四話
夕暮れの森の中、レオンは一人辺りを警戒しながら歩いていた。まだ太陽は沈んでいなかったが、すでに周囲は夜のように暗い。だがレオンにはこの暗さが必要だった。誰にも見つからないために。
「絶対に、助け出す……」
自分を鼓舞しながら、おそらくこの先にあると思われる山賊の住処を目指し、レオンは森の奥へと突き進んでいく。村の住人達は、今も山賊の住処の正確な位置を知らない。外界と交わらず、村から離れない生活をしている彼らには知る術がないのだ。知ったところでどうすることもできないのだが、多分あちらのほうにいるのではという大まかな方向は感じており、レオンはそれを頼りに森の中を歩いていた。そうすれば、じき見つかるものと考えていた。
ミコラスはまだ生きている――レオンはそう信じていた。信じているから見捨てるわけにはいかなかった。自分があの時、風を操ってでも助けていれば……。その後悔はレオンの心に重しのように残っていた。危険なことだとわかっているが、見て見ぬふりをするよりはましだった。村の大人達のように、レオンはなりたくなかった。
その時、頭上でバサッと音がして、それに重なって小さな悲鳴が聞こえた。足を止めたレオンは背後に振り返ると、木の陰からのぞく灰色のものに気付いて、軽く息を吐いてから呼びかけた。
「……何で付いて来たんだよ」
すると、木の陰から灰色の外套を着たマルファが、恐る恐る姿を見せた。
「気付いてたの?」
「今の悲鳴で。鳥の音で怖がるなら、付いてくるなよ」
「そうはいかないわ。レオンがおかしな動きをしてたから、どこに行くか教えてもらわないと」
「もうわかってるんだろ?」
マルファは一瞬言葉に詰まる。
「……山賊の住処に、行くつもりなの?」
「そうだよ。わかったら帰れ」
「駄目、危ないわ。行かないで」
「ミコラスを見捨てられない。早く助けないと――」
「もう殺されてるかもしれないのに?」
これにレオンはマルファを睨み付けた。
「本当に、そう思ってるのか?」
「わからないわよ、そんなこと……。でも、山賊の住処になんて行ったら、レオンまで捕まっちゃうかもしれないじゃない」
「そうならないように、だからこの時間を選んで――」
「レオンまでいなくなるなんて、私は嫌よ」
溜息を吐き、レオンは言う。
「マルファが嫌でも、俺は助けに行くんだ。頼むから、このことは誰にも言うなよ。だから早く帰れ」
そう言って再び歩き出そうとした時、後ろから腕をつかまれ、レオンは振り返る。そこには怒ったようなマルファの顔があった。
「……何だよ」
「レオンがどうしても行くって言うなら、私も一緒に行く」
「何でそうなるんだよ」
「私だってミコラスのことは心配だもの。レオンが生きてるって言うなら、見捨てることはできないわ」
「本気で言ってるのか?」
「当たり前じゃない」
レオンは困惑顔で頭をかく。
「お前が来たって、正直邪魔なだけだ」
「何よ、邪魔って。ミコラスのこと心配しちゃいけないっていうの?」
「そんなこと言ってないだろ。心配はいいけど、二人だと見つかりやすくなるから、万が一の時、お前も危なくなるし、俺も助けられるかわかんないってことだよ」
「つまり……私のこと、心配してくれてるの?」
「そういうわけじゃないけど……俺は責任取りたくないんだ。だから――」
「自己責任ならいいでしょ?」
「マルファ……」
いい加減にしてくれと言いたそうなレオンに、マルファは真剣に言う。
「絶対足手まといにはならないから。レオンの言う通りにするから。お願い」
難しい表情で考えるレオンだったが、じろりとマルファを見やり、おもむろに口を開いた。
「……俺は本当に、責任取らないぞ」
「それでいいわ」
「なら……好きにしろ」
ぼそりと言って、レオンは森の奥へ歩き始めた。マルファは一人安堵の笑みを浮かべると、前の背中を追っていく。
「ここからは絶対に声出すなよ。言いたいことがあるなら小声で言え。足音も、できるだけ小さくしろ」
「うん……」
肩越しに言われて、マルファは緊張の面持ちでうなずいた。
二人の姿は村から離れ、どんどん森の奥へと入り込んでいく。夕闇は歩く二人の影を消し、間もなく覆った暗闇は二人の気配まで消す。吐き出される白い息と、その息遣いだけが二人の存在を示していた。
