時神と暦人1⃣ 湘南と多摩の時間物語(前編)

南瀬匡躬

第1話 ♪宵宮と夏みかん

――暦を司る神さまを時神ときがみとしてあがめる人たちがいる。その使者として時を旅する者たちは暦人こよみびとやカレンダーガールと呼ばれている。その時間移動には太陽と月の光、そしてそれらを祀る場所に開く「時の扉」が使われる。いにしえより続く、限られた人たちだけが、その役目のために隠密行動で時を超える。そして彼らの原動力は、いつの時代も人の世のやさしさ――


   プロローグ

 相南市あいなみしの中心地で用事を終わらせて、明治美瑠めいじみるは電車で帰路に就いていた。空梅雨というのもあり、いつもよりは湿気も感じられない六月。くわえて、快適に過ごすのにはありがたい空調のある電車の中である。時は夕方前ぐらいだ。


 彼女の本職は楽器メーカーの鍵盤楽器デモ演奏者。休みが平日と言うことで通い始めたカルチャースクールのお菓子づくりの講座が、意外にも楽しいものと知り、三十手前のこの歳になってからお菓子作りにはまっていた。人生どこで興味のあるものと出会えるか分からないものだ。


 現在二十七歳、独身だ。実家はこの相南から急行電車で三十分ほどの距離にある町山田市まちやまだし。ごくたまに帰ることもあるが、一人暮らしの気楽さに相南市の生活が気に入っていた。


 さほどの離れた距離でもないのだが、不思議なことにこの両市、気候、気質や文化は随分と違っている。多摩丘陵の中央に位置する冬の乾燥が多い町山田市と相模湾の南風で常に温暖な相南市。


 都心のベッドタウンの色濃い場所で、町の表情が怜悧でファッショナブルな町山田市。海辺の文化でのんびり、カジュアルな相南市。こんなにも三十分ほどの距離で違うものかと肌で感じている彼女だった。元のアルバイト先に近いと言うことで借りた相南市の外れのアパートも住み始めてもう五年になる。そこは中心地の駅からは四駅ほど先の郊外の駅だ。


 電車は途中駅の相南桜台あいなみさくらだいの駅に着いた。彼女の最寄り駅はもうひとつ先の長藤ちょうどう駅だ。相南桜台駅は私鉄と地下鉄との三社連絡の乗り換えができるこの線区では乗降客の多い駅である。


 紺のサマーニットに、黒系、七分丈のカジュアル・パンツを着合わせた彼女。地味と言えば言えなくもない、オーソドックスな普段着である。束ねた栗色の長い髪は、ゴムどめの上に重ねて、エンジ色のシュシュを当てている。一番明るく目立つのは、耳元の音符形をした金色の小さなイヤリングである。メッキの安物だが、センスの良さが引き立つ。


 普通に座っている、そんな彼女の目の前を一人の女性が降車のため横切った。そのとき女性は幾つも手に持っていた手提げ袋のひとつを気付かずに落とす。


「ドサッ!」と手提げ袋が床に向かって落ちた音が車内に響く。


 結構な音だったのだが、駅や電車の喧噪がその音をかき消したため、持ち主にはその音が届かなかったのだろう。美瑠には明らかに大きな音に聞こえた。車内の何人かが瞬時に「おやっ!」という顔でその荷物を見つめる。薄紫色のその手提げ袋は皆の注目の的となった。


 結構な大きさ、重さの筈の手提げ袋で落とし主はいっこうに気付きもしない。よほど何か重要な用事でもあるのだろうか? あるいは単に性格なのか? いずれにせよ彼女はすたすたと急ぎ足で戸口に向かう。


 蚊の鳴くような声で老婆が「あの、もしっ」と声をかけるが、時すでに遅し。その女性は全く見向きもしないで、一目散でプラットホームへと出てしまった。


 事態を察し、文庫本の小説を読んでいた美瑠は、すかさず本を閉じて、あたりの人に頷くとその手提げ袋を拾ってホームへと飛び出した。


 事の次第に全く気づかずに、平然と歩いている遠方の女性のほうへと軽く走り始める美瑠。かなりの距離が空いてしまった。小豆粒大ほどになった落とし主は地下の連絡通路に続く階段を降り始めている。


 空梅雨とはいえ、多少は車内エアコンとの湿度差で、外気に触れると肌にジメッとした感覚を与える。暑くもないのに、一瞬にして汗をかいたようなべたつきのある肌の感触だ。


 そのとき車掌の笛が聞こえて、無慈悲にも乗っていた列車のドアが閉まってしまう。


「あっ」と一瞬立ち止まる美瑠。だがすぐにあきらめた。電光掲示板を見れば、次の電車は十五分後だ。

『仕方ないか……。人助け、人助け』と言いながら自分もいそいそと階段を降り始めた。


 あきらめ気分の美瑠は顔を作り直す。通路に降りたところで、頬を二、三度両手でパンパンと軽く叩いて景気づけをした。そして再び走り始めて、荷物を落とした女性を追って自動改札を出る。


 駅舎を出て、駅前ロータリーのところでようやくその女性に追いついた。美瑠は彼女の肩を軽くたたいて、「あの、これ落し物です」と持っていた手提げ袋を差し出した。


 振り向いた女性は髪の長い色白の美しい容姿だ。くたびれた生活感など微塵もない、清楚で着崩れしていない衣類からも上品な生活をしている人という印象がうかがえた。リボン結びのブラウスに、膝下ハーフ丈のフレアスカート。雑誌のおしゃれコーナーで目にするようなファッションセンスだ。

「えっ、どこで?」

 驚き顔の彼女は鳩が豆鉄砲を食らったような表情だ。お礼の言葉を忘れるほど実感がないようだった。

「電車の中です」

 息急きかけたまま応答する美瑠。


「それでここまで追ってきて下さったのですか?」

「ええ、成り行き上、私が一番走れそうだったので」と笑う。

「まあ、ありがとう。大切な仕事道具が入れてあったんです。これがないと仕事にならないところでした」


 一転して、事の重大さに気付いた風に見える彼女。本当に大変な落し物をしたという自己嫌悪に陥っているのが美瑠にも分かった。

「よかった。電車一本逃してでも追いかけてきた甲斐がありました」と笑う。そして役目を終えた美瑠は「それでは私はこれでしつれ…」まで言いかけたところで、その女性の言葉が重なる。


「よかったら、お礼させてください」

 美瑠からすれば特にそれほどのことをしたという実感もないのだが、彼女にとってはとても重要なものだったのだろう。感謝の度合いが美瑠の思っている以上だったということだ。


「そんなお礼されるまでもないですよ」と横に首を揺らしながら、顔の前で左右に手を払う。

「じゃあ、せめてお茶ぐらいご馳走させてください」と落とし主。


   暗号(メッセージ)

 程なくして二人は駅前のコーヒー店に入ることにした。小路をちょっと入った先にぼんやりと「フォト&カフェ さきわひ」という看板を見つける。辞退と勧誘の繰り返しの末に合意に達したコーヒー一杯のお礼であった。


 ロッジ風の建物にガラスでできた押し戸。中に入ると、木の香りが広がる店内。国立公園内でよく見かけるような丸太造りのビジターセンターを思わせる。あるいは道の駅で見るような建物の類に似ている。


 二人は店に入ると、奥まったところにあるカウンター脇の四人がけのテーブル席を陣取った。そしてテーブルに置いてあったメニューを開いて、サンプル写真を見ながら、会話の続きを始める。


「本当にありがとうございました」

 その女性は何度も何度も繰り返しお礼を言う。

「本当にそんな気にせずに。図々しくごちそうになるハメに……。お礼を言いたいのはこちらになってしまいました」

「申し遅れました。私、森永ちこといいます。近くの公立美術館で展示品と所蔵品の管理をしています」


 彼女の自己紹介でその名前を聞いたとき、なぜか心の奥底に懐かしい響きを感じた。ただこのとき美瑠はその気持ちだけでなにも思い出せなかった。

 程なくして人の良さそうなマスターがお冷やを持って注文をとりにきた。今風の黒いエプロンをした身長一七五センチ程に見える男性だった。


 すでに注文は決めていた美瑠は「カフェオレで」という。

 つられてちこも「じゃあ私も同じもので」という。

「かしこまりました」というとマスターは一礼をしてカウンターの中へと去って行った。


 それを見届けると二人は会話を再び続ける。

「学芸員さんですか?」と美瑠。

「はい」とちこ。

「あなたは?」

「私は鍵盤楽器のデモ演奏してます」と美瑠。

「演奏者ですか?」

「まあ、そこまで格好良いものではないですけど、格下の似たようなもので……」

「ステキな職業で良いなあ」と笑う。

「あなたはアートですよね?」と美瑠。

「はい。絵画部門で所蔵品管理の仕事です」とちこ。

「キュレーターなんてステキ。知的だわ」と美瑠も笑う。

「はい。そんな風によく言われるんですが、イメージと全く違って毎日管理番号のシールと所蔵目録を照らし合わせてにらめっこです。ほぼ事務職です」と返す。


「それをいうなら、私も体力勝負の仕事です。一日中弾いているとくたくた。タイピストって職業が今もあれば、疲れもこんな感じかな」と頷く美瑠。

 和やかな雰囲気で二人の話が続く。店内にいるのは、あと一組のカップルの客とマスターの三人だけである。


 店内はギャラリーを兼ねた造りで、写真作品が彼女たちと向かい側の壁面に展示されている。

 開放した絞りで撮影されたハイキーな植物や自然風景の写真である。

「感じのいいお店ですね。よく来るんですか?」と美瑠。

「いいえ。前をよく通るんですけど、実は今日初めて入りました。でも本当にシンプルだけど上品な感じのギャラリー喫茶ね。常連になっちゃおうかな」とちこが返す。そしてちこは再び自己紹介の続きを始めた。

「私二十七歳です。あなたは?」

「わたしも二十七です」と美瑠。


 すこし驚いた表情でちこは「まあ同じ年。ちょっと嬉しい」と微笑んだ。

「今は相南桜台、ここに住んでいるんだけど、昔ね、町山田に住んでいたの。小学校の低学年まで。あなたはずっとこちらの方ですか?」とちこが続ける。

「実は私も生まれてから五年前まで町山田ですよ」

「ええっ。偶然だけど、なんか共通点が多いと嬉しいものですね」とちこがいうと、「本当」と美瑠も微笑みを返した。

「本当に懐かしいわ。もう記憶薄いんだけどね。私は日月新町にちげつしんまちっていうところにいたの」とちこ。


 その言葉に身を乗り出すように応えて、「あっ、近い。私は日月町にちげつちょうです」と美瑠が言い放ったとき、突然、この世界の全ての音が止んだ。


 だが、時間が止まるというのを彼女たちが理解するのはもう少し後のこと。

 正確にはこの建物以外の全ての音と時間が止まったようだ。その証拠にコーヒーをわかすサイフォンのかすかなシューという音は止んでいない。対照的に入口のガラス扉の外が異様な静寂に包まれている。


 ただしこの部屋の中にもたっだひとつだけ異変があった。キッチンの奥にある柱時計だけが時を刻むのをやめていた。

 それに気付いて、「おや、時計が宿屋さんだな」とマスター。これはまた古い言い方で時計が止まっていることを意味する慣用表現だ。今はあまり使う人がいない。もっと言うなら、全く聞かなくなった表現である。


