キメラのいた系譜

@haccy708

第一部 1

 髪の毛は頭頂の辺りからすっかり禿げ上がってしまった、視界は何度瞬きをしても妙に霞んだままになってしまった、特に外の気温の低いときがそうだったが、目を瞑れば、自分の内臓や骨の発する音が、若い頃よりもはっきりと聞こえるようになっていた、胃や大腸からは、病気の老描が喉を鳴らすときのような音が聞こえたし、あちこちの骨からは、そのスカスカな内部を砂が流れるような音が聞こえていた。特に、とある事情により齢十一の頃からの六十三年間にもわたって痛みに悩まされ続けてきた、厄介な腰回りからは、いっそう甲高い、古い木製のドアを開け閉めするときの、軋むような音が聞こえていた。腕や脚がまるで自分のものではないかのように、鉛の棒のように感じられたりするような、ある種の身体の変調について、どうしようもなく迫ってくるものは多々あった。そういったものに抗う気力は残しているつもりでいたが、いつの間にか、全てを当然のことのように受け入れていた、そのような年齢になっても彼は未だ、幼い少年の頃に抱いた愚かな夢想、親子三代にわたる時のなかで続き、計九万二千五百十一名もの犠牲者を生んだ陰鬱な戦争の元凶ともなった夢想に、まるで呪いのように囚われながら日々を生きていた。

 彼は小学生の頃に「ダーウィンズ・ゲーム」というテレビアニメを見た。そのアニメの中では、様々な力を授かった超能力者たち、ほんの数秒先の未来を予知する少女や、炎を自在に操る禿げ頭のごつい男、長い鎖を自在に操ってスパイダーマンのようにビルの合間を飛び回る赤いドレスの少女、ただ馬鹿のように人並み外れた怪力を持つ男などが、自身の超能力を駆使して命がけの格闘バトルを繰り広げていたのだが、その中である一人の登場人物の男が、大木の幹の硬い表皮のような質感の、分厚い鎧にその身を包みながら、決め台詞としてこう言ったのだ。

「植物を馬鹿にすると痛い目を見るぞ! 木々の強靭さは動物のそれをはるかに上回る。植物を自在に操る能力を以って、俺が自身の身体をガードさせているこの生きる木々の鎧は、その強靭さゆえに最高の防御でありながら、また同時に最強の攻撃でもあるんだ」

 劇的なBGMと共に言い放たれたその台詞に、当時まだ小学生だった、ただそれにしてもあまりに純粋だった、テレビの前の彼は激しい衝撃を受けていた。ならば!――と彼は思った。

「ならば! 鎧のように纏うのではなく、身体そのものに植物のような特性を宿すことが出来れば、それはこの世で正真正銘、最も強い生物ということじゃないか!」

 彼の隣に並んで一緒に「ダーウィンズ・ゲーム」を見ていた三つ下の弟はそれを聞いて、何かを企むような怪しい笑顔をにやりと浮かべながら、テレビを前に目を輝かせている兄の方を振り返った。「確かにそうだね」と弟は言った。

