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 松本に聞いた宮内翔太郎の実家は、私が彼から聞かされた印象のままの真っ白な二階建てだった。

 大きな木造の塀に囲まれていて、格子状になった開き戸と車用だろう、大きなシャッターが降ろされた門があり、私は恐る恐る『宮内』とだけ書かれた表札の下のインタフォンを押した。

 一分ほどだろうか。応答があって男性の声がすると、私はたどたどしさをどうにもできないまま、何とか翔太郎の知り合いで、彼が亡くなったことを知ってやってきたことを告げた。


「分かりました。ちょっと待ってて下さい」


 そう言われて緊張が取れないまま待っていると、ほどなくして戸が開けられた。現れたのは髪が真っ白になった彼の父親らしき男性だった。


「さあ、どうぞ」

「突然すみません。お邪魔します」


 その男性の優しく目元が緩むと、やはり翔太郎の面影を感じさせた。

 私は彼について中に入る。五十メートルほどの前庭があり、植木や花で玄関に向かう石畳以外は鬱蒼うっそうとしていた。


 通されたのは応接間だった。

 中庭に面していて、本棚やゴルフのトロフィーなんかが飾られたガラス棚がある。革製のソファは見た目ほど硬くはなくて、座ると私の下半身が軽く沈んでそこに吸い付いたみたいになった。

 棚にはトロフィー以外にも小さなクマのぬいぐるみや、古い家族写真がある。黄色い帽子を被った小さな彼と父親、少し離れて母親が一緒に写っている。保育園か幼稚園の遠足だろうか。幸せそうに笑っている彼が少し羨ましい。


「珈琲が良かったかな?」

「あ、いえ。お構いなく」


 ポロシャツ姿の彼は小さなお盆に持ってきたお茶の入ったコップを私の前に置いた。立ち姿はすっと背筋が伸びていてスタイルが良く、ジーンズすら高級品に見える。大きくなったら翔太郎もこんな風になっていたのだろうかと想像してしまう。ただ父親の方が彼よりも背が高く骨格もがっちりしているので、ひょっとしたら翔太郎は母親似なのかも知れない。


「今日子さんだったかな」

「はい」


 ガラステーブルを挟んで対面に座ると、彼は私の顔を確かめるようにじっと見つめた。


「あの?」

「いや、女の方が訪ねてこられたのは初めてなのでね。その、翔太郎とは小学校で?」

「その……」


 適当を言って誤魔化すことも可能だったけれど、私は正直に打ち明けることを選んだ。それがどんなにおかしなことだと笑われても、私にとっての翔太郎はあの時間の中にしかいないから。


「……そうですか」


 私が大きくなった彼と会って話したり、結婚の約束をしていたと言われたりしたと語ると、彼は大きく溜息をついてから、考え込むようにテーブルを見つめた。


「私にもそれが本当のことだったのかどうか、よく分かりません。ただ、私には記憶が思い出せない頃があって、もしその時に彼と本当に結婚の約束をしていたんだとしたら、何かそういう不思議な縁みたいなものが、会わせてくれたのかなって」

「ちょっとだけ待って下さい」


 そう言って彼は立ち上がると、私を部屋に残して出て行ってしまう。

 やはり不快にさせたのだろうか、と思ったが、しばらくすると彼はその手にアルバムを持って戻ってきた。


「見て下さい」


 私はそこに彼の幼少期の愛らしい姿が写り込んでいるものと思って目を向けたが、開かれたページにあった写真はどれも病室のそれだった。


「これは?」

「翔太郎が亡くなる一週間から半年ほど前までのものです。あの子は脳腫瘍でこの世を去りました。今月の十日が、あの子の命日でした」


 それは私が翔太郎に連れられてホテルに行ったあの日だった。

 二階の一室のドアを、彼の父親が開けてくれている。鍵が掛けられていて、ドアの前にぶら下がったひらがなの『しょうたろう』プレートが揺れる。


「妻はこの時期になるといつも体調を崩してしまってね。秋田の実家に帰っているところなんだ」


 彼の背中には私が想像することも難しい時間の重みが伸し掛かっているのだろう。

 プレートの揺れが収まり、鍵が開いた。ドアノブもプレートも全然埃塗ほこりまみれになっていないことが、彼の中ではまだ翔太郎が生きているのだろうと思わせた。


「気が済むまで見てやって下さい。僕は一階の方にいますから。何かあれば声を掛けて下さい」

「ありがとうございます」


 私は頭を下げ、彼が階段を降りていくのを見送ると、ドアを開けて彼の部屋に入った。

 当時のまま残されていると聞いたけれど、本当に小学生が眠るサイズの小さなベッドとその脇の壁の一画を占拠する大きな本棚、液晶の薄型テレビに、その下には当時流行ったゲーム機が繋がっている。

