本当の涙を愛しています
あおなゆみ
涙を流すキス
彼は恋人役でもなくて、この映画の出演時間もわずか30秒で、私とキスをしただけでスタジオを去った。
無名俳優で、代表作もなく、それでも私にとって忘れられないシーンを残した人。
監督や出演者が舞台挨拶で話す、印象的なシーンに選ばれる事もなく、そのシーンの重要性は私の中だけに留まった。
キスをした。
大勢の人に見られながら。
私は言った。
「別れよう、私達」
自分の声で、自分の言葉ではない言葉を話すのに慣れた私。
彼の顔を見ると、彼は涙を流していた。
最初は左目からゆっくり流れた涙。
その次は、右目から勢いよく流れ落ちる涙。
私は芝居するのを忘れ、ただ彼の瞳を見つめてしまう。
監督も誰も、彼に涙を要求していなかった。
でも彼は、彼の意思で、もしくは意思に反して涙を流した。
カットがかかり、彼は無表情で涙を拭うと、一礼し去って行く。
スタッフは彼を不思議そうに見ていた。
心配というよりは、変な奴だなという雰囲気で。
そして、彼の後ろ姿を見ていた私は、ありのままの私だった。
一人で部屋にいる時のように、感情は全て私の為だけのもの。
このまま立ち尽くすだけだと、一生後悔する気がした。
だから私は、急いで彼を追いかける。
早足で、すでに外に出てしまっていた彼に、必死で追いついた。
「あの」
私の声に振り向いた彼は、やっぱり、涙を流していた。
彼が本当には泣き止んでいないと、一度後ろ姿を見送った時から気付いていた気がする。
「どうして、そんなに泣くんですか?」
さっきとは違い、慌てるように涙を拭った彼は、私の方を真っ直ぐに見た。
私の声を聞き逃さないようにするみたいに。
「分かりません。どうしてか自分にも分かりません。でも、悲しくて」
目を赤くし答える彼に、私は何を言えるだろう。
「泣かないで下さい」
「大丈夫ですか?」
「お話でも聞きましょうか?」
思いつく言葉は何一つ使えそうにない。
でもどうしても、彼に言葉を掛けたかった。
私は少しだけ彼に近づく。
「私とのキスが嫌で泣いてるわけではないですよね?」
一応の確認。
私なりの冗談でもあった。
笑ってくれたらいいなとも思った。
「そんなわけないじゃないですか。青川さんとのキスシーンが嫌なわけないし、僕も一応は役者です」
ちょっと呆れ笑いみたいに微笑んだ彼に、私は安心する。
そしてさらに彼に近づき、ダメだと分かっていながらも彼を抱きしめた。
一瞬彼が抵抗したのが分かる。
でも彼はすぐに力を抜き、私の腕の中に収まるみたいに、母親に抱きしめられる子供みたいに黙っていた。
「これは愛とかじゃなくて、大切な人を慰める時みたいなハグです。私は、あなたの涙に心動かされました。切ないけど、温かい気持ちになったから」
その言葉は、最初から決まっていた台詞のようだった。
私の口から自然に出た言葉。
その時気付いた。
私は今にも泣きそうになっている。
自分の意思に反して。
どうしてだろう。
「青川さんに何か伝えたいことがあった気がします。今度、思い出したら伝えに来ます」
と彼が言った。
「伝えたかったこと?」
私は身体を離し、彼を見た。
その瞳がどこか見覚えのあるものに思えてならなかった。
それほどに、私は彼に惹かれていた。
「じゃあ、失礼します」
私の腕からすり抜け、逃げるように走り去って行く。
私はしばらく立ち尽くし、彼を追いかけて来たことによって、何かしらの後悔をせずに済んで良かったとホッとしていた。
そして、彼にまた会いたいと思った。
分かれ道を見るたび、点滅する信号を見るたび、右に行くか左に行くか、進むか止まるかの選択を、彼との再会へと繋げて考えてしまいそうだ。
もしかしたらとか、この角を曲がれば、とか。
再会が難しいことも分かっていたし、彼が本当に私に伝えたいことがあるとも思えない。
その場を逃れる為の嘘だった気がする。
でも二度と会えないのなら、それはあまりにも悲しくて、会えないのならそれで良いと思い込む自信はなかった。
あのシーンだけを永遠に美しい記憶にしようとも思えない。
キスに、涙。
そこから何かが始まってほしいという本音。
彼の存在は、私の中でどこか、次へ向かう予感を漂わせていたから。
「では、青川さん。印象に残っているシーンはありますか?」
俳優のボソボソとした話し声ではなく、司会女性のハキハキと明るい声で、回想から舞台挨拶に意識を戻した私は、
「宗崎さんと橋の上で会話をしながら、手を繋ぐシーンです。空気が澄んでいて、景色も美しかったので印象に残ってます」
と、そつなく答えた。
映画は、昔の恋人との別れを引きづるヒロインが、自分と似た境遇の男性に出会い恋に落ちる物語。
その映画の舞台挨拶が、広い映画館で行われている。
