にもこの三人でこんな風に笑いあって、冗談を言い合って、相談して……。


 デジャヴというやつだろうか。


 遠い昔の記憶のようにも感じられるこの光景を噛みしめていると、怖がって外にもう行きたくないあの子を連れて、また違う場所へ車で移動している母親と祖母の様子が見えた。


 あの子の気持ちくらい汲んでやってほしい。


 そんな切実な願いも虚しく、車に酔いやすいあの子はしんどい思いをしながら連れまわされ、到着した先では大人の男の人がたくさんいる祭りが催されていた。


 大人の男の人がたくさんいて怯えて怖がって、車に、家に帰りたがっているのを、「いいからみていこう怖くないよ」って言いながら強制的に見させられている。


「酷い」


 思わず口をついて出てきた言葉だった。


 悪気はないし良かれと思ってやっていることだってわかるけれど、本人の気持ちを大事にしてほしかった。


 あの子は見に連れて行ってもらった祭りを心から良い物だと思っていなかったけれど、祭りに参加していた人や連れて行ってくれた親と祖母の顔色をうかがい、良い物だったって言わされていて切なくなった。


 本当は怖くてたまらなくて、車に揺られて長い距離を移動するのがしんどくて疲れてしんどかったろうに。


 そうやって、本当に思ったことをどんどん言えなくなって、また前のように興味が閉じていってしまうのが悲しかった。


 前と違って本音が言えなくなっていってしまうのが切ない。


 祖母の家に到着すると、この子の従兄弟が怒ってあの子のためにいろいろと言ってくれていた。


 車が苦手なこと、大きなおじさんにぶつかられて怖かったのに、男の人がたくさんいる場所に連れていかれたことが可哀想だと。


 押しつけがましいことをしている、顔色伺って行ってよかったなんて言わされているのだと主張してくれていた。


 理解者というよりも、同じような扱いを受けて育って、本音を言ったら被害者面して恩知らずの扱いを受けてきたから出た言葉だった。

 

 この子も可哀想に。


 そう思いはしても、僕たちにとって大事なのはこの子だ。だから、君は他の誰かに見つけてもらってね。後は君次第だ。


 届かない場所からエールを送った。どうか君も無事に育つことができますように。


 ああ、僕もこの子の味方として現実世界で庇えたらどれだけいいだろう。この従兄弟が羨ましい。


 犬に化けてこの子の心の涙をペロッと舐めながら慰めでもしたら、もやもやした気持ちが晴れて、怖い気持ちもどこかへ行ってくれるだろうか。


 そんなことを思いながら、この子の大事にしていた白いタイツが干されている様子を夢にみせてあげた。


 知らない間にこっそり捨てられそうになっている白いタイツ。


 最後くらい会わせてあげたくてしたことだった。


 できるなら、一緒に白タイツを見に行く夢を見せたかったけれど、僕の姿は大人ではなくとも男の姿をしているから怖がられるかもしれないと考えて、あの子には一人で会いに行かせてあげた。


 いつも一緒にいるとかえって疲れさせてしまうだろうし、男の人がいたらきっと怖がってしまう。


 この子は気遣いのできる優しい子だ。怖くても無理して笑顔で一緒にいちゃうようなそんな子だ。


 薄暗い部屋に一人でぽつんといるのが夢の中でも怖い様子だったけれど、そんなところで男と二人でいるよりはましだろう。


 そんなことを思いながら、お気に入りだったタイツとお別れをさせてあげた。


「お前って本当に優しいよなー」


 今までずっと黙っていた気さくなやつが口を開き、少しだけ驚かされた。


 静かだったからどこかへ行ってしまったと思っていたけれど、ずっとそばで見守っていたんだ。


「自分の本音に蓋をして、あの子のしていることをなぞってるようだな? いいのか? 本当は一緒にバイバイしに行きたかったんじゃないのか? 薄暗い部屋で少し不安げだぞ?」


