甘い罠【コミカル】

僕の名前はゴン太。


これは本名ではなく、SNSでハンドルネームとして使っている名前だ。今のSNSを始めて半年。すっかりハマってしまっている。


僕はもともと映画が大好きで、ヒット映画はもちろん、B級と言われているものも、海外の無名監督のものも、とにかく若い頃から貪るように観てきた。


でも、結婚して子供ができてから、なかなかゆっくり映画を観る時間はとれず、映画好きの仲間たちと会う機会もすっかり減り、今ではただのしがない中年サラリーマンだ。


そんな僕は、今やっているSNSに出会って、人生が変わった。


大げさかもしれないが、新しい世界の扉を開けてしまったことは確かだ。




きっかけは些細なものだった。

職場にいる女性社員がSNSの話をしているのを耳にしたのだ。

背が低いのに胸が大きくて、童顔なのに泣きボクロが色っぽい、かわいい娘だ。(僕は頭の中だけでこっそり「童顔巨乳ちゃん」と呼んでいる)


自分で描いた漫画を載せたり、小説を載せたり、日常の些細なことを日記に書いたりして、人に読んでもらって、感想を書いてもらえる。そんな話だった。


僕はSNSというものとは全く縁がなかったのだが、職場の童顔巨乳ちゃんがやっているならちょっと覗いてみようかな、なんて軽い下心から少しだけ見てみたのだ。



見てみるとそこは、夢のような世界だった。

僕の持っていたSNSのイメージは、誹謗中傷に溢れる悪いイメージ。でもここは、それぞれが自分の好きなことを思う存分語っている。そんな場所だった。


何について語ってもいい。そこに同じものが好きな人が集まって話題が膨らむ。僕は大学時代の映画同好会を思い出した。そんな居心地の良さだった。




僕はさっそく登録してみた。

名前はゴン太。子供の頃に飼っていた犬の名前だ。この名前を知っている人は全然いないから、僕だとバレることはない。僕が語りたいことは、もちろん映画のことである。


僕は最初に【今まで観ておもしろかった映画ベスト5】という記事を書いた。


するとすぐに「いいね!」がついた。驚いた。SNSのレスポンスとはこんなに早いものなのか。けっこうマニアックなベスト5を選んだつもりだったが、コメント欄に「はじめまして。私もその映画大好きです」とコメントがきた。これは語ってもいい相手だ。確信できた。


見ず知らずの他人と同じ趣味について語る。語ってもいい相手に手軽に出会える。


世の中の人たちが夢中になる理由がわかった気がした。




SNSを開けるのは通勤の電車の中と決めている。

家でスマートフォンをいじっていると妻にいらぬ誤解を与えかねない。突然SNSにハマった、なんて知られるのもなんだか恥ずかしいから、悪いことをしているわけでもないのに、なんとなくコソコソしてしまう。40歳にもなって急に趣味を語りだして……と妻に白けた顔で見られるのが嫌だったし、僕だけの居場所を知られるのが嫌だった。夫婦だからってSNSまで共有する必要はない。



フォロワーさんが増え始め、通勤中だけでは記事が読み切れなくなってきた。コメントも増え、そのコメントが、僕の大好きな映画についてのことだから、コメント欄の僕はつい饒舌になる。通勤中だけでは追いつけなくなり、自分の中のルールを改正する。風呂の時間もSNSを見ていいことにする。すると今度は風呂の間に書いた記事にコメントが来ていないか気になって仕方なくなり、寝る前も少しだけ、SNSを見るようになった。



よく考えれば、妻はしょっちゅうスマートフォンを見ている。僕がSNSをやる前からずっと。レシピ動画やYouTubeを見ていると言っていた。僕だってそんなにコソコソする必要なかったのでは? と思い始め、家でも当たり前のようにスマートフォンを眺める日々になった。



不思議なもので、フォロワーさんと仲良くなってくると、映画以外の話でも盛り上がるようになる。プライベートな愚痴を冗談混じりに言い合ったり、仕事の些細な失敗を打ち明けたり。