「何それ?」

 変な表現に薄笑いの若い男性客が言う。カメラメーカーのキャップ帽を後ろ向きにかぶって、ワイキキのお土産らしきTシャツを着た若者だ。

 さすがにこの異変に気付いたもうひと組の客。男女のカップルらしきこの若者たちもガラス扉の方を見ながら、不可思議な顔をして、マスターに視線を返す。


 一連のあやふやな態度の後で、時計以外にも気になることがあるらしく言葉を発した。

「はるちゃん。ちょっと、外、見てきてもいい?」と、その二十歳ぐらいの男性が、女性に断わってから席を立つ。カウンター席のテーブルには一眼レフカメラが数台並べてあり、写真談義をしていたことがうかがえる。


「いいけど。どしたん?」

 センスのよいファッション雑誌に出てきそうな彼女。プロのモデルさんが着こなすようなオレンジ色の半袖ワンピースに、黄色の腰紐が映える。暖色系を上手くまとめた女性ファッションである。白のストッキングもアクセントになっている。


「私も行くよ」とマスターも拭きかけの皿を皿たてに添えるとカウンターの中から出てきた。眼鏡をかけたごく一般的な、見た目五十前後の優しそうな男性である。この話しぶりからするとカップルの客とは顔なじみのようだ。

「おお、止まってるよ」と若い男性。


 その背後から肩越しにのぞき込んでマスターも「見事に瞬間冷却のような光景だ」と加えた。

「あの人たちにご用なのかな?」

 若者は美瑠たちの方を振りかえりながら言った。

「少なくともターゲットは我々ではないような気がするが……」とマスターも頷く。

「助けてあげないと『迷い人』になりそうな人たちだね」と若者が続ける。ふたりは顔を見合わせて頷いた。

「そうだね。それだけは避けたい。でもシナリオはもう出来ていそうな気がするけどね」とマスター。

「そうなら良いんだけどね」と同意した。


 そしてその若者は美瑠たちのテーブルに駆け寄ると「こんにちは」と挨拶をしてきた。


 突然の訪問者に彼女たちはたじろぎながら会釈をする。

「こんにちは。なにかご用ですか?」と美瑠。

 バツ悪そうに頭を掻きながら、「僕が言うと気分を害されてしまう可能性があるので、まず表に出てもらえませんか? 百聞は一見にしかず、ですから」と言う。


 ふたりは先ほどの若者とマスターの会話を遠巻きながら聞こえていたので、何らかの異変があることは推測しているようだ。言われるまま彼女たちは、おそるおそる立ち上がって入口のガラス扉の方へと向かった。


「おおよそ僕たちの会話を聞いておわかりかとは思うんですけど、賽は振られたって感じなんです」

 壁にもたれながら若者は優しく諭すようにふたりに語りかけた。

「はあ」と意味をつかめないままの曖昧な返事のふたりである。そしてそのまま扉を開けてみると、その光景に絶句した。


 人がたくさん止まっているのだ。空には鳥も飛行機も止まっている。駅の近くでは転びそうになっている人がその体勢で止まっている。重力、引力に反した行為である。車も電車も何もかもが止まっている。ポーズボタンを押したビデオデッキのように……。あるいはいつか見たSF映画のように……。


「なにこれ……」とちこ。

「夢?」と美瑠。ありきたりだがほっぺをつねってみる。

 彼女の「痛いわ」と言う言葉を確認すると、「僕は不二夏夫ふじなつおと言います。大学生です。これが何を意味しているかをご存じなら、僕らの手助けはいらないんですけど、なにか身に覚えありますか?」と軽く自己紹介をして、冷静に質問する。


 いきなり初対面の人に「止まった時間を説明してくれ」と言われた彼女たちに、そんなことは不可能である。出てくる答えはひとつだ。

「何が何だか」とちこ。

 その言葉に美瑠も頷く。


「さっき私たちが『迷い人』になるっておっしゃっているのが聞こえましたが、あの話はなんでしょうか?」

 マスターと若者の会話が気になって、しっかり聞いていた美瑠は、思い切って疑問をぶつけてみた。


 若者は腕組みをしながら、「おそらくあなた方は選ばれた人たちだと思います。迷い人になるのは、その託宣を読み違えた時だけの話です。だから皆がそうなるわけではありません。託宣の内容を読み違える人はほとんどいないんです」と説明する。


 そしてひと息ついてから、「ただ素直じゃなく、あまのじゃくな人がごくたまにいるんです。本当にたまにです。素直に愛の示すまま解釈していただければ、罠のようなメッセージはないのです。それなのに分かっているはずの答えを見栄やプライド、ジョーク、照れで無視する人がいる。するとこの世界から抜けられなくなる。それを私たちの間では『迷い人』といいます」と話した。

「要するに、永遠にこの止まった世界、つまり時空の狭間をさまよい続ける通称『迷い人』になると言うことです」とマスターが付け加える。こんな大人が言うのだから、エイプリル・フールでもなければ、おおよそ信じるのが当然と考える二人。


「絶対抜けられないんですか?」とちこ。

「とりあえず僕たち三人が同席しているので、間違えたときは何とか救出はできるはずなのですが、救出する際にも倫理観、公正さ、慈しみ、慈悲愛などを持ち得ていないと救出しづらいのです。託宣とはそういった心を土台にして与えられるメッセージなので。それが上手くいかないと、いつまで経ってもこの世界から出られない迷い人のままということになります。繰り返しになりますが、まだ僕は迷い人なった人を見たことも聞いたこともないです」


 彼がそう言い終えると「すごい話しだわ。変になりそう」と美瑠。しかし目の前で現実に時間が止まっているのだ。受け入れるしかないのが摂理である。

「ただ呼ばれたのがあなた方でなくて、僕たちだという仮定も未だ捨てきれないんです。あなた方の力を借りて抜け出すという逆のパターンも考えられる。基本的に託宣は文章で来ないので、心で出来事を受け入れて、読み取っていくしかありません。だから本質を正しく見いだすためと、なるべく短時間で脱出するために、この世界に来てしまったのが誰の意図なのかを、状況から判断して見つけなくてはならないんです」

 そう言い終えると若者はため息をついた。


 そしてマスターも、

「あるいは困っている私たちやあなた方の知人である第三者を助けるためだという線も捨てないでおいて下さい。まとめれば、私たちがこの状況を乗り切りますと、誰かの願い事、あるいはあなた方を含む私たちの誰かの願い事が叶うと考えられます。ただ今のところは誰の願いで、何を意図したものかはまだ分かりません。与えられた託宣の課題に取り組むうちに、少しずつメッセージの類が分かってくると思います」と付け足した。


「まずは選ばれた者同士の共通点を探るところから始めるのがオーソドックスな取り組みです」と今度はカウンターに座っていた二十歳くらいのモデルさんのような綺麗な女性が落ち着いて言葉を放つ。


 そして立ち上がると、「阿久晴海あぐはるみといいます。実家は三重県です。横浜にある女子大の大学生です。よろしく」と加えた。


「私は森永ちこ、二十七歳。美術館で働いています」

「私は明治美瑠。楽器メーカーのデモ演奏者です。市内のお菓子作りのカルチャースクールに通ってます。同じく二十七歳です」


 ふたりは晴海に続き自己紹介した。

 そして夏夫はその後に続けて話し始める。

「じゃあ、なんでこの五人が選ばれたかのすりあわせをしますね。突然ですみません。無駄になることも多いのですが、やれることからやらないと、大変なことになってからでは遅いので。ちなみに僕は怪しい者ではないので正直に願います。ここにいる喫茶店のオーナーの山崎凪彦やまさきなぎひこさんにも助けていただきながら」


「はい」と一同。

「僕と共通点があるときは挙手して下さい」と夏夫。

「では始めます」

「現在学生である」

 これに晴海以外は、誰も手を挙げなかった。

「出身高校が町山田」


 これには美瑠が挙手した。すかさず山崎は書き留める。それと同時に「ちなみに私は相南なんだけど」と場を和ますために自己申告してみる。

 つられてちこも「わたしは葉山だわ」と言う。

「接点なしね」と晴海は涼しく笑う。

「現住所が町山田市」

 ほぼ全敗。呆気なく何の共通点もないことが露呈する。これではただの「ものづくし」ゲームのお遊びである。


 この状況に山崎は渋い顔だ。

「夏夫君、接点あるのかなあ。この五人」と苦笑する。


 図星を言われ、困り顔の夏夫は質問の角度を変えた。

「じゃあ、かつて町山田にいたことがある」

 これには美瑠とちこの手が上がる。「やった」というヒットの様相に、夏夫は「生まれが町山田ですか?」と訊ねる。全員ではないが、ようやくの接点に嬉しくなった夏夫の気持ちの先走り感は否めない。


「はい」とだけ応えるちこ。しかし表情は硬い。

 美瑠も「ええ」とだけ答えてそれきりになってしまった。

 どう考えても出生地がこの近隣の都市というのは、特に偶然とは思えないレベルの話だ。


「無理だな。照らし合わせ……」と山崎。

 続けて「情報が重なることが少なすぎるよ」と晴海もあきらめ顔だ。

 困り果てて、「一休みします」とだけ言って項垂れる夏夫。

 キッチンの壁に、もたれ腕組みをしながら、「とりあえず別の線で考えてみるのが妥当か」と早々に幕引きを促す山崎。


 あきらめにも似た物憂げな空気が皆の間に漂った。そして五人がそれぞれにため息をついたときだった。カウンターのテーブルに並べてあった一眼レフの中の一台のシャッター音が連続して店内に鳴り響いた。この一眼レフは高速の連続撮影が出来るタイプだ。

『カシャ、カシャ、カシャ、カシャ、カシャ』

「ん? 秒間八コマの連写だ。全部で五枚」と山崎。


「何でだろう? なんか設定間違えたかな? 勝手にシャッターを切ったねえ」

「セルフタイマーか、定点撮影モード?」と再び山崎。

 夏夫はカメラのそばに行くと、再生ボタンを押してから、カメラのリアモニター部分をのぞき見る。

「なんだこれ?」とあんぐりと開いた口がふさがらない。モニターには見覚えのない画像が映っている。


「こんなカット撮ってないよ」と加えた。

 それを覗いて「メッセージの類かもよ」と晴海。そして横から晴海はすかさず「貸して!」といって彼の手からカメラを奪う。


 カメラの背面にある再生ボタンを操作して、順に押していくと五枚の写真が撮れている。

念写ねんしゃ一眼! なんちって」と笑う晴海の顔も卑屈だ。正確に言えばやけっぱちだ。

「連写でしょう」とただしながら野次を飛ばす夏夫。


 そして彼女は山崎の方を向き直ると「ここまでくると、この五枚も託宣のメッセージだと思えるわ。試せるものはなんでも試しましょうよ」と言って席を立つ。そして「マスター、悪いけどプリンター借りるね。この五枚出力してみるわ」と言った。


「どうぞ。好きに使って。A3サイズのやつが大きくて見やすいよ」

 山崎の許可と好意に「了解。サンキュー」と返事する晴海。

 当の山崎は半分あきらめ顔である。

 晴海は慣れた手つきでSDカードからパソコンにデータを落とすとレタッチソフトを立ち上げる。アップロードが終わるとプリントモードで出力数値を設定し始めた。


 しばらくしてプリンターはインクの充填作業を始める。インクカートリッジの設定されているアームが左右に動いてモーターの音がしている。準備完了の後で給紙のカタンという音とともに印刷作業が始まった。

「とりあえず、私が分かることをお伝えしますと……」と山崎は美瑠とちこに向かって説明を始めた。


「過去の経験上です。確定できるものではありませんが」と加えてから、

「あくまで推測ですが……。私と晴海ちゃん、あっ、あのプリントしている彼女ね。――は、手助けは初めてじゃないのでたぶん、あなた方二人へのメッセージの解読作業をお手伝いする役目だと思ってます。――で、夏夫君は自分にメッセージが届いたことがあって、無我夢中でやり遂げたことがあるそうです」と彼女たちに新しいお冷やを注ぎながらいう。