 少し間を置いてからゆっくりと首を縦に振る。


「だったら……」


 その続きを言わせないためにすぐに首を横に振って返した。


「……ふうん」


 気さくなやつは口元に手を当てて考え込んでいる様子だ。


「……信じて」


 本の虫もずっとそばにいてくれたらしいことに、声を掛けてもらってから気づいた。


「それは……誰を?」


 恐る恐る尋ねると、本の虫は少しだけ口角を上げた。


「あの子」


 二人は僕たちの仲を応援してくれているんだって痛いくらいわかる。わかるけれど、どうしても勇気をもって踏み出すことはできなかった。


 あの子は現実を生き、僕たちは夢を生きている。


 住む世界が違うし、いざというとき助けになれるだろうか。


 わからない、わからない……。


「口実。逃げるための」


 本の虫が畳みかけるように言葉を紡ぐ。


「後悔するよ」


 やらないより、やってみて失敗してより良くしていくべきだ。確かにそうだ……。そうだけれど。


「もう少しだけ、考えさせてほしいんだ。もう少しだけ、大きくなってからの方が良いと思ってるんだ。逃げるためじゃない、勇気を踏み出せない言い訳をしてるつもりじゃない。だってこの子はまだ幼いんだから。もう少し大きくなってから、14歳、16歳くらいになってからなら……」


 そのくらいの年になってからアプローチをしたかった。


 気を遣わせて、好きでもないのに無理して好きだと言わせたくなかった。


 前に一度大好きだと言ってもらえてすごく嬉しかったけれど、あれは小さい子特有の大好きだったと思うし、カウントして良いと思えなかった。


 大きくなってから、また大好きだと、愛していると言ってもらえたなら、それは本当に僕のことを好きだという意味で捉えられる。


「怖いだけ。逃げてるだけ」


「……そうだね」


 反論できなかったけれど、本音を知ってほしかった。


「確かに、僕は逃げているんだ。怖がられるのが、拒絶されるのがすごく怖い。どうか僕のことを怖がらないでほしい。だけど、あの子はまだ小さい子だ。一緒に遊んだ楽しい思い出も、もしかしたら忘れちゃってるかもしれないし、僕が本当は人じゃないってわかっても怖がるかもしれない。人の男の姿をしているから、もしかすると見た目だけで怖がっちゃうかもしれない。きっと怖がられたらショックを受けるだろうって予感があるし、それがとても怖いのは認めるよ。でもね、僕なりの気遣いと愛でもあるんだ。怖いだけじゃ、逃げてるだけじゃないんだ。だから、逃げてるだけなんて言わないでほしい」


 ぽつりぽつりと素直に心の内を話すと、本の虫は穏やかに微笑みながら頷いてくれた。


「……わかってる、ちゃんと。背中押したかっただけ」


 そういってにっこりと笑ってくれているから、すっと心の重荷が軽くなるのを感じた。


「まったく、本の虫がいい具合に追い詰めていってるなって思って黙って見てれば。良いのか? 優しさだけで結ばれると俺は思わないぞ? なにせ、優しいやつが損をするような世の中だからな。もしかすると夢の世界も例外じゃないかもしれないぞ? 他の夢魔があの子を気に入って心をかっさらっていっちまうかもしれないぞ?」


