第31話

「これがあなたのしたことだというのは分かっています」


「……これは……」


 誰がどこで見ていて録画したのか。暁は尋ねたかった。でも恐らく暁が考えつくような手段ではないことは想像できた。その上でもうひとつ尋ねたいと思ったことがあった。それは、誰かが見ていたのなら、なぜ地下鉄の車内で起こったことを誰も止めてくれなかったのかということだった。


 アジア人だというだけで怒鳴られ、スマートフォンを破壊され、暴力まで奮われた。暁は固く拳を握りしめ、鏡の中で男が半泣きで絶叫する様に見入った。


「このような場所で魔法を使うことは許されていない。それは知っているはず」


「……はい……でも……」


「でも?」


 男が先に私に対して不当なことをしなければ、こんなことはしなかった。暁はそう言いたかった。が、口にする前からそれは卑怯な言い訳にすぎないことも自分が一番承知していた。やられたから、やり返したのだなんて理屈。そういった考え方をしたくはなかった。少なくともそういう風には育てられていないのだから。


 自分の持つ力を非道なことに使ってはならない。弱いものを虐げたりすること、自分にとって都合よく身勝手に使うこと。久遠寺家の者は神々に許されて力を使うのだから、力を悪事に使うことはあってはならないのだと子供の頃から厳しく言われてきた。それなのに。


 しかしそこでまたひとつの葛藤が暁にはあった。暁が生まれながらにして持つ力を、鷹住の神々は許さなかった。その上、魔道の者と断罪し追い出したのだ。それならば神々の道に背いてもいいはずではないのか。


「でも、なんなの? アキラ」


 学長が尋ねた。暁は深く一息つくと尋ねた。


「これ、魔法ですか? だとしたら、なんていう魔法?」


「……」


「私は確かに力を使いました。日本でいる時にも時々家の者にやったけど、髪を引っ張るとか、尻尾の先を引っ張るとかする悪戯。それが魔法だとは知らなかった」


「屁理屈ね!」


 学長がぴしゃっと言い捨てた。それと同時に、学長は手のひらを下から上に向って振り上げた。


 途端に稲穂の簪が足もとに抜け落ちて甲高い音を立て、お団子がほどけて天井に向ってハリネズミのように逆立った。


 暁は頭皮ごと持っていかれそうな強い力に頭を押さえた。


「あなたは何も分かっていない。すべての魔法に名前があるとでも? 力を使うこと、それが魔法だと言っているのよ。あなたは自分の持っている力が何なのかを知らなすぎる」


「いたたたた…!」


 自分があの差別主義の暴力男にしたように、暁はつま先立ちにならないと本当に髪が全部引っこ抜けてしまうのではないかと、痛さに呻きながら髪を押さえこもうとした。


 このままでは本当に天井に頭から突き刺さってしまう。そう思った暁は指輪を嵌めた手で学長と自分の間にある空気を弧を描いて掴むようにして叫んだ。


「悪しき力よ、去れ!」


 手のひらには確かに何かを掴んだ感触があった。目には見えないけれど、細いロープを束ねるような感触だった。学長から放たれる力が紐状になって暁を貫くのを断ち切るような感触。その感覚のままに拳を握り、えいやとばかりに振り切ると、そそり立っていた髪がばさっと肩へ落ちかかった。


 暁は崩れ落ちるようにへたりこんだ。こめかみあたりの頭皮がじんじん痛かった。


「大丈夫か?」


 今度はエドワードが駆け寄る番だった。


 床に落ちた稲穂を拾って暁に手渡しながら、肩に手を置いてもう一度「大丈夫か」と顔を覗き込んだ。暁は小さく頷いた。


「これが魔法よ」


 学長が重々しく告げた。


「見えざるものを操る力。または、ものを操る見えざる力」


「……」


「アキラ・クオンジにはペナルティを与えます。寮の共用部分の掃除を二週間。魔法を使わず行うこと。魔法学のレポートを提出すること。今シーズンのフィッシャー教授の魔法実習の試験で上位三位以内の成績を収めること。一つでも欠けたら退学処分とします」


