2.田園駅の二人

 新宿駅から私鉄Oオー田急線の急行列車に乗って数十分、各駅停車に乗り換えてさらに十数分ほど行った所に、夢野という小さな町があります。

 ゴールデン・ウィークを間近に控えた四月下旬のある日、良く晴れた昼下がり、夢野駅のプラットホームに一人の青年と一人の少年がり立ちました。

 青年の方は、スラリとした細身の長身。

 灰色のソフト帽をかぶり、それよりも少し明るい灰色の背広スーツを身にまとっています。

 長く伸びた二本の脚を包むのは、折り目よくキッチリとアイロンの当たったズボン。その下にツヤツヤと輝くストレート・チップの黒革靴。

 頭の天辺てっぺんから足の先まで、身につけている物すべてが最高級の特注品だと一目ひとめで分かります。

 知的な雰囲気を漂わす美しい顔立ちは、差し込む光の具合によって大学の若き研究者のようにも、恋愛映画のスター俳優のようにも見えます。

 隣に立っている連れの少年も、顔立ちの良さは負けていません。こちらも中々なかなかかしこそうな、あかい頬の美少年です。

 同い年齢どしの少年たちと比べて、身長は少し高め。太り過ぎでも痩せすぎでもありません。

 薄茶色のハンチング帽に、紺色の背広。隣の青年と同様、良く磨かれた黒のストレート・チップを履いています。

 右手には黒い革製の書類かばん

 二人はゆっくりとホームの階段を昇り、渡り廊下を通って別の階段を降り、改札を抜けて、小ぢんまりとした木造駅舎の北口から外へ出ました。

 駅前は小さな広場になっていて、そのふちを囲むように小さな商店が並んでいます。駅から北に真っすぐ伸びる道の向こうには、多魔たま丘陵の深い森が見えました。

 今日は少しも風が吹いていません。昼の太陽が二人の体をポカポカと温めて良い気持ちです。

「やあ、本当に良い天気ですね」少年が言いました。

 言いながら空を見上げます。

 雲ひとつない澄んだ空です。

「もうすぐ初夏だなぁ」と、少年が続けて言うと、列車を降りてから今まで黙っていた青年が、はじめて口を開きました。

和戸わとくん、名探偵の格言をひとつ教えてやろう」

 少年は「はい。先生」と言いながら、青空から隣に立つ青年の顔へ視線を移しました。

 先生と呼ばれた青年もチラリと少年を見返します。「もしも君が、『もうすぐ初夏だ』と感じたのなら、もう既に初夏なのだよ」

「はぁ……」少年の顔が、すこし困惑したようになりました。

 青年は、その困惑顔を見て満足そうにニヤリと小さく笑い、それから駅前広場を見回しました。

「どうやら客待ちのタクシーは無いようだ。約束にはまだ充分にがあるし、散策がてら博士の御自宅まで歩いて行こうじゃないか」


 * * *


 ここで皆さんに、彼らの人物紹介をしておきましょう。

 背の高い美青年は、名を小悟しょうご智明ともあきと言います。

 年齢は二十六歳。

 職業は探偵。

 ただの私立探偵と思ったら大間違いです。

 そのたぐいまれな推理能力を買われ、全国に三百五十人しか居ない「特殊科学捜査人」(Special Science Investigator 略してエス・エス・アイ)の資格を与えられた、正に名探偵と呼ぶに相応ふさわしい人物なのです。

 特殊科学捜査人とは、高度な科学力を悪用する犯罪者に対抗し、その地下組織を撲滅するために設立された「警察庁特殊科学捜査局」(National Police Agency Special Science Investigator Bureau 略してエス・エス・アイ・ビー)が、並外れた能力の持ち主と認め、特別の権利と資格を与えた人々の事です。

 彼らは生業を持つ民間人でありながら捜査権と逮捕権を付与されています。

 ある時は当局から依頼を受け、またある時は自ら進んで犯罪捜査に協力するボラティアーなのです。

 小悟智明は、民間の探偵でありながら同時におおやけの特殊科学捜査人でもあるという、なんとも奇妙な二足の草鞋わらじを履く者として、知る人ぞ知る存在でした。

 もう一方の人物、隣に立つ少年は、和戸わと三吉さんきちという名です。

 年齢は十六歳。

 この春、中学校を卒業し、探偵助手として小悟智明探偵事務所に就職しました。

 いつか師と同じエス・エス・アイの資格を得て独立し、自分の私立探偵事務所を開きたいと夢見ていますが、今のところ持っている資格といえば、自動二輪・自動三輪・軽自動車の運転免許証くらいの物でした。


