第185話 プレシャス・メモリーズ

 一人で寝るには大きすぎる豪奢なベッドの上で、下着にシャツ一枚の姿のミハエルが仰向けになり、天蓋を見つめながらここ最近の出来事を思い返していた。

 ノルクベストにいる弟からの聖戦剣についての連絡。

 情報室からは、支部に曲者が現れ取り逃がしたようだ、との報告。

 そして、今自分が滞在するトゥルコワン法国での出来事。


「………中々、思う通りにはいかないものだね。」


 溜め息混じりに呟いて、寝たまま灰色の髪を掻き上げる。


「あら、そんなに卑屈にならなくても、十分良かったわよ?」


 美しい裸体の上に薄いシルクのガウンを羽織り、オリヴィが酒の入ったグラスを二つ、運んでくる。そのままベッドに腰を下ろすと、グラスを一つ、半身を起こしたミハエルに手渡した。


「ああ、そっちの話ではないよ。……まあ、そっちもあんまり自信がある方じゃないけどね。」


 苦笑するミハエルに、体を預けるように寄り添うオリヴィが悪戯っぽく嗤う。


「そうなの? その見た目で御曹司なら、随分女の子を泣かせてきたのかと思ったけど。」

「よく誤解されるけどね。君を含めても、片手で足るくらいの女性ひととしかベッドを供にしていないよ。」

「ふぅん…。」


 オリヴィはベッド脇のサイドテーブルにグラスを置くと、上体を倒してミハエルの膝の上に寝転び、仰向けの状態から青年の顔を覗き込む。


「……嘘は言ってないみたいね。」

「私は、必要のない嘘は吐かないよ。特に、すぐバレるような嘘はね。」

「じゃあ、私には一生嘘は吐けないわね。おねえさんは全部、見抜いちゃうんだから。」


 手を口元にしてクスクスと笑うオリヴィは、先日会った時よりもずっと気安い女性、といった感じだった。意外な一面、というよりは相手に合わせて、相手の望むような姿を演じる事が出来るのだろうと、ミハエルは思った。そして、女性に