「信じるかどうかはあなた方しだいなのですが、神託とかお告げの類です。ただしこの現状の経験者でないと誰も信じてくれません。当たり前ですけど。もっというと馬鹿扱いされることもあります。気をつけて下さいね。こういった託宣の類、ひとつひとつをこなしていくうちに、糸がほどけるように与えられたメッセージが分かってくると思います。それまでは推理と忍耐でこの不思議な環境を受け入れなくてはいけません。そしてこれはあなた方が何かに助けられている。あるいはあなた方に助けを求めてきていると考えるのが妥当です」


「SF小説などによくあるような超常現象ということですか……」と美瑠。信じられないような顔をしている。誰かの大がかりな悪戯ではないかとまだ疑っている。

「まあ体よく言えばですが……」


 彼女の言葉に頷いて返事する山崎。すまなそうにしながらも、言い訳がましく、『私が原因ではありません』というメッセージも含ませての言葉である。

「面白そう」と意外な答えのちこ。それに対して少し怪訝そうな美瑠のこわばった顔である。その理由をすぐに彼女は言った。


「私たちずっとこのままの世界にいるのかしら…」

 その不安に対してはすぐさま夏夫は「戻れますよ。先刻も言ったけど僕は迷い人になったって人の話を聞いたことはありませんから。かならず託宣の主は分かって欲しいからヒントをいっぱい出してくれるはず」と元気づけた。実際、励ましの言葉ではなく、そうなるようにシナリオが組まれていることを夏夫は確信していた。


「できたーっ!」という声とともに晴海は五枚の出力したプリントを持って四人の囲むテーブル席に行き、まず一枚目を広げた。


 そこには集落の鎮守さまと参道、森が写っている。横には神池しんちも見える。


「さて、一枚目はお宮さんの写真ね。見覚えあるわよ。私も」と出力した本人がまず答える。そして「これ町山田の日月町にちげつちょうの氏神さまよね」と続けた。

「うちの隣だ」と夏夫と美瑠の声が重なった。意外なことにあれほど共通点のなかった三人が、この氏神さまとの繋がりで一致した。


「えっ?」

 一瞬二人の息が止まった。そして二人同時に首をかしげた。

「隣って二件しかないけど。うちは西側にある一軒で、用水路を挟んで隣」と夏夫。

「私の実家、神社の東側。神社前バス停の前にある万屋なの」と美瑠。

 その言葉に「ん?」と心当たりのある夏夫。

「いまコンビニに変わった明治屋さん?」と問う。

 彼女も「そう」と頷く。すると合点がいったようで、こちらも「じゃあ、あなたの家は農家の秋助じーちゃんち?」と美瑠。

「そう。秋助は僕の祖父」と笑顔になる。

「なんだ、ご近所さんだったの」とこちらも笑う。二人の間に和らいだ親近感がわく。


「そういえばよく考えてみると、明治屋さんにはお兄さんとお姉さんがいた気がする。でも、お姉さんのほうは僕が小学校に入るときには入れ替わりで中学に行ったって覚えている。お兄さんは高校生だったような……」と夏夫。

「あたり。それうちの兄貴と私だわ」と美瑠。

 お互いに、分かってみれば「なーんだ」の話である。夏夫は嬉しそうだ。


「よろしくお願いします。先輩!」と笑う。ジョークを出せるほど、ほんの少しだけ距離が縮まって余裕ができた二人だった。


 するといままであまり会話に参加していなかったちこも「あの……」と加わる。

「私の生まれたときの家は、以前この神社のバス通りを挟んで真向かいでした」と好転の兆しの見えるカミングアウト。


「えっ?」と二人。思いがけず四人目の接点が現れた。

「じゃあ、僕と美瑠姉ちゃん、森永さんは産土うぶすなさまってことだよねえ」と合点がいった。


 とりあえず同窓会気分の三人に、晴海は「お三方、次を出して良いですか」と訊ねる。

「お願いします」と三人。思いがけずこの写真は接点が多い。この調子でいけば案外簡単に結論にたどり着けると楽観視をし始めた夏夫だった。


 ところが彼女が次にテーブルに置いたのは砂糖の器が写るプリントだ。しかも赤い漆器に入った六皿。夏夫には全く縁の無い写真だ。

「ブツ撮り。僕の守備範囲じゃない」

 そこには六種類の砂糖が映し出されていた。因みに「ブツ撮り」は商品撮影のことだ。


「右から氷砂糖こおりざとう粗目糖ざらめとうの中で白粗しろざら、おなじく赤粗あかざら、おなじくグラニュー糖、一般的な白砂糖、そしてパウダーっぽいのはきっと和三盆わさんぼんね」と美瑠が言う。

「さすがね。お菓子作り教室の成果が出てる」とちこが褒める。そして「私はこの写真だけじゃなんだか分からなかったわ」と続ける。


 その言葉に「カメラとプリントが良いからよ。色も結晶度合いも上手に写って再現されているから分かったと思う」と返す美瑠。その横で美瑠の言葉に夏夫はちょっと嬉しそうである。自分のカメラを見て誇らしげだ。ただしこのプリント、念写したものなので、性能がどこまで関係あるのかは疑問であるが。

「赤粗とグラニュー糖、白砂糖の上質糖ならこの店にもあるよ。でも和三盆や氷砂糖はお菓子でしか使わないよね」と山崎。そして「……ということはやはり大きな意味ではお菓子作りの名人である明治さんの存在を意味しているのかな?」と半ば分かったように加えたが、決め手に欠ける判断しかできず、ひとまず保留の二枚目であった。


 その言葉に美瑠は「名人って……。ただの受講生風情なのになあ」と過大評価に少々戸惑っていた。


 晴海が次に出したのは柑橘かんきつ果実の木の写真だ。木にたわわに実っている黄色の果実。まるまる一本の木が写されている。これが三枚目である。


「甘夏みかんの類だね。グレープフルーツやザボンなら色がもう少し薄いから。このあたりでも庭先に植えている家は結構ある。農家として栽培しているのはもう少し西へ行くとたくさんあるね。ほんの十キロ行くだけでミカン畑があるもんな」と夏夫。


「この辺は温州うんしゅうも甘夏も庭先にあるね。なんか思い入れある?」とちこと美瑠のふたりに向かって山崎が訊く。


 二人の顔は渋いままで、あまり覚えがあるように思えない。眉間にしわが出来そうなしかめっ面だ。


「見当もつかないんなら、とりあえずパスしよう。時間の無駄だ」と山崎。

 その言葉に頷いて「じゃあ、四枚目」と晴海が出したのがみたらし団子の写真だった。甘辛醤油の照りの入った、つやつやでとろけそうな一品である。香ばしい焼き目がアクセントの見事なだんごだ。接写されているため団子餅二つ、三つ分ぐらいが拡大されて写っている。串などは写っていない。団子のみの画像だ。


「みたらし団子って京都の下鴨しもがも神社が有名だよね」と山崎。

「ええ。一般にはそこが知られてますね」と美瑠も頷く。

「京都に知り合いは?」と二人に尋ねる。

 美瑠は「修学旅行ぐらいしか……」と閉口した。

 同じくちこも「わたしも旅行で行くくらいで、親戚も友人もいません」と手がかりゼロである。


「みんな食べ物ばっかりだね」と意味の繋がらない並べられた写真に肩を落として夏夫がぼやく。

「じゃあ、最後ね」と言って晴海が出したのはおでんの写真だった。

「また食べ物だ。食いしん坊のメッセージか?」と山崎もさすがにぼやく。

「甘い砂糖と団子に、酸っぱい夏みかん、最後にしょっぱいおでんと来た。誰の食事だよ。お米と野菜も食べよう」


 夏夫は誰に対してか分からない、やけくその提案をした。推理などそっちのけだ。

「覚えありますか?」と女性ふたりに訊く晴海。

「ごめんなさい。全く」と美瑠。続いてちこも「私も……」と頷く。

 結局五人は肩を落とす。一枚目以外はほとんど解釈不可能という事態に陥った。落胆の空気が漂う。


「しかも夏におでんって……」と追い打ちする夏夫。続けて「一枚目が出たときはこれでみんな解決しちゃうぐらいに思ったんだけどな」と彼は悔しそうである。快進撃とは行かなかった。


「でも時間はあるわ。一旦今までの記憶は忘れて、別の角度でよく考えてみて下さい」と晴海。そして「特に一枚目だけが食べ物ではないので、そことの繋がりも含めてお願いします」と加える。


「夏夫は? 見覚えないの」

 晴海の言葉に「最初の氏神さま以外はさっぱり……」と返す。両手をすくい上げて、お手上げのジェスチャー付きだ。


「温州みかんなんて今の季節じゃないわよね。夏みかんの仲間はちょうど今が終わり頃。大きな実なら文旦、ポンカンなんかもあるなあ。でも冬しか見ないから、おそらく今の季節じゃないわね」とちこ。そして「これって、料理とかするのかしら?」とふざけ半分でつぶやいた。


「あるわよ。マーマレードや砂糖漬け。大型の柑橘類はほとんどができるはず。氷砂糖でシロップつくって長期間浸したり、和三盆をまぶして数時間だけ和紙に包んで水分を飛ばすの。すると簡易ドライフルーツみたいにして半生で食べることができるわ。この手の砂糖漬けは結構たくさんの手法があると思う」といったところで、「あれっ? わたしなにか……」と美瑠自身の脳裏に何かの記憶がよぎった。忘れかけていた古い記憶が戻りかけて、すぐにしぼんでしまった感じた。


 そしてそのイメージの異変に誘われるように、ちこも何かを感じたようで、彼女の言葉とほぼ同時に「いま、何かが脳裏をかすめた」と声にした。

 彼女のその言葉に直ぐさま「わたしもよ」と美瑠。ただし具体的ではないぼんやりしたイメージでしかなく、ふたりははっきりとした連想に至ることはできなかった。


「でもぼんやりして、明確に思い出せないわ」とちこの言葉に頷く美瑠。

「私たち過去に何か時間の共有しているのかしら……」と小声で呟く美瑠。

 しかし初対面の二人に共通点などある由もなく「まさかね」と思い直した。記憶とはカップ麺や乾物のように、水やお湯を使って手軽に戻せるものではない。きっかけと時間と忍耐が必要なのだ。


 記憶(メモリー)

 ここまで来ての決め手に欠ける記憶はもどかしい。あと一歩のところで記憶が繋がらない美瑠とちこだ。ふと果実菓子で、同時に何かを感じたふたりに、何らかの共通点があるのだろうか。


 忘れかけているイメージの世界でもがき苦しむふたりである。それから十分以上が経過するも、誰ひとり声を出す者もいなかった。それぞれが、がんばって記憶のパズルを埋めようと必死だった。


 頭を抱える者、頬杖をついてぼんやり宙を見つめている者、腕組みをしてしかめっ面のまま口を真一文字に結んでいる者と、止まった時計を背後に、それぞれが静かに妙案を考えている。


 その堰を切って最初に言葉を発したのは美瑠だった。

「普段使わない頭の部分使うから疲れる」と美瑠。かぶりを振っていらだつ彼女。


 その言葉に反応して、「あっ、そうだ。確かねえ……」と山崎。

 椅子から立ち上がってカウンターの中の厨房に戻る。そしてシンクの反対側、壁面棚の扉を開けた。そこは備え付けの戸棚。彼が中から取りだしたのは一枚の板チョコだった。茶色のラベル紙に「Milk Chocolate」の金文字。それを持って行くと美瑠の前に差し出した。