 * * *


 お話を、ふたたび四月下旬の良く晴れた日、Oオー田急沿線の夢野駅に戻しましょう。

 駅から北へ伸びる道を小悟智明探偵と探偵助手の和戸三吉少年がテクテク歩いています。

「ああ、そうだ和戸わとくん」と、小悟探偵が歩きながら少年に呼びかけました。

「はい、先生」

「今朝、エス・エス・アイ・ビーの本部から電話があってね。だいぶ前にスバル360を注文してあったのだが、とうとう、それが我が事務所にやって来るよ」

 先生の言葉に、三吉少年の顔がパッと明るくなりました。

 すでに自家用車を二台も持っている小悟先生が、今さら態々わざわざ360CCの軽自動車を乗り回すはずがない。

 つまりこれは、まだ十六歳で普通自動車を運転できない自分のために買ったのだと、三吉少年は推理しました。

「ほんとうですか?」と、少年が師匠に念を押します。

「ああ。君の専用車だ。大事に使いたまえ。360ミリリットル・2サイクル・エンジンの馬力上乗せと無線通信機の設置に少々手間取ったらしいが、さすがは警察庁が誇る装備課だ。『高度科学犯罪の捜査に充分使える性能に仕上がった』との報告を受けたよ」

「先生、それを僕が運転しても良いのですか?」

「そうだよ。好きなように使いたまえ。ただし、交通法規を遵守して安全運転で行くんだぞ」

「はい。必ず守ります」

「色は私が決めた。クリーム色だ。不満は無いだろうね?」

「もちろんです」

 それからしばらく、広々とした郊外の道を二人は歩き続けました。

 道の左右に野菜畑のうねが延々と続いています。

 畑と畑の間に日本式の民家と納屋がポツリ、ポツリ。

 小さな雑木林も見えます。

 日本家屋にまじって、其処そこここに新築したばかりといった感じの西洋式家屋が建っていました。

「見たまえ、和戸くん。なんと牧歌的な長閑のどかな風景だ。そうは思わんかね?」

「はい。先生。そう思います」

「世田谷も中々に住み良い所だが、こんな穏やかな景色を見てしまうと、やはり我が家は都会に近すぎると思ってしまうなぁ」

「ところで、先生」

「何だね?」

「先生は、鴨山博士のご自宅を訪ねた事があるのですか?」

何故なぜそんなことを聞くんだい?」

「駅を出てから今まで、一度も地図をご覧にならないので」

「ホウ、なかなか良く観察している。えらいぞ、と言いたいところだが、残念。違うね。博士が大学に在籍していた頃に研究室を訪ねたことは何度かあるが、こうして自宅を訪ねるのは初めてだ」

「では、どうやって?」

「昨夜、書斎で夢野駅周辺の地図を良く見て、頭に入れておいた」

「つまり、駅から鴨山博士の家までの道順を、昨夜のうちに暗記したという事ですか?」

 と問いかける三吉少年に、小悟探偵がうなづいてみせます。

「この辺りも少しずつ開発されているとは言え、まだまだ発展途上の田舎町だからね。そう易々やすやすとタクシーは捕まらないと思っていたよ。仮に運よくタクシーに乗れたとしても、運転手が博士の自宅を知っているとは限らないだろう? まあ大抵は、住所番地を言えば連れて行ってもらえると思うが」

「それで、昨夜ひと晩で地図を暗記したんですか?」

「夢野町すべての家と道路を憶えた訳じゃないさ。あくまで駅から博士の家までの間とその周辺だけだ。大した労力じゃない」

「さすが先生ですね。準備が周到です」

「備えあれば憂いなしだ。あやふやな確率なんぞに頼っていては良い私立探偵とは言えない。この業界の名人なら誰でも、あらかじめ二重三重の保険を掛けて物事にのぞんでいるさ。名探偵なら必ず一度は口にする有名な台詞せりふが有るんだが……何だか分かるかね? 和戸くん?」

「いいえ。分かりません」

「こんな事もあろうかと、だ」

「はあ」

「君はこの業界に入ってまだ日が浅いからな。そのうち何度も耳にするよ。こんな事もあろうかと、こんな事もあろうかと、ってね。名探偵がこれを口にしたら事件は解決したも同然だ。大船に乗った気になれば良い」

 二人は本通りを外れて細い脇道に入り、三叉路や十字を何度か曲がり、雑木林のふちを迂回するように通って、さらに何度か三叉路や十字を曲がりました。

 やがて広々とした畑の間を通る細い砂利道に出ました。二百メートルほど先にポツンと家が一軒見えます。

「私の記憶が正しければ、あれが国立川崎大学・医学部顔相がんそう解剖かいぼう学科の元教授、かもやまじゅ三郎さぶろう博士の家だ」

 広大な畑の真ん中に建つ、レンガ塀と数本の木々に囲まれた瀟洒しょうしゃな西洋式の家です。

 なるほど、いかにも引退した大学教授に相応ふさわしい家だな、と和戸少年は思いました。

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