嫉妬に凍える雪女(前編)
今日も俺たち三人は、診療所で忙しく働いていた。といっても、あくせく働いているのはほとんど俺だけである。さっき買い出しに出た楓は全然帰ってこないし、ゴンはいつも通り隙あらば漫画を読もうとしていた。
ちりん、ちりーん。
診療所の戸に取り付けてある来訪者を知らせる鈴がひっきりなしに鳴っていた。今日は、今年一、二を争う忙しさである。
普段は常連の患者がほとんどなのだが、なぜか今日は新規の患者がたくさん来ていた。だから予想以上に物品が足りなくなって、楓に買い出しに行ってもらったのだ。
「楓のやつ遅いな。どこほっつき歩いてんだ」
楓にかけてある『目くらましの術』はすでに完成していて、他の妖や神様が見ても、もう誰も楓が人間とは分からない。
しかも、この術は見た目だけではなく、匂いまでもあやかしに擬態する。だからこの前の『神堕ち』みたいな危ない奴にも、そうそう狙われないはずである。
きっとこれだけ帰りが遅いのは、どこかでまたしょうもない道草をくっているのだろう…。
ちりん、ちりーん。
また患者がやって来たようだ。今日は本当に大盛況だ。一体、何人患者を待たせているのだろうか。
俺は診察室と受付を隔てる壁代の間から待合を確認しようとした。
するとその時、ゴンがものすごい勢いで匍匐前進しながら診察室に入ってきた。
俺はびっくりして思わず後ろに跳びのく。
「何だゴン!このくそ忙しいときに、漫画のなりきりゴッコはやめろ」
「なっ、誰がそんなんやるか!楓と一緒にするなよ!ってそんな事はどうでもいいんだ。やばい奴が来たんだよ。俺は姿見られたらほんとにやばいから、瑞穂追い返して」
ゴンは待合の患者に聞こえないように小さな声で話していたが、声の調子からいつもと違う緊迫感を感じた。普段は周りで何が起ころうと、どこ吹く風のゴンが、珍しくひどく焦っているようだ。
「なんだ怨恨か?まったくお前は面倒ごと持ち込んで。一体誰なんだ、そのやばい奴って」
「雪女だよ。見たらすぐわかる。とにかく何でもいいから理由つけて追い返して!」
追い返せと言われても、ふだん特に選り好みせず誰でも診ている診療所なのに、なんと言ったものか。俺は良い言い訳が思い浮かばないまま、とりあえず待合室に出た。
雪女に会うのは初めてだったが、ゴンの言う通り一目ですぐに分かった。
患者でごった返した待合室の中に、少しスペースが空いて他のあやかしたちが寄り付かない場所があった。その中心に美しい女性が立っている。腰まである真っ白な長い髪に、白い浴衣。そしてその浴衣の裾には氷柱が垂れ下がっていて、足元の床が凍り付いていた。
また診療所が傷むなぁ。
俺は頭の片隅で床の心配をしながら雪女に声をかけた。
「あのすみません、実は、患者さんがあまりに多いので先ほど受付を終了することにしたんです。せっかく来てもらったのに申し訳ないですが、また日を改めてもらってもいいですか?」
咄嗟に口からでた嘘だったが、言ってからあながち嘘でもないなと思った。ここまで患者が多いと全ての診察が終わるのはいつになるか分からない。本当にここいらで受付は終了としよう。
「そうでしたか。それは残念です。また改めて、参ります」
雪女は特に食い下がる様子なもく、あっさりと帰っていった。
ちりん、ちりん。
雪女と入れ違いで、楓が帰って来た。
「ただいま帰りましたぁ」
楓は近所の買い出しに一時間以上もかけておきながら、そんなことお構いなしといった、のほほんとした表情である。
「遅い!包帯買いに行くだけで、どんだけかかってんだ」
「ごめんって。そこで河童のハナちゃんに会っちゃったのよ。そしたら、きゅうりいっぱいくれたの。しかも、冬でもきゅうりを収穫できる方法を教えてくれるっていうから…」
楓は嬉しそうな顔で両手に抱えている大きな紙袋を俺に見せた。その紙袋の中には、本当にきゅうりばかり山ほど詰まっている。
冬にきゅうりなんか、しかもこんなにたくさん食いきれるのか?
「説教はあとだ。これ見ろ、この患者の数。とにかく診察手伝ってくれ」
その後、俺たちは昼飯を食べる暇もなく働き、日が落ちるころには何とか全ての患者の診察を終えられた。
「今日のは貸しだからな」
診察を終えて疲れ切った俺は、座椅子の背にもたれかかりながら絞り出すような声でゴンに言った。
「うん、助かったよ」
ゴンはふぅ、と溜息を吐いた。
「それにしても何なんだ?あの雪女。そんなにやばい奴には、見えなかったけどな。どういう関係なんだ?」
「うーんと、まあ、今でいうところの、ストーカーってやつ?」
「おまえ…痴情のもつれをここに持ち込むなよ」
俺とゴンが話していると、楓が「何々?何の話?」と話に入って来た。説明が面倒だったので、楓には大量のきゅうりの片付けを命じて先に家に帰らせた。
楓はぶつくさ言いながらも、大事そうに、きゅうりの山を抱えて天界への通路に消えていった。
その背中を見ながらゴンがつぶやく。
「ほんと厄介なやつに、目を付けられちゃったよ…」
ゴンはまた、溜息をついた。
「そもそも雪女っていう
「雪女なのに、すっごい粘着質な性格というか、恐ろしい嫉妬心の持ち主だったんだ」
「そりゃ、雪女だって嫉妬くらいするんじゃないか?」
「いやだって、まだ挨拶くらいしかしたことない間柄だったのにか?」
「それは…まあ。確かに、多少思い込みが激しいのかもしれないな」
「だろ?けど俺も間抜けだったと思うんだけど、何でかその日は、すごい酔っぱらってた日で、たまたま居合わせた雪女に介抱してもらったんだ。そんで気づいたら、俺はいつの間にか、雪女の家に連れて行かれててさ、そのまま監禁されたんだ。しかも雪女の奴なぜか怒り狂ってて、あの時は一瞬、死を覚悟したな…」
「おまえ、よくその状況から生きて帰ってこられたな」
「まあ、俺だって、妖術はけっこう使える方だし、それに、たまたま結界の綻びも見つけられて、何とか逃げ出せたんだよ。けど、あとから聞いた話じゃ、実はあの雪女に呪い殺されたやつが、何人もいたらしい…」
「そんな恐ろしい奴だったんだな、あの雪女…。おしとやかそうな顔しると思ったが。ほんとに女の心はよく分からん。きっと女心は、日本海より深くて、謎に満ちているんだろうな」
「瑞穂、おまえ…。ってそんなに女のひとと、付き合ったことないだろ」
「…なんで分かったんだ」
「あ、やっぱり。そんな気がしたんだ」
こいつ。かまをかけやがった。
もうこれから何が来たって、俺は絶対に知らんふりしてやる。
その後もゴンは、しばらく雪女が怖いと言って震えていたが、診療所の片付けを終えて家に帰る頃にはケロッとしていて、いつもの気の抜けた表情になっていた。ゴンの気分屋な性格はこういうところでも発揮されるようで、恐怖も長くは持続しないようだった。
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