 気さくなやつの言葉に心を迷わせてしまいそうになるけれど、僕はあの子をまっすぐに愛している。誰に何と言われようと、僕なりの思いやりを崩すつもりはない。


「……こら」


「痛ァッ!」


 見かねたのか、本の虫がいつも抱きかかえている本の角で気さくなやつを殴ったので目を丸くしてみてしまった。


「わ、わざわざ角で殴らなくったっていいのに?!」


 驚いたせいで大声を上げてしまったのを後悔し、口元に手を当てていると、気さくなやつが僕の言葉に乗っかりながら拳を振り上げて本の虫に抗議し始めた。


「そうだそうだ! せめて角はやめろ!」


「……黙れ。平面ならいいんだ?」


 気さくなやつは黙れと聞いてすぐに僕を本の虫の盾として構えた。


 本の虫はその減らず口を根性ごと叩きのめしてやらんとばかりに本を振り上げて追いかけまわし、気さくなやつは本の虫の間に僕が入るように引っ張りまわした。


 なんだか遠い昔、こんな風に楽しくじゃれあったことがあった気がしたんだけどな。


 懐かしさに思いを馳せながら三人で遊んでいると、時間があっという間に過ぎてしまっていた。


 遊びながら白いキャンバスを青空と白い雲、風になびく大草原へと塗り替え、はしゃいで笑って疲れた頃に三人揃って大の字になって寝転んだ。


「……で、俺から提案があるんだが」


 唐突な気さくなやつの提案の内容を聞いて顔をしかめていると、本の虫がもう一度本を振り上げて殴ろうとしていて笑わされてしまった。


「まあ待ってくれ、理由はある。はやまるな」


「……先に叩く。叩けるうちに」


 寝転んでいたから逃げ遅れて大人しく殴られた気さくなやつは頭をおさえながらどういうつもりで提案したのかを話してくれた。


 まず、気さくなやつの提案はこうだった。


 あの子に人間の怖い夢を見せて蛇の時のように気配を感じ取れるようにすることだった。


 本の虫は呆れたようにため息をつき、僕は暗い表情で内容を聞いた。


 そんな様子を見ながら、夢を見せる理由を淡々と話してくれた。


「あの子には味方がいない状況だから自分の身を守れるように、せめて近寄ってくる人の気配くらいは感じ取れるようになってもらうべきだ。もし後ろをつけられることがあったとするだろ? 早めに気づいて振り向いたり、走って逃げたり、助けを求めるために人を探すのに役立てたり、いろいろな使い道があるだろう? 別に悪い提案ではないと思うんだが」


 一理あると思ってしまった。


 本の虫は少し考え込みながら、横目で気さくなやつを見ていたけれど、悪い考えではないと結論付けたのか、反論はせず、もう一度本で殴ろうとしていた。


「ちょっと待て! どうして殴ろうとするんだ? 文句があるなら代案を出せ!」


「……敵討ち。あの子の分。先に叩く」


 なるほど、そういう意味で叩いていたのかと感心していると、鈍い音があたりに響き渡った。


「いっててて。お前本当に容赦ないな」


「……うん」


「否定もしないのかー」


 本当にどうしてこんなに懐かしくなるのか不思議に思いながら、あの子へ悪夢を見せる決意をした。


 あの子のため……。


「おっと。お前が俺の考えた夢で悪役をするのはさすがに精神的自傷行為だ。悩みながら、あの子のためを想いながらずっとすごしてきたんだろ? 息抜きに違う人間の夢へでも遊びに行ってきな。俺たちが夢を見せている間にな」