「しかもそちらの考えのほうが、植物を意のままに操るよりもよっぽど現実的なものに思えるね」

 兄の彼はすっかり興奮して、「実現可能だろうか!」と叫ぶと、弟はにやりとしたまま、「ああ」と静かに答えた。弟の方が兄の彼よりも遥かに賢かった。ただ単に勉強が出来るという以上に、何気ない会話における受け答えも、その年齢で既にどことなく大人びていた。母親の友人宅へ連れて行かれたときも、「オレンジジュースとウーロン茶、どちらを飲む?」と大人に聞かれれば、どこか寂しげな表情をして、「リンゴジュースを頂けますか?――まだ僕が幼いうちに」と答えるような子供だった。同じことを聞かれたときの兄の彼の方は、まず「おかまいなく」と真面目な顔をして言った。それから続けて、「ウーロン茶で」と言った。兄も決して賢くないわけではなかったのだ。ただ人よりも純粋で騙されやすい節があったが、小学生の頃から算数と理科は得意だった。「人間の身体に植物の特性を与える」という発想は、兄弟の話し合い、幼いながらも科学的な思考に基づいて、「人間も光合成を出来るようにする」という具体的な初期目標を備えたものへと育っていった。テレビアニメ「ダーウィンズ・ゲーム」を見たあの日以降、兄弟は、自らの内に立ち現れた好奇心の塊に胸のつかえるような、同時にそこから熱いものが溢れ出してくるような感覚を味わいながら日々を過ごすようになっていた。家において好きなテレビ番組を見終えた後の、ひとしきり互いの感想を述べ、互いの感性についての議論を終えた後の暇な時間、子供らしく、新聞紙を細長く丸めたものを刀に見立てて執り行われる、居間を走り回りながらのチャンバラ遊びを終えた後や、ルールも何も決めていない、意味のないボールの激しい投げ合いを終えた後、息を切らして畳に寝転がっている時間などに、二人は、熱心に例の目標について語り合った。その直前までどんなにテレビ番組のくだらない内容で笑いこけていようが、チャンバラやボール遊びで暴れ回っていようが、二人は互いの意識に食い入るように集中して語り合った。つまりは、二人にとってのその語り合いというのも、その内容がどんなに科学的で、複雑なものであろうとも、子供として何よりも真剣に打ち込める遊びの一種、テレビを観て大笑いすることや、チャンバラやボール遊びではしゃぎ回ることと何ら大差なかったのだ。科学的な議論をさらに押し進めていく上では、幼い自分たちには知識が圧倒的に不足しているということになった、ある秋の日の、学校の昼休みの時間に、兄弟は、秋の分厚い雲を透かした灰色の光が降り注ぐ、学校の図書室で待ち合わせをした。何か参考になる書籍はないかと探し回ったが、小学校の図書室に置いてある本の数などたかが知れていた、埃っぽい広々とした部屋の三面の壁際に、当然ではあるが、小学生でもそのてっぺんに手の届くような背の低い本棚が並んでいるだけだった。そこにあった蔵書はせいぜい二千二百十六冊で、どういうものかといえば、熱帯の地域に生息する奇妙な形のカブトムシの写真などを載せている子供向けの昆虫図鑑、その本来の大きさをわざとらしく強調するために、ページの見開き一杯にシロナガスクジラの絵を載せている、子供向けの動物図鑑、けばけばしいピンク色の花の写真を載せている、やはり子供向けの植物図鑑、科学的な根拠のない当てずっぽうの彩色を施されたティラノザウルスの絵の載っている恐竜図鑑など、他には小説として、「ハリーポッター」の全巻、うっすらと埃の被った「ズッコケ三人組」、表紙の色褪せた「かいけつゾロリ」などが置いてあるだけだった。受付に座っていた図書委員の少女や、その顔の皮膚の弛み具合と服装からおそらく五十代ほどと思われる女の司書に聞いてみても、兄弟の求めるような本は見つからなかった。

