十六話

「……追い付いた。あそこだ」


 アーロンとミコラスが階段を駆け上がると、そこにあった花壇の並ぶ広場の中央を、三人の人影がちょうど横切っていくところだった。


「説得、できるか」


「やってみます……」


 ミコラスは中央へ走りながら叫んだ。


「待って!」


 その声に三人は止まり、一斉に振り向く。と、その見覚えのある顔に、ミコラスは思わず息を呑んだ。


「な……何で……」


 驚く表情で立ち尽くす青年を見て、ユーリは眉をしかめる。


「侵入を許したか。やはりこちら側の戦力を――」


「まさか、ミコラス……?」


 レオンの呟きに、ユーリが怪訝そうに聞いた。


「……どうした、知り合いか」


「ずっと捜してた、親友です……マルファ、そうだよな。間違いなくミコラスだよな」


 聞かれたマルファは、大きく目を見開きながら、広場に立つ青年を見つめていた。


「嘘……信じられない。どうして今頃……」


 思いがけない再会に、三人は同じ表情で立ち尽くしていた。だが、ミコラスだけは胸に苦いものを感じていた。この再会を素直に喜びたいが、それはまだできない……。


「君達と同じ、風使いなのか」


 ユーリの問いにレオンはうなずく。


「はい。でも、彼は風を操らないから、心配いりません。……話をしても、いいですか?」


 これにユーリはミコラスの様子をうかがうと、いいだろうと許可を出した。五年ぶりの再会に、レオンはやや緊張の面持ちで歩み寄っていったが、その足を止めるようにミコラスが言った。


「本当に、レオンとマルファなのか?」


 険しい眼差しで聞いてくるミコラスに、レオンは口の端で笑い、言った。


「ああ、そうだよ。お前と一緒にいたレオンとマルファだ」


 お互い、少年から青年の姿へと変わっていたが、顔付きがやや大人に近付いただけで、仕草も雰囲気も五年前と何も変わっていなかった。懐かしげに近付こうとするレオンだったが、ミコラスは再び声で止めた。


「風を操ってるのは、二人か?」


 ミコラスが何を言いたいのかを察したレオンは、口元から笑みを消して言う。


「掟のことは……仕方なかったんだ。俺達はこの王国の平和のために――」


「それでどれだけの人が傷を負って、死んだか、レオンは知っててやってるの?」


「もちろんわかってる。でもそれは、向かってくるほうが悪いだろ。王国の平和を乱す人間なんだ。それを守るためには力を使うべきなんだ」


「僕達一族は外界との関わりを絶ったんだよ。それなのにどうして二人はここで力を貸してるんだ」


「ミコラスに助けられてから、いろいろあったんだよ。俺達はもう、皆の元へは戻れない……だから都で、平和のために協力してる。ミコラスこそ、一体何してたんだよ。レビナスさん知ってるだろ? あの人から聞いて、俺達はずっとミコラスを捜し続けてたんだぞ」


「僕は……長いこと自由を奪われてたんだ。どこへも行けず、最低な生活を強いられてた。でもそんな目に遭ってる人が大勢いるんだってことを知れたんだ。ここでは日常的に弱者が虐げられてる。レオンが言う平和を乱す人間の多くは、その弱者だ。彼らはただ暴れたいんじゃない。自分達の窮地を訴えてるだけなんだ」


「訴えるなら話をすればいい。兵士を襲う必要なんてないはずだろ」


「誰も聞かないから、力尽くの方法を取るしかなかったんだよ。……レオン、考えてみて。弱者を無視した、上流階級だけが平和の国なんて、そんなの異常だ。僕達は何も贅沢な暮らしをさせろと言ってるんじゃない。分相応な、普通の暮らしを求めてるんだ。そんな彼らを、二人は風で痛め付けてるってことを自覚してるの?」


 むっとした目でレオンは見つめる。


「ミコラス……お前は、暴力主義者の側に立つのか」


「暴力主義者って、そんな言い方――」


「こっちだって普通の暮らしに戻りたい。でも暴れるやつらがいるせいでそれもできなくなってるんだ。どっちが平和を乱したかは、一目瞭然だろ」


「レオンの言う平和は見せかけだ。その裏でどれだけの人が苦しめられてるか、知らないから言えるんだよ」


「自分達さえよければ、恵まれた人間の平和なんかどうでもいいっていうのか。見せかけだからって、それを壊していいっていうのか。ミコラス、お前こそよく考えろ。武器を片手に都を乱して回ってるのは俺達じゃない。ミコラスが肩を持つやつらだ。俺達が俺達の平和を取り戻そうとすることのどこが間違ってる」