本当は、この映画でのあのキスシーンを語りたかった。
元恋人役の彼が流した涙。
あんなに心を動かされた芝居は初めてだったから。
でももちろん、大勢の前でその話をできる訳がない。
誰だって程度の差はあるにしても、芝居をしながら生きていると思う。
でも私は以前にも増して、自分を演じる事が増えた気がする。
そういうのは、年を重ねれば重ねるほど、減っていくものだと思っていた。
自由を手にできると思っていた。
なのに、違ったようだ。
それらしいことを、本当の自分の気持ちのように語り、女優としての品位を保った。
だから、印象に残っているシーンも、それらしいものを選んで、それらしく話せばいい。
私の発言に、私とW主演を務めた、恋人役の宗崎祐輔はこっちを見て微笑む。
監督も誇らしげに笑っていた。
司会者は
「本当に美しいシーンでしたよね。私も印象に残ってます〜」
と、わざとらしいほど大袈裟に同意した。
舞台上も客席も、笑顔で埋め尽くされたこの会場を見ていると、あのキスシーンの涙だけが真実に思えてならない。
芝居を仕事とする私なら、それも学生の頃から始めた私なら、そんな出来事にだけ囚われ続けてはいけないと分かる。
だから、気持ちを誤魔化す為に、私もその他大勢と同じ笑顔を作った。
一度笑ってしまえば、それも悪くないと思えるから。
舞台挨拶の最中、楽しそうに場を盛り上げる宗崎裕輔を見ながら、私は女優を初めて10年が経った事実を噛み締めた。
17歳でデビューした私。
最初の作品は学園モノのドラマで、運良く主要キャストとして出演できた。
その主要キャストの中の一人には宗崎裕輔もいた。
祐輔も私と同じくデビュー作で、デビュー前から一緒にレッスンを受けた私達は、物凄い幸福と不安の中にいた。
夢見てきたことなのに、大事になってしまった感があり、恐怖もあった。
そして、そのドラマの制作発表会見にも参加。
当時は今みたいな笑顔を作るのも大変で、後からその会見の映像を見て驚いた。
物凄く引き攣った笑顔だったから。
可笑しかったのは、裕輔も同じような顔をして笑っていたこと。
今の私達は、いくらでも自然な笑顔を見せることができ、面白くなくても周りに合わせて上手に笑える。
カメラの台数に、いちいち驚くこともない。
裕輔は私に目配せするほどの余裕もあるし、私もその目配せにさりげなく応えることもできる。
だからというのは変かもしれないけれど、この10年は非常に充実していたと思いたい。
惜しまず努力をしたと思いたい。
そして、映画の宣伝活動が終わり、初めて長めの休暇をもらっていた。
家に篭り、昼過ぎまで寝たり、気が向けば映画やドラマを観たり、読書もした。
私の感情は、涙に動かされるようにできているのか、主人公が泣けば私も泣けた。
誰かが別れると泣けて、ふたたび出会えればもっと泣けた。
そういう感情の流れが長い間、続いている気がする。
確かに私は、涙もろい方だとは思う。
でも、全てが同一の涙で、秀でる涙はなくて、作品を観て簡単に涙している自分を客観視している自分もいる。
時々、感情に動かされているのか、無理に感情を動かして泣いているのか分からなくなる時もあった。
これまで、数え切れない涙を作品を通しても見たし、芝居中に目の前で何度も見てきた。
それなのに、どうして彼の涙だけが際立って、こんなにも印象強く、忘れられないのだろう。
あまりにも特別なものだった。
特別であってほしいとも願った。
その時、携帯電話が鳴る。
着信の相手は宗崎祐輔だ。
「もしもし」
真剣なその声は、私を心配してくれていることを表す。
「もしもし。どうしたの?」
「ねえ、優子。また共演したいな」
それは祐輔の口癖であるかのように、電話をするたびに言う言葉だった。
「うん、そうだね」
祐輔とはすでに4回も共演している。
1作目はあの制作会見のドラマで同級生役、他には同僚役が1作、敵対する企業のライバル役で1作、もう1作は今回の恋人役。
他に2作は、一緒のシーンはないけれど同じ作品にも出演した。
同事務所であり、共演回数が多いことから、熱愛が噂されたこともある。
でもそれは本当にただの噂だった。
私は、役者としての裕輔を尊敬していたし、人としても良い人だと知っている。
「祐輔、これから何クール連続で出る気なの?またドラマの撮影入るんでしょ?体に良くないから、いくら働き時でも、たまには休んだ方がいいよ。長期休暇、最高だよ」
「俺のことはいいんだよ。優子の様子が気になって連絡したんだ。誰とも喋ってないんじゃないかと思って。大丈夫か?その・・・」
続けようとしているだろう言葉は、言わなくても分かった。
電話越しの裕輔の表情だって容易に想像できる。
