SAIROH ―豺狼―

柏木椎菜

一話

 吐き出される五つの白い息が散っていく。季節は冬の終わりだが、山深いここには未だに雪が積もり、真冬の体を成していた。氷のような凍える風を全身に受けながら、剣をたずさえた五人の男は、でこぼこの山道をひた進んでいく。


「若造、大丈夫か」


 先頭を歩くイオンが顔だけを向けて聞いた。これにヴァシルは軽く睨み付けてから、はいと小さく返事をした。若造と呼ばれるのは気に入らなかったが、二十一歳と五人の中では一番若く、三十前後の他の四人からすれば、そう見えてしまうのは仕方がなく、ヴァシルは黙って諦めるしかなかった。


 山道の左側は切り立った崖になっている。雪で足を滑らせれば、ひとたまりもない高さだ。その先の景色を眺めれば、葉の落ちた裸の木々が立ち並び、殺風景な空間が広がっている。日が出ていれば、多少でも明るく感じられただろうが、どんよりと曇っている今は、気分まで暗くなりそうな景色だった。さっさと仕事を終えて、温かいスープでも飲みたいと思いつつ、ヴァシルが視線を元に戻した時だった。


「あれが要塞か?」


 先頭のイオンが歩く足を緩めて言った。後ろに続く四人はイオンの視線の先に目をやる。


「……ああ、多分そうだな」


 白い息を吐き出しながら、エティエンが言った。


「ここからは気を抜くなよ。鉢合わせなんてことにならないようにな」


 イオンは真剣な表情で言うと、足を速めて進む。四人も気を引き締め、その後に続く。


 山道をたどった先に見えたのは、崖際にそびえる崩れた要塞だった。石で造られたそれは、かつては見上げるほどの高さがあったと思われるが、現在は至るところが崩れ、要塞と言うよりは廃墟のような見た目に変わってしまっていた。これでもユーリア要塞という名前があり、五十年前の戦争では重要な拠点として使われていた。だがその戦争が終息すると、使い道のなくなった要塞は誰からも忘れ去られ、山の中でこうしてひっそりと朽ち果て、今に至るという。


 五人は積もった雪をかき分けながら、ようやく要塞の入り口にたどり着いた。ひびの入った門をくぐり、ゆっくりと中へ踏み込む。


「……相当崩れてるな」


 壁や天井を見ながら、イオンが呟く。


「床が抜けたりしないだろうな」


 冗談っぽくトゥドルが言う。ヴァシルは瓦礫の積もった床を見つめながら、それもあり得そうだと心で思った。


「で、どうする? 手分けして捜すか?」


 ゲオルフが四人に聞く。


「結構広そうだし、それのがいいだろう」


 トゥドルが言い、これにエティエンがうなずく。


「じゃあ、俺らはこっちを捜す。イオンは向こうと、若造の面倒を頼むぞ」


 勝手に決めたゲオルフに、イオンは眉間にしわを寄せて言う。


「おいおい、何で俺はこいつと一緒なんだよ」


「この中じゃあんたが一番経歴が長い。面倒見るくらいどうってことないだろう」


「しかしなあ――」


「決まりだよ。……ほら、行くぞ」


 ゲオルフはエティエンとトゥドルを連れ、東側の廊下へ消えていった。残されたイオンは広い額を指先でかくと、横で突っ立っているヴァシルを見る。


「しょうがない……足手まといになるなよ」


 そう言ってヴァシルの肩を軽く叩く。


「そんなことにはなりませんから。大丈夫です」


 気合いの入った表情で、自信のある言葉を言うヴァシルを、イオンは少し疑うような目で、だがわずかに微笑んで見つめる。


「いい顔するねえ……俺から離れ過ぎるなよ」


 肩を小突かれ、よろめくヴァシルを通り過ぎると、イオンは西側の廊下を進んでいった。その後をヴァシルはすぐに追う。


 崩れて積もった瓦礫の山を踏み越えながら、二人は一階の部屋を見て回る。崩れた壁際には吹き込んだらしい雪が積もっており、ほとんど外の環境と変わらない状態の部屋が続く。静まり返った辺りには、二人の足音と、途切れることなく吹く風の音しか聞こえない。