「権力や金を持つ人間は、影響力がある分だけ責任もあるはずだ。彼らが弱者にどういう扱いをしてきたのか……皆、命懸けでそれを訴えてるんだ。レオンはその必死の声を命ごと消してくつもり?」


「向かってくるなら、それも仕方ない」


 ためらいなく言ったレオンを、ミコラスは細めた目で見つめた。


「理解、してくれないんだね……。マルファ、君もそうなの?」


 黙って聞いていたマルファだが、そのミコラスを見る目には、かつて友人として見せていた親しみはなく、ひどく他人行儀な距離のある感情がこもっていた。


「……それなら、僕も力尽くで訴えるしかなくなる」


 意を決したミコラスは、正面に立つレオンに真っすぐ向かっていった。力尽くと言っても、ミコラスにそんな力は何もない。だが、親友がさらに過ちを犯す前に、絶対に止めなければ――急き立てる気持ちが、自然とミコラスの足を動かしていく。そんな迫ってくる姿に、レオンは表情を硬くし、身構えて待つ。


「それ以上は近付くな」


 ミコラスの鼻先に剣先が突き付けられる。レオンをかばうように、目の前にユーリが割り込んできた。


「話は終わった。もう用はないだろう。次の移動場所はわかるな? 君達は先に行け」


 ユーリは背後の二人をちらと見て言う。


「まだ皆を傷付けるつもり? そんなの絶対――」


 剣を避けて近付こうとするミコラスだったが、ユーリはすかさず立ち塞がる。


「近付くなと言ったんだ。さもなくばその目を貫く。……早く移動しろ」


 じろりとユーリに睨まれて、迷いを見せつつも二人はゆっくりと歩き出した。


「レオン、マルファ、行くな! 行っちゃ駄目だ!」


 剣に牽制され、動けないミコラスは気持ちをぶつけるように叫んだ。しかし二人の背中はどんどん遠ざかり、止まる気配もない。このままでは行ってしまう――焦りが募った時だった。


 ガンッと剣が弾かれたかと思うと、ミコラスの横から人影が飛び出してきた。


「……アーロンさん!」


 アーロンはミコラスの前に立つと、握った剣を構え、ユーリと対峙する。


「あの二人を行かせるなミコラス。引き止めてくれ」


「は……はい!」


 ミコラスは遠ざかる二人を追って走り出す。それを見てユーリは動こうとするが、アーロンはすぐさま正面に回り込み、進路を塞いだ。


「……反抗組織の者か。そんな大層なもの、扱えるのか?」


「こう見えて、俺もかつてはあんたと同じ軍人だった。嫌気が差してすぐにやめたけどな」


「それだけの経験で腕に自信があるという気か? ……試してやろう!」


 二本の剣が同時にぶつかり、金属音を響かせる。一対一の戦いが始まった奥では、ミコラスが追い付いた背中に叫んでいた。


「もう風使いは人殺しをしちゃ駄目だ! 戦いの道具になっちゃ駄目なんだ!」


 これに、レオンの足がゆっくりと止まった。それをマルファは不安げに見つめる。


「レオン、気にしないで早く……」


 そう促すが、顔をしかめたレオンは背後に振り向いた。そこには険しい眼差しを向けるミコラスが立っている。その視線を受け止め、レオンは言った。


「俺は、誰かの道具になったつもりはない。力は、俺の意志で使ってる」


「今はそのつもりでも、誰かが道具に変えるんだ。現に二人は、王国軍の制服を着て、軍の人間の言う通りに動いてるじゃないか」


「それは望むものが同じだからだ。この都に平和を――」


「それじゃ歴史を繰り返すことになる。村の掟を破っちゃ駄目だ」


 レオンはミコラスを睨むと、強い口調で返した。


「あんな掟は無意味だ。あれがあるせいで村の人間がどれだけ苦しんでるか、お前も見てきただろ? 力を使えば、皆もっと安心して暮らせるんだ。俺はそれを証明した。襲ってきた山賊を吹き飛ばして、力を見せ付けてやった。俺は村を助けたんだ。でも誰も喜ばなかった。掟を破ったからって……」