祐輔はもしかすると、これまで出会った人の中で一番優しくて、気遣いできる人かも知れない。
同じ事務所で同年デビュー、デビュー前は演技レッスンや必要性を感じないダンスのレッスンを一緒に受けたりした。
何かしらと私を気遣ってくれてた存在だ。
12年の仲で、これだけ良い人なら、相当良い人なんだと思う。
少しチャラいところもあるけれど。
同志という言葉が本当にぴったりで、切磋琢磨したという言葉は裕輔に対してのみ使いたい。
私も彼に助けられた分、彼の役に立ちたいと常に思っている。
彼が仲良くなりたいと言った女優との間を取り持ってあげたりもした。
私が彼にできるのはせいぜいそれくらいだった。
だから私は、裕輔の恋愛事情について把握していたし、反対に祐輔が唯一、私の恋愛事情について詳しく知っている相手だった。
そして、今回の休暇を勧めたのも彼だ。
私の恋愛事情を知ってるからこその意見だったんだと思う。
「大丈夫だよ。確かに誰とも話してなかったけど、でも大丈夫。それにもう2年も経つし、言ったと思うけど、愛してる人を失った感覚とは違うの。私は大丈夫だし、裕輔の考え過ぎだよ」
優しさ故に、返答に迷っているのが伝わった。
必死で沈黙を終わらせようとしていることも分かった。
そろそろ沈黙が破られるな、と空気感で察す。
「そうか?取り越し苦労だったなら、それでいいんだけど。とにかく、ゆっくり休みなよ。一回くらいは飲みにでも行く?」
「お酒好きじゃないの知ってるでしょ?せっかくだから、一人でゆっくり休むね。私が休んでる間、スキャンダルには気をつけなよ。その優しさに惑わされる女は少なくないからね」
「ハハッ。分かったよ。じゃあね」
「うん。またね」
裕輔は、感情を隠すのが上手いはずの私の感情の変化にさえ気付いてしまう。
その分私も彼の感情の変化に気付いてしまう。
それでも、祐輔にだって知らないことはある。
一つは、あのキスシーンの涙に、あの俳優に心動かされ続けている私のこと。
そしてもう一つは、私の前に現れるある人のこと。
消すことのできない罪悪感のような、後ろめたさ。
ずっと家にだけいると、映画もドラマも観る気にならなくなったし、読書も進まなかった。
休日は家でゆっくりするのが好きだったのに、全てにやる気を失ってしまう。ひたすらインプットするだけではどうにもならないのか。
窓の外を見る。
外に行きたくないのには理由がある。
でも、ずっと籠っているのも人として良くない・・・
外の空気を吸って、人の行き交いを見れば、映画やドラマ、小説にまた集中できるかもしれない。
何か意味のあることをする為のやる気に、繋がるかもしれない。
少しでもいいから外に出ようと思って鏡の前に立ち、身だしなみを整える。
久しぶりに自分の顔をしっかり見た気がする私は、そのまま立ち尽くし、涙を流してみようと思った。
ある程度悲しい感情を作り出すと、あっという間に涙が流れる。
映画を観ながらでもなく、目の前に俳優がいる訳でもなく、決められた流れがある訳でもなく、周りに影響を受けずに、ただ鏡の前で涙を流すと安心し、心が落ち着く。
まだ女優でいられると思えて、誇らしい思いになる。
涙が頬を伝う姿を見ると満足できて、ようやく家を出た。
最近は行けていなかった、お気に入りのカフェに行くことにした。
中に入り人目につかない奥の席に座る。
コーヒーとチーズケーキのセットを頼み、それらが運ばれると、持ってきた小説を読み始めた。
程よい雑音に程よい音量のジャズ。
外に出ただけで、集中力は高まる。
私は本を読み続けた。
どこまで読み進められるのか、不安になりながら。
その不安はすぐに現実となる。
「優子?」
名前を呼ばれた時は厄介な気持ちだけ浮かび、その声の方を見た時には、ただ胸が痛かった。
自然な姿ではあっても、現れた瞬間は何度見ても、慣れなかった。
数分後には慣れて、嫌気が差してしまうけれど。
「また来たの?」
「うん。また来ちゃった」
私の問いかけに対して、笑いながら向かいの椅子に腰掛けたのは、文孝だ。
文孝は2年前に死んだ私の元恋人。
交通事故だった。
私は文孝と付き合って1年経った頃から、彼の自分勝手な発言や高圧的な態度に嫌気が差し、別れたいと思っていた。
それでも「別れて」の一言が言えずに、そのまま付き合い続けていたら、彼は死んだ。
ドラマの台詞だと思い込めば簡単に言えたはずの別れの言葉。
ちゃんと言っていれば、恋人を亡くすなんて出来事を、ドラマみたいな出来事を、経験せずに済んだのに。
だから彼が死んだと知った時、私は泣かなかった。
泣けなかった。
嘘でも泣けなかった。
「どうして外にいる時だけ現れるの?家に出てきてくれれば、堂々と話せるのに」
私は人目を気にしながら、小声で話す。
