【短編集】桜色の想い出【全10話】

冬野ゆな

第1話 桜色の想い出

 桜色のはなびらが、赤いひざかけの上に一枚、落ちた。

 季節はもうすっかり春だった。桜色に彩られた道を、車椅子で進む。


「すみませんね、体がうまく動かないもので」


 私は車椅子を動かしてくれている男性へと笑いかけた。


「いいんですよ」


 落ち着いた声が届いた。

 道の僅かな段差に車椅子が引っかかっていた私を助けてくれたのだ。助けたといっては大げさだが、後ろについている持ち手をつかみ、段差を通るのを手助けしてくれたのは確かだ。

 車椅子でどこにでも出かけられるのはいいが、ほんの僅かな段差にもつまずいてしまうのは困りものだ。

 かといって見ず知らずの男性に車椅子を押してもらうなど、他の人に言ったら恐怖を感じる事もあるかもしれない。けれども彼は私のような、いわゆる足の動かない人への配慮が十分にされていた。もしかしたら、介護士か何かなのかもしれない。

 それに、こう言ってはなんだが男性は私の好みだった。

 見た目もそうだし、ぱりっとした服装は清潔感がある。


 ここは段差が多いから、抜けるまで動かしましょうと言ってくれたのだ。人の目があるから自分も変な事はしません、と彼は笑いながら言った。その言葉があまりにはっきり言うので、私は笑いながらその好意に甘えることにした。

 そのうえ彼は、私の他愛ない話にも付き合ってくれた。


「きれいねえ」

「そうですね」

「あそこの通りにはね、美味しいお団子屋さんがあるの」

「へえ。名前はなんて言うんですか」

「『さくら庵』よ。ぴったりでしょ」

「本当ですね」


 私の指先が、ひざかけに落ちたはなびらへと自然に向いた。


「払いましょうか?」

「このままでいいわ」


 また、再びからからと車椅子で移動する。まだ踏み荒らされていない桜の道は、桜色に彩られていて美しい。


「きれいねえ」

「そうですね」


 私たちは同じ会話をした。


「喉は渇いていませんか?」

「ええ、大丈夫よ」


 そんなことまで気にしてくれるなんて。

 こんな素敵な男性とデートができればどれほど幸せだろうと私は少しだけ思った。


「そうですか。喉が渇いたら言ってください」

「ありがとう」


 なんて素敵な男性だろう。

 記憶の中から、かつての想い出がふつふつと沸き起こってくる。

 確か前にも、こんなことがあったはずだ。


「前にもねえ、こんな事があったのよ」

「へえ、そうなんですか」

「聞いてくれる?」

「いいですよ」

「私の足がまだ動いていた頃にも、この道をよく通ったのよ」

「そうだったんですか」

「そうねえ。男の人にこんな話をするのもどうかと思うけど、男の子とはじめてのデートだったわ」


 私はくすくす笑った。


「まるで昨日の事みたいに思い出すの。その日も、こんな風に桜色だった」


 その日も、ちょうどこんな景色だった。

 季節はちょうど春。既に桜は咲いていた時期だった。気の早いはなびらが木々から別れ、道を桜色に染め上げていた頃だ。


「私は白いヒールを履いていたの……、大人みたいに。慣れない靴で、一生懸命歩こうとしてね。今日みたいに、段差に引っかかってしまったの。それを、彼が勢いよく受け止めてくれたのよ。私、もう桜なんか見れないくらいに真っ赤になってしまって」

「ははは。いい想い出ですね」

「誤魔化すために、『さくら庵』に行こうってぐいぐい引っ張って。こっちよって言いながら彼の手を引っ張ったの。そうしたら、私、彼の顔も見ずに、そこにあった手を引っ張ったものだから。ぜんぜん違う人の手を引っ張っていてね。気がついたときには、よけいに恥ずかしくなって」

「そんなこともあったんですね」

「ええ。でも、彼も笑いながら『さくら庵』までついてきてくれたのよ。それがよりによって、はじめてのデートだったのよ。桜を見るといまでも思い出すの」

「大事な想い出だったんですね」

「ええ、そうよ」


 ちょうどこんな景色の日だった。

 桜が咲いて、道が桜色になっていて。

 風に吹かれたはなびらが、ひざかけじゃなくて私の頭についていたっけ……。


「あなたのような素敵な女性とデートができるなんて、その男性は幸せものでしょうね」


 彼はぽつりと言った。


「あら。そんなことを思っていてくれたの」

「はい?」

「だって、あなたのことでしょう」

「……。覚えているのか?」


 彼は驚いたように私を見た。


「ええ、覚えてますよ。あなた」


 ああ、そうだった。

 私はまた、過去の中を生きていたらしい。


 この人は私の旦那様だった。

 結婚前にあの桜色の想い出の中で、デートをしたのだ。まだ私の足が健康で、白いヒールを履いて恐る恐る歩いていたのだっけ。

 結婚してから私の足が事故で動かなくなっても、長く生きたことで私の頭の中が混乱してしまっても、この人はこうして寄り添っていてくれた。長い六十年の月日をようやく思い出す。

 旦那様になった彼は顔をくしゃくしゃにしながら泣き崩れた。


「やだ、あなたったら。笑ってくださいよ」


 私の頭がこうしてはっきりするのは、もうほんのわずかの間しかないのだから。

 願わくば、私の脳が再び過去へと飛ばないうちに。

 この桜色の想い出をもう少しだけ。

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