「疲れているときにはこれだよね」

 気休めにでもなればと言う彼のほんの気遣いだ。

 差し出された板チョコに、美瑠は彼の顔を見上げると少しはにかんでから「ありがとうございます」と笑った。彼女はしばらく机上のチョコレートを見つめてぼーっとしている。そして何かが彼女の脳裏に浮かぶ。


 再びその茶色の包み紙をみて、突然彼女は顔色を変えた。それまで散在していて、自分の脳内に格納されていた過去の出来事の幾つかが整理され、チョコレートの包み紙の画像を中心にして記憶の糸が繋がり紡がれていく。それは速やかかつクリアに。


 チョコレートというイメージを中心に記憶の束が拡大する。まるで記憶という配線のネットワークが瞬時に構築されていくように。そしてその瞬間、美瑠の中で決定的な何かが繋がった。彼女の中でひらめきに似た爽快感が生じた。推理小説ならラストピースって言うやつだ。


「これだ!」

 彼女の声は店内いっぱいに響き渡った。

 皆はその声の大きさに圧倒されてのけぞった。夏夫は驚いて椅子からずり落ちた。


「なんだ?」と夏夫。美瑠の方を床に座ったままで見上げた。

 美瑠の中で記憶のパズルが完成したのだ。自信に満ちあふれた彼女の笑顔が見受けられる。


 美瑠は突然ちこの方を見つめると「旧姓東鳩ちこちゃん!」と笑う。

 驚いた顔のちこ。

「えっ?」

 図星のときの人の驚きの顔は皆一致する。まんまる目玉に口を手で覆うちこ。


「この名前聞いたときから、なんかこの辺に引っかかっていたの。ちこって名前珍しいし、他にこの名前の人と会ったことないから……」とのど元を指さす美瑠。

「どうして私の旧姓知っているの?」


 美瑠は人差し指を一本で立てて、「覚えていないの? 追分のおばあちゃんち」と懐かしそうな顔でちこを見つめる。


「……おぼえている。追分のおばあちゃんって、やさしいおばあさんがいた」

 絡まった記憶をひとつひとつたどるようにかみしめて言葉を発するちこ。

「神社の向かい、サンテラス日月の一〇一号室に住んでいた東鳩ちこちゃんだ。小一の夏休み明けに鎌倉の小学校に転校しちゃったんだよね」と美瑠。

「ええっ!」と驚き顔をやめないちこ。


「そうだよ。……住んでいた。……転校した。どうして?」と加える。矢継ぎ早にいろいろな感情がわき起こっては消えていく。もう心の奥底に忘れかけていた懐かしい記憶だ。


「とりあえず、あなたの記憶の中にある追分のおばあちゃんに関することを教えて」と美瑠。そして「きっとそこに、これらの写真と関わる大きなヒントが隠されているはず。私の記憶だけでは、これらの写真に結びつく記憶全てを完成させることは出来ないと思う。そしてそのあなたの記憶に、私は必ず思い出の共鳴を感じるはずよ」と続けた。


 ちこは半信半疑ながら「うん。わかった」というと薄れている記憶をたどり始めた。

「とりあえず印象に残っているものから行くわね」

 咳払い一つの後で彼女は始める。

「日月さまのお祭りの日になると、いつもお手製のみたらし団子食べにおいで、って追分のおばあちゃんが誘ってくれて……。おばあちゃんはバス通りの横断歩道を渡って、公民館の帰り道に家の前で遊んでた私に声をかけてくれるの」と言うちこに「うん、うん」と頷く美瑠。


 そして「参道からバス通りを渡って小路をまっすぐ行くと、庚申堂の方面と小学校の方へ行く分かれ道。小さなY字路があって、その正面が追分のおばあちゃんちって呼ばれていた。おばあさんが住んでいた茅葺きの屋根の家……」と当時がイメージされていく。

「追分のおばあちゃんなら僕も知っている。小さい頃よくクワガタもらったよ」と夏夫。


 何か言いたそうな夏夫の隣で晴海は静かに彼の口に手を当てた。優しく微笑みながら、「今ちこさん、思い出しているから待って……」と加えて。

 そして「その追分のおばあちゃんちで食べたもの思い出して」と美瑠。


 すると記憶の糸が一本に繋がったのか、ちこはすらすらと思い出したことを前にも増してしっかりと話し始めた。



「みたらし団子。甘くて美味しかった。みたらしは串に刺さっているのじゃなくて、お皿に団子をのせて上から甘辛たれをかけたもので、爪楊枝でつついていただいたわ」


 そう自分でいった瞬間に、ちこは机上の串のないみたらし団子の写真に目をやり、「あっ」と一致したことを認識して納得する。


「そうそう。良い調子よ」と美瑠。

「おばあちゃんは『えのでん』に乗って通学する女子校に通っていたってお話をしてくれた。たしかお嫁に来る前のご実家は相南市だったって言っていた。この辺だわ。だから実家に植わっていた庭先の夏みかんをもらってきて、瓶に入れて砂糖漬けにしたって……」といいながら、ちこは「あーっ! これだ」と写真の砂糖と夏みかんを見た。こんどは一気に二枚の写真と現実が一致した。


 この物語の舞台である相模湾に面した地域は、実のなる庭木に柑橘類を古くから植えているご家庭が多い。他の関東地区では柿や栗の木などが多いのに比べて特徴的な地域性だ。


「そして『えのでん』の沿線にはおでんの美味しいお店がいっぱいあるって言っていた。たまに行くんだって言ってた」といいながら、「あっ!」と今度はおでんの写真を見る。


 すでに懐かしさで二人の女性の瞳は涙でいっぱいだ。あの頃の、幼少期の無垢な瞳に映る風景が心中に蘇っている。思い出を語りながら、ちこはバッグからハンカチを出す。


 もうあと一回感動の波が来たら、目に溜まっている涙があふれ出して、ぽろりとこぼれ落ちるのは必至だ。

 目にハンカチをあてがいながら、

「待って、お団子をいただきながら縁側でお話をした女の子がいたわ。おばあちゃんちでよく会う女の子だった。赤いスカートにドングリのマスコットがついたゴムの髪留めをしていた女の子よ。木登りが得意で、庭木に登っておばあちゃんが心配していた。活発で、まるで児童文学に出てくるようなおてんばな女の子だった」というと、美瑠は彼女の目の前に顔を出して自分を指さした。


『それ、私よ』と言わんばかりの自慢げな顔である。

「ええっ」といった後、「本当なの?」と感情がぐちゃぐちゃになりそうなちこ。それでも話すのをやめないで続ける。


「そのとき追分のおばあちゃんが二人は美瑠とちこだから「ミルクチョコ」みたいだねって茶色の板チョコくれて二人で喜んだのよ」といってから、もうちこは堪えきれなくなって「ぼうだべ、なぐ(もうだめ泣く)」といってハンカチで目を押さえながらそれきり黙り込んでしまった。


 二人の目線の先にはテーブルに置かれた、山崎の出した一枚の板チョコ、茶色いラベルのミルクチョコレートがあった。

 そのとき彼女の放った「ミルクチョコ」という言葉はエコーがかかり、店内で反響している。やまびこやさざ波のように幾重にも繰り返されて、それは特殊音響効果の装置が設置されたレコーディングスタジオのごとく。そしてその言葉が呪文か合図だったのだろう。緩やかに、姿の見えない時の番人によって門が開かれる。彼らの世界の時間が再びゆっくりと動き出した。


「あっ、動いた」と窓の外を眺めた夏夫が言う。

 ガラス扉の向こうで街の喧騒が再開された。まるでポーズを解除したビデオデッキのように。そしてキッチンの奥にある柱時計は、何事もなかったかのようにすまして動いている。


 晴海は「この五枚のメッセージから推測できることと言えば、おばあさん、きっと会いたいのよ。追分のおばあちゃんが、お姉さんたちに会いたくてお宮さんにお願いしたのかもね。一枚目の神社の写真はそれでしょう。それを教えたくてのご神託なのね。おやさしい神さまだね。しかもハイテクのデジタル一眼レフを使いこなしての御託宣なんて神さまもクールね」という。


 晴海がそれを言い終えると五人が見つめる中、プリントした写真はスウッと全て像が消えて、未使用の真っ白な写真用紙に戻ってしまった。


「消えた」とちこ。

「なんで」と美瑠。

「この展開、流れで考えれば、素直に考えればですよ。五枚のメッセージ写真の解釈が全て正解だったってことですよ。役目を終えたので消したんでしょ。そう考えるのが自然だと思う」と山崎。


 それを聞き終えると我に返る美瑠。

『……ということは、追分のおばあちゃんが待っているってことだ』

 それをすぐにちこに訊ねる。

「私はこの後フリーだけど、ちこちゃんは今から追分のおばあちゃんちにいける時間あるのかな。平気?」と訊くと「大丈夫、町山田ならそんなに遠くないし」とちこも二つ返事で答える。


「じゃあ、行こう!」と美瑠。

「うん」

 力強い返事のちこ。そしてひとつ付け加える。


「でもいきなり行っておばあちゃん、私たちって分かってくれるかしら? 特に私の方は随分年月も経っているでしょう」と自信なさげだ。


 美瑠は少し考えて、間を置いた後「せっかくメッセージにして下さったアイテムがあるんだから、全部揃えて持って行きましょうよ。そしたら分かってくれるかもよ。おばあちゃんの好きなものを知っている子たちだって思ってさ」と提案した。


「良い考えだわ」とちこ。そして「では料理は任せるわね」というと、私、あのおでん屋さん、知っているから急いで行ってくるわ」と言う。

「片瀬まで行くのに一番早いのはどうしたらいいでしょうか?」と訊ねるちこに「そのために私たちがいるのかも知れないね」と山崎が笑った。

「ようやく我々の出番だ」と言って、「表にある白いMR2は私のだから先に乗っていて。ロックしてないから中で待っていて、買い物が済んだらそのまま町山田に直行しよう」と加えた。


「マスター、お団子と砂糖漬けの夏みかん用意したいの。短時間で作れる方法のもあるから。キッチン貸してくれます?」と美瑠。

「いいよ。もちろんだ。使い方は晴海ちゃんに教わって下さい」と笑顔の山崎。そして思い出したように、「もしなんなら庭にある夏みかんの木。たわわに実っているから使って。もう時期的には最後の方だから良く選んでね」と加える。


 そして晴海の方を向き直って「じゃあ、現地で会おう。はるちゃん、最後、戸締まり、よろしくね」と言って、晴海のOKサインを確認すると、山崎はちこの待つ駐車場へ指でキーを回しながら早足で去って行った。


「じゃあ、夏夫君はバイクですぐ出てくれる。私、終わったら車で美瑠さんを夏夫君の家まで送るわ」と晴海。

「了解。カメラは車で持ってきてね」

「OK。今積んどくわ」

 その返事を聞いて、夏夫はヘルメットを被るとすぐにバイクにまたがり出発した。町はいつもと変わらず、慌ただしく動いている。通りも、車も、電車も、全てがいつも通りに戻っていた。


  再会

 町山田の不二宅から横断歩道を渡り、左に田圃、右にはアパートが連なる小路を歩くこと数分、庚申堂と小学校方面へと分かれる追分にぶつかる。そのぶつかった場所が追分のおばあちゃんの家だ。古い蔵が二つあり、母屋は平屋で玄関は土間になっている。門構えも立派でかつては大きな農家だったことが窺える。