文孝は葬式の次の日から、私の前に姿を現した。
毎日は出てこなくて、週3日くらい。
ただそれは、毎日外出している換算の場合で、こうしてたまにしか外に出ない今となると、家から出れば、毎回文孝が現れるというような頻度。
これまで、家までの帰り道、コンビニ、よく行くスーパー、カフェ、映画館、本屋、デパート。
その全てに現れたことがある。
歌の練習が必要で、かつ息抜きの為、一人カラオケに行った時。
一人カラオケに行ったはずなのに、ずっと私の歌を聞いている文孝がそばにいたこともある。
その時はまるで、過去のデートを再現しているかのようだった。
歌が下手だった文孝を思い出したりもした。
いくら2年付き合った恋人でも、誰かに歌を真剣に聞かれるのは照れ臭くて、恥ずかしかった。
息抜きの一人カラオケは、全く気楽なカラオケではなくなってしまった。
そんな風に、死んだのが嘘だったかのように、私の胸に痛みを伴わせながらも、自然な姿で現れる。
今目の前にいる文孝も、自然に、当たり前のように私と会話をしている。
「唯一くつろげる家に行くのは、さすがに迷惑でしょ?職業上、くつろげる場所がないのは可哀想だと思って。一応配慮してます」
配慮してるのが偉いだろ?とでも言いたそうな顔。
褒めてくれてもいいけど?と誇らしそうな顔。
死んでからの文孝は、付き合い始めから交際半年の時みたいな文孝だ。
人懐っこく接してきて、冗談をよく言って、たまに驚いてしまうほどロマンティックな発言をして、私を癒してくれる存在だった文孝。
本性を見せる前の文孝。
すぐにイライラしたり、大きな物音をたてる文孝ではない。
ただ違うのは、自分が死んだことを分かってるという点だけ。
まだ変わる前の文孝が、褒めて欲しそうな顔をすると、敢えて冷たく接してしまうのが私だった。
それは褒めるのが恥ずかしいからという、照れ隠し以外の何ものでもないと思っていた。
でも、幽霊の文孝に対して同じ態度をとっていたら、そんな風に構ってくる彼と過ごす時間が単に楽しかったのだと気付く。
おちゃらける彼に癒されて、彼をからかいたくて、女優という職業を忘れさせてくれて、一人の人間として過ごせる時間。
彼の望むままに彼を褒めて、彼が私に望むことがなくなれば、私に飽きてしまうのではないか。
そんな風に、芝居の中での余計な知識が余計に働いたりもした。
でも、彼といれば、そんなこともひっくるめて、本当の自分でいられる気がしていた。
目の前にいる幽霊の文孝は、
「だってもし家に俺が家に行ったら優子、トイレに行く時だって幽霊を気にして疲れるし、眠れない夜も部屋の物音が異常に気になって、元から寝付きが悪いのに余計眠れなくなるだろうし。そうでしょ?幽霊なりに気を遣ってるの分かる?」
と、また褒めてほしそうな顔で言う。
彼が死んだからといって、私が態度をこれまでと変えるのは違うと思う。
だから、今までと同じように、冷たく返した。
もちろん、ただ冷たいのではなく、私なりの冗談も混ぜながら。
私もそうやって、いつだって一応気は遣っているつもりだった。
「人目を気にしながら話す方がストレスだから。青川優子、カフェで一人でお喋りって記事書かれたらどう責任取ってくれるの?」
「死んだ恋人と話してたって言えばいいじゃん。凄く注目浴びるか、色々な意味で距離を取られるかのどっちかだと思うよ」
文孝は少し拗ねた顔をした。
私は気付かないふりをして、
「そっか。注目を浴びて、逆に仕事が増える可能性もあるね」
と、冷たさが滲み出るように言ってみた。
文孝はそんな私の態度を普段通りの当たり前なものと受け止めて、ニコッと笑う。
だから私は、それで発言を最後にすると、読書を再開した。
「相変わらず芝居の仕事は楽しい?」
「面白い映画教えてよ。笑えるのがいいな」
「最近口説いてきた俳優は?」
うるさい。
一方的に話し続ける文孝。
確かに彼はお喋りだった。
それにしても、幽霊なのに、本当によく喋る。
こんなだから私は、家から出たくないと思ってしまう。
死んだ文孝が現れるから。
家には現れない元恋人の幽霊。
外でだけ現れる元恋人の幽霊。
ここで一つ疑問が浮かぶ。
私は彼と別れていた訳ではないから、恋人の幽霊と言うべきなのか。
ということは、私は一生、彼の恋人でいなければならないのか。
私は二度と、文孝に別れ話を持ち掛けることも、文孝と別れることも出来ない。
どうしよう。
死んだ彼に
「別れたい」
なんて、残酷すぎて言える訳がない。
文孝が幽霊となり現れ、私は悩んだ。
でも悩みとして、死んだはずの彼の存在を相談したところで、信じてくれる人はいるだろうか。
誰かに話して、変な噂が広がって仕事がなくなったら困るし、万が一信じてくれる人がいたとしても、それは裕輔だけだと思う。