「こんな浅瀬みたいなところじゃだめだ」

 兄は、蔑むような目つきで図書室全体を見渡しながら、弟に言った。「僕らが求める知識は、もっと奥深いところにあるんだ」

 その通りだね、と弟は頷いた。「然るべきところに行こう」

その週末、彼らは両親にねだって、学校の図書館などとは比べ物にならない、百二十万冊ほどの本を置いているという都内の大型書店へと連れて行ってもらった。兄弟はまっすぐ数学、自然科学関係の本の置いてある四階の戸棚へと向かった。フロアの奥まったところに、ようやくそれらしい本の並んでいる箇所を見つけた、そこには二人の先客がいた。紙の匂いを放つ本棚に挟まれる形で、白い髭を口の周りいっぱいに生やした、腰の曲がった背の低い老人と、黒いダウンジャケットに色褪せたジーパンを穿き、黒縁の眼鏡をかけた若い大学生風の男が立っていた、それぞれが目の前の本の背表紙を真剣な表情で眺めていた。幼い兄弟はそこにちょこまかと入り込んで、目当ての本を次々と見出しては小脇にそれらを溜め込んでいった。老人と若い男は兄弟に対して時折優しげな、もしくは、自分たちと同じ穴の狢になってしまった幼い者らを憐れむかのような視線を向けていたが、兄弟はそれには気付かなかった。以降兄弟は、暇な時間を見つけては購入したそれらの本を家や学校で読み続けたが、読めば読むほど知識の不足を思い知るばかりだった、それらを埋め合わせるために、さらに多くの本を両親にねだった、気が付けば、兄弟の部屋はまるで大学教授の部屋じみた威圧感のある本棚によって、その壁を占められていた。まずはあらゆる科学の土台としての数学の本、佐武一郎の「線形代数学」、杉浦光夫の「解析入門」など、植物や生物の学問に関係のありそうな本として、テイツ―ザイガーの「植物生理学・発生学」、「キャンベル生物学」、「エッセンシャル遺伝学・ゲノム科学」、リチャード・ドーキンスの「利己的な遺伝子」などが並んでいた。兄弟は学校の休み時間にも勉強をするために、ランドセルにそれらの分厚い本を入れて通学していた。賢い弟は加減を知っていたが、兄の方の彼は夢中になるあまり、ランドセルに重い本を何冊も入れ過ぎてしまった、荷物を詰め込み過ぎたそれは、まるで水を含み過ぎた真黒い毒ガエルのような有様だった。背中に背負うもののあまりの重さに、通学中の彼の姿勢はあの二宮金次郎の銅像か、もしくは、山奥における軍隊の行軍訓練に参加している、重い背嚢を背負った孤独なソルジャーの姿を思わせた。両親は、そんなに重い荷物を背負い続けると身長が縮んでしまうのではないかと心配した。実際に身長が縮むことはなかったが、彼は齢十一にして腰痛に悩まされ始めた。ある冬の日の朝、目覚めて布団から起き上がってみると、腰の辺りで、骨が筋肉に食い込んでいるかのような鋭い痛みが走った。始めのうちは気のせいだと思っていたが、歯を磨き、朝食を食べ終わり、いつも通り重いランドセルを背負おうとした瞬間に、彼は膝からくず折れてしまった。母親と弟は驚いて彼の元へ駆け寄ったが、誰よりも彼自身が驚いているようだった。目を見開き、口を水面の金魚のようにぱくぱくと開閉し、呆然と床にへたり込んでいた、「驚いたな――」と呟いた。

「今、誰かが僕の上にのしかかってきたよ」

 三人は大慌てしたが、しかしその様子を少し離れたところから眺めていた、灰色のスーツを着た出勤前の父親は、憐れむような目をして長男の顔を見つめると、冷静にこう言った。

「ただの腰椎椎間板ヘルニアだろ」

 その日以降、彼はランドセルに無暗に本を詰め込むことを止めた。母親に心配をかけるのは申し訳なかったし、何より弟の、「勉強を続ける上で、体は大事な資本だよ」という真っ当な意見に納得したからだった。整形外科に通院した。痛み止めの薬を処方され、拘束具じみた、ごつごつとした質感の真っ白い腰椎コルセットを一日中つけるはめになった。その上に服を着ていてもごつごつとした不格好な輪郭はどうしても浮き上がり、それをつけていることは一目で見抜かれた、数人のクラスメイトにからかわれる材料としては相応しいものだった、実際からかわれたが、彼は気にしなかった。ただ一人、彼のことを本気で心配してくれているらしいクラスメイトの女子がいた。彼が初めてコルセットを着けて学校の教室に入ってきた朝、異様にごつごつと膨れ上がっている彼の腰回りを一目見たとき、彼女は目を見開いて、「どうしたの」と声を掛けた。「爆弾でも巻き付けてるの?」

 ある意味ではそうかもね、と彼は答えた。「初めてヘルニアの奴がのしかかって来たときには、まるで腰がどこかに吹っ飛んでしまったようだったよ」

 重い本を何冊も詰め込んだランドセルを毎日背負っていたせいでヘルニアになったということを、彼は話した。説明を聞いた彼女は、彼の顔を心配げというよりは、非難するような目つきで見つめた。