 気さくなやつの気遣いに甘えて、他の人の夢で「吸精」をすることにした。


 どういうわけか、悪役をしようと思わなかった。酷く後悔したような気がして、やろうと思えなかった。


「よーし、良い子だ。せっかくだからあの子への土産話として持って帰ってみるのも悪くないかもな?」


 気さくなやつの言葉に笑顔で頷き、あの子に話して聞かせる物語を集める感覚で他所へ遊びに行くことにした。


 怖い夢を見たあとに安心できるような温かいお話を持っていけたらいいな。



「じゃ、やるか」


「……殺す」


「まじで殺すわけじゃないのに……まさか本気で殺したいのか? あくまでこれは夢だからな?」


「容赦なく殺す」


「おいおいおいおい。いくらお前が殺したくっても俺は死なないからな?」


「優しいやつの敵」


「死んでねえだろ? 記憶を綴じただけだって。お前も納得して綴じたじゃないか」


「……」


 黙った本の虫を見て、もっといい方法があったんじゃないかと考え込む。


 どうするのが良かったのか、どうすれば丸く収まったのか、どうすればあいつにとって一番良いことだったのか。


 自分たちが良かれと思っていることを押し付けていたあの子の母と祖母のことが頭に浮かぶ。


 俺もきっと同じことをしているんだろうな。


 いや、過ぎたことは仕方がない。今は悪夢を見せるのに集中だ。


 殺人鬼役は本の虫で俺は切り捨てられる側。


 その他は別に演じるやつがいようがいなかろうが構わないけれど、久々に顔を見たいという理由で月の子やセラピスト、色惚けたちに登場してもらった。


「私がママよ!」


 色惚けが勢いよく手を挙げながら立候補していた。


 セラピストが赤ん坊役で、月の子は父親役になった。


「赤ん坊はちょっと」


「僕はどっちでも良いよ! でも、本当にこんな夢見せていいの?」


 セラピストの疑問に乗っかり他の二人も怖い夢はやめた方が良いと言い始めた。


「でもさ、もしまた誰かに突き飛ばされたらどうする? 痛い目、怖い目を見てほしくないから予防するための悪い夢だと俺は思うぞ?」


 渋々納得といった様子で三人とも黙り込んだ。


 可哀想だと思う気持ちはわかるがな。


 口には出さないけど、みんなの反論も反感もわかっているし理解できた。


 世の中甘やかしてばっかりじゃ、しっかり生きていけるようにはならない。


 そんな本音を読み取られないよう、そっと胸のうちの奥深くへとしまいこむ。


 誰にも読ませてたまるものか。


 そんな気が進まなかったやつらも、夢を見せる前になるとやる気が満ちてきた。


 なんだかんだ言って、夢を見せるのが大好きな連中だから、ワクワクする気持ちを抑えられないのだろう。


 そんな具合で本番に挑む。


 本の虫は容赦なく俺の腹をチェーンソーで切り開いた。


 まさかあの子が一生懸命助けようとしてくれるとは思っていなかったので、なんだか役得な気分だったが、夢とはいえ、夢を見せる側とはいえ、本の虫の殺意は冷たいナイフのようで腹の底から震えあがった。


 冷たく感情のない氷のような表情の中に宿る殺意の炎。


 他の三人は温かく穏やかだけれど、他人が家族として振る舞っているので怖さに拍車をかけてくれて良い演出だった。


 そうしてあの子は人への恐怖心と警戒心を育て、一発では習得できなかったけれども気配感知への大きな一歩を踏み出してくれた。


 もっと男嫌いになったかもしれないが、どうかそこは許してほしい。いや、許さなくて良いし恨まれて当然だ。怖いと思っている対象ほど成長させやすいから、やむを得なかったんだ。


 優しいあいつとあの子の両方に申し訳ない気持ちを抱いていると、本の虫からの視線を感じた。


 おっといけない、読まれるところだった。


 こぼれ出そうな本音をすうっと心の奥底へと隠し、読み取られないように蓋をする。


 俺はたとえ憎まれ役でも、嫌われ役でも平気なのさ。昔っからそうだったからな。



 ルンルン気分で楽しそうな話を拾って帰ってくると、あの子が不完全ながら人の気配感知を身につける一歩を踏み出したところだった。


 成長を喜ばしく思う反面、精神的に大丈夫なのか、中途半端にできるようになったから、これからかかる精神的負荷がどう影響してくるのか心配でならなかった。


 心配しながら見守り、あの子とまた夢で会えたらどんな話をしようか、どんな姿で会おうか、やはり柴犬だと名付けてくれたから柴犬に化けて出ようかなんて思っていた時に事件が起きた。


 犬に飛びつかれ、トラウマを刺激され、犬が怖くて仕方がなくなってしまう事件だった。


 犬に飛びつかれ、大泣きしながら怖がって固まっているあの子を見て絶句してしまった。


 男だけじゃなくて、犬まで怖くなってしまうなんて。


 どんどん、どんどん、僕のことが嫌いに、怖い対象になっていくような出来事ばかりが起きて立ち直れなくなりそうだった。


 僕はこんなにも君を愛していて、君が大好きで、君のためなら何でもしたいくらいに思っているのに、どうしてこんなにも気持ちが離れていってしまいそうな出来事ばかりが起きるのだろうか。


 いっそ死んでしまおうかなんて思ってしまうくらいに絶望的な出来事だった。


 どうして男の姿なんかに、どうして犬の名前をつけてもらってしまったのか。


 名付けてもらった時はあんなにも嬉しくて一生の宝にしたいくらい気に入っていたのに、こんな出来事が起きてしまったら嘆くほかなかった。


 絶望に打ちひしがれていると、気さくなやつが顔をしかめながら隣に並んだ。


「運が悪いなんてもんじゃねえなーこりゃあ。まあ、そう落ち込むなって。お前自身も言ってただろう? 小さい子のつけた名前はいずれ変わる。大丈夫だ、次に会ったら違う名前をもらえるって」