 悔しそうに奥歯を噛むレオンに、マルファは静かに寄り添う。


「……力を使えば身を守れるし、誰かを助けることもできるんだ。掟はそれを否定してる。俺達の意志を否定してるんだ。そんなものに縛られてちゃ、どうしてこんな力を持ってるのかもわからない。誰かを助けたいって思うのは悪いことか? 悪なのか? なあミコラス、教えてくれよ!」


 じっと見つめるミコラスは、まばたきを一つすると、口を開いた。


「掟は、戒めなんだよ……昔、風使いはこの都で、虐殺の一族と呼ばれてた。国王に言われるまま、不満を叫ぶ民を大勢殺してしまったんだ。そんなことを二度と起こさないように、外界との関わりを絶ち、掟を作ったんだ。人である以上、間違いもすれば心変わりもする。そんな可能性すらも考えて掟は作られたのかも――」


「何だよそれ。嘘言うなよ。風使いは民を殺したんじゃない。敵軍を退けたんだ。この王国を守るために力を貸したんだ」


「確かに最初はそうだった。でも、その後風使い達は道具として使われてしまったんだ。そのせいで民から――」


「俺達はそうはならない! 掟を破っても、俺達はちゃんと意志を持ってる。人殺しに加担なんかしない!」


 これにミコラスは眉間にしわを寄せる。


「気付いてよ。二人はもう、人殺しをしてしまってるんだ。僕の元には何人も息絶えた人が運ばれてきた」


「それは都を乱した、自分達のせいだろ。兵士を襲わなきゃ死ぬこともなかったんだ」


「それで平和を守ってるつもり? だったら違う。力に頼れば、力に振り回される。昔の風使い達がそうなってるじゃないか」


「俺達の力は役に立てるんだ。平和のために力に頼って何が悪い!」


「力を使わなくたって、僕達は平和を作れるはずだろ?」


「作れる? じゃあ一族の村の生活はどうだ。山賊に略奪される日々の中で、どうやって平和を作り出せると思う。理不尽な要求しかしてこないやつらに話なんて通じないんだ。力尽くで追い返すしかないだろ」