だからこそ、文孝が見えることは、私だけの秘密。
周りの人に、迷惑さえかけなければ、きっと大丈夫。
秘密を守ることは簡単なことだ。
一度だけ、幽霊の文孝が撮影現場に来て、遠くから見つめてきたことがあった。
文孝は、仕事の邪魔になるのは避けたいのか、その一度以外はプライベートな場にしか現れていない。
その時はちょうど怒る芝居だったから、文孝に対して怒りながら芝居した。
「もう邪魔しないでよ!」
という台詞には、どれほどリアルが混ざってしまっただろう。
後から思えば、文孝が敢えてそのタイミングで来て、芝居の手助けをしてくれたようにも思えた。
そのシーンが実際に放送された後に、裕輔が
「優子が怒ってるところ見たことないけど、怒るの上手いな」
と、褒めと捉えて良いのか分からないことを言ってきた。
もし、涙を流すシーンの撮影の時に文孝が現れていたら、私は彼を想い泣くことができたのだろうか。
「優子。ねえってば」
無視し続ける私に、文孝は諦めずに話し掛け続ける。
私はさっきから、読書に集中できなっていた。
文孝との過去に一度思考が向くと、なかなか戻ってくるのが難しい。
これ以上こうしていてもどうしようもないと思い、そそくさと残りのケーキを食べ、コーヒーを飲んでカフェを出た。
チラッと店内を振り返ると、文孝は私の方を名残惜しい表情で見ていた。
ついて来ないのは、家に入れないからだと思う。
彼は、家の前で別れるのを嫌った。
私を送る為に家の前まで来ても、そこで別れるくらいならと、泊まっていくことがほとんどだった。
次の日、一緒に家を出て、それぞれの職場に行くのを好きだと言った。
カフェに幽霊の文孝を置き去りにして、コンビニに寄った。
宗崎祐輔の広告のポスターを横目に会計を済ますと、店員が自分に気付いたことに気付かないふりをし素早く店から去る。
すると、道路を挟んだ向こうの歩道に文孝がいた。
出会った日のような、寂しそうな瞳でこっちを見ている。
家に来てしまうのではないか、と私を不安にさせる表情だった。
私は周りに人がいないのを確認すると、手で追い払う動作をし、早歩きで家まで帰った。
家に入ってしまえば、安心だ。
さっきまでの出来事が芝居だったように思える。
死んだ恋人の幽霊が見える芝居。
自分がどうしてこんな苦労をしなければならないのか、苛立ちを感じてしまった私は、鏡の前に行き、涙を流した。
そうすれば心は少し落ち着いた。
文孝と私が恋人になったのは、私の一言が始まりだった。
文孝は役者志望で、テレビ局でアルバイトをしていた。
役者志望ということを誰にも言わずに。
私はその夢を唯一知る、文孝にとっての例外になる。
出会った日の寂しそうな瞳は本当にズルかった。
どんな失敗をしたのかは知らないけれど、廊下で怒鳴られていた文孝は、それを見る私と目が合った。
私は宣伝の為のトーク番組出演を終え、楽屋に戻るところだった。
怒っていたその上司は私やマネージャーに気付くと、
「お疲れ様です。すみません、失礼しました」
とさっきとは違う声色で謝り、どこかに行ってしまった。
文孝は私達を見ると、恥ずかしそうにした。
今考えると、あの弱そうな文孝が私に高圧的な態度をとるようになるなんて、笑えてしまう。
その高圧的な態度を正さずに、黙って受け入れた私に対しても。
「あの・・・」
あまりにも可哀想に見え、声を掛けた私。
「偉そうなことは言いませんけど、私もよく怒鳴られてました。きっとそのうち怒鳴られなくなりますよ。きっと大丈夫です。頑張りましょう?」
言った後で後悔した。
言わない後悔より、言ってしまった後悔の方が嫌いなのに、と。
緊張していたトーク番組出演が終わり、気が大きくなっていたな、と。
偉そうなことは言わないと宣言しながらも、偉そうな発言になってしまったな、言葉選びを間違えたな、とも。
でも、文孝の次の発言で、後悔にならずにその感情は消える。
「ありがとうございます。優しいですね」
人に優しいと直接言われた記憶がなかった私は、その一言に引き込まれた。
それだけで、文孝を好きになってしまった。
そのだいぶ後に聞く話だけれど、文孝の方は、
「きっと大丈夫です」
と言われた時に私を好きになったらしい。
再会するのは半年後、私の主演ドラマに文孝がエキストラ出演した時だ。
文孝はもちろん、私に会いたくてやって来た。
台詞もない、大勢のエキストラの中から文孝を見つけるのは簡単だった。
私達はすぐに目が合い、その後も目が合う度にバレないように微笑み合った。
私の為に彼が行動してくれたことが嬉しかった。
私には、自分から動こうという勇気がなかったから。
叶わないと思っていた再会の願いが叶ったのが本当に嬉しかった。
だから、私からこっそり連絡先を渡した。