「おかしな勉強ばかりしてるからよ。人間の光合成がどうのとか」

「おかしな勉強なんかじゃないさ」

 彼は淡々と返した。「ぼくら兄弟は、極めて科学的に考察を進めているよ」

「みんな言ってるわよ。あいつは勉強のし過ぎで頭がおかしくなったって」

 彼女はようやく心配げな調子になってそう言ったが、彼は鼻で笑った。「いかにも、ろくに勉強をしない奴らの言い草だな」

 何を言われようとも、彼は自らの考えを信じ続けた。さすがにヘルニアになって以降はランドセルに本を無暗に詰め込むことはなくなったが、その日に読むつもりで選んだ一冊をランドセルに入れて、彼は学校に通い続けた。クラスメイトの面白がる視線や心配する彼女の言葉も気にせず、学校での休み時間に読み続けた。時折、ただ読むだけでは理解できないような文章や数式にぶち当たると、彼は、専用のノートをランドセルから引っ張り出し、それにその神秘の部分を書き出した。うんうんと唸りながら書き出したものをじっと見詰めたり、新しく図形や文章を書き足したりして、その神秘の部分の行間や、等号の中に隠れている解答への道筋を見出そうとした。休み時間終了のチャイムが鳴り、定められた授業が始まろうとすると、彼は名残惜しそうな顔をして本とノートをゆっくりと閉じた。閉じようとするページと共に顔を動かし、閉じ切るまでの本の隙間をじっと見つめ続けていた。その仕草を面白がって真似するクラスメイトが三、四人ほど現れたが、やはり彼は気にしなかった。小学五年生から六年生に進級しても、そういった習慣は変わらなかった。小学校生活もいよいよ終わりを迎えつつあった、三月の中頃、思い出作りとして最後の昼休みに若い男性の担任教師も含めたクラスの皆で校庭の全面を範囲とする大規模なケイドロをしようとなったときにも、彼は机にかじりついて本を読んでいた。その年度もたまたま同じクラスになっていた例の彼女がどうにかして机から引き剥がそうとしたが、彼は全く動かなかった。「弟と約束があるんだ」と彼はページを見つめながら言った。「昨夜の家での議論が中途半端に終わっててね。この昼休みに続きをするんだ」

「そんなの、家に帰ってからすればいいじゃない」

 ほとんど怒鳴るような大声で彼女はそう言ったが、彼は、「いやいや」と静かにページを捲りながら返した。「ポアンカレ写像についての見解がまだ弟と共有し切れていないんだ。こればっかりは今すぐ話し合わないと」

「なに訳の分からないことを言っているの」

 彼女は、救いを求めるようにして教室前方の、担任教師の座る教卓へと振り返った。そこでは、これからドロケイに参加する予定だが、「これだけ終わったらすぐ行くよ」と言って生徒達を先に校庭に行かせていた男性教師が、先ほどからの彼と彼女の言い合いを気にする素振りなどは一切見せず、粛々と小テストの採点作業をしていた。彼女が振り返ったことに気付きつつも、答案用紙から目線を上げず、紙上でリズミカルに赤ペンを滑らすのを止めなかった。しかし同時に、不思議と、決して無視しているわけではない、ということもしっかりと伝わる雰囲気が醸し出されていた。「この一枚の答案の丸付けが終わったら顔を上げるさ」という余裕を持った態度で、教師はたっぷり八秒ほどの時間をかけて赤ペンを走らせ続けた。赤ペンを教卓の上に置くと、顔を上げ、彼と彼女に向かって親しげな微笑を向けた。ゆっくりと立ち上がり、二人の元へと歩み寄った。歩み寄りながら、微笑を浮かべたままで、彼に向かって、「校庭に行かないのか?」と問いかけた。彼は、「弟と議論の約束があるんです」と答えた。

「最後の昼休みなのに」

 彼女が彼の顔を睨みながらそう言うと、教師は穏やかな顔で頷いた。「小学校生活最後の昼休み、この仲間たちと遊ぶ最後の機会なんだぞ?」

「僕は自分の使命が分かっているんです」

 彼は本から目を離さずに、静かに言った。「クラスメイトと遊んでいる時間はありませんよ」

「そうやって一生、勉強の世界に閉じこもっているつもりなの?」

彼女が言った。「クラスの仲間とか、いろんな人と接して、楽しんだりする機会をずっとふいにしていくつもりなの?」

 彼女の言葉に驚いて顔を上げた彼は、「僕は既に色んな人と接して、楽しんでいるんだよ」と答えた。

「ベルンハルト・リーマンやアンリ・ルベーグ、アンリ・ポアンカレたちと、時空を超えて交流しているんだよ」

「誰だか知らないけど、どうせ死んだ人たちでしょう?」

 彼女は悲しげな顔をして言った。「あなたの声は、向こうに届かないじゃない」

 黙って二人のやり取り聞いていた教師が唐突に、二人の肩に手を乗せた。顔面に優しげな表情を貼り付けたまま、「言っていることは二人とも正しいよ。しかし――」と若い男性教師は言い、彼の顔をじっと見つめた。