 ちこと山崎は日月町の氏神さまにご挨拶のお参りを済ますと、そんな道のりで追分のおばあちゃんの家に着いた。門の前の石畳で鎌を持って草刈りをしている老婆がいる。石畳の隙間から生えている雑草を刈っているようだ。その後ろ姿にちこは優しく親しみのある口調で声をかける。


「追分のおばあちゃん」

 その声に立ち上がりあねさん被りの手ぬぐいをとると、あの頃と変わらない笑顔が見えた。二十年の歳月が、容姿や風貌を変えて五歳の少女は大人の女性になっている。分からなくても当然とちこは頭の中で自己紹介の準備を組み立てていた。


 ところが「お帰り、ちこちゃん」とちこを見上げて優しく微笑んでいる。

「分かるの?」とちこ。その言葉を受けて、目の前の老婆は誇らしげな顔で話し始めた。


「わかるさ。ほくろの位置や鼻の形は変わらないものなんでね。わたしはお化粧や髪型で見ないから。この年寄りはそういうところで見分けることができるんだよ。それにね、先日、日月さまにちこちゃんたちに会わせて下さいってお願いしたところだしね。きっと神さまは会わせて下さるって思っていたもの」とゆっくり穏やかな笑顔の老婆。あの頃と少しも変わらない口調だ。


 ちこは、懐かしさと、覚えていてくれた嬉しさに、目頭が熱くなった。

「あのね。美瑠ちゃんもいるのよ」と続ける。

「おや、そうかい。ミルクチョコのそろい踏みだねえ」と美瑠をみつめて、相変わらずの台詞を言ってからまた笑う。美瑠もまた心に何か熱いものを感じていた。二人は一気に幼少時代に心がタイムスリップをした気分だ。


 心にこみ上げてくるものを押さえている女性二人をよそに、平然と追分のおばあちゃんは「たまには帰ってきてやりなよ。コンビニでお兄さん夫婦とよく話するんだ。相南桜台にいるんだってねえ。私の実家があったところだ。楽器屋さんの仕事しているって聞いているよ。あとお菓子を習い始めたっていうのも」と続ける。


 感無量の美瑠は「うん」とだけ言葉を発する。

「そっちの人は誰だい」

 そう言ってポケットから眼鏡を取り出して目の前に当てた。

「ああ、若いのは秋助さんところの夏夫だ」と笑う。

「ご無沙汰しております」と照れている。丁寧にお辞儀をした後で斜め上に目線をそらした。幼少時代から知っている人に大人になってから会うのは気恥ずかしいものだ。


「いつもカメラ持ってうろうろしてるねえ。良いの撮れたかねえ」


「ははは」と笑うしかない夏夫。

「そのとなりのべっぴんさんは夏夫の彼女っぽいね。夏夫にもったいないけど、お似合いだ」と晴海に愛しさを伝える。ただ夏夫にしてみれば褒められているか逆なのか分からない言い回しだ。


「ありがとうございます。彼女です。晴海って言います」

 美人タレント並みに愛想の良い笑顔で答える。

 そして最後は山崎。行き場のない立場。目が泳いでいる。

「ひとりだけ成り行きで来ちゃいましたって感じが出ているよ」とおばあさんは山崎の肩をぽんぽんと叩く。


「図星です」と頭をかく山崎。彼はいっぺんで彼女の気さくな人柄に惚れ込んだ。


「相南桜台の駅前で「さきわひ」という写真ギャラリーの喫茶店をやってます。半分原稿書きや写真撮りもやってます。山崎と言います」と自己紹介をすると、追分のおばあちゃんは「おやっ」という顔をした後「桜台の駅前で山崎なら靡助なびすけさんちしかないんだけどね」と返す。


 すると今度はこっちで「おや」という顔の山崎。

「うちの祖父をご存じで?」

「ありゃ、お孫さんだったかね。妙なご縁だねえ。靡助さんとは小学校が一緒だったよ。優秀で旧制中学もいいところにいったよねえ」と笑う。「生きていれば、私の三つ上だから九十超えるねえ」という。


「よくご存じで」という山崎に、「昔からの家も最近は少なくなったからね。たまたま知っていただけさ」と気取らずに言った。

『これで全員が繋がった』と夏夫は内心思った。そして『きっと託宣の主はこの繋がりを知っていて巡り合わせたんだ』とも感じた。

「とりあえず、お初にお目にかかる人に自己紹介させていただくと私は江崎久里子えざきくりこ、久里浜の久里と書きます。八十六を過ぎた。近所の人は追分の前に住んでいるので追分のおばあちゃんと呼んでくれています。この一軒家に一人で住んでいます。よろしくねえ」


 ひととおりの紹介が終わり、「よし!」とひとり頷くと、追分のおばあちゃんは「こんなところでは何だからあがんなさい。年寄りの一人暮らしで何もないけど。お茶ぐらいならでるよ」と皆を先導して玄関へと誘った。


  団欒

 滑りのよいカラカラという音を立てて引き戸を開けて入ると、土間の広がる農家の玄関先。上がり端に踏み台があり、そこで靴を脱ぐ。美瑠とちこには見覚えのある大きな畳敷きの部屋。三畳ほどの玄関間の奥に茶の間がある。


 一行はちゃぶ台を囲んで座った。そこに茶筒と急須、湯飲みを盆に載せ、いそいそとおばあちゃんがやってくる。


「もうすぐ引っ越しでね。荷物をかたづけてしまったから何もないんだけど……」と言いかけたところで美瑠が「おばあちゃん引っ越しちゃうの?」と訊ねる。


「娘夫婦がね、あっちの近くに介護付きの施設を用意してくれたんだ。まあ、私は自活用の部屋なんだけどね。特に体の方はどこも悪くないからさ。けど、あちらさんとしては遠方にいるのが困るらしくて。同居も考えたけど、私の方が気を遣うからさ」と話してくれた。


「どこに行くの? いつ行くの?」とちこ。

「まあまあ」と急き立てる彼女を抑え、久里子はトポトポとお茶を注ぎながらゆっくりと話し始めた。


「今度のお祭りが最後のお祭りでね。そしたら九月から娘夫婦のいる伊豆に行くんだよ。まあ、湘南電車乗りついで一時間程度でついちゃう距離なので帰ろうと思えばいつでも帰ってこれるんだけど、そう毎回は無理だろうね」

「しょうなんでんしゃ? 何それ?」と晴海。不思議そうな顔。

 すかさず山崎が「昭和五十年代ぐらいまでは東海道線の電車をそう言っていたんです。電車が銀色のステンレスになって、いつの間にか使わなくなった。時代は上野東京ラインだもんね」と口で注釈する。


「ふーん。そうなんだ」と晴海。

「今でもちょっとだけ残っているけどオレンジと緑のカラー。あれが湘南のみかんの実と葉のイメージらしい」と付け足す山崎。

「そんな意味合いがあったんだ。あの色」と美瑠も感心する。

 湘南電車のなんたるかが解決して一段落。久里子は間をおいて皆にお茶を差し出す。


「どうぞ」

 皆が軽く会釈をすると再び話始めて「それでね……せめて最後の宵宮さんには、恒例の夏柑なつかんの砂糖漬けとみたらし団子を、公民館で翌日の出番を待っている山車の引き手やお囃子の奏者に持って行ってあげたかったんだけどねえ」と続けた。


 その話を聞いて美瑠は「おばあちゃん、そのことなんだけどね。今日、私たちお土産を持ってきたの」と言って透明の調理ラップに包んである半乾燥の甘夏に砂糖をまぶしたものとみたらし団子を差し出した。それに合わせるようにちこも「これはおばあちゃんが好きっていっていた片瀬にあるおでん屋さんのおでん」と差し出す。


 懐かしい包み紙をみて「おやまあ、なんとあのおでん屋さんのおでんだ。これぞ湘南おでんだね」と笑う。そして調理ラップの中身を見て、「これ美瑠ちゃんが作ったのかい?」と訊ねる。


「おばあちゃんのとはちょっと違うかも知れないけど、私なりに思い出して作ってみたの。召し上がれ」と調理ラップをほどく。

「そうかい。じゃあひとつご相伴にあずかるよ」

「相伴じゃないわ。おばあちゃんのために持ってきたんだから」と笑う美瑠。


 プラスチック製の色とりどりの楊枝が刺してある夏みかんを一つ頬張る久里子。

「やっぱりお菓子の教室で習った人が作るのは上品で洗練されているねえ。田舎のばあちゃんのとはちがうねえ」と笑う。


「兄から何を聞いているのか知らないけど、私クッキーとかワッフルみたいなヨーロッパの家庭料理を習っているので、洋菓子なの。和菓子じゃないのよ。しかもカルチャースクールで学校じゃないわ」と謙遜して見せた。


「大丈夫。『全ての道はローマに繋がっている』からひとつの菓子を極めれば全部そつなくできるようになるものよ」と言って、「おいしい。もうひとついただくわ」と喜びを感じている久里子であった。


「ねえ、今年の宵宮さんには都合つけて帰ってくるから。おばあちゃん、一緒にみたらし団子と甘夏の砂糖漬けを作りましょうよ。そしておばあちゃんの味も教えておいてよ」と美瑠。

 それを聞いて「美瑠ちゃん、私も参加して良いかな?」と横にいたちこも続く。


「もちろん」という美瑠。

「ありがとう。だけどねえ、団子の方は大丈夫なんだけど、私の実家の甘夏の木が無くなったんだよ。地場産だったからさあ、この季節に出回るスーパーのとは成熟度がずれちゃうんだよねえ」と久里子。


 それまで黙ってお茶をすすっていた山崎が「うちのでよかったらじいさんのときからの夏柑の木がありますけど。今のそれもうちの木のやつです」とぼそっとつぶやく。久里子はそのか細い遠慮がちの提案を聞き逃さなかった。

「あのキンモクセイの横にあった夏みかんの木まだあるのかい?」と久里子。

「よくご存じで」と言いながら、内心、『本当にご近所さんだったんだな』と感心する山崎。


「あれなら良いのができるよ。ありがとう。すぐ冷凍したいのでいただけますか」と久里子は座り正して礼を述べる。


「いやいや。そんな、いつもそのままほとんどを食べずに捨てちゃうことが多いんで、鳥の餌になってます」と逆に恐縮して座り直す山崎。


 分けてもらう申し出を入れた後で、久里子はふと目の前の夏みかんを見て、「……っていうより、今いただいたんだよねえ」と笑って手で口を覆う。そして「では靡助さんにお礼しときます」と久里子は付け足した。

「そうして下さい。やっと私がここにいる理由を見つけられました」と笑う。

 恐縮しまくりの山崎は祖父の名を借りてようやく肩の荷が下りた。それと同時にこの場にいる存在意義にたどり着けた気分だった。


「美瑠ちゃん、良い彼氏じゃないか。あんまり快活そうではないけど」と久里子。また上げては下げての褒め言葉である。


 ただし当の美瑠は「はっ?」と首をかしげる。

 美瑠の態度に申し訳なさを感じたのか、これには慌てて山崎が訂正に入る。

「いえいえ、私はついさっき知り合ったばっかりで、全く初対面なんですよ。こちらの女性二人とは」と繕った。


「ありゃ、これはとんだ勘違いを。お恥ずかしい。お許し下さい。もうおばあさんなので」と久里子は自分の頭をぽんぽんと軽く叩いた。


 そして再び山崎の方をむき直すと「では本当に行きがかり上お助けいただいた親切な人なんですね。ありがとうございます」と目を細めて久里子は心からの礼を述べた。


「素材も揃いそうだし、宵宮の前日にはこっちに戻ってくるので、準備しましょう。公民館の調理器具とか借りることできるのかしら」と美瑠。

「それは私がお願いしておくよ」と久里子。そして「それとね、それも良いんだけどさ、さっきからこっちのおでんが気になってしょうが無いんだよ」と子供のように待ち焦がれている久里子に一同は愛しさを感じていた。