文孝はあからさまに喜んで、ガッツポーズをしたり両手を擦り合わせたりして、その仕草が可笑しかった。
彼が役者になりたいという夢を語ったのは、最初のデートの日。
人気のない、夜中の河川敷。
車の音よりも、目の前を流れる川の音の方が大きく聞こえる場所だった。
私が息抜きの為にたまに行く、マネージャーも誰も知らない場所。
そんな特別な場所に、なんの抵抗もなく彼を連れて行った。
彼は、怒られている姿を出会いの瞬間に見られたことを気にしていたらしい。
だから私は、
「でも、怒られてなかったら、私は声を掛けてないよ?」
と、なだめた。
「恥ずかしいのは恥ずかしいです。惨めな姿を見られてしまって・・・」
彼は、彼の言う惨めな姿が、本来の自分の姿ではないと私に訴えているようだった。
むしろ自分自身で、そう思いたかっただけなのかもしれない。
だから、今の自分についてより、未来の自分について語りたがった。
「俺にとって遠い夢に、青川さんは存在しています」
彼は月を指差した。
「あの月みたいに遠い場所です」
私も月を見て、そこまでの距離について考えてみたのを覚えている。
「でも私、今、隣にいるよ」
私は彼の方を見たけれど、彼はまだ月だけを見ていた。
私もまた、月に視線を戻す。
「青川さん」
少しして私の名前を呼んだ彼は、今度は私の方を見ているようだった。
視線を感じる。
月から彼の瞳に視線を移し、私は息を呑んだ。
月と同じくらいに、魅惑的だったから。
「どうか、待っていてほしい。有名な俳優になってみせます」
真っ直ぐに言う。
そんな彼の宣言を、私は本気で信じた。
どうしようもなく、信じてしまった。
左利きの私の手を握りしめ、
「映画観ました。ピアノのコンクールで涙するシーン、本当に良かったです。あれは喜びの涙ですよね?あんな涙をいつか、俺の為に流して欲しいな」
と、あまりにも真剣に言うから、私は文孝をもっと好きになってしまった。
何度もドラマに出演し、様々な役を演じてきたのに、その日の出来事はどんなドラマよりもドラマらしかった。
不思議な感覚だった。
現実なのに、ドラマのようで、台詞があるようで、綺麗すぎる気がした。
それからは、お互いの時間が合えば河川敷で会ったり、私の家に彼が来たりもした。
会える時間は少なくて、それが良いことだったと思う人もいるかもしれないけれど、毎回新鮮で、楽しかった。
彼といる時間は、私の癒やしとなり、程よく欲したくなる緊張感となり、愛おしい時間となった。
でも現実は甘くなく、文孝は有名な俳優になれずに死んだ。
脇役でドラマに出演しても、特に誰の記憶にも残れず、オーディションを受けても、いくらでもいる芝居の上手い俳優、もしくは大手事務所の俳優がその役を勝ち取るのだった。
そういう不安定な生活のせいで、文孝は変わってしまったのだろうか。
苛立ちを隠さなくなり、穏やかさが欠けてしまった。
オーディションを受けずに役を得られる私に嫉妬した。
だから私は、女優という職業を忘れられた文孝との時間でも、自分が女優だということを忘れられなくなる。
いつも以上に、女優であることを意識してしまう。
苛立つ文孝の隣に、私は黙って存在し続けた。
掛ける言葉も見つからず、見つけたとしても、伝える術を失っていた。
文孝を怖いと思ったことは一度もない。
彼が苛立っても、私はそれを直に受け取らず、別の保管場所を想像上で作り上げ、そこに放り投げるみたいにしてとりあえず置いておいた。
そうすることで、平常心を保つ。
たまに仕事の疲れや、文孝の態度へのストレスからなのか、敢えてその保管場所を覗いてしまった時に嫌な気持ちになるだけ。
私のせいじゃないのに、その苛立ちをぶつけてくるのが単に嫌だった。
彼は同情してほしい訳でもなさそうだし、私はただ変わっていく彼を見つめ続けた。
極力感情を消耗しないように、ただ静かに。
彼に出会った頃の私とは大違いな、私で。
ただ、毎回会うたびに彼が苛立っていた訳ではない。
悔しいと言って涙を流すのを見たことだってある。
バイト先で嫌なことがあると、その反動で、私が声を掛けられないほど集中してオーディションの台本を読み込んだ。
このままではいられないと、私との理想の未来を語った。
疲れ切っていた私に料理を作ってくれたりもした。
二人で、お笑い番組を観たりもした。
ソファに、私が右側で文孝が左側の定位置で並んで座りながら。
文孝は笑いながら、私の左手を文孝の右手で繋いだ。
少しずつ、少しずつ、居心地の悪さを感じるようになりながら。
気持ちや表現を偽るようになりながら。
私は文孝が何をしても、切ない気持ちになり、私がそばにいることが文孝をダメにしているように思えた。