「……」


「あなたが退学になったら、お国のご両親はなんと思われるでしょうね?」


 痛いところをつかれた。暁は泣くまいと自分を鼓舞しながら立ちあがった。


「学長、それは厳しすぎるんじゃ……。この日本人は魔法界のことは知らないわけだし……」


 暁を擁護しようとしたのは驚いたことにエドワードだった。


「日本には魔法はないし、彼女はルールを知らない」


「知らないということ、即ち無知であることが必ずしもイノセントということではない」


 無知。そう、暁を表わすのにこれほど適当な言葉はないだろう。暁自身がそう思うほどに。暁は悔しさに唇を噛んだ。


「エドワード。あなたにもサボタージュの罰として、魔法実習の試験で上位三位以内の成績を要求します」


「えっ」


「真面目に授業に出ればあなたには難しいことではないでしょう。名誉挽回することを望みます」


「……」


「二人で切磋琢磨するように」


 学長はそれだけ言ってしまうと、呆然とする「問題児」二人を残して再び姿見の中に溶けるように消えてしまった。


 まだ少し痛む頭皮をさすりながら、暁は実験器具の並ぶ机に近寄ってしげしげと試験管を眺めた。


 エドワードの手首に突き立てられた呪ういの楔、あれが金属の化合物だとしたら、この液体の中には鉄が含まれているということだろうか。スミレ色をしていたところを見ると水銀に電気エネルギーを加えて発光させるとか?


「腕を見せて」


 暁はエドワードを振り向いた。


「なんだ、急に……」


「その呪いの楔をどうやったら解けるのか考えてる」


「どうやったらって……。それは反対呪文や抵抗呪文を……」


「そんなの知らないわ。でも、鉄を取り出す方法なら化学で習ったことがある」


「化学?」


 エドワードが頓狂な声をあげた。


「例えば、鉄鉱石を溶かして鉄を取り出すように。コーンフレークに含まれる鉄分が磁石に反応するように。ひじきを炭化させて塩酸を使って鉄イオンを取り出すように……」


「なに言ってるのか全然分からん」


「ようするに、その呪いに鉄分が含まれているなら、それを取り出せばいいってことじゃないかと思って」


「そんな魔法聞いたこともないよ」


「魔法じゃなくて、科学。なんにしても、その魔法が解けるなら痛い思いをしなくてもいいじゃない」


 暁は真面目な顔でどのようにアプローチすればいいかを考えていた。その姿をエドワードは奇異なものを見る目で見ていた。彼女の考え方は自分たちの生きてきた魔法の世界からすると考えつかないものだったし、なぜよく知りもしない人間の為にそんなに真剣になれるのかも理解できなかった。


 エドワードは自分が受けた罰は当然の結果だと思い、半ば諦めていたし、血が出ようと傷つこうともそんなものはまた魔法で治癒することができるから大した問題ではないと思っていた。ただ、このような罰を与えられることが不名誉なだけで。無論、その不名誉も身から出た錆であることは分かっているのだけれど。


「とにかくここから出よう」


「……どうやって?」


 久しぶりに化学の実験のことを思い出していた暁ははっとして辺りを見回した。この部屋、ドアも窓もない。というか、そもそも兎の穴みたいな小さな穴からここまで転落してきたのだった。どうやって出るかなんて考えもしなかった。そこで初めて暁は不安と恐怖を覚えた。


「え、ちょっと待って。ここドアがない。学長は鏡の中に入って行ったけど、私たちもそうしないと駄目ってことなの? 天井を突き破って落ちてきたような感じだったけど、穴も煙突もないし、そもそも私たちっていったいどうやってここへ来たの? あの穴は一体なんだったの? もしかして閉じ込められちゃったの?」


 矢継ぎ早にエドワードに尋ねる暁はさっきまでの意志の強そうな眼差しとは一変して、おろおろと焦っていて、今さらの疑問を口にするのが間抜けで、思わずエドワードは吹き出した。


「本当になにも知らないんだな」


 変なやつだ。エドワードはそう言ってやりたかった。馬鹿じゃないの、とも。でも、そうしなかったのは暁の無知さは愚かさではなく「イノセントの源」に思えて自然と口元が綻んだ。


「パラレルワールド」


「え?」


「SFの概念って言えば分かるだろ」


「……今いる世界と少しずつ異なる並行世界が存在するっていう……」


「そう、辞書のページをめくるみたいに薄紙が重なっていて、次のページは髪の色や目の色が違ったり、服が違ったりする。間違い探しみたいなわずかな違い。ページをめくればめくるほど、違いは大きくなっていく」


「……」


「魔法はそれを引き寄せたり、遠ざけたりする。ここにないものを持ってくる。または持って行く。座標を正確に知っていれば、自在に操ることができる。この世界に存在しないものを出現させるのも、そう。遠い世界から呼び寄せてるんだよ」