 気さくなやつが元気づけようとしてくれているけれど、会いに行ったら男の姿をしているせいで怖がられてしまうだろう。


「あー……いっそ女に化けて出るか?」


 考えを読み取ってか、良さそうな提案をしてくれたけれど、やろうと思えなかった。


「それは……僕じゃない。気づいてもらえないかもしれないし、気づいてもらえても、僕じゃないんだ。ダメなんだ。自分を偽って会うべきじゃないって思うんだ。あの子がもしそれで懐いてくれて、安心してくれても、本当の僕に対して抱いた感情じゃない。そんなことするくらいならありのままの自分で会って嫌われた方がずっとましだ。でも……嫌われたら本当に消えたいくらいショックで苦しいと思う。怖いんだ。いっそ今すぐ殺してくれ。いいや、死ぬ前に、殺される前にやりたいことができた。犬の怖い夢も見せて、あの子が野犬や狂犬に襲われないようにしよう」


「……そうだな。お前の言うとおりだが、俺はお前に死んでほしくはないし殺すつもりもない。それにさ、今度は可愛い柴犬の心温まる夢を見せようよ。あの子は悪い夢を見るまでもなく十分怖がってる。今更怖がらせる必要はどこにもないだろ? 夢で鍛えるまでもなく犬の気配感知はピカイチだ、違うか?」


 気さくなやつの言葉にはいつも説得力がある。よく見て、よく考えているからなのだろうか、不思議とそうだと納得できる言葉がたくさん並んでいて、反対意見がなかなか浮かんでこないのだ。


 実際、あの子は犬が近寄ってくる前に振り向いている。気づく前に犬の方から唸りながら吠えているせいでもあるのだろうけれど、これなら大丈夫だと安心できるし、気さくなやつの言葉に説得力しかないことの裏付けでもあった。


「柴犬になって一緒に遊んで来いよ。確かあの子はフリスビーもしてたろ?」


 親や遠い親戚と一緒にフリスビーで遊んでいるあの子を確かに見たことがある。


 黙ってうなずくと、気さくなやつは人差し指だけ立てて指揮をとるように振り回し、僕にいろいろ提案してくれた。


「お前は柴犬になって夢で一緒に遊ぶ。あの子の遊んでいたフリスビーを一緒にするんだ。これで犬が多少好きになるだろうし、お前自身はあの子からつけてもらった名前を気に入ってるってアピールにもなる。ありのままの姿で現れた時に嫌な印象なんて持たれないだろう。好感度稼ぎになるしいろいろと良い方向にきっとむく。上手くいかなかったらその時はその時で対策とかいろいろ考えよう。とりあえず今はできることをしようぜ」


 話を聞いていると、不思議と頑張ろうって思えるのだった。


 昔からそうだ。気さくなやつは人をその気にさせるのがとても上手だった。


 説得する材料が豊富にあるのもそうだけれど、人の心を掴むのが上手だって思えた。


 きっと、根底にあるのが相手への思いやりだからなんだろうな。自分が得するわけでもなんでもないのに、たくさん考えてアイディアを出して、常に相手の為が行動原理だ。


 あれ? 昔からって?


 また不思議な感覚だ。


 違和感を覚えていると、あの子に夢を見せるための打ち合わせと準備をしてくれて、何が気になっていたのかわからなくなっていった。


「さあ、ゆっくり楽しんでおいで」


 気さくなやつの見送る言葉とともに、あの子に夢を見せながら白いベールを身にまとう。


 みるみるうちに愛くるしい柴犬に姿が変わっていくのを感じながら、できるだけこんがりして美味しそうで、ちょっと馬鹿っぽい顔だけど愛くるしいような姿になれるよう思い描いた。


 変化は成功だ。思い描いたような柴犬の姿に心から満足しながらあの子の元へと駆け寄る。


 怖がって蹴られないか、怖がって大泣きされないか、不安と心配と恐怖が浮かんできたけれど、ネガティブに考えていたような結果にはならなかった。


 精一杯愛想よく、愛くるしくふるまっていると、あの子が恐る恐るではあるが手を伸ばしてそっと優しく撫でてくれたんだ!