「一階には、いないみたいですね」


「ああ……」


 大きく息を吐くと、イオンは廊下に見える階段に目をやる。


「上ってことか……」


 二人は階段に近付き、その先の様子をうかがう。螺旋状になった階段の幅は狭く、すれ違うのがぎりぎりといった感じだ。幸い階段は崩れておらず、瓦礫に塞がれていることもなかった。


「……行けそうだな」


 イオンは慎重に上り、物音に耳を澄ます。ヴァシルも背後に気を配りながら、ゆっくりと階段を上っていく。


 二階に着くと、正面から勢いよく風が吹いてきた。二人の頬に痛いほどの冷たさがぶつかる。


「……こりゃ、ひどいな」


 イオンが呆れたように言った。目の前は廊下のはずなのだが、壁や天井はすべて崩れ、外の景色が丸見えとなっていた。さえぎるものがない廊下には雪が積もり、容赦なく風が吹き込んでくる。見ると、西へ向かう廊下には、崩れた天井の瓦礫が積み重なり、進路を塞いでいた。それを手でどかすには少々無理がありそうだった。


「引き返しますか?」


 ヴァシルが聞くと、イオンは東側の廊下を見る。


「……いや、あっちは行けそうだ」


 反対側の廊下は確かに瓦礫も少なく、進めそうではあった。だが、片側の壁は完全に崩落しており、しかも雪が積もっている。そこで足が滑れば、外へ真っ逆さまということにもなりかねない。その上、風も強い。体があおられて転ぶ心配もある。進むにはかなりの勇気が必要だった。


 しかし、イオンはためらうことなく、吹きさらしの廊下を歩いていく。ずぼりと雪に足を埋め、横から風を受けながらどんどん突き進む。


「……おい、若造、早く来い」


 振り向いたイオンは躊躇するヴァシルを呼ぶ。これ以上離れるわけにもいかず、ヴァシルは意を決して廊下に足を踏み入れる。イオンが作った道をたどりながら、ゆっくりと歩く。強風には踏ん張りながら、どうにか転ぶことなく雪の積もった廊下を渡り切ることができた。ヴァシルが一安心し、息を吐いた時だった。


「うああっ――」


 ヴァシルの体が急に傾いたかと思うと、足下の床の一部が突然崩れ、雪と共に一階へ落ちた。咄嗟に逃げようとしたヴァシルだったが、右足だけは間に合わず、できた穴にはまってしまった。上半身が落ちないよう、ヴァシルは床に這いつくばるような格好で、必死に体を支える。この姿に、イオンは今にも笑いそうな表情を向けて言った。


「何やってんだ? 静かに行動してくれ」


「……すみません。助けてください」


 助けを請うと、イオンはわざとらしく溜息を吐いてから、ヴァシルの手をつかんで勢いよく引っ張り上げた。


「次は置いて行くぞ」


 にっと笑うと、イオンは廊下を進んでいく。ヴァシルは服に付いた雪を払い、自分を足留めした穴を見下ろすと、そそくさと後を追った。


 廊下の先にあった部屋に二人は入る。これまで見てきた部屋よりも広いここは、天井も壁もまだ残っており、雪もなければ風も入ってこない。休むにはいい場所のように思えた。


「痕跡があるかもしれないな……」


 イオンは呟くと、床を見下ろしながら歩き回り始めた。ヴァシルもならって廊下付近を探索する。すると、胸の高さの位置の壁に、こすられたような赤黒い染みがあるのに気付いた。


「……血、か?」


 すでに乾いていたが、五十年前のものではないことは、はっきりとわかった。周囲をさらに探すと、同じ壁の続きに小さな染みが付いていた。それは間隔を開けて、東へ向かう廊下へと続いていく。