「君の示す生き様の方が、よっぽどの覚悟がいるな」

「覚悟なんて要りませんよ。生き様ではなく、ただの習慣ですから」

 彼はそう答えたが、教師はゆっくりと目を瞑り、首を横に振った。

「習慣として続けて、やがて芯ができれば、それは生き様になる。一度そうなってしまったら、そこから抜け出すのはなかなか難しいぞ。自分の心臓を、自分の手で抉り出すようなものだからな。いいか、君はまだ幼い。引き返したいと思ったら、いつでも引き返していいんだからな――まぁもちろん、別に大人になってから引き返してもいいんだが。ただ痛みが伴わないのは、きっと今のうちだぞ」

 教師のそういった言葉も彼は気にしなかったが、ただそのときの彼女や教師とのやり取りのことを聞いた弟の指摘については――やり取りの本質とは何ら関わりのない内容の指摘だったが――彼を驚かせた。話を聞いた彼の弟は、「よっぽど兄さんのことが気になってるんだね、その女子は」と言ったのだ。彼は目を丸くした。

「気になるってる、って――どうしてそうなるんだ?」

 だってそうじゃないか、と弟は笑いながら言った。「教師を巻き込んでまで、兄さんの視線を本から自分に移そうとしたんだよ」

「いや、別にそういう訳ではないと思うけどな」

 彼は眉をひそめながらそう言った。賢い弟の指摘にしては珍しく的を外しているように感じたし、万が一弟の言う通りだったとしても、照れ臭い感覚や嬉しい感覚などは一切なかった。極めて冷静に反論したが、弟は面白がるように口元を歪めながら、「まぁ、そのうち真実が分かるかもね」と言うだけだった。

 結局、その三日後に小学校の卒業式を迎えても、弟の言う「真実」が明らかになることはなかった。例の彼女とは別々の中学校に進学することになっていた。担任の教師や、例の彼女を含めたクラスメイトたちについての記憶は、彼にとって貴重と思えるようなものではなかった、だからといって強いて忘れようとする必要もなかったが、そういった記憶は、不要なものとして彼の身体から徐々に削除されていくこととなった。代わりに、過去の偉人たちの亡霊に取り憑かれたような勉強の習慣は、兄の彼が中学に進学しても消えることはなかった。兄弟としては、家に帰宅する時間も前より大きくずれるようになった、二人で一緒に勉強する時間はどうしても減ったが、それぞれが一人で勉強をすることは止めなかったし、一日の締めくくりには必ずどちらか片方の自室に集合した。将来的には人間による光合成を可能にするための研究を行う土台として、その日の勉強の成果を互いに示し合うことを継続していた。

こんな調子で勉強の習慣はずっと続くものと思われたが、それもあることをきっかけに日常からあっさりと消え去ってしまった。兄の彼は中学二年生になっていた、十一月のことだった。曇りがかった灰色の寒空で、辺りの空気は、ひと気のない夜の砂漠を思わせるほどに冷え切っていた、午前十一時頃から始まっていた四限目の現代文の授業中のことだった。教室にいた彼ら彼女らは、まるで薄く小麦粉をまぶしたような、さらさらとした新紙の感触のする原稿用紙を数枚与えられ、「近年、若者のインターネット依存が社会問題となっているが、そもそもインターネットは善か悪か?」などという途方もないテーマを基に小論文を書くという課題を与えられていた。こんな課題に取り組むよりも、今の自分にはもっと他に吸収すべき知識、深めるべき考察がある、「人間の身体に植物の特性を与える」、「人間にも光合成が出来るようにする」、という目標を達成するための、基礎学問を身につけなければならないのに――そんなことを考えながらも、義務教育課程はその名の通り「義務」なのだから、どんなにくだらない内容であってもこなしておくのが無難である、ということぐらいは賢い彼も知っていた。ただそれでも、身が入らないのはどうしようもなかった。一切の構成が思い浮かばない彼は、ただじっと机上の原稿用紙を見つめていた。七分間ほどずっとそうしていたが、さすがに何か書かなければまずい、と思った彼はほとんどやけくそに、最初の一行目に何の意味もなく、「右耳の後ろが痒い」とだけ書いた。実際に右耳の後ろが痒かったわけではなかった。自分に関する事象ではない、原稿用紙上にしか存在し得ない何者かに関する事象だった。鉛筆が紙の上を滑ったその先、文字の連なりの中から立ち上がったそれを目にし、指先に触れたとき、彼は、自分の頭の奥において水風船が弾けるような勢いで髄液が飛散し、迸るのを感じた。全身の隅々まで髄液が行き渡り、体中の筋肉が強張るのを感じた。全ては、これから先の文章を書き連ねるための準備、爆発的な駆動の前兆だった。彼の意識が気が付いたときには、原稿用紙の上から机を叩くように、まるでキツツキが木をつつくような勢いで、彼の右手が鉛筆を動かし始めていた。息が苦しくなるほどの激しさだった。文章を書きながら、まるで自分がどこか遠くへ行ってしまうような感覚すらあったが、やはりどうしてもそれを止めることは出来なかった。まるでそういう呪いを受けたかのようだった。出来上がったものは当然小論文などではない、授業の終わりに彼はその出来上がったものを教師に提出した。最低の評価は避けられないはずだった、もはやいかなる言い訳を言うことも諦めていたが、しかし彼の文章をその場で一目見た教師は目を丸くしながら、感嘆の声を上げた。

