三章(四)

 家に着くと、エプロンを着て母は待っていた。昨日とは、違い笑っていた。

「おかえり、ご飯にしようか。」

「うん、お腹空いた。」

 自室へ行き、制服からカレーの匂いが残る部屋着に着替えた。キッチンからは、その匂いがより強く香ってきた。

「夕飯ありがとうね。今、温め直してるから、座ってなさい」

「うん」

 どうぞ、といい母は私の前に皿を置いた。

「美味しい。ほうれん草も合うのね。今度私も作ってみようかしら。」

「ありがとう」

 私も一口食べた。普通のものより深みのある味だった。

「今日は、何があったの?」

「普通の学校だよ。昼までだったけど。」

 そのことでは無いのは知っていたが、私はとぼけた。

「そのことじゃないよ。」

 母は、愛嬌のある笑顔を私に向けた。

「まぁ、ちょっとね。」

「大体、知ってるよ。お母さんをなめては駄目よ。」

「え?」

「保健室の先生から聞いたのよ、清水さんだったけ。保護者説明会が終わった後、私をわざわざ見つけて教えてくれたよ。」

 清水さんがなぜ母のことを知っているのだろう。

「なんでっていう顔してるね。友達のお見舞いに行ったんでしょう?」

「まぁ、うん。」

 さすがに自殺をした生徒、しかも村雨繁のお見舞いだとは言ってないようだ。 「あなたが来たこと喜んでくれた?」

「うーん、どうだろうね。」

「あら。」

「熟睡してたから。起こすのも悪いから、その子のお母さんと少し話したよ。」 「そう。」

 母は、カレーを一口頬張った。

「私は、答えたよ。お母さんは何で清水さんを知ってるの?」

「入学式のときにね、少し。」

「少し?」

「そんなに、怖い顔をしないで。あなたが心配だったから、一応話をしておいたの。お父さんのこととかをね。」

 「とか」と、ぼかしてはいるが、父のことのみだろう。

「私もね、たまに急に涙がでることがあるの。今でも、玄関の戸が開いて「ただいま」という声が玄関から聞こえるんじゃないかなと思うときもあるしね。」

〝強いと思っていた母が、すでに乗り越えたと思っていた母が〟と私は驚いた。 「お母さんも?」

「〝も〟?」

 母は意地悪そうな笑みを浮かべた。

「当然じゃない。あんなこと体験できる人間なんてそうそういないと思うよ。だから、強くなって乗り越えようとかなんてことは無理だと私は思うことにしたの。」   

 私は、強くなろう、乗り越えた先には何かあると思っていた。

「無理って?」

「無理よ、言葉の通り。あんなことを体験した子あなたの周りにいる?」

「いないけど…」

「そう、私たちはある意味で貴重な体験をしたの。あのおばあちゃんも驚いていたんだから尚更ね。」

 貴重な体験、私はそう反芻した。

「じゃあ、乗り越えなくていいの?」

「ええ」

 彼女はゆっくりと静かにうなずいた。

「大切な思い出を忘れずに、その中にいるお父さんの姿や声を心の中に秘めて、生きていけばいいの。」

「泣きたくなったら?」

「泣けばいいの。泣いて、また思い出してを繰り返せばいいの。そうすれば絶対に忘れないでしょう。お母さんもいるからね、あのことを思い出しちゃったって言えば一緒に泣いてあげるよ。」

 母はあでやかに笑った。

「それにね、乗り越えてどうするの?その先に何かあるの?」

 心の中を見透かされているかのようだ。悟ったように私に聞いた。

「私は、何もないと思う。そして、そのことに気付いたときには虚無感を感じてしまうと思う。それにね、乗り越えようとしてもがいている恵の姿をお父さんは見たいかしら。自分を見失いそうになってる姿を見たいかしら。私は見たくないと思うよ。」 「でも、お母さんはあのとき、強くなるって言ってたじゃない。」

「それは、私は大人であなたの親だから。それも唯一の親となることを痛感したから。人間として親として、母子家庭になることで、これからあなたに降りかかる苦難を私が受け止めないといけないからね。」