遠くからオーンと狼の遠吠えが聞こえ、マルファは止まりそうになる足を意識的に動かしていく。この森には様々な獣が住み、中でも狼は村の住人にとって厄介な獣だった。注意を怠っていると、家畜の山羊や鶏を食い殺されてしまうのだ。狼も厳しい冬を生き残るために必死なのだろうが、村の者にすれば山賊の略奪と狼の襲撃で踏んだり蹴ったりの状況だった。そんな二つの脅威を、住人達は常に感じていなければならなかった。
「レオン……」
真っ暗な視界にかろうじて見える背中に、マルファは小声で話しかける。
「ねえレオン、山賊の住処はどこに――」
「しっ」
わずかに振り向いたレオンはマルファを黙らせた。どうしたの? と目で問えば、レオンは前方を見ながらマルファの耳に口を寄せた。
「あそこに、山賊が一人いる」
マルファに緊張が走る。暗い先に目を凝らすと、確かに、木と木の間を歩く男の影があった。その影は通り過ぎることなく、その場をふらふらと歩き続けていた。
「多分、見張りだ。住処は近いかもしれない」
そう言うとレオンは左のほうへ目を向けた。
「あっちから迂回して行く。音立てるなよ」
忍び足でレオンは左へ移動していく。それを見失うまいと、マルファも手探りで木を伝いながら歩いていった。がその時だった。
「……!」
外套の裾が何かに引っ張られ、マルファは足を止める。見ると低木の枝が引っ掛かっていた。裾を引いて外そうとするが、突き刺さってしまったのかどうにも外れない。前を見ると、レオンの背中は暗闇の中へ遠ざかっていく。離れてしまう――焦ったマルファは外套の裾を力任せに引っ張った。直後、静まり返った周囲に、パキッと乾いた音が響き渡ってしまった。
はっとしたレオンが振り向く。マルファは息が止まり、動けなくなった。山賊にも聞こえる音だった。確実に聞いたはずだ。だが何も気にしてくれなければやり過ごせるかもしれない。どうか、聞き流して――そう願うマルファだったが、それはやはり無理だった。
「……誰だ」
山賊はランプの明かりをつけると、音のしたほうへゆっくりと近付いてきた。逃げなければと思うが、動けば見つかるかもしれないと、マルファはその場から身動きが取れなかった。低木の横にかがみ、息を潜めることしかできない。山賊の持つランプの明かりは、次第にマルファの元へ近付いていた。そして、次の瞬間――
「……ほお、こんなところにガキか」
見つかった――頭上から照らされたマルファは、その明かりに目を細めながら体を縮こまらせる。
「村のガキだな。こんな時間に何してる、ん?」
体格の大きい山賊は、その太い腕をマルファに伸ばそうとする。が、その時だった。
ひゅっと横から何かが飛び出してきたと思うと、ランプを持つ山賊の手は大きく弾かれ、宙にランプが舞う。そしてそのまま地面に落ち、ガシャンとガラスが割れる音と共に、マルファを照らしていた明かりが一瞬で消えた。
「行くぞ、走れ!」
かがむマルファの腕を横からレオンが引っ張り上げた。
「なめたガキが……!」
もう一人子供がいたことに気付く山賊だったが、レオンとマルファはすでに逃げ出していた。後ろから追ってくる気配に、二人は全力で森の中を駆ける。
「ごめん、なさい……」
走りながらマルファはレオンに謝る。だがレオンは何も反応することなくマルファの腕を引いて走り続ける。
やがて、山賊の気配が消えたのを感じ、レオンは足を緩め、木に寄りかかる。はあはあと乱れた呼吸を静かに治めようとする。その横でマルファも、膝に手を置き、切れそうな息を落ち着かせようとしていた。
「……レオン……今日は、もう……村へ戻ろうよ」
切れ切れの声でマルファは言う。その姿をレオンはちらと見る。
「だから言っただろ。危ないって……。見つかったらもう無理だ。また別の日に助けに行く。俺一人で」
少し不機嫌な言い方に、マルファはなかなか顔を上げられずにいた。だがしびれを切らしたレオンに手を引かれ、とぼとぼと歩き始める。自分が情けなく、黙り込むマルファだったが、ふとレオンの足が止まって、伏せていた顔を上げた。
「よお、村へ帰るのか? だったらその前に、何してたか聞かせてもらわないとな」
山賊の不敵な笑みがすぐ前にあった。先回りしていたのだ。レオンもマルファも突然現れた姿に、表情を引きつらせ、ゆっくりと後ずさりを始める。
「ここは俺らの縄張りだ。てめえらガキの遊び場じゃねえんだよ。勝手に入ったら、それ相応の罰を受けないとな……」