仲の良いフォロワーさんの一人が「また嫁とケンカした」と言っていたので、「夜ベッドで優しくすれば仲直りは簡単ですよ」なんて、ふざけた会話もするようになった。「ゴン太さんのお宅は仲が良さそうでうらやましい」なんて言われるから「いやいや、うちは鬼嫁だから、職場にいる童顔で巨乳の女の子で目の保養してますw」なんて、普段なら口に出さないようなことも、リアルでは知らない人だからこそ言えた。


「童顔巨乳ちゃんはときどきブラジャーがシャツに透けている」と言ったとたん、「今日は何色でした?」と聞いてくるフォロワーさんも現れた。「今日は濃い紺だったみたいで、ばっちり透けていましたw」なんて、普段の僕は絶対に言わないことも笑って言えた。



このSNSを始めるきっかけになったその童顔巨乳ちゃんのアカウントは見つけられなかったが、最近フォローしてくれた女性で、アイコンの写真がきれいな人がいた。えむちゃんという人だ。


「ゴン太さん、はじめまして♡好きな映画がかなりかぶっているので、フォローさせていただきました。よろしくお願いします」


「えむちゃんさん、コメント、フォローありがとうございます。○○監督がお好きなんて、けっこうマニアックですね」


「えむちゃん『さん』って、変ですねwえむちゃんって呼んで下さい♡♡♡」


僕は思わずニヤっとしてしまった。キッチンでスマートフォンを片手に夕飯を作っている妻が僕を見て「何ニヤニヤしてんの」と話しかけてくる。


「いや、別に。かわいい猫の動画があって」


「ふーん」


そう言って妻はまたスマートフォンを見ながら計量カップで水を測っている。レシピを確認しているのだろう。



「じゃ、えむちゃんて呼びます。えむちゃんは○○監督の作品だったら何が一番好きですか?」


「私は△△とか◇◇とか、派手なアクションはないけど内容の深いものが好きです(^^)」


おー!!わかってる!めっちゃわかってる!この子、めっちゃわかってるじゃん!


僕は好みがかなり近いことに、ものすごく喜びを覚えた。



僕の書く記事はほとんど、えむちゃんの好む監督のものへと偏っていった。それでも他のフォロワーさんも離れずにいてくれて「今日の童顔巨乳ちゃんのブラジャーは何色?」なんて聞いてくるから、えむちゃんに見られたら恥ずかしいな、と思ったけれど、えむちゃんは「ゴン太さんって意外とエッチなんですね笑♡ちなみに私は水色です♡」なんてコメントしてくれるもんだから、「え! 言っちゃうの? 見たいな~♡なんちゃってw」なんて今まで誰にも言ったことのないようなことまで口にして、ますますSNSにのめり込むのだった。


SNSでは別の人格が作れる。

これは僕じゃなくてゴン太だ。


ゴン太になれば、普段言えないことも言えるから不思議だ。



そんな日々を半年ほど過ごし、僕はSNSなしではつまらない、と思うようになった。それくらいハマっていた。依存していた。



ある日、妻が週末短大時代の友人と夕飯を外食していいか? と言ってきた。僕は束縛する夫ではない。その日は子供も部活の合宿でいないから、「あなた、夕飯は外食で済ませて」と言われた。「あーわかった」と適当に返事をしながら僕の心臓はバクバクしていた。


最近やたら、えむちゃんが「○○監督の新作を観たいけど一緒に行ってくれる人いないかな~」とつぶやいているのだ。えむちゃんとは住んでいる地域が近いはずだ。


これはいい機会なんじゃないか?


別に浮気じゃない。同じ趣味の友達と映画を観るだけだ。断られたら、冗談だと言ってごまかせばいい。僕は僕じゃない。ゴン太なんだから。



さっそく「実は僕もまだそれ、観てないんです。早く観たいな~」と探りを入れる。


「えー? 本当ですか? 一緒にいかがですか?」


僕の心臓が跳ねて、飛び出すかと思った。


えむちゃんのほうから誘ってくれている!