 皆が笑いの渦や団欒のひとときに身を興じていると、おでんの話を久里子が始めて、それにまつわる身の上話や女学生時代の話に花が咲いた。おまけとして、山崎の理想の女性像の話が久里子はすこぶる面白かったようで、そこのあたりをしきりに訊きだしては、半分からかっていた。久しぶりに賑やかな夕べの風景がこの追分の屋敷にも帰ってきた。


  帰路

 夜十時を過ぎたころ、ちこの携帯電話が鳴る。

「あっ、ちょっと失礼します」


 そう言って彼女は席を外すと玄関の板間で電話を取る。それは迎えの夫の車が、追分の家の前に着いたという知らせであった。微かにだか、家の中からもアイドリング音が聞こえている。


 彼女は皆の前に戻ると、「残念ですが、主人が迎えに来たようですので、今日のところはひとまず帰ります。また近いうちにお直会の件であつまりましょう」とだけ言って荷物をまとめ始めた。その顔つきは一分でも長くこの家で語らっていたいのにといった表情にも見える。


 すると部屋の奥にいた美瑠が彼女のそばまで近づき「この再会を大切にしたいね」と固く両手を握りしめた。

「嬉しかったわ」とその温かさに応えるちこ。

 そこに久里子もゆっくりと近付いてきて、二人に寄り添い「また会えるんだよねえ?」と笑う。


 その確認にごく当たり前のように「勿論です。またおでん持ってきますね」と笑顔を向けるちこ。

「ありがとう。楽しみにしているよ」

 その言葉を聞いて、ちこは嬉しそうに久里子を見つめた。

 外で待たされている事情をあまり分かっていない待ちぼうけの夫が、合図する。外で「プッ」とクラクションが軽く聞こえる。それを気にとめてか、ちこは皆に挨拶した。

「では名残惜しいのですが、今夜はここで失礼します。皆さんまたお目にかかりましょう」と一礼をして去って行った。


 他の人たちも時間を見て。そろそろ潮時と感じたのも事実であった。

「あの」と美瑠は、山崎の前に来ると、「もしお手間でなければ帰り長籐まで乗せていってもらえますか」と訊ねる。

 山崎は「ああ、ご実家に泊まるのでなければそのつもりでいましたよ」と気楽に答えた。

「ありがとうございます。助かります」

 そう言って帰路の心配に難儀無くいられることになった美瑠は、少し気持ちが楽になった。


 立ち上がり玄関に向かおうとした夏夫と晴海。その姿を見て思い出したよう久里子は「夏夫、ちょっと待っていておくれ」といって足を止めさせる。久里子は台所に行って新聞紙にくるまった何かを持ってきた。

「秋助さんと冬美さんにこれを持って行っておくれ」と久里子はその新聞紙を夏夫に渡した。祖父と祖母へのお裾分けのようだ。少しひんやりとするビニール袋が中にある。その包みを受け取ると「なにこれ?」と訊ねる。


「ぬかどこのぬか。ぬかわけさあ。前にふたりに頼まれていてね。うちのぬかは夏みかんが入っているので、さわやかな味で美味しい、って言ってくれていたんで、機会があったら分けてやろうと思っていたのさ。遅くなっちゃったけど。よろしく伝えてよ」


「うわ、あのほのかな夏みかんの香りの漬け物って追分のばあちゃんが作っていたのか。たまに食べてた。美味しかったよねえ。きっとあとでじいちゃん、米持ってお礼に来るよ」と笑う夏夫。


「おや、美味しかったかね。ありがとう。もしお返しが来るようなら、何もいらない、って伝えておくれよ。もう引っ越しが近いので荷物増えると困るから」と笑う。


「さあ、じいちゃんたちの世代にそれ通用するかな? じゃあ引っ越し先に送るよ、って言いそう」と返す。

「確かに」と頷くと、久里子は「じゃあ、みんな気をつけて帰っておくれよ。今日は本当に楽しかった。また会おうねえ」と玄関先で皆を見送った。


 山崎は美瑠を助手席に乗せると車を走らせる。表通りまでは少々細い道を丁寧にゆっくりと動かしていく。

「この辺田舎道だから、大変でしょう」と美瑠。

「相南市も大して変わらないですよ」と山崎。

 ようやく幹線道路にで出て、余裕が出る。夜の道路を照らすオレンジ色の街路灯が定間隔でフロントガラスを流れていく。車の流れは順調だ。

「今日のこの大きな出来事のおさらいしても良いですか?」と美瑠。

「ご託宣?」と山崎。

「はい。他に訊くことができそうな人見当たらないので……」と笑う。

「そうだね」と言ってから少し間を置いて、「言ったら馬鹿扱いされるかも……」と続けた。

「ええ。……なのでそう思われない人に今相談してます」


 彼女は背筋を伸ばして一旦、深呼吸をすると山崎に思いの丈を打ち明けた。

「今回の時空の歪みや写真によるメッセージなど、一連のことについて、山崎さんが分かっていることを全て教えてくれませんか? 私的な解釈でかまいません」と美瑠。経験者の所見を頭に入れておきたいと考えたのである。

「うん……」と軽い返事の後で山崎はフロントガラスを見ながら話し始めた。


「おばあちゃんとも会って、状況を聞いて、今回必要とされた人や物を総合的に考えてみると、今回は日月町の氏神さまが動いて欲しいと思ったんじゃないかな。あのお宮さんにゆかりの人々が一堂に会した。長年例大祭の陰の功労をしてくれていた追分のおばあちゃんの願い、ふたりと会いたかったという願いを聞くことがまず第一。そしておばあちゃんがずっと続けてきてくれたお直会の用意をしてくれる人がいなくなっちゃうことへの寂しさがもうひとつ。それはそのお直会を小さな伝統として受け継いでくれる人が欲しかったことでもある。お祭りを絶やさないためにも、どんな役回りでも良いので、多くの人があの場所に集まってくれたら良いと思って、我々をお呼びになったと考えているんだけどね。いわばシンプルな意味での、実体感のある形而上的な現象ともいえるかな。ちなみに桜台の我が家の氏神さまも同じ神さまをおまつりしている。だから託宣経験者だった私や晴海ちゃんも呼ばれたのかもね。そして一番の主役を呼び出すために、あなた方ふたりを私の店に自然と来るようにシナリオが実行されたというのはどうかな? あまり詮索しないで、そう考えるのが素直な解釈かなと思っています」


 言い終えたとき、赤信号で車を止める山崎。ふと横を見ると、車内の薄明かりの中で彼女がかすかに涙を流しているのが分かる。

「ごめん。変なこと言ったかな?」

「ちがうんです。嬉しいんです」

「えっ?」


 あまり美瑠の事を知らないと言うこともあるが、山崎はそのストレートな感情表現に驚いた。


「ちこちゃんと私、二十年ぶりで、しかも落とし物を拾ってあげての偶然の再会でした。……きっと、ふたりが再会するのを手助けしてくれたのもそうなんでしょうね」と涙を拭いながら微笑む。それは、彼女が素直で飾りっ気のない素朴な感受性を兼ね備えた性格であることを意味していた。異性や年長者から良く思われたくて、そういう振りをするこの年頃の女性は多くいるが、そういった点取り虫な、上っ面だけの素直さではないことが、彼にはすぐに分かった。


 山崎は彼女の話に頷くと、

「そう素直に考えることができるあなただから選ばれたんですよ。きっとむこうの彼女もそういう綺麗な心の持ち主なんでしょう。そんなふたりに再びお祭りに来て欲しかったのは、おばあちゃんだけじゃなくて、あの木々のなかで地域を守る神さまなのかも知れませんね」と彼女が選ばれた理由の自信を深めた。


「その証拠にあなたたちは迷い人になることなく、ちゃんと全てを実行して、答えを導き出しました。ほとんど私たちの助けはいりませんでした。自ずと答えを導き出して、手土産さえも写真に示されたものを持参して。……合格だったんですよ。全てが」


 そう静かに言い終えると再び山崎は車を走らせる。

 道路に流れるセンターラインが等間隔のリズムで刻むのを瞳に映しながら、再び美瑠が言う。


「再会だけで無く、マスターを含め、いい人たちに出会えました」

 彼女はそう言った後で、彼を信用したのだろう。押し出すように、自然と心の奥に秘めていた思いを素直に吐露し始めた。


「去年、私、音楽教室の先生を人数整理でやめました。トップの考えるように教室展開が運ばなかったようで ……。現場から見れば、理不尽な人選だったようにも思えましたが、最終的に納得せざるを得ませんでした。私たちは会社員ではないですしね。それを不憫に思った優しい職場の上司、エリアマネージャーが、グループ内にあった楽器販売部門に話をつけてくれたんです。もともとホールでの演奏会なんかもたまにやっていたので演奏もやれると踏んでくれて。講師ではないけど、電子ピアノを楽器店で弾いて、お客さんのご要望やお話をおうかがいする仕事でした。マネージャーとつきあいの古い、仲の良いお店にデモ演奏者の職を一店舗だけくれたんです。そしたら、たまたまそれを見に来た近隣店舗のスタッフの人たちがいたようで、その人たちのお店にもという依頼のもと、オファーが増えて訪問店舗も増えて何とか生活できるようになって……」


 わなわなと小さく震える美瑠のその小さな身体は、努力と素直さで出来ているようだった。少なくとも山崎にはそう感じた筈である。その事実は自然と応援の言葉を生む。


「大丈夫。きっと全てをご覧になっていますよ。あの小高い丘の上にいらっしゃる方は……」


 山崎には彼女の言いたいことはすぐにピンときた。そしてしばらく沈黙して言葉を探していた。



 人は自分の力ではどうにもならない窮地がふいに訪れるときがある。避けられないアクシデントだ。特に彼女は調子の良い口先だけのタイプではない。彼女のような小利口に振る舞えないタイプの人は、目先のアクシデントを避けきれない人が多い。ごまかしの出来ないタイプのことだ。


 若いときはそういった性質を見極める力が乏しいこともあって見えづらい。どうしても調子のよい人や口の立つ人が集団の中では良い思いをすることが多い。


 ところが年月を経て、経験を積んだことで大人の眼鏡を手に入れると、その視点は大きく変わる。大きなスパンで考えたとき、小利口に口先だけで世渡りをした者は、その場限りの場当たり的で、稚拙な対処しか身についていないことが多い。真摯に物事を受け止めず、人のせいにして回避をしてきたために、社会通念や心情の学習をしていないからだ。


 一方で、いつも損ばかりしたり、逆境の苦難からの立ち直れずにいたりするような、一見不器用に見える美瑠のようなタイプには真の強さが身につく。痛みが分かるからこその誠実さ、思いやり、優しさを持った者になれる。そしてそういった人が、人の上に立ち、時を支配していける人になる。延いては優しさや思いやりが社会を支配する。


 だから逆境に生きている人たちは、なにも落ち込むことはない。ほんの一時、今だけ損しているように見えるだけだ。時が経てば基準も勝手に変わる。それが包括的な意味で道徳観を損ねていなければ、逆境の人々の名誉は自然に回復される。さきわい、つまり幸せは皆に同じだけあるはずと言うのが彼ら、暦人たちの考えである。


 一呼吸して山崎はぽつりと呟く。

「人をだまして、失敗をなすりつけて会社に残った人と、謙虚な気持ちで会社を去った人の人生を秤に掛けたとき、形而上けいじじょうの天秤はどのような傾き方をするのでしょうね。それが分かっているから時神さまはあなたを選んだ。違うかな?」