 木目のある机の上に広げられているのは学校の宿題だろうか。ノートは閉じられていて、さんすうやこくごと書かれた教科書がその隣に置いてあった。

 鉛筆と布の筆箱、小さな鉛筆削りもあって、振り返れば今も小学生の彼がここにいるのが見えるんじゃないかと思ってベッドの方を見たが、当然誰もいなかった。

 ベッドの先にはサッシの窓があって、ベランダになっていた。ここから紐を伝って降りたと話していたけれど、二階とはいえ結構高さがある。

 部屋に戻ると、私は壁を占拠する大きな本棚の前に立つ。

 その棚の一画、父親が手を入れたのか、小さな本立てによって区切られていて、そこに遺影としてなのか、小さな彼の写真が飾られている。細い毛が金色に輝いて見えるマッシュルームカットの彼が、笑顔で飛び上がっているところだ。

 その写真のすぐ下の段に、大判のスケッチブックが立てかけてある。引き抜いて中を見ると彼の絵日記だった。

 ひらがなと、習いたての漢字がいくつか混ざっている。流石に自分の名前は難しかったのかその殆どをひらがなで書いてあったが、太郎だけは何とかがんばって漢字にしてあった。でも郎の字がうまく書けずに、途中で何度かひらがなに戻っていたけれど。

 その中に、砂場が好きだったと書かれていた。

 砂場らしき四角の中に、お城ではないもっと先の尖った細い塔のようなものが描かれている。他のページの砂場にも、同じものがあった。そう。これはきっとタワーだ。東京タワーなのか札幌のテレビ塔なのか、それともエッフェル塔のつもりなのか分からないが、砂で作ろうとしたタワーだ。


「それ、なに?」


 まだ五歳の私が尋ねる。


「タワーだよ。とってもたかいところまで見えて、いいきぶんになれるんだ」


 同じくらいの年齢の翔太郎が、笑顔で答える。

 一瞬IFなのだろうかと思ったが、周囲の景色が一変していて、私の気持ちがその頃に戻っているのだと思った。

 ああ、これはあの日だ。私が初めて小さな家出をして、公園で独り、泣いていた日のことだ。


「どうして、ないてるの?」

「だって、おかあさんが、はしが、ちゃんともてない子は、いらないって、おこるから」


 今なら最初の父親との離婚協議で気が立っていたから、いつもなら「ちゃんと持ちなさい」で済んだものがつい「要らない」と強い言葉になってしまったと、それなりに理解もできるけれど、当時の母親だけが自分の生命線みたいな人生だった私にとって、その言葉はとても重いものだった。


「それじゃあ、ボクんちの子になる? ボクははしもてないけど、おこらないし」

「いいの?」


 そんな風に自分に対して言ってくれたのは、彼が初めてだった。


「じゃあ、けっこんしよ?」

「けっこん?」

「いっしょにくらすことだよ。けっこんして、おかしをいっしょにたべよう」

「それって大人にならないと、できないんだよ?」

「それじゃあ、せいじんして大人になったら、ボクとけっこんしてくれる?」


 そうだった。たぶん私も翔太郎もその意味なんて分からないまま約束をして、けれどそのまま二度と会うこともなく、私の方はその約束のことをすっかり忘れてしまっていた。

 風が頬をでて、私は気がついた。


「いや、その……すまない」


 見ると入り口のドアが開いて、翔太郎の父親が立っていた。


「いつまでも君が降りてこないから、その、少し心配になって」

「あの、私の方こそ……すみません」


 咄嗟とっさに謝りの言葉を選んだけれど、自分が泣いていることに気づいて、私は慌てて目元をぬぐった。


「ありがとう」


 そう言われて意味が分からずに彼を見ると、頭を深々と下げてもう一度「ありがとう」と言われた。

 その頭が上がった父親の目元は濡れていて、けれどその目線は私ではない場所に向かっている。振り返るとベッドの上で小さな翔太郎が寝転がって大の字になっていて、どうやら父親にもその姿が見えているようだった。

 私は小さく頭を下げるとそっと部屋から出て、彼が押し殺して泣くのを聞かないようにと、足早に一階に降りた。

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