「それでも! 風使いは力を振りかざしちゃいけない。人に対して、あまりに強大すぎるんだ。わかるだろ? 自分達の力の恐ろしさを」


「恐ろしいと思うなら、暴れるやつらを早く退かせろ。そうすればもう、誰も死ぬことはないんだ」


 レオンは踵を返すと、マルファを連れ、足早にその場を去ろうとする。


「どうしてわかってくれないんだ……!」


 ギリ、と歯噛みしたミコラスは、走ってレオンの背中を追う。


「わかってくれよ、レオン!」


 ミコラスは肩をつかむと、強引に振り向かせ、その胸ぐらをつかんだ。


「僕は二人を、人殺しの道具にさせたくないんだよ!」


「……放せよ、ミコラス」


「一族の過ちを、繰り返さないでくれ!」


「放せってば……」


「嫌だ! 絶対に行かせない」


「俺は平和のために力を使うんだ。人殺しじゃない!」


 二人はお互いつかみ合い、そして睨み合う。どちらもかたくなに意志をぶつけていた。だがその時だった。


「放してミコラス……」


 レオンを睨んでいた視界の隅に、銀色に光るものが揺れていた。それを握るマルファを見て、ミコラスは静かに聞く。


「……どういう、こと?」


「レオンから手を放して。じゃないと、これであなたを……」


 マルファは護身用のナイフを両手で持ち、その先をミコラスに向けていた。しかし、その手は緊張からか、わずかに震えている。


「マルファ……本気で言ってるの?」


「そ、そうよ。私達の邪魔をするなら、ミコラスでも容赦しない……」


 真剣なマルファの目が、ミコラスをじっと睨み付ける。


「……わかったよ」


 これにマルファは安堵し、一瞬ナイフから意識をそらした。だがその瞬間、ミコラスはマルファの腕をつかみ、強くひねった。


「あっ――痛いっ」


 よろけたマルファは地面に尻もちをつくと、その拍子に手からナイフを落とした。


「何すんだ!」


 レオンはすぐにマルファに近付く。それをミコラスは悲しげな目で見つめていた。


「五年ぶりに会えたこと、喜びたかったけど……二人とも、変わったよ……」


 レオンはマルファに寄り添いながらミコラスを威嚇するように見た。


「俺達は何も変わってない。ただ、平和のために役に立とうとしてるだけだ」


 するとレオンは地面に落ちたナイフを拾うと、それをミコラスへ向けて言った。


「ここから今すぐ立ち去ってくれ」


「それで、僕を刺すのか?」


「言うことを聞いてくれないなら、そうなるかもしれない」


「僕は聞かないよ。ここを去らない」


 むっとしたレオンの目が見つめる。


「それでも、本当に刺せる?」


 当然だ、とは言えなかった。五年の時間が空いても、レオンにとっては親友に違いないのだ。幼い頃から共に遊び、笑い、泣いた相手。兄弟のように過ごした思い出は決して忘れることはできなかった。


 それを見透かしたように、ミコラスは笑顔を見せて言った。


「レオンにはそんなこと、絶対にできない……」


 一歩、ミコラスが前に進む。


「動くな。近付けば――」


「できないよ。僕を刺すなんて……」


 ゆっくり、ゆっくりとミコラスが迫ってくる。


「お願いだレオン、もう力で人を傷付けないで。平和を望むなら、もっと違う方法があるはずだ」


「来るな……立ち去れ」


 ミコラスは視線をそらさずに歩いてくる。それにレオンは苛立った叫びを上げた。


「どうして……どうして言うことを聞いてくれないんだよ!」


 その勢いで、レオンは空いている左手でミコラスの顔を思い切り殴った。


「ぐっ……」


 右頬に入った拳はミコラスの全身を揺らして、そのまま地面に倒れ込ませた。するとレオンはその腹に馬乗りになり、胸ぐらをつかんでナイフを構えた。


「これでも、まだ言うことを聞かないっていうのか」


 頬を赤く腫らせても、ミコラスは微笑む。


「僕は、二人を止めるよ。信用してるから、そんなもの怖くない」


 その緑の瞳は言葉通りに、何の恐怖も怯えも感じていない。親友だから、疑う余地はない。ナイフで傷付けるなんて、そんな馬鹿なことをするはずがない――真っすぐ見上げてくる眼差しは、はっきりとそう言っていた。


 レオンの気持ちはひどく乱れる。ミコラスは親友だ。だが、今は対立する立場になってしまった。信用していると言っても、本当のところはわからない。止めたいだけの出任せなのかもしれない。しかし、レオンは知っている。ミコラスはそんな嘘をつく人間ではないことを。親友と認めてくれた自分を、心から心配し、気遣ってくれたことを。だからあの時も山賊から身を挺して守ってくれたのだ。ミコラスは嘘など言っていない。本当に自分達を止めようとしている。


 しかし、それならなぜ、という気持ちも一方ではくすぶる。親友なら、信用しているなら、掟を破っても行動する自分達を理解してほしかった。身を守り、平和を得るには、力を使うことが必要なのだ。別に力を振りかざしているわけではない。すべては人々のため、安心できる日常を取り戻すため。ただそれだけなのだ。いくら親友のミコラスでも、それを止める筋合いはない。後ろめたいことをしているつもりはないのだから。それなのに、どうしてミコラスはわかってくれないのか。この王国が乱されても構わないとでも思っているのか――レオンの心はぐるぐると巡って定まらない。それを表すように、構えたナイフを握る手も、どうするべきかわからずに揺れていた。


「レオン、早くやれ!」


 急かす声に顔を上げると、その視線の先ではユーリとアーロンが激しく戦っていた。


「くっ……やらせるか!」


 馬乗りにされたミコラスを見て、アーロンは助けに行こうとするが、ユーリは剣を振り回してそれを妨害する。


「私がこいつを止めている間に、早くやるんだ」


「どけ!」


 強引に突破しようとアーロンは切りかかるが、ひらりと避けたユーリはすぐに反撃をする。その最中、横目でちらとレオンを見ると、苦悩した表情で微動だにしていなかった。ユーリは剣を振りながら叫ぶ。


「何をしている。友人だからとためらうな!」


 しかしレオンの表情は変わらない。ユーリはさらに続ける。


「風使いの力は、王国に平和をもたらすものだ。たった一人の友人のせいで、君は皆の平和を見捨てるのか! 王国が乱されるのを傍観するのか!」


 この言葉に、レオンは両目を強く瞑った。山賊の略奪を黙って受け入れる大人達が嫌だった。辛くて苦しいのに、立ち向かおうともしない空気が納得できなかった。それを見ていられなかったから、自分は力を使ったのではなかったか。そうしたのは村でも都でも同じ理由だ。そこにいる人々を助けられるから、この力は大勢を救えると知ったから、だから――


