倫敦 時折、春 外伝 〜朧月夜〜

木村空。

第1話 紅時

 此れは慶応時代の物語。


 紅時べにときの瞳に映るのは儚い影。

 只、只管に懐かしい風景の中に居る男性。必ず手を差し伸べて微笑む。


「段差があるよ。」


 他愛もない会話。

 心が早鐘を打って、紅時は手を取る。毎回毎回自分の体が五月蠅い。

 横に並んで歩くのが当たり前の事なのに、自分を不安にさせる男性。横顔を見たくて、そっと視線をずらすと、木蓮が見えた。

 紅時から感嘆の言葉が零れると、男性の手を引っ張った。早く見たい。間近で、見たい。と足が動く。


「大丈夫だよ。逃げたりしないから……。ゆっくり見ておいで……。」


 烟る様な木蓮の香りの中、男と紅時が佇む。りっぱな大木が何本も植わっている。男性の視点が紅時と木蓮を行き来する。


「やっと笑顔になった。」


 紅時は指を指し、木蓮の話をする。どれも男性の植物辞典の記憶なのだが、言葉が止まらない。

 其の言葉を一語一句頷いて聞いている男性。

 紅時の手を木蓮の幹に触れさせた。


「此れが其の木だよ。触ってみると、挿絵と違うだろう。」


 紅時が頷くと、まるで祝福されている様に木蓮の香りがする。ああ、男性と居る此の時間が幸せなのだと、気が付く。

 細められた瞳に映っているのは、紅時しかいない。


「其処の椅子にいるから、私はすわっているから、ゆっくり歩いておいで……。」


 指差すベンチに嫌な気持ちになる紅時。もう少し話したい。もう少し側に居たい。

 紅時の時間の殆どを、男性が占めている。


 ああ、何と長い時間を共にしたのだろう。

 ああ、何と長い時間、共に飯を食べただろう。

 ああ、何と長い時間、待ち侘びただろう。


 紅時は、言霊が流れる様に息をする。


『先生!』



 紅時が瞳を開いた時には、既に記憶のある天井だった。


「夢か……。」


 知っている毎日の夢から覚める時の絶望。

 何時もの廓の天井だったからだ。



 紅時は立ち上がり、誰よりも早く支度をし始めた。又、同じ日常を生きねばならぬ。




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小説家になろうで本編があります。

新しくカクヨムでも同タイトル〜君を辿って〜を投稿しています。

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