僕はすぐに直接やりとりができるメッセージを送信する。


「一緒に行こう。楽しみにしている」


「奥さん大丈夫なんですか?」


「大丈夫。その日、鬼嫁は留守だから」


時間と場所を決めて、僕は浮ついた気持ちで週末を待った。




待ち合わせ場所につく。


「もうついてます! トレンチコートです♡」


「僕もついてる。紺色のジャケット着てます」


きょろきょろしていると背後から「ゴン太さん」と声がした。


えむちゃん! と思って振り返ると、トレンチコートの女性が立っていた。


「こんにちは。えむちゃんです」


僕は、目の前に立っている、僕のよく知った顔の女性を見つめて、驚愕のあまりしばし動けなかった。


なんとそれは、職場の童顔巨乳ちゃんだった。


「な、なんで君が!」


「いやだ、ゴン太さん。本当に気付いてなかったんですね」


そう言って笑う彼女は、職場で会っているときより少しメイクが濃くて、大きく開いた胸元から豊満な谷間が覗いている。


「君だったのか」


「そうですよ。ていうか、ゴン太さん、私のブラジャーの色、よく当てますね」


笑う彼女はいつもよりずいぶんと色っぽい。


「いや、それは、その冗談というか、まさか君だと思っていなかったから」


「ふふふ。いいんですよ。私も楽しくなっちゃって、わざと透けて見えるブラジャーしていましたから」


わざと、僕のために、僕に見せるために……


僕はだらしない顔になるのを必死でこらえる。


「うふふ。とりあえず映画観ましょうよ。私、映画好きなのは本当なんですよ」


僕はまだ信じられない気持ちもあったが、ふわふわと浮ついた足取りで映画館へ入った。




映画は文句なしにおもしろかった。彼女の映画好きは本当らしく、映画のあとに入った居酒屋でも、いろんな映画の話で盛り上がった。


酒が進んできた頃、「そろそろ帰らなくて大丈夫かい?」と聞く僕に「私、どこかで休憩したいんですけど」と、彼女はテーブルの下で足を絡めてきた。ごくりと喉がなる。




これは、仕方ないんじゃないか?


ここで断ったら彼女を傷つけるんじゃないか?


これは不可抗力だ。


僕は彼女の手をひいて居酒屋を出た。




信じられないような時間だった。


僕はまだこんなに男としての欲求が残っていたのか、と自分でも驚くほどに彼女を抱いた。そして女の体があんな風になることを、僕は彼女で初めて知った。




終電を逃し、タクシーで帰る。


家についても彼女のことを思い出し、刺激的過ぎる光景が脳裏を離れない。


僕は久しぶりに眠りにつくのに時間がかかった。




翌日、会社に行くと、彼女は普通の顔をして働いていた。当たり前だ。社会人なんだから、公私は分けるものだ。


昼休み、彼女から「ちょっと」と小さく声をかけられた。

なんだろう? と思いつつ、屋上に向かう彼女のあとについていった。まさか会社の屋上で? 僕は階段を登るピチピチした尻を眺めながらいやらしい妄想をふくらませる。昨日抱いたばかりの女が目の前にいるのだ。仕方ない。


屋上につくと彼女は自分のスマートフォンを取り出し「これ、見て」と言ってきた。ずいぶんと冷たい声に少し緊張しながら画面を見ると、そこには昨夜二人で行ったホテルのベッドで不格好に腰を振っている僕が動画に写っていた。


「こ、これは!」


「ごめんなさいね。シャワー浴びてるときにセットしちゃった」


「ど、どういうつもりだ」


彼女は人差し指を僕の胸にあて、くるくる押し付けながら「とりあえず、30万でいいよ」と言った。


「30万!?」


「うん。私さ、ホストにハマって借金しちゃって、お金いるんだよね」


「まさか、そのために」


「この動画、奥さんに送ってもいいし、会社に広めてもいいし、SNSに載せることもできちゃうんだよね」


そう言って、いやらしく大きな胸を揺らして笑った。


「じゃ、よろしくね、ゴン太さん」


茫然と立ち尽くす僕を置いて、彼女は職場へ戻っていった。


ゴン太……お前なんてことしてくれたんだ。


時すでに遅し。

恐るべき匿名の世界。


僕はSNSの恐ろしさを、今初めて体感することになった。

屋上から見える景色は寒々しく、後悔だけが重くのしかかった。



今これを読んでいるあなた、コメントのやりとりをしているあの人、もしかしたらあなたのことを良く知っている、誰か、かもしれませんよ。お気をつけあれ。



【おわり】

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