私が離れた方が彼にとって良いのではないか、という思いが、別れたい気持ちのきっかけになる。
そして、熱が冷めるように、彼の隣にいる意味を見失っていった。
私は彼にとっての、届かない月でいるのに疲れ、彼はきっと最初から、隣にいる私よりも、月ほど遠い夢の中にいる私に憧れ続けていたんだと悟る。
それに彼は、月を憎み初めていたようにも思う。
本人が気付いていたかどうかは別として、確実に。
彼の遠い夢は、さらに距離を長くした。
文孝はその時、何を考えたのだろう。
「起きてよ。希望通りに来たよ」
すぐ近くで声がする。
文孝との出会いや付き合っていた頃を、断片的な夢として見ていた。
そんな矢先に耳元で聞こえた声。
その声が夢であることを願いながら、夢ではないと気付いていた。
眠っていた私は、恐る恐る目を開け、愕然とする。
「人目を気にして話せないって言うから、それならちゃんと話せる場所がいいと思って」
そう言ったのは、家に来ないのが唯一の救いの文孝だった。
ベッドの横にあぐらをかいて私を見ている。
「冗談だったのに・・・本当に家に来てほしいって意味じゃなくて・・・」
目は完全に覚めていた。
でも、寝ぼけたふりをする。
時計を見ると深夜3時で、部屋の中はまだ真っ暗だ。
寝起きの掠れた声で私は続けた。
「なんで私に構うの?私以外の誰かにも会いに行ってるの?」
文孝は微笑んだ。
「他に会いたい人なんていないから。会いに行く人は優子だけ」
せっかくの休暇が台無しになってしまう。
休めばもう幽霊が見えなくなると期待していたのに。
悪化してしまった。
家にまで来るなんて。
優しい祐輔にでも助けを求めようか。
彼はいつでも私を信じてくれる気がする。
そういう結束力が私達にはある気がする。
「文孝、私に何か望みでもあるの?それが解決しないと、死にきれないとか?」
文孝は私の発言を無視して立ち上がり、本棚を眺め始めた。
私がいくら読書を勧めても、しなかったくせに。
「優子は、女優っていう職業じゃなくても、彼氏とはあまり写真を撮らないタイプだったのかな?」
ちょっと意地悪な顔をしている。
そういえば付き合っていた頃、もっと写真を撮りたいと、ねだってきたことがあった。
恋人なんだから、写真一枚でも部屋に飾って欲しいと言われたことも。
「そうだと思うよ。写真の何が重要なの?一緒にいるならそれでいいじゃん」
私は当時と同じように、文孝をなだめた。
ベッドから起き上がり、彼の隣に行ってみる。
触れたら、どうなるのだろう。
どうして彼を怖いと思わないのだろう。
死んだ人なのに、熱を持っていそうなほどリアルだ。
夜の中で見る文孝は、出会った頃とまではいかなくても、やっぱり私の心を動かすものを持っている。
「優子」
ここまで近くで名前を呼ばれると、それはもうリアルでしかない。
声は空気を揺らし、耳に届く。
その順序が不可欠であることを訴えるように。
私は文孝を見上げた。
文孝も私を見ている。
「泣いてくれないか、俺の前で」
「え?」
文孝の発言に私は戸惑う。
彼は真剣だ。
「優子が映画で見せた喜びの涙を、俺の為に流して欲しいって言ったの覚えてる?」
もちろん覚えてる。
確かに彼は初めてのデートの日にそう言った。
忘れられるはずがない。
「無理だよ。嘘でも流せない、喜びの涙なんか。女優だからとか、そんなの関係ない。気持ちも作ってないし、そんなの無理」
「俺が幽霊になってでも会いに来てくれて、嬉しくて泣いたりしないの?」
「ごめん、出来ない」
「俺が死んでも泣かなかったよね。いくらでも芝居ができるっていうのに。じゃあ、喜びの涙は望まないから。悲しみの涙でもいいよ。俺が死んで悲しいって言って、泣いてよ」
私は文孝の目を見た。
きっと今、彼が涙を流すのなら、私は嘘でも涙を流してあげられるとは思う。
こんなにリアルに目の前に見える彼、そんな彼の涙、この深い時間。
涙を流すのには良い条件が揃っている。
映画を観て泣く時みたいに泣けばいい。
でも、文孝が泣かないのなら、私は泣けない。
鏡の前で一人で、自分の安心の為に泣くのとは訳が違う。
カメラの前で、涙を流すのとも訳が違う。
一人の男に涙を求められ、自分一人だけ素直に涙を流せる人がいるだろうか。
「泣いたら、消えてあげるよ」
その目は少し、怖かった。
文孝を初めて怖いと思った。
「優子が俺の為に泣いてくれたら、思い残すことなく死ねる。まあ、もう死んではいるけど」
文孝は何かを言い淀んだ。
迷っているんだと思う。
もしくは、自分の発言を後悔したのだろうか。
少しして、彼は言った。
「それから・・・もし今、泣いてくれたら、もう二度と鏡の前で一人で泣いたりするなよ」
「え?」
彼は私が鏡の前で泣くのをどうして知っているのだろか。
幽霊だから?