「ありました!」


 ヴァシルは部屋を探すイオンを呼んだ。


「何があった」


 駆け寄ってきたイオンが聞く。


「これです。そんなに古くない、血の跡だと思うんですけど、向こうへ続いています」


「……確かに血だな」


 イオンは壁の染みを指先で撫でると、血の跡をたどって廊下を歩いていく。すると、左に階段が見えたところで、壁の血は途絶えてしまった。


「もう、近いらしいな……」


 鋭い眼差しでイオンは階段を見上げた。


「イオン、そっちはどうだ――」


 分かれていた三人が、ちょうど反対側の廊下からやってきてイオンに声をかけた。が、イオンは口の前で人差し指を立てると、三人を黙らせる。これに何かを察し、三人は表情を変えて静かに近寄る。


「見つけたか?」


 ゲオルフの問いに、イオンは難しい顔を見せる。


「まだだが……この上にいる可能性は高い」


「三階か……そう言えば、向こうにもさっき上に行く階段があったな」


 ゲオルフに聞かれ、トゥドルがうなずく。


「ああ。崩れてなかったから、行けると思う」


 これにイオンは少し考えてから言った。


「……じゃあ、そっち三人は、その階段から行ってくれ。もし見つけた時に逃げ道を塞げるからな。上手くいけば挟み撃ちもできるかもしれない」


「わかった。その時はどうする?」


「やつの出方にもよるが、判断は任せる。こっちはそれに合わせる。……くれぐれも慎重にな」


「言われるまでもない。そっちこそ、若造がはやらないように押さえとけよ」


 ゲオルフの見くびるような言い方に、ヴァシルは文句の一つも言いたいところだったが、口喧嘩をしている場合ではないと不満を抑え、遠ざかる三人を見送った。


「……さて、ここからが本番だ。五対一だからって気を緩めてると、痛い目に遭うからな。絶対に油断はするな」


 真剣に言うイオンに、ヴァシルも真剣に返す。


「わかってます。準備は万全です」


 これにイオンは満足げな笑みを浮かべる。


「ならいい。……一つ言っておくが、焦って殺したりなんかするなよ。取り分が減っちまうからな」


 そんなことはしないと、ヴァシルは深くうなずいて見せる。生け捕りにすれば、かなり高額な報酬が待っているのだ。それを得るために、殺すなどという失敗は絶対に避けなければいけなかった。


「いきなり来られた時のために、剣は抜いておけ。行くぞ」


 抜いた剣を手に持ち、イオンはゆっくり階段を上り始める。ヴァシルも腰の剣を引き抜き、慣れた重さを右手に感じながら、一段一段上っていく。


 階段を上がると、冷たい風に出迎えられ、それから逃れようと思わず顔をうつむかせてしまう。何度も浴びているこの風で、ヴァシルは自分の顔がカチカチに凍っているんじゃないかと思えるほど、目や口は固まって動かない。このままでいたら、笑うことができなくなるのではという気さえしてくる。そんなどうでもいい心配をしていると、ヴァシルは突然腕を引かれ、積もった瓦礫の裏へ移動させられた。


「ぼやっとするな。やつだ」


 小声でイオンに言われ、ヴァシルは顔を上げる。ここも二階の部屋のように広い空間が広がっていたが、ところどころ壁と天井に穴が開いて、そこから風が音を立てて吹き込んできている。崩れた壁を隔てた奥にはさらに部屋が続いているようで、薄暗い先まで見通せた。このどこに人影があるのかと、ヴァシルは部屋をくまなく見渡してみる。


「あっ……」


 声が出そうになり、すぐに口を閉じる。ヴァシルの目がとらえたのは、隣の部屋と隔てる半分崩れた壁の向こう側からのぞく、座った状態の足だった。赤茶色に汚れたズボンに革のブーツを履き、右足を立てて床に座っている。少しも動く気配はなく、顔と上半身は壁に隠れて見えず、様子をうかがい知ることはできない。眠っているのか、もしくはこの寒さで死んでいるのか。こちらの気配を感じて、わざと動かないでいるとも考えられる。いずれにせよ、確認しなければどうにも始まらない。


