さよなら三角

雨庭未知

驟雨が、はじまる ──槙

第1話 予兆をはらんだ大気


 駅の構内から出た瞬間から、見上げた空の雲行きが怪しくて、あ、これは一雨くるなと、国枝槙はすぐに思った。


 夏の制服を着た体を、生ぬるく湿気た風が、ぞわりと撫であげた。

 低く垂れこめた濃い灰色の雲、雨の予兆をつよくはらんだ大気。

 ──まずい。

 きっと、すごい夕立ちが来る。


 傘を持っていなかったので(今朝、高校に向かうときには、青く晴れ渡った夏空だったのだ)、家までとにかく急ごうと思った。


 商店のある通りを過ぎるときに、かなりの近さから、空を切り裂くような雷鳴が響いた。すぐそばの女性の二人連れが、「きゃあっ」と声をあげたほどの大きな雷だ。


 駅から五分ほど行くと、戸建ての住宅が整然と並ぶ書き割りのような住宅街に入る。

 その一角に槙の家があって、あと五百メートルほどで、家につく、というそのときに、槙の視線は、そこにいるはずのない人物の姿をとらえた。


「どうしたんですか、蓮見さん。……こんなところで」

 走って帰ろうとしていた槙の行く手を、阻むように、兄の友人である彼──蓮見優一がそこに立っていたので、声をかけざるを得なかったのだ。


 彼は真っ白な夏のシャツを着ていた。

 小柄な立ち姿は、そこだけ湿度の高い空気から切り離されて、清涼な風をまとっているように、とてもあざやかに槙の目を射た。


 黒いつややかな髪と、精緻なラインで整った横顔を見せて、彼は、上のほうにある何かをじっと見上げたまま動かない。

「蓮見さん?」


 槙の呼びかけに、はっと我にかえったような顔で、大きな目でまたたきをひとつしてから、蓮見は首をめぐらせた。


「あ。槙くん」

 今この瞬間に、夢から醒めたばかりのような。そんな頼りない、面持ちをして。

「何をしてるんですか、蓮見さんは」


 詰問するような口調になったのは、もうすぐひどい雨が来そうだというのに、無防備な顔で蓮見が突っ立っているからだ。


「うん? 見てたんだよね。……葉っぱがきれいで」

「葉っぱ?」

「アカシアの葉っぱをね。きれいでしょう? やわらかな緑が、たくさん枝について、風に揺れていて」

 ほら、と、見上げた蓮見の視線の先には、街路樹のニセアカシアの木が枝を下ろしていた。


 やわらかく薄い、楕円形の葉っぱ。

 繊細な葉脈が、さほど大きくないひとつひとつの葉に、リズムを刻むように走っている。


 その葉のつらなりが、「きれいだ」と蓮見は口にするのだが、けれども、花も終えた時期のその樹木の、どこにそれほどまでに注視しなければならない対象があるのか、槙にはよくわからない。


 何度か聞き返し、質問を重ねて、ようやく把握したのは、街路樹のアカシアの木の梢が、「あんまりきれいだから」ずっと見上げていたせいで、蓮見が、この場所に時間を忘れて立ち尽くしていた──という事態であった。


 なんで、そんな、子どもみたいなことを。俺より四つも年上のひとなのに。

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