 目を開けたレオンは、見上げてくるミコラスを見据えると、ゆっくりナイフを構え直した。


「……右手を下げて、ナイフを置いて」


 落ち着いた声でミコラスは言った。


「駄目だ。俺達の邪魔をしないと言ってくれ」


「無理だよ。僕は二人を行かせたくない」


「言ってくれないのか」


「言わない。絶対に」


 柔らかい表情で、ミコラスはきっぱりと言った。するとレオンはナイフを下向きに、その胸の上で構えた。


「……じゃあ、いいんだな」


「いいよ。レオンにはできないから」


 もがこうともしないミコラスは、かすかな笑みを浮かべてレオンを見つめていた。その細い体の胸に切っ先を向けたレオンは、右手に力を込めて親友を凝視する。信用しきっているのか、まるで疑う様子がない。レオンの右手は少しずつ震え始めていた。これでいいのか? 親友を裏切っていいのか……?


「レオン……」


「レオン!」


 ミコラスとユーリの声が重なって聞こえた。


「やるんだ!」


「できないよ」


「平和を取り戻せ!」


「僕達は今も親友でしょ?」


 見下ろしたレオンは、一度大きく息を吐くと、言った。


「……ああ。俺達は、親友だった」


 振り上がったナイフは、胸の中央目がけて、大きな衝撃と共に突き刺さった。これに、背後では息を呑むマルファの気配を感じ、離れた正面では口角を上げるユーリの顔があった。


「ミコラス!」


 アーロンはひどく動揺しながら、ユーリに構わず駆け出そうとするが、後ろからすぐに羽交い絞めにされてしまう。


「放せ!」


「たかが仲間一人の死で、こんなに動揺するか……やはり軍をやめてよかったようだな。お前にはいろいろと聞きたいことがある」


「黙れ! 何も正せないやつに話すことなんか――」


 ユーリの剣がすっと動く。と、アーロンは腹を押さえてうずくまった。手の下からは鮮血が滲み、地面に点々と赤い跡が付いていく。


「あまり動くなよ。血を失って死ぬぞ」


 脱力して膝を付き、痛みにもだえるアーロンの手から剣を奪うと、ユーリは静かにレオンの元へ近付いた。


「……よくやった」


 レオンはまだミコラスに馬乗りになっていた。突き刺したままのナイフを握り、動けないでいるようだった。


「こいつはもう死んでいる。手を離せ」


 言われてレオンはようやく手を離した。そしてゆっくりとユーリを見上げる。


「……どうして泣く。自分でしたことだろう」


 怪訝に見つめるユーリの前には、大粒の涙を流すレオンの顔があった。表情が歪んだり、嗚咽を漏らすわけでもなく、次から次へと、ただ涙がこぼれ落ちていた。


「俺も、わからないんです。これでいいはずなのに……どうしてか、涙だけ出てくるんです……」


 すると、背後からマルファが近付き、レオンを包むように優しく抱き締めた。


「仕方なかったのよ。ミコラスは私達の敵になってしまったんだから。レオンは、何も悪くないわ……」


「その通りだ。友人としては残念だろうが、こちらの任務を妨げられるわけにはいかなかった。レオン、君の判断は間違っていない。これでよかったんだ」


 レオンもそう思っている。だが一向に涙は止まらなかった。マルファの手を借りて立ち上がり、横たわるミコラスを見下ろす。涙でぼやけた仰向けの顔はもう動かない。瞳孔が開いた緑の目は、何の力もなく虚空を見つめ続けていた。ミコラスは最後の瞬間、何を思っただろうか。表情のない顔からはうかがい知れない。怒り、悲しみ、後悔、諦め……そんなものを感じたのだろうか。


 レオンはミコラスの横にかがむと、手を伸ばし、まぶたに触れて目を閉じさせた。自分にはすべきことがある。こうするしかなかったんだ。こうするしか――そう自分に言い聞かせ、レオンは再び立ち上がった。見下ろしたミコラスの顔は、今度ははっきりと見えていた。流れる涙は、ようやく止まっていた。

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