「じゃあ、私はどうすればいいの?お母さんだけが苦難を受け止めてるのに。」 「それは、当たり前よ。親なんだから。」

「親ってだけで?」

「違うよ。親になることでその役目を得るんだよ。それが親になるってことだよ。子どもを産むことで親になるんじゃないの。その役目を全うすることで親になれるの。」

「そうなんだ」

「恵も分かるときがくるかもね。」

 また、母は意地悪そうな笑みを浮かべ、私に向けた。

「私は何かできるの?」

 そうねといい、母は斜め上をみながら考えた。

「楽しい話を聞かせてくれればいいかな。学校でこんなことをしたとかね」 「それでいいの?」

「いいの、私が役目を全うしてるとも思えるし、単純にうれしいし楽しいからね。」 「そう…。じゃあ…、うん、そうする。」

「うん、そうして。」

「じゃあ、部活でも入ろうかな。」

「いいじゃない。」

 許可してくれるとは少し驚きだった。

「帰り遅くなるけどいいの?」

「正直に連絡してくれればいいよ。昨日みたいに嘘を言わずに。」

「ごめんなさい。」

 私は下を向き俯く。机には、空になったお皿が二つあった。

「はいはい、何の部活にするか決めたら教えてね。」

「うん」

「片付けようか。」

「コーヒー淹れるけど飲む?」

 片付けが終わり、テレビを見ていると母が聞いてきた。

「飲む」

「ケーキ買ったんだった、お皿とフォーク出して。あ、なら、紅茶の方がいいかな」 「なら私、紅茶がいい」

「私も紅茶にしようかしら」

 ケーキを食べながら、二人でたくさん話をした。 高校でできた私の友達のこと、高校での授業のこと、入る部活は運動部か文化部どちらにするかなど。 母と父のことも聞いた。

 お母さんは高校のとき吹奏楽部だったこと、お父さんは野球部だったことなど。私は、父と母が高校の同級生だったことを初めて知った。だから、通夜に来ていた五人の友人とも知り合いだったのかと合点がいった。他にも、父と母の高校時代の話や馴れ初めも聞いた。途中で涙をにじませながらも笑いながら話した。


 私はあの日から初めて心の底から笑えたような気がした。明日からは、積極的に動こう、母をたくさん喜ばせるために。そう心に決めた。




 「桂さんのお母さんからそんな話をね。」

 S駅のホームへのエスカレーターを昇りながら、清水から、桂恵の話を聞いた。   「ええ、そうね。」 彼女は、カバンからICカードを探しながら、答えた。

 二人で、一番早く高校の最寄り駅まで帰ることができる電車を電光掲示板で探し、三番線へ向かった。

「高校に帰ってから何をしようか。」

「今日のこと一旦整理しましょう。それから、教頭に出す資料を作りましょう。今日も保健室でいい?」

「いいよ、そういえばあの生徒は大丈夫だったのか」

「ええ、無事に親御さんへ引き渡したわ。」

 電車のヘッドライトが近づいて来た。二人の正面でドアが開き、乗り込んだ。出口に近い席に二人で並んで座った。

「原因は聞いてもいいの?」

「苦しかったんだって。自分もいつかああなっちゃうじゃないかって。彼女三年生だから。ほら、うちは進学校だし、三年生になったら学校全体で雰囲気作って焦らせるでしょ。模試も毎週のように受けるし、授業形態も変わっていく。 それに耐えられるか不安になったらしいよ。三年生の四月でこんななのに本番近くになったら私、どうなるんだろうって。」

「そうか。」

 昨日彼女がいっていたように、「ストレスを抱えちゃう子」は確かにいるようだ。

「なんで分かったんだ?」

「え?」

「ほら、昨日。」

「ああ。私、カウンセラーだからね、分かるよ。」

「そういうものなのか…。」

 俺は、高速で流れていく黒い街並みを後ろの窓からみながら呟いた。

「そんなことも分からないのに、俺は教師として、やっていけるのかな。明日からは彼らも登校してくるし、どんな顔して接すればいいのか。」

「そんなこともって、一応、私は院まで行って教育心理学の勉強したんだから。」  

 彼女は正面の窓に反射する俺の横顔を軽くにらんだ。

「教師としてとかは私には答えられないよ。」

「え?」

「私は、教壇に立つ教師じゃないし、生徒と一番近い位置で接することができる立場でもないからね。そういうとこで感じる不安は分からない。だから、「辞めたら?」とか「続けたら?」なんていう無責任ことも言えない。」

 彼女も後ろの窓に視線を移した。

「でも、この年代の生徒のことはあなたよりは理解しているつもり。さっきも言ったけど、院卒だしね。」

 彼女は含みを持たせた笑みを俺に向けた。

「昨日もいったけど、あなたはよくやってるよ。親御さんと正面から話して、今も生徒のことを考えている、きっと明日からも何とかなる。私はそう思うよ。」

「そうか…。」

「そうだよ。」

「院卒の清水がいうなら、間違いないな」

 彼女は「あ」と少し驚いたような声をあげた。そして、院卒だから小野寺は敬語使ってねと冗談っぽく笑った。


 最寄り駅に着いた。「降りようか」と彼女に一声かけ、開くドアから一緒に足を下ろした。俺は教師なんだ、憧れていた教師になったんだ、彼らを導く立場にあるんだと心の中で何度も繰り返した。

 過ぎていく電車のテールランプを見送り、俺たちは改札を出た。

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