「君、これは立派な小説だよ。それも純文学だ!」

 その感嘆の声一つで彼は、「そうか、これが文学なのか」と信じてしまった。その頃の彼はまだ、巷で純文学と言われるような小説作品をまともに読んだことはなかった。今まで読んできた小説はほとんどが流行りのミステリー小説だった、東野圭吾の「放課後」、「探偵ガリレオ」、「容疑者ⅹの献身」、「聖女の救済」、海堂尊の「チームバチスタの栄光」、「ナイチンゲールの沈黙」、宮部みゆきの「龍は眠る」、「理由」、「火車」、「模倣犯」、「名もなき毒」などを時折読んでいた。文学が何たるかを身を以って体感したことなど一度も無かったが、しかし彼は以降、自分が時折感じる、どうしようもなく何かにとりつかれたようになって、自分でも得体の知れない何かを作りたくなるような衝動を、文学的衝動として理解するようになった。そしてそれを抑えることをやめた。書きたいと思ったときにはどこでも構わず縦書きのノートを取り出して、まるでそれに食らいつくように、鉛筆で狂ったように何の脈絡もない文章を書き連ねるようになってしまった。彼が奇妙な衝動に取り憑かれて一か月が経った、ある日の夕方、普段のこの時間は学習塾にいるはずの弟が、授業カリキュラムの都合でたまたま塾が休みになり、珍しく家にいた。兄が帰ってきた、玄関のドアの開け閉めする音を聞きつけた弟は、兄が玄関から直行するだろう兄の自室へ駆けつけた。部屋のドアを開けると同時に、「兄さん」と呼びかけた。

「兄さん、久々にスタンリー・ファーロウの『偏微分方程式』を読み合わせしようよ」

 弟がそう言いながら部屋の中を覗き込んだとき、兄の彼は、まさに例の衝動に襲われている最中だった。彼のそういう様子を初めて目にした弟は、一瞬、自らの全身が硬直するのを感じた。制服は全て脱ぎ捨てられ、教科書やノートなどの中身の散乱した学生鞄と共に部屋の四隅にばらばらに放られていた。部屋着を着る前に衝動に襲われたに違いない、兄の彼は、白いブリーフ一丁で床に伏せ、ノートを広げ、鉛筆を持った右手を激しく動かし、一心不乱に何かを書き殴っていた。その右手にほとんど連動するように荒い息で上下する、背骨とあばら骨の浮き上がった白く細い身体は、加えて細かく痙攣し、まるで餓死寸前のイルカのようだった。身体のあちこちを激しく動かしたり、痙攣させたりしながらも、不思議と彼の頭部の位置は床に広げたノートの至近距離で固定されているようだった。弟からは彼の顏が見えず、代わりにぼさぼさで黒々とした髪と、身体以上に色白の頭皮が顕わな、大きなつむじを備える頭頂部が見えるだけだった。「今はちょっと無理だ」と彼の頭頂部が言った。「まるで神が囁いたみたいに――いい文章が思い浮かんだんだ」