「どうするんですか――」


 ささやくようにヴァシルが聞くと、イオンはそれを手で制し、無言で部屋の先を指差した。見ると、薄暗い中の瓦礫の陰に、二人と同じように隠れる三人の顔があった。


「挟み撃ちが出来そうだな……」


 イオンはにやりと笑うと、身振り手振りで離れた三人と段取りを決め始める。その間も見えている足には何の動きもなかった。


 しばらくして話が付いたのか、イオンはヴァシルに振り向いた。


「まず向こうの三人が出る。やつが動かなければそのまま捕らえるが、抵抗されたら、三人が引き付けてる隙に、俺らがやつを捕まえる。いいな」


 ヴァシルはうなずく。再びイオンが三人に向かって手を動かし、合図を送ると、瓦礫に隠れていた三人は足音もなく、すっと姿を現した。そして、座ったままの目標にゆっくりと近付いていく。その様子を見守る二人は固唾を呑み、じっと見つめて待つ。


 先頭を行くゲオルフは剣を構え、まずは遠巻きに姿を確認しようと慎重に歩を進める。じりじりと進み、目標の全身が見える範囲に入った瞬間、ゲオルフの表情がこわばった。


「はっ――」


 息を呑み、一歩後ずさった直後、何かが空を切って飛び出した。


「くあ……!」


 ゲオルフは足を押さえてしゃがみ込む。押さえる太ももには、一本のナイフが突き刺さっていた。


「ゲオルフ!」


 後ろにいたトゥドルが慌てて駆け寄ろうとした時、ナイフよりも大きな影が飛び出してきた。


「お前っ――」


 トゥドルは急いで剣を振り上げるが、それよりも早く、トゥドルの首は切り裂かれていた。あまりに早すぎることで、側にいたエティエンも、見守る二人も、ただ呆然とトゥドルが血を流すのを見つめていた。


「貴様あ!」


 ゲオルフはナイフが刺さったまま、仲間を切った男に襲いかかった。だが、その動きを読んでいたのか、男は右手の剣を伸ばすように突き出すと、ゲオルフの腹にあっさりと突き刺した。簡単に刺され過ぎたことに、ゲオルフは自分でも驚いたのか、目を見開きながらゆっくりとくずおれた。


「ゲ、オ、ルフ……」


 血が止まらない首の傷を押さえながら、トゥドルはゲオルフを見下ろすが、ふらつく体を支えられなくなり、勢いよく床に倒れ込むと、そのまま動かなくなった。その周囲には、二人分の真っ赤な血だまりだけが広がっていく。


 血に染まった剣を片手に、男はゆらりと体を揺らす。汚れてばさばさに乱れた茶色の長い髪が、正面から吹いてくる風になびき、その表情をわずかに見せた。鋭い目付きに高い鼻、無精ひげの生えた頬は痩せこけ、血や泥で汚れている。こんなに痩せていても、これほどの動きができることに、ヴァシルは驚くばかりだった。きっと満足に食べていないはずなのに、自分達以上の動きができているのだ。この男を突き動かしているのは、一体何なのか……。


 ふと男の顔がヴァシルのほうへ向いた。揺れる髪の間から、髪と同じ色の瞳がのぞく。丸く開いた目は、ヴァシルを見ているはずなのに、なぜかまったく別のものを見ているような気がした。そこにはどこか狂気じみた印象があって、ヴァシルはこの寒さとはまた違う、妙な冷たさを背中に感じていた。


 その時、隣にいたイオンが瓦礫の陰から飛び出した。


「来い!」


 呼ばれてヴァシルも走り出た。男はすでにこちらの存在に気付いている。隠れることにもう意味はなかった。二人は男の前に立ちはだかると、剣を構える。


「不意打ちはもうないぞ。生きてるうちに降参しろ」


 イオンが低い声で言う。その間にエティエンは男の背後へ回り、挟み撃ちができる位置を取る。囲んでしまえば、さすがにこの男でも動けないだろうとヴァシルは高をくくっていた。だが男の目には、諦めの色など微塵も浮かんでいなかったのを、誰も見つけることはなかった。