 山崎は言い終えるとちらりと横を見て、含みのある優しい笑顔で彼女に問いかけた。この言葉は、文法的には問いかけなのだが、彼にとっては彼女への答えであった。勿論励ましの意味だ。


 そう考えれば、今彼女は幼少期にお世話になった人や地域のための無償の愛を計画している。時を経て、今ようやく実りつつある、彼女の経験してきた小さな不憫が、幸福への道標となる瞬間だ。


 彼のその言葉に美瑠は瞳を潤ませながら何も答えなかった。ただ頷くだけだ。

 彼はそれ以上の言葉を無用と思ったのか、無言のままハンドルを握っていた。


 国道四六七号線は町山田市民の海水浴道路と言う人がいる。言葉通り、多摩急江ノ島線と併走して海まで続いているからだ。その途中、相南桜台地区にふたりの家はある

 車は相南市と書かれた行政区を示す看板を越えて相南に入った。彼女のアパートも近くなり山崎は、

「どこまでお送りしますか? 家の手前まで行かない方が良いかな? 女性一人だし」と切り出す。


 彼女は笑うと「大丈夫。信用できる方ですから」と返した。そして「じゃあその郵便ポストを右に曲がったあたりで」と言う。

「わかりました」といってハンドルを切るとハザードを点滅させて車を寄せる。


 停車した車を降りると、彼女は「本当にありがとうございました。今度お直会を食べに来て下さいね。それとお店、また行きます」と言う。

「はい。お誘いお待ちしております。皆さんによろしくお伝え下さい。では」

 彼が了解して会釈をすると彼女はドアを閉めた。それを確認すると山崎は車を出して自宅へと向かった。今彼にとっても、長く大きな一日がようやく終わろうとしていた。


   回想

 木造モルタルの白壁。ひと棟の部屋数は四部屋。一階と二階がともに二部屋の配置である。洋風の切り妻屋根が階段部分に施されたそのアパートの二階の一部屋が彼女の部屋だ。階段は両脇に付いており、各部屋それぞれ専用のものだ。間取りは1LDK。一人なら十分な広さである。あれだけの行動をしたのになぜかそれほど疲れてはおらず、一歩一歩軽い足取りで階段を上る。


 彼女は鍵を開けると脱いだ靴を玄関で揃えた。手を洗い、ケトルをコンロにかけるとお茶の用意をする。その作業をしながらも、今日一日、いや半日の不思議な体験が彼女の脳裏を走馬燈のように駆け巡っている。


『追分のおばあちゃん、夏夫君、ちこちゃん』

 幼少期から思春期時代の知人である。

『晴海ちゃん、山崎さん』


 こちらは全くの新しい知人である。――にも関わらず、彼らは美瑠の記憶のなかで、すでに古い友人のような感覚で存在しているのだ。昔何処かで一緒の時間を過ごしていたような記憶である。不思議なことだ。明らかにそんなことはあり得ないのに。

「既視感の一種かな?」


 独り言で結論を出した後、音が鳴るケトルに慌ててコンロの火をとめた。

 彼女はトポトポとマグカップにお湯を注ぐと紅茶のティーバッグをそこに落とした。お気に入りのフレーバーティーである。そしてそこそこ色が付いたのを確認すると、それを取り出す。マグカップを持ってリビングテーブルへと移動した。


 コトンとカップを置いて、髪をほどくと、彼女は椅子に座って湯気を見つめながら頬杖をつく。

「いいなあ……」

 無意識に出た言葉である。


 彼女は山崎や夏夫たちの交友関係に憧憬の念を抱いていた。信頼できる仲間。彼女がずっと追い求めていたものだ。気軽さと信頼関係を兼ね備えたステキな仲間関係がそこにはあった。


 引っ込み思案と辛抱強さを兼ね備えている彼女にとって、気軽な、フランクにつきあえる仲間はずっと憧れだった。そういう仲間内の関係の人たちの横で、指をくわえてうらやましがっていた頃があった。そんな人間関係に憧れながらとうとう手にできずに終わってしまった青春時代。自分から分け入る勇気が無かったからだ。


 しかしだからといって、そういった類の人間関係は欲しいと思っても、そうそうすぐに手に入るものではない。タイミングの問題もあり、交友を繰り返すうちに、着実に構築されていくものだ。交友関係に既製品は存在しない。それぞれ全てが手作りの、オリジナルなのである。


「それとも忘れかけていた恋心?」


 生活に追われて、もうすぐ三十歳近い彼女。今風に言えば立派にアラサーである。心の通い合う異性の話し相手の一人くらい欲しいものだ。彼女の中でこの日からひとり問答が始まった。恋する女性はその人自身を美しくしていくものである。きっと彼女のいまの顔も以前より数段魅力的になっているに違いない。


 お茶を一口含んで再びカップをテーブルに置いた。ため息をついてはそれを繰り返す。


「山崎さんって、好きな人いるのかな?」


 紅茶を含みながら、あれこれと考えた末、ふと一人呟く美瑠。やがて立ち上がると、窓際まで行ってカーテンの隙間からそっと外を覗く。


 いつのまにか空梅雨だった町に小雨が降り出していた。雨の香りが窓辺の彼女にも感じられる。街路樹にあたる雨粒がみどりの香りを作り出す。それに誘われるように雨と若葉の香りが一緒に漂っている。穏やかな雨の夜だ。


 そして彼の消えていった道をぼんやりと見つめている美瑠。しばらく感じたことのない忘れかけていた心地よい気分だ。そしてその道は静寂に包まれ、街灯のオレンジ色が濡れたアスファルト舗装の路面に落ちて、鏡のように映って見えていた。


 エピローグ

 九月の初旬、海水浴帰りの客ももういなくなる頃、相南桜台の山崎の店には新しいメニューが増えていた。コーヒーとトーストぐらいしか出さなかったこの店で、美瑠がヨーロピアン・スイーツのメニューを手伝って創作してくれたのだ。お菓子作り教室の成果がここで発揮されたことになる。


 ただしメニュー帳には「月木土限定メニュー」とある。

「なんでベルギーのフルーツワッフルは月木土しか提供しないのよ?」

 常連客の井村泰典が不満そうに山崎に問う。悲しさといらだちが同居したような、往生際の悪い言い方である。山崎を前に、どうやらさっきから軽く食いつているようだ。


「答えは簡単。美瑠ちゃんしか作れないからですよ。残念ですね」と山崎が笑う。端から井村の意見を相手にしていないのは勿論なのだが、ある意味ではそれを通り越している。そもそも自分の店のメニューであるスイーツなのに、ほとんど他人事のように言う。珍しい店主である。


「えっ? マスター作れないの?」と衝撃の事実を知らされても諦めきれない様子の井村。まだ信じていない風だ。彼はてっきり山崎が考案したメニューと思いこんでいたから、気持ちの切り替えがそうやすやすと出来ない。


 常連客の皆が知っての通り、文章と写真以外に取り柄など無い男だ。彼もつきあいが長いのだから分かりそうなものである。そもそも何の疑いもなく、山崎に高度なお菓子作りを期待している彼も彼である。


 ただ彼からしてみれば、先日食べた、この店には似つかないほど美味だったあの味が忘れられなくて、わざわざ寄ったのだから自然とそうなる。なんとか食べて帰りたかったのだ。


「はい。作れません。仕込みも出来ませんし知りません」

 当然のように、きっぱりと言い切る山崎。夢を壊された感がある井村。

 山崎のその威風堂々とした言い方に男っぷりなど感じる筈もなく、井村はあんぐりと口を開けてあきれ顔だ。いや食べられないと分かった事での残念顔とも言える。


 そもそも写真ギャラリーでお茶が飲めればと言う発想で始まったこのお店に、そんな「玄人はだし」を地で行くメニューがあること自体が不思議なのだ。他の常連はおそらくそう思う人が多いだろう。山崎自身もそう思っている。


 それ以前は飲み物以外で出せるメニューと言ったら、バタートーストとアイスクリームだけである。切り込みを入れた厚切り食パンを焼いて、バターと缶詰の小倉あんを添えるだけのトーストと、小皿に載せてミントを添えれば終わりのアイスクリームだけだ。たまに裏メニューでホットケーキミックスの粉で作るカップケーキやホットケーキくらいは出した経験があるが、基本あくまで数回程度である。もちろんお金を取れるような代物ではないため無料で振る舞った。


 井村のリクエストしているのは、季節のフルーツを添えた格子模様のワッフル生地に、少量のホイップクリームとメイプルシロップを中央にかけて、熱々おなべからおろしたてのレモン色した柔らかめのカスタードクリームで生地の半分が隠れるほど浸してあげる。仕上げはお手製のラズベリージャムをたっぷりと脇に添えて、彩りをよくする美瑠特製のヨーロピアンスイーツだ。


「覚える気は?」

 一応念のため訊いてみる井村。かなりあきらめが悪い。

「全くない」とやはりきっぱり言い切る山崎。


「おいおい」とあきれ顔の井村は続けて、「こりゃ、だめだ。また土曜日にでも来るよ」と席を立つ。ようやく心底理解してあきらめが付いたのだ。


 そして「じゃあ、コーヒー代、ここに置いて帰るから。ごっそさん」と言って肩を落としながら扉を開けて出て行った。愛しい食事にありつけなかった寂しさが、背中に表情として出ている後ろ姿。

「まいどです。ありがとうございます」と、とぼけ顔で山崎は後ろ姿に礼をいうとキッチン内の椅子に腰掛けてひと息ついた。自分のためにコーヒーを入れようと思ったのだ。


 彼がソーサーにカップを載せた時、カランカランと入口の扉についている金属製の鳴子が鳴った。扉が開き、蝉の鳴き声と喧噪が一時だけ店内に響く。


「こんにちは」と美瑠が紙袋を下げて入ってきた。まだまだ外は暑いためサンダル履きである。仕事が休みなのか、美瑠にしては珍しいカジュアルな余所行きの格好だ。麦わら帽子に、動きやすそうな薄手のV字ネックのワンピースを着ている。しかもみかん色である。


「いらっしゃい」と山崎は立ち上がる。そして彼女の顔を見て、『一瞬遅かった。井村さん残念』と心中呟いた。

 その意味ありげな顔に美瑠は「何ですか?」と山崎に訊ねる。


 山崎はあわてて「いえ、何でもありません」と顔を背けた。

 美瑠は何事もなかったように、荷物をキッチンに置くと「外は夏ですねえ」と言ってカウンターにあった団扇を使って扇ぎだした。


 彼女の額には汗がほとばしっている。外はかなりの気温のようだ。

「まだまだ夏ですね」と加える美瑠に、「先日はお祭りのときのお直会、ごちそうさまでした」と切り出して頭を下げる山崎。町山田のお祭りの時のお直会のお礼である。


「いいえ。お粗末様でした」と下げ返す美瑠。クーラーの送風口の真下に移動すると髪をかき上げて首筋に風を送り始めた。そんな暑い日にわざわざ職場まで何しにきたのか。山崎でなくとも不思議に思うものだ。


「おばあちゃんとは連絡先の交換できたの?」

「はい。伊豆の住所もいただきました。『温泉に行きながら会えるね』って、ちこちゃんとも言っていたんです」

「よかった」

 これであの追分の家で約束したことはおおかた実行できたことになる。

「それでね。来年からは私とちこちゃんでお直会のお世話しようということになりました」

「それはいいことです」

 前向きな行動力に賞賛をおくる山崎。


「つきましては、来年も夏みかんを頂戴していいですか」とお願いの美瑠に二つ返事で、「どうぞ、どうぞ、好きなだけ持って行って下さい」と快諾の山崎。久里子のつくる砂糖漬け菓子に不可欠な、地場産の甘夏の確保の依頼である。