 この頃の彼はもう、ついこの前までのように数学や科学の分厚い読み物を持ち歩いてなどはいなかった。代わりに、自分の手汗でよれよれになった、短い間にすっかり使い込まれてくたびれてしまった薄い大学ノートを持ち歩き続けていた。着替えのときや食事のとき、入浴のときや寝る直前にも手放さなかった。電車での通学途中には、たとえ体が押し潰されるほどに殺人的な満員車両の中でも、頭に「はっ」と文章が思い浮かんだ時には、四方から迫る人体に埋もれながら全身を蛇のようにくねらせて、どうにか鞄から鉛筆とノートを取り出し、不自然な姿勢のままで思い付いたものを書き連ねた。授業中には科目のノートに加え、そのノートを机の上に置いていた。始めのうちの教師は厳しく注意をしていたが、彼が何を言われても従わないと分かるとやがて諦めた。食事中には、汚すといけないので鞄の中に仕舞って傍に置いていた。ただしどうしても抑えきれない時には、やはり箸を放り出してノートにかじりつくのだった。三ヶ月に一度ほどの頻度で開かれる、体育館における全校集会にも持っていった。演壇に立って、自分では決してそうとは思わない催眠術的な演説をしていた禿げ頭の初老の教頭先生は、自分の話す言葉の合間あいまに、さらさらと激しく鉛筆の走る音を聞きつけた。ほとんど偶然だったが、教頭は、千人近い全校生徒の中から必死の形相でノートに何かを書きつけている様子の彼を鋭く見つけ出した、マイク越しにその場で注意をしたが、彼は手を止めなかった。さらに注意を続けたが、無駄だった。血走った目を見開きながら、鉛筆の動く自分の手先、ノートを見つめる彼の視線が、麻薬中毒者じみた狂気を孕んでいることを遠くからも感じ取った教頭はすっかり恐ろしくなって、顔を真っ青にしながら、「保健室へ――いや、病院へ行きなさい!」と震える声で叫んだ。彼はそこでようやく顔を上げた。極めて落ち着いた表情をしながら、低いが、よく通る声でこう言った。

「僕は将来、小説家になるんです――ただそれだけのことですよ」

中学二年の後半の頃まで頭の内に描いていた、「理系の道に進み、将来は研究者になって、人間も光合成を出来るようにする」などという夢想は、彼の頭からはすっかり消え去ってしまっていた。高校生になる頃には、びっしりと文を書きこむ形でノートを十二冊も消費していた。全ページを埋め尽くしたそれらは、彼以外の誰の目にも触れないような、自室の机の引き出しの埃っぽい奥の方に仕舞われていた。ノートは増え続けた。文章を書き続けることによって、自分で自分に呪文をかけ続けているようにも思われた。彼は高校の文理選択で理系ではなく、ほとんど気まぐれに文系を選択していた。小説家になる上では、高校での文理選択などどうでもよいと考えていた。理系の勉強をしようが文系の勉強をしようが関係ない、ともかく俺は小説家になるんだ、俺の中に眠る文学的センスは外に向かって、世界を拡張する勢いでこの身体から放たれなければならない――そのまま空を切るツバメのような勢いで真っ直ぐにその道を突き進むかとも思われたが、しかしやはり彼は馬鹿ではなかった。これから先、小説を書くことだけで食っていくにはとても厳しい世の中であるということはしっかりと把握していた。高校には部活として文学部なるものが存在していたが、彼はそれには所属しなかった。部活に参加する時間があれば勉強をし、将来は執筆の時間を取れるような、かつ収入も安定した仕事に就くためにまずはちゃんと大学へ入ろうと現実的に考えていた。文系を選択していたが、元々彼は数学が異常に得意だった、普段の生活の中で合間の時間を見つけては、狂ったように文章を書き連ねていた、日々文章のことを考えていたくせになぜか現代文の成績はそこまで良くはなかったが、しかし記憶力は抜群で、英語と社会系の科目に関しては、その過酷さゆえに毎回二、三人の生徒は発狂してしまうと言われていたほどの毎週の小テストで彼だけが満点を連発したほどだった。ここでは何よりも基本が重要なのだということに、彼は素早く気が付いていた。結局、彼が一年間ほどの大学受験の勉強を経て得られた真理というのはそれ一つだけだった。周りが思わず呆れるほどの自然さで、彼は東京大学文科一類に進学した。

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