「じゃあ、この部屋は」


「学長がどこか遠い世界と、僕らのいた世界をつなげて作った部屋だ。学長は鏡を使って異世界を行き来する。座標を知りつくしているからこそできる技だ。緯度や経度を正確に知っていれば、世界のどこへでも行ける。もちろんかなりの魔力がないと無理だけど」


「力が強いほど、使いこなせるほど、できることが増えるってことなのね……」

「そう、魔法っていうのは結局『組み合わせ』の力だから」


 エドワードはそこまで説明すると、ポケットから黒檀のようなつやつやした棒を取り出すと、しゅっと一振りした。ただの木ぎれに見えたのは杖で、手のひらに収まるほどだったのに振った途端にその勢いのまますんなりと20センチほどの長さに伸びて彼の手に握られていた。


「手を出して」


「え?」


「いいから、手を出して」


 暁は右手を差し出した。エドワードは暁の手を握ると、


「絶対離すなよ。離したら、二度と戻れなくなるぞ」


 と低い声で言った。


 思わず暁は唾をごくりと飲み込み、神妙に頷いた。


「いくぞ」


 エドワードが天井に向って杖を突きあげる瞬間、暁は彼の手を握る力にぐっと力を込めた。


 杖の先端がカメラのフラッシュのように閃光し、暁は強烈なボディブローを食らったような衝撃を受け体を折り曲げた。痛みはなかった。重い空気が暁を吹き飛ばそうとしたかと思うと、そのまま足が床から離れて体が浮かび、音もなく天井へと吸い込まれた。


 空気の抵抗が暁の体を押しとどめようとする。暁は手が離れそうになって思わず「手が!」と叫んだ。するとエドワードが力任せに暁の手をしっかり握って強く引き寄せ、杖を手にした方の腕で暁の肩を抱え込んだ。


 天井を通り抜けたかに思われた魔法だったが、あっと思った時には二人はほとんど抱き合うような格好で、兎の穴のあった木の上から芝生めがけてどさっと落下し、着地の勢いでそのまま倒れ込んだ。


 なにが起こったのか暁にはさっぱり分からなかった。ただ風が頬をなぶり、エドワードが身を挺してかばってくれたことでどこにも痛みは感じなかった。


 ほっとしたようにエドワードは大きく息を吐き「無責任なお説教だったな」と呟いた。


「ほんとに……。あんなところに置いて行くなんて……」


「……もう手を離していいんだけど」


 芝生の上に転がったまま、エドワードが言った。暁はその言葉でようやくエドワードの手をまだ強く握りしめている自分に気が付き、慌てて手を離した。


「ごめんなさい」


 暁は体を起こすと乱れた髪を両手で撫で、


「ええと、なんて言ったらいいか……」


「なにも言う必要はない」


 エドワードも起き上がると枯草のついた腕や肩を無造作にはらった。


「ありがとう」


「だから、なにも言う必要はないって言ってるだろう」


 暁はエドワードを見つめた。貴族のお坊ちゃんでも「わけあり」なんだな。暁は彼が吐露した「追い出された」という言葉にまだ引っかかっていた。そして自分もそうだと言いたかった。暁は鷹住の山から遠く離れて、初めて誰かの心に触れたような気がしていた。と同時に触れられたような気も。


 芝生に座りこむ二人を、他の学生たちが妙なものでも見るように怪訝な顔で通り過ぎて行く。エドワードは杖をポケットにしまうと立ち上がった。


「寮の掃除やレポートか。ご苦労だな」


「仕方がないわ。罰は罰だもの」


「お前、本当に呑気な奴だな」


「……手首の怪我は痛くないの?」


「人の心配より自分の心配をしろよ」


 校舎へ続く道を同じ寮の女の子たちの一団が歩いてくるのが見えた。あの、赤毛の太った女の子ジャネットを先頭にして。


 ジャネットはエドワードを見るや、手を振りながら彼の名前を呼んだ。


「エドワード! なにしてるの、そんなところで。ずっと授業に出てなかったでしょ」


「知りあい?」


 暁は尋ねた。エドワードは眉間に皺を寄せ「別に」と答えると、まだ座っている暁を見下ろして、


「お前、そんなんじゃ本当に退学になるぞ」


 と言い捨てて、さっさと歩きだしてしまった。


 エドワードの背中と、それを追いかけて何事か賑やかに、しかし一方的に話しかけるジャネットの甲高い声が秋の色に染まった空に響いていた。


 暁は一人、再び芝生に大の字にひっくり返った。大変なことになったな。ひっそりと胸の中で呟く。懐かしいような草の匂いを嗅ぎ、目を閉じた。

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