山賊は静かに近付いてくる。その途端、レオンはマルファの手を引き、踵を返して逃げた。
「逃げろ逃げろ。どうせ無理だけどな」
せせら笑う声を聞きながら、二人はまた森の中を駆け抜ける。
「ど、どうしたら……」
「大丈夫だ! 逃げられる。絶対……」
どうしようもない恐ろしさは、レオンをじわじわと追い詰めていた。発した言葉とは裏腹に、山賊に捕まる自分の姿が頭をよぎっていた。
「いいぞ、そのまま逃げろ!」
背後から笑い混じりの山賊の声が追ってくる。
「レオン、もう逃げられない!」
泣きそうなマルファの声が叫んだ。
「諦めるな! 絶対に……!」
走り続けていると、前方にわずかな明るみが見えた。と言っても、日が落ちた夜の暗さには違いなかったが、森の暗闇に比べれば少しだけ薄い、そんな明るさだった。森の出口まで来てしまったのだろうか――不安を覚えつつ、しかし立ち止まれないレオンは、その木々の隙間から見える明るみへ突っ込んでいった。
「……! 何で……」
止まったレオンは思わず呟く。森を抜け、冷たい風が吹き付けてくるそこにあったのは、見晴らしがよすぎる断崖絶壁だった。見上げれば満天の星が輝く夜空、見下ろせば色を失った樹木の海原。それらが交わる先にはいくつもの山々が見渡せる。こんな自然に紛れながら、風使いの一族は暮らしてきた――普段の生活の中で見ていれば、レオンもそんなことを感じたのかもしれない。しかし、この絶景も、今は深い絶望を感じることしかできなかった。
「行き止まり……」
マルファはきょろきょろと周囲を見回す。だが、どう見ても他に逃げ道はない。あるのは自分達が走ってきた背後の道だけ。そして、その道には――
「さあ、どうする。もう行き場がないみたいだな」
へらへらと笑いながら、山賊が姿を見せた。星明かりが黒い目に反射し、怪しげに光りながら二人を見据える。
「何してたか、教えてもらおうか。頭に知らせないといけないんでな」
レオンは片手でマルファをかばいながら、じっと山賊を睨み付けた。
「……ほお、言うこと聞けねえってか。てめえら、自分の立場わかってんのか? ああ、まだガキだからわかんねえのか。じゃあ、わかりやすく教えてやるよ。てめえら村の人間どもはな、俺らに逆らっちゃいけねえんだ。もしそんなことしたら、頭がてめえらの仲間をこらしめに行くことになる。それか、逆らった本人の命で罪滅ぼししてもらうかだが……」
山賊はじり、と二人に近付く。
「それでも言うこと聞かねえんなら、そこの崖からすぐに突き落してやるけど……どうする? 一回落ちてみるか?」
喉の奥で笑う山賊は口の端を上げて二人を見つめる。レオンの服にしがみ付くマルファの手に力が入る。恐怖を感じているのはレオンも同じだった。山賊の言葉は脅しではない。このまま黙り続ければ本当に崖から突き落とすだろう。だが、レオンは素直に従うことが癪だった。そうすれば自分は村の大人達と同じになる――生きるか死ぬかの状況で考えることではなかったが、それでもレオンは自分の感情を優先した。
「ミコラスは、どこにいるんだ」
「あん? ミコラス? 誰だそりゃ」
「俺の親友だ。お前の仲間が連れてった。ミコラスを返せよ」
睨むレオンに、山賊は小首を傾げる。
「連れてった? ……そういや、ガキをどうこうするとか言ってたやつがいたな。あれのことか……?」
「ミコラスをどうしたんだ。まだお前の仲間のところにいるんだろ。早く――」
「俺の聞いたガキがそうなら、もういねえよ」
「な……いないって……どういうことだよ」
呆然とするレオンに、山賊はにやりと笑みを浮かべる。
「よく知らねえが、どっかに連れてったって話だ。そういうのは大抵、始末する時だ。もしかしたら今頃は、獣の餌にでもなってるかもな……」
嫌らしく笑う目がレオンを見下ろす。
「レオン……レオン……」
マルファがしがみ付く手で体を揺らす。だがそんなことにも気付かないくらい、レオンの頭は真っ白になっていた。俺のせいだ。あの時助けなかったから、ミコラスは殺されたんだ――後悔は殺した山賊への怒りを混ぜ込み、レオンの中で増幅していた。
「……そうか。てめえらはそのガキを連れ戻しに来たってわけか。友達思いで泣かせるねえ……でも、それは俺らに対する反抗だって知ってたか? そういうやつはどうなるんだったかな……」
そう言うと山賊は、背後の腰からおもむろにナイフを抜いて、それを二人に向けた。