 ぺこりとお礼のお辞儀する美瑠に、

「ところで今日のご用件はそのことですか? 今日はスイーツの日ではないですし……」と山崎。

 電話でも十分足りる簡単な用件に、わざわざ彼女が出向いて来たのが少し気になった。


「今日は暇な時間があるのでマスターをからかいがてら問答しに来ました」と美瑠。心なしか顔はジョークめいた表情だ。その裏で照れ隠しのようにも見えるのだが……。

「うら若きお嬢さんが休日暇があって来るような場所ではないでしょう。もっとおしゃれなスポットにでも行って下さい」


 彼は入れかけの用意していたコーヒーのカップをソーサーに載せると、自分が飲むのをあきらめて彼女にそのまま出してあげる。

「いいえ。問答の方が楽しそうですから」と美瑠は差し出されたコーヒーに会釈をしてから意地悪顔で言った。端から見るとこういうのを物好きと呼ぶ。


 山崎は美瑠の言う「問答」という言葉が「文句」を意味していると解釈しているため、少し構えている。怪訝な表情も少し混じってひきつった微笑みだ。


「なんでしょう。お手柔らかに」と山崎。もみ手をしていないのが不思議なくらいのへりくだった口調だ。


「質問します」と美瑠。

「はい」

 そう言って固唾をのむ山崎。

「なぜ車はMR2なんですか?」

 その質問は山崎の心中で『へっ?』という台詞を生んだ。もっと鋭く尖った質問を覚悟していたからである。

 構えていた気持ちが、がくっと拍子抜けした。彼は再び心の中で『なんなんだその質問』と、訳の分からないどうでも良い質問に答える気すら失せそうになった。


 一般的に答えるなら答えはそう多くない。考えつきそうなレベルだ。好きだから手に入れる。手頃な値段だから買う。乗りやすいから乗る。次が買えないから乗っている。選択肢は訊くまでもなくそんな程度だ。


「別に意味はありませんが、一五〇〇という排気量で普通車並み、重量も軽くて重量税がお得というのが大きいですね。へたをすれば中級クラス以上の普通車の方が排気量大きいのが多いんじゃないかな。あとは晴海ちゃんちがトヨタ二〇〇〇GT乗っているので羨ましいけど、私には維持できないので手頃なやつでという意味もある。ちなみにあの車種は町山田で設計された車なんですけどね」


 一般論を避けて、きちんと彼個人の思いや理由を的確に彼女に答えてやる。

「へえ。じゃあ先日は里帰りしたと」

「実際に作られたのは工場だからその言い回しは少し微妙」と腕組みして首を傾げてみせる。彼の脳裏には『何のこっちゃ』という台詞が流れた。


 そして「……でこれでいいですか? 質問の答えは」と話を戻す山崎。その会話の裏で『一体何なんだ? この質問は……』とやはり首を傾げている。わざわざ時間を作ってここまで来て、問答をするような内容では無いと思ったのだ。


 そんな山崎の質問に追い打ちをかけるように、更に不思議な質問が飛んでくる。

「なるほど。じゃあ乗り換え時期が来たら同等の普通車になりますか?」


「そうですね。メンテもそろそろ大変になってきた車種ではありますが、今のあれはチューンアップもされていない希少価値のある改造歴なしのプレーンな状態のものなんです。あちこち探し回って、やっとの思いで手に入れた経緯があるので、まだあと少しは乗りたいです。もし変えるのであれば軽のスポーティカー、エコカーなども考えます。まあ予算との相談もあるし……」と言う。


 ひと息入れて、「まあ、それが一番大きいかと……。なにせ特別儲かっているお店ではありませんので」とその無意味にも思える質問に再び真面目に答える。


 しかも遠慮がちに、婉曲的な意味で「貧乏」というカミングアウトをしなければならない自分に気後れする山崎。たいしたことの無い店なのは十重に承知していた筈なのだが、いざ自分であらためて言ってみると、我ながら情けない気分だ。意外にも惨めな気分がしてたじろぎ始めた。そういう意味では遊ばれている感は否めない。


「正直にお答えいただきありがとうございます」と言った後、彼女は小声で「まあ、私が普通車買えば良いのか……」とぼそっと呟く。勿論彼には何も聞こえていない。


「はあ」と生返事の山崎。

 その声が聞こえてから美瑠は姿勢を正して、咳払いを一つ入れる。そして「では二つ目の質問です」と面接官のような顔つきで述べた。

「はい」という言葉とは裏腹に『まだあるのか』と思った山崎。


「一人が好きなんですか?」

 それを聞き届けると眉をぴくぴくとさせる山崎。次の質問も、彼には世間話に毛が生えたようなどうでも良い内容に思えた。端から見れば、こんな質問をするのは、見合い好きなおばちゃんのおせっかい話か、おじさんをおちょくりにきている若い娘のように感じる質問であり、山崎自身もそろそろ美瑠を後者の類と感じ始めている。暇つぶしの世迷い言といった感じだろうか?


 仕方なくも真面目に答えるため、律儀な山崎は「どっちの意味でしょう? 独り者でいることが好きと言うことか、一人きりになって過ごす時間を大切にするということでしょうか」と理性的に訊き返す。


 それを受けて平然と美瑠は「どっちもです」と答える。

「では私もどっちもです」と小さいながらも抵抗して、負けじ魂の山崎 。


「ふーん」とそぞろ顔の美瑠。山崎の精一杯の虚勢をはった台詞に関心もない様子で頷く。そしてさっさと自分の関心事に話題を戻し、

「以前追分の家で恋愛や出会いに縁が無いのでみたいなことおっしゃっていましたよね?」と加える。


 結婚相談所や近所のお見合いを仕切ることを生きがいにしているやり手のおばさんのような美瑠の言葉である。


 眼鏡を押し上げて位置を正すと、山崎は「ええ。でも自分の名誉のために言っておくと、昔はそこそこご縁あったんですよ。あくまでそこそこですが。まあだからその……ただ最初のほうの『独り者でいるのが好き』は少々負け惜しみも入っていますし、あきらめも入っていますよ」と答えた。


 彼は内心『嫌なこと訊く子だな』と煙たく思っている。このおじさん、なんというか正直者で謙虚なところだけが取り柄の生き物である。そのため、少々意地悪に思える質問にも、ちゃんと隠すことなく真正面で答えている。道義的には褒めるべき人物なのだが、世間一般ではこういうのを馬鹿と呼ぶ。つまり馬鹿正直ということだ。端折って適当にあしらったり、ごまかすと言うことが出来ない性質なのだ。


「そこそこねえ……。本当ですか? まあ、とびきり格好良いというわけではないですが、まあまあですよね」と横目で流す美瑠。その瞳は興味津々な光を放っている。好奇心旺盛な子どものように。


 ところがその光は、山崎にはネガティブなように映った。内心馬鹿にされたような気もしたが、胸に納めた。ムキになってもしかたがないからだ。

 彼は分かっていないが、上から目線の彼女の言葉は決して彼を見下す姿勢から来ているものではなかった。その理由は簡単である。彼女の恋心を悟られないための偏ったフェイクである。


 そしてこの彼の謙虚な発言。こういった「馬鹿正直」を「誠実」と解釈してくれる人も世の中には存在する。端から見れば「勘違い」と呼ぶにふさわしい現象だ。換言すると「物好き」ともいう。実はそんな瞬間は誰でも出くわすし、誰でも経験する。一般にはそれを恋と呼ぶ。その勘違いを今実行する物好きがいる。その偉大な人物が美瑠であった。


「でも正直でよろしい。正直者は得をする」と彼に言った。

「損をするの間違いですよ」と山崎。

 加えて「その証拠に良い思いなど一度もしたことありません」と笑う。少々卑屈になっての笑顔だ。

 仕切り直しの美瑠は「最後の質問です」と告げる。


『ようやくこの変な質問から開放される』と思い、山崎は安堵した。

「その追分の家での会話の時、植田正治うえだしょうじさんのような生活がいいなとも言っていましたが本当ですか?」と美瑠は訊ねる。


 植田正治は著名な写真家である。フランスの美術館にも永久所蔵されている作品を生み、モノクロームの独特な世界観を見せる植田調(海外ではUEDA-CHOと日本語のままで書く)とよばれる写真作品のテイストを生み出した事で知られている。


「ああ、あれね。半分ジョークで言ったやつね。奥さんにお店を託して撮影三昧ってやつでしょう。もちろん植田正治さんはそれ以外のところでちゃんとした生活をしていらしたと思いますけど、彼自身が茶目っ気でお答えになったときに発した言葉だと思います。だからもちろんその言葉だけをとらえて、それに乗っかっての願望ですよ」と笑う。


「その植田正治さんのお話はここでは置いておいて下さい。例えばあと一、二ヶ月で紅葉の季節です。そのときお店をあずかってあげるから、一週間くらい撮影に行けたら嬉しいですかという話です」


「本当に? 嬉しい」と山崎。そこから先の彼の感情移入は、美瑠が想像するよりも、すこぶるはやいものだった。趣旨が撮影と分かれば彼の思考回路はそれまでの数倍の速さである。ターボエンジン全開の自動車のようだ。人の話など耳に入らないくらいだ。


「もう約束ですよ。あとで言ってないは無しですからね」とわかりやすい上機嫌のニコニコ笑顔で、一目散にカレンダーの前に移動して日程を確認し始めた。そして最後に「正直者は得をする。得をする」と楽しそうに鼻歌交じりで加えた。


 彼女は慌てて彼を制止しようとしたが、時すでに遅し。

「ああ、ちょっと、話はまだ終わっていないのに……」

 そう呟いた美瑠は、呆気にとられ、左手で宙を半分掴んだままの姿勢で固まっている。

 彼女のその言葉はすでに彼には届いていない。この時、美瑠は例えとそれを誘導する言葉と段取りを間違えたことをはっきりと自覚した。


 思い通りの会話の誘導も進行も不可能になってしまった美瑠が言いたかったのは、『恋人や奥さんがいればそういう生活も可能です。その役目私が引き受けましょうか?』というのが、彼女の頭の中で作り上げていたシナリオだった。


 そう、今日この場での一大告白、大イベントを予定していたのだ。ところが山崎には『キッチンをあずかるスタッフとして代休あげるから撮影に行っておいで』と解釈されている。

 彼女は苦虫を噛みつぶしたような顔でカウンターに頬杖ついている。端的に言えば渋い顔。ふてくされたのだ。


「段取り間違えた。私って表現力無いなあ。もっと国語の勉強しておくんだった」とぽつりと呟いた。


 その横で山崎はいつもより皿拭きに精を出している。しかも待機中に、車中で暖をとるために必要な毛布のカタログなどを横に置いて眺めている。目の輝きが違っていた。


「まあ、今日のところはいいか。嬉しそうな気分を害したらかわいそうだわ。彼氏彼女の件は時間をかけてゆっくり気持ち伝えていこう。そしたら分かってもらえるだろうし。別にライバルがいるわけでもないんだから」と独りごちる。それは段取りを間違えた自分への言い訳のようにも思えた。


 彼女が見上げた窓の外の青空。まだ暑い外気とは対照的に高い秋の雲がゆっくりと現れ始めていた。不思議な体験もまるで夢幻のごとくそのかけらすらないこの生活。あとはこの目の前の鈍感な写真好きのお馬鹿さんに、どう自分の気持ちを伝えるかだけが、彼女のやり残した夏休みの宿題のように思えた。


                 了

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