 あまりに嬉しくて嬉しくて! 尻尾がちぎれて飛んでいきそうなくらいに振り回した。


 安心してくれたのか、最初はおでこだけだった撫でる部分が、顎の下や背中、頭全体、両頬、腰、お腹、背中とどんどんどんどん広がっていった。


 そんなに撫でられたらくすぐったいけど、心の奥底からポカポカしてきて、もっと撫でてほしいという気持ちが溢れかえってきた。


 勇気を出してあの子の頬に顔をこすりつけ、ぺろりと舐めてみた。


 あの子が泣かないか心配だったけれど、くすぐったそうに笑い声をあげながら喜んでくれて心の奥底からほっとして、もっともっとすりすりしたくてたまらなくなった。


 打ち解けることができたおかげか、フリスビーを咥えて持っていくと、あの子が自分からすすんでフリスビーを投げて一緒に遊んでくれた。


 ああ、この夢が永遠に続いてくれたなら、どれだけいいだろう!


 愛してる、大好きだ! ずっと一緒にいよう? 僕が君を支え続けるから。


 恋人じゃなくてもいい、ペットでも良い! ずっと君の味方でいさせて。


 そんな気持ちが溢れて止まらなかった。


 僕は君の傍にいたい。触れ合っていたい。守りたい、好きなんだ。


 幸せな時間ほどすぐに終わりがきてしまうもの。


 夢が覚めるときがきた。


 あの子が日の出とともに目を覚まし、夢の世界を去る瞬間、くっついて一緒に行けたらどれだけいいかと思わずにいられなかった。


 最後の瞬間まで頭を撫でてくれたあの子の手の温もりを忘れることは一度もなかった。


 クーン。


 犬の鳴き声であの子を見送り、目が覚めてからも犬が怖いあの子を切ない気持ちで見守った。


 犬のことは可愛いと思うけれど怖いという気持ちを読み取り、切なくて、悲しくて寂しい気持ちを噛みしめていると、気さくなやつが傍にきてくれた。


 僕に合わせてくれたのか、あの子がくれた名前を同じように気に入っていたのか、ハスキーの姿になっていた。


「あの子が犬を怖いと思っているのに、夢で遊んでくれたってことはお前のこと特別だってことじゃあないか?」


 可能性は否定しきれないけれど、頷けるほど自信はなかった。


「なんならさ、今度イヌ科の別の動物の名前でももらおう。キツネなんてどうだ? なかなか狐に関するトラウマやトラブルなんて起きやしないだろう。 それに、あの子の名前はキツネに関する名前だし、おそろいになれていいんじゃないか? 顔は狸だがな!」


 冗談を交えながらケラケラ笑って言う気さくなやつにちょっとだけむっとしながら笑って頷いた。


「あの子の顔をからかうのは許しがたいけれど、可愛いたれ目って意味ならすごくわかる。可愛い狸さんだ。キツネの名前もいいよね。おそろいにしてくれるだろうか」


「俺に任せな。誘導してみせる」


「自然とつけてもらえるほうが嬉しいから誘導はしなくていいよ」


「そうか」


 そんなやり取りをしながら気さくなやつとワンワン笑っていると、本の虫が黙ってこちらを見ていることに気がついた。


「どうしたの?」


 首を傾げながら尋ねてみると、本の虫は頬を少しだけ赤く染めながら僕と気さくなやつの頭を撫でて耳をくいくいっと指でいじった。


「もふもふ」


 どうやら本の虫は動物も好きみたいで、しばらくの間僕たちはモフられ、意外な言葉を耳にした。


「……キツネ、まざりたい」


 本の虫が自分からそんなことを言うのが珍しくて、気さくなやつと思わず顔を見合わせた。


「良いね、一緒に狐にしてもらいにいこう!」


 明るく声をかけてみると、目をキラキラ輝かせながら本の虫が頷いた。


 先ほどまで重く深刻に考えていたのはどこへやら。


 これも全部あの子が僕たちを幸せな気分にしてくれたんだね。


 あの子の周りの出来事を見ていると、こちらまで憂鬱で心が苦しくて辛くなるけれど、あの子と関わって笑顔をみれたら、自然と幸せな気持ちが溢れてほのぼのできてこの上なくあたたかくなれた。


 あの子が天使や悪魔、神様の話を聞かされていて、どんな姿をしているのか興味を持っていたけれど、僕はあの子自身が天使そのものだと思っているよ。だって、一緒にいられたら、笑ってもらえたら、こんなにも幸せで明るい気分になれるんだもの。


 君は僕だけの、僕たちだけの天使だ。

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