「頭もいろいろ忙しいからな……俺がさっさと始末しておくか」
笑みを崩さず、山賊はゆっくりと正面から近付いてきた。レオンとマルファは身を寄せ合って、少しずつ後ずさりする。だがちらりと振り返れば、もうそこは崖の縁で、二人にこれ以上逃げ場はなかった。
「ナイフが嫌なら、そこから飛び降りてもいいぞ。ほら、早く選べ」
殺すことを楽しんでいる――レオンは嫌悪に表情を歪める。
「……気に入らねえ顔だな。もっと怯えろよ。これで刺さねえと怖がんねえか?」
不満そうに言った山賊はナイフを構えると、その切っ先をレオンの胸目がけて突き出した。逃げ場はない。避けることもできない。こんなところで死にたくない――生き延びるには、レオンはこうする他なかった。
突然、ゴオッと一陣の風が吹き上がり、山賊の突き出したナイフはそれに巻き込まれ、手から離れて空高く舞い上がった。
「なっ、何だ……!」
前触れもなく吹いた強風に、山賊の体はよろめき、二人の前から離れた。その隙にレオンはマルファの手を引き、来た道を戻ろうと走り出す。
「逃がすかよ」
だが山賊はレオンの服をつかみ、引き寄せようとする。そこへレオンはすかさず風を起こした。
「うおっ……何なんだよ!」
自分を直撃してくる強風に、山賊はたまらず目を瞑り、両手を顔の前にかざす。あまりの強さに足を動かすのも困難な様子だった。
「今のうちに逃げるぞ」
レオンが走り出そうとすると、マルファはその腕をつかみ、止めた。
「何だよ、早く――」
「風を止めて。掟を破っちゃ駄目よ」
「何言ってんだ。こうしなきゃ俺達が殺される」
「でも、これはいけないことだって、昔から――」
その時、山賊の手がマルファの腕をつかんできた。きゃっと悲鳴を上げたマルファに、強風に耐える山賊が聞く。
「どうなってる……何で、俺だけに風が吹いて……」
「は、離してよ!」
振りほどこうとするが、山賊も飛ばされないよう必死で、その力は強い。
「俺だけの風じゃ離れない。マルファもやってくれ」
「無理よ! 私は掟を破れない!」
すると、山賊はもう一方の手もマルファに伸ばし始めた。
「早く! 捕まったら終わりだ!」
レオンの大声に、マルファは思い惑う。だがすぐそこに山賊の手は迫っている。
「早く!」
急かすレオンの声はマルファの迷いを断った。半ばやけになったように、ぎゅっと目を閉じたマルファは、目の前の山賊に向け、出来る限りの風を吹き浴びせた。辺りにはうなるような風音が響き、まるで竜巻でも巻き起こったかのような暴風が、山賊ただ一人だけに轟々と吹き付けた。
「うっ、ああああ――」
マルファからあっさりと手が離れた山賊は、暴風に翻弄されて声を上げながら、その大きな体が人形のように見えるほど転がっていく。そして、成す術もなく、その崖の先へ――
二人は、はっとしたものの、もう遅かった。風を止め、崖際まで駆け寄るが、その下をのぞき込むことはなかった。ここから落ちて助かるはずはない。答えはわかりきっていた。
腰が抜けたようにしゃがみ込んだマルファは、涙ぐみながらレオンを見上げた。
「怖かった……どうしようもなかったの……」
掟を破り、人の命を奪ったことに、言い訳をしているようだった。だがそれはレオンがするべきことだ。
「マルファは悪くない。掟を最初に破ったのは俺だ。全部俺の、せいだ……」
「それは違う。私もレオンと同じよ。風を操るしかないと思った。だから、同じなの……」
眉間にしわの寄るレオンの顔を、マルファは潤んだ目で見つめた。
「でも……死ななくてよかった。レオンが無事でよかった。私、それだけでも嬉しい……」
ズッと鼻をすすり、マルファは微笑みを浮かべた。涙の滲む目が、星の明かりできらめいていた。レオンは表情を緩ませると、手を差し出し、マルファを立ち上がらせる。
「俺も、死ななくて安心してる」
風を使えば、山賊に勝てる――レオンは身をもってそれを証明した。恐怖での支配からはいつだって抜けられるのだ。あんな掟さえなければ……。一族にとって風は強力な武器であり、それを使わない大人達は、やはり理解できなかった。ミコラスは、掟に縛られた俺に殺されたようなものだ――レオンの後悔は山賊に勝ったことで、その形を変え、何かに変わろうとしていた。
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