文孝は私に一歩近づいた。
彼に触れることはできるのだろうか。
私は文孝の腕に手を伸ばす。
「待って」
その声で私は動きを止める。
文孝の腕に私の手はまだ届いていない。
「愛してはいたのかな?優子は僕を愛してた?」
私はまた文孝を見上げた。
一人称が”俺”から”僕”に変わる。
文孝は自分を、”僕”と呼んだことがあっただろうか。
無邪気に二人が運命を感じ、付き合い始めた頃。
付き合い始めて半年が過ぎた頃、文孝が苛立ちを隠さなくなった頃。
今目の前にいる文孝は、いつの文孝に一番近いだろうか。
瞳は、出会った頃の純粋な瞳だ。
さっきの怖いものではなく、月のような魅惑的な瞳。
私が好きになった瞳。
真実以外を語ることは許されない気がした。
だから私は、正直に答える。
「愛してた。そして、次第に冷めていった」
張り詰める空気。
自分の家なのに、感じたのことのない空気に包まれる。
「優子。俺は、優子が左利きなのも羨ましかったし、涙を自由に操れるのも羨ましかった。才能も努力も全部に憧れていた。月を毎晩眺めるみたいに、優子のことを見ていた。見えなくても、探してた。いつか本気で優子に追いつくことができると信じてた。でも俺も、次第に冷めていった。夢の諦め時がきて、夢からさらに遠ざかる頃、気持ちは完全に冷めた」
色んな文孝が混ざり合う。
出会った頃の文孝に、不安定になっていた文孝、近づく死の瞬間など少しも知らない文孝、私が愛していた文孝。
彼は必死に想いを伝えようとしている。
「今まで傷つけてごめん。ひどいこと言ったのも、自分の機嫌に優子を付き合わせたのもごめん。でも、出会わなければ良かったとは思わないで欲しい。事故で死んで、思うのは・・・優子と出会ってなかったら、本当に俺の人生はなんだったんだっておかしくなってたと思う。優子と出会った時間があったから、俺の人生捨てたもんじゃなかった」
「文孝」
私は、文孝に触れたいと思った。
「いいか?優子。お互いにもう愛していなかったから、俺のことは忘れて大丈夫。優子が俺に悪いと思いながら生きるべきではない。ただ一つだけ。涙を、本当の涙をいつか流して」
「本当の涙?」
「芝居でもない、映画を観て感動して流す涙でもない。鏡の前で自分を安心させる為でもない涙。きっと相手がいるといい。その人が泣くだけで自分も泣けてくるようなそんな涙。相手を想い、流す涙。俺が望んでも手に入らなかった涙だよ。本当の自分で、本当の涙を」
私は文孝を、本当に愛し終えているのか。
分からなくなる。
目の前にいるのは、私が恋した文孝なの?
それとも、私が別れたかった文孝なの?
文孝は私の左手を握った。
いつも文孝は、私の利き手を握る。
でも、温もりはなかった。
「これは芝居だよ」
囁く文孝の声は弱まっていく。
私は言葉を発せずにいた。
「これは、恋人を亡くした優子が、罪悪感から解放される為の芝居だ。その芝居に僕・・・俺も付き合っているんだ。役者になりたかった恋人の最後の芝居。優しかったあの頃の恋人を演じてる。どう?俺の芝居、マシになった?オーディションの練習に付き合ってくれたこともあったよね」
文孝がこれは芝居だと言うのなら、用意されている台本には、私の台詞はないのだろう。
私はただ文孝を見つめることしか出来ない。
「涙は理屈じゃない。恋もそうだ。惹かれる人には惹かれる。俺らが惹かれあったことの理由なんて探さない。だから今後、芝居なんてしない本当の自分で、誰かに惹かれても、理由なんて考えず、人目なんて気にせず、ただ進めばいい。涙は自然に、それでいて、愛しい想いに包まれて流れるはずだ」
文孝は一気にそこまで言うと、深呼吸をしてふたたび話し始めた。
「それから、俺にとって月だった優子。もう、月でいるプレッシャーは忘れてほしい。ごめん。これからは、純粋に女優になりたいと思った時の気持ちを思い出して。これまでの経験や成長してきたことの意味を考えて、力を抜いてほしい。優子が良い女優だって事実は変わらないから。涙と心をもう少しだけ、自由にしてあげて。鏡の前で泣かないで」
最後の方は、聞こえなくなってしまうのではないかと不安になる程小さな声だった。
文孝は泣いた。
私は、目の前の人の為に泣くか迷った。
でも文孝は首を横に振ると、手を離し、消えた。
泣いているのに、笑顔で消えていった。
一人取り残された私。
文孝との芝居は終わった。
最初で最後の、彼との芝居。
夢が叶わなかった、彼との芝居。
目を覚ました私は、文孝を愛し終えた私のままだった。
彼にふたたび触れられたことで、彼への想いが再燃したりせずに。
夢を見たあと特有の、ときめくような気持ちにもならずに。
ただ、文孝が言っていた、本当の涙について考え、会いたい人がいた。
あのキスシーン、あの涙。
あの涙はきっと、本物だ。
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