「ほら、剣を置け」


 警戒しながら言うイオンの言葉に、男は素直に従い、右手の剣をゆっくり床に下ろしていく。その剣先が石の床に当たり、かすかな音を立てた時だった。


 かがんだ姿勢で男は、背後に立つエティエンに向かって蹴りを放った。それを腹に食らったエティエンは怯み、よろめく。


 これにイオンは咄嗟に剣を振り下ろしたが、男は素早く横に転がり、攻撃を避ける。イオンの剣は空気を切って硬い床を切り付ける。ガキンッと重い音が部屋中に響き渡った。


「……やってくれるな」


 怒気のこもった声でイオンは呟き、男を睨む。男は体勢を立て直し、剣を握り直す。


「覚悟しろ……!」


 呼吸を整えたエティエンが横から襲いかかった。男はそれを受け流しながら、隙を突いて腕を切り付ける。エティエンの顔が痛みに歪み、さらにとどめを刺そうと剣を振る。


「させるか!」


 ヴァシルは男の肩目がけて剣を振った。が、男は後ろへ飛び退き、間合いを取る。ヴァシルの攻撃が空振りしたのを見てから、男は一気に距離を詰め、ヴァシルに襲いかかった。


「ぐっ――」


 振り下ろされた男の剣を、ヴァシルは自分の剣で受け止める。しかし力の強い男に弾かれ、ヴァシルは後ろへはね飛ばされてしまう。足がもつれて転び、腰をしたたか打ったが、男は追い打ちをかけてこない。見ると、エティエンとイオンが壁となって懸命に闘ってくれていた。


「若造、早く立て!」


 イオンが息を乱しながら言った。エティエンは利き腕を切られ、慣れない左腕で剣を握っているため、思うように攻撃ができないでいる。イオンはそんなエティエンも見ながら、一人奮闘していた。


 ヴァシルはすぐに立ち上がり、二人の攻撃に参加しようとした。だがその時だった。


「くそっ――」


 イオンがうめく。押さえた脇腹に赤いものが滲んでいた。途端にイオンの動きが鈍くなる。


「下がれ、イオン」


 腕から血を流しながら、エティエンがイオンの前に出る。しかし利き腕が使えない状態では、この男に敵うはずもなく、攻撃をかわされ続けたエティエンは、大振りになったところを素早く切り付けられてしまった。胸に一直線の傷を付けられ、エティエンは宙を見つめたまま、その場に倒れ込んだ。


 次々に倒れていく仲間に、ヴァシルはこんなはずじゃなかったと心の中で嘆いた。五人もいれば、すぐに終われる簡単な仕事だと思っていたのに――そんな自分の考えの甘さに、ヴァシルは後悔していた。


 エティエンを仕留めた男は、止まることなくイオンに襲いかかった。傷を負って力が入らないのか、イオンの反撃する動きに勢いがない。だがヴァシルが割って入る前に、一方的な闘いはあっさりと決着がついた。


 高い金属音を響かせ、イオンの弾かれた剣は宙を舞った。しまったという表情を見せたその顔に、男は剣先を突き付ける。


「はっ――」


 息を呑み、動こうとしたヴァシルに、男は射抜くような視線だけを向けて威圧する。射すくめられたヴァシルはそれ以上足を動かせなかった。まるで獲物を狙う肉食獣のような眼差しは、相手が人間であるとわかっていても、本能的な危険を感じさせた。


 止まったヴァシルから目をそらし、男はイオンを見る。


「……早く、やれ」


 イオンは男を睨み付けながら言った。覚悟したその声は、怯えもなく堂々としている。男は表情も変えず、わずかに目を細めると、ためらう素振りもなく、剣をイオンの喉に突き刺した。


「ごっ……ぶ……」


 鮮血が吹き出し、男の顔や胸に飛び散る。苦しむイオンから剣を引き抜くと、イオンの体は仰向けに倒れた。もがくように動いていた両手は、やがて力尽き、ぴたりと止まった。半分開いたその両目は、じっと虚空を見つめ続ける。


 男がゆらりと動く。返り血の付いた口元から、白い息が吐かれる。次はお前だと言わんばかりの鋭い目が、ヴァシルを瞬時にとらえた。悲しみや恐怖を感じる間もない。こんなところで死にたくないという、ただそれだけの気持ちでヴァシルは剣を構えた。先手を取ろうか、それとも待ち構えようか――頭の中でどうするか考えていると、男はいきなり正面から向かってきた。一瞬、面食らったヴァシルだったが、男の攻撃をかわすと、すぐに冷静さを取り戻し、反撃をする。


 風の音しか聞こえてこない部屋に、剣同士がぶつかる激しい音が響く。男の途切れない攻撃に、ヴァシルは広い部屋を動き回りながら、どうにか互角に渡り合っていた。だが、疲れを見せない男に隙は少なく、ヴァシルは攻めあぐねる。


 その時、後ろへ引いた足が床の瓦礫に引っ掛かり、ヴァシルは転びそうになった。それを逃さず、男は一気に間合いを詰めて切りかかった。


「くっそ……」


 体が傾きながらも歯を食いしばったヴァシルは、剣を振って男の注意を引き付けると、空いた足下に素早く足払いを決めた。片足をすくわれた男はぐらりと揺れ、その場に止まる。ヴァシルはその隙に体勢を直し、男との距離を取った。


 だが、気付けばヴァシルがいたのは部屋の隅だった。動き回っていたつもりが、いつの間にかこんな隅まで追い詰められていた。背後を崩れた石壁に囲まれ、その大きく空いた穴からは、とめどなく風が入り込んできてヴァシルの体を凍えさせる。はやくこの場所から出なければ――そう思った時には、すでに遅かった。剣を握り、ゆっくりとした足取りで男が迫ってきた。脇をすり抜けようにも、もう男の手が届いてしまう距離だった。袋のねずみ――そんな言葉がヴァシルの頭をよぎる。


 間近に迫った男は、剣を握る手に力を込めると、勢いよく剣を振り上げる。この一太刀で終わらせるつもりなのだとヴァシルは直感した。


「うおおおお!」


 追い詰められたヴァシルの無意識は、男から逃げるのではなく、突進することを選んだ。男の懐目がけて、ヴァシルは思い切り体当たりをする。虚をつかれ、まともに受けてしまった男は、その衝撃で剣を落とし、壁際へ押されていく。踏みとどまろうとしても、吹き込んだ雪が足を滑らせ、男の抵抗を無にしてしまう。


 押していた男が壁に当たり、ドンという衝撃がヴァシルに伝わる。どうにかして組み伏せなければ――そう思ってヴァシルが顔を上げると、男の上半身は大きくのけぞっていた。


「あ――」


 思わず小さな声が漏れた。崩れた壁の穴に、男の上半身が吸い込まれるように倒れていく。その光景はまるで、時間の流れが遅くなったように、ゆっくりと動いて見えた。長い髪は揺れ、手は何かをつかもうと宙をさまよい、男の両目は驚きに見開かれている。


 次の瞬間、ヴァシルは男の手をつかもうと腕を伸ばしたが、遠のく足先をかすめただけで、つかむことはできなかった。ヴァシルはすぐに壁の穴の外を見下ろす。雪に覆われた殺風景な景色の真下、断崖絶壁に沿うように男の影は真っ逆さまに落ちていた。こんな高さから落ちたら、命など助かるわけがないとヴァシルは感じた。だが、風の音に混じって聞こえてきたのは、バシャンという水しぶきの音だった。


「……湖に、落ちたのか?」


 男の消えた先を、ヴァシルは目を凝らして見下ろす。無数の枯れ木越しに見えたのは、湖面に広がる丸い波紋だった。それはしばらく一か所にとどまっていたが、やがて徐々に右へと移動し、帯状に伸びていくのが見えた。それは男が生きて泳いでいるという証拠だった。


「運のいいやつめ……」


 ヴァシルはほっと息を吐く。でもすぐに自分の状況を思い出し、安心している場合ではないと思い直す。仲間は殺され、男には逃げられ、仕事は失敗した。部屋の惨状を改めて眺めると、ヴァシルは憂鬱な溜息を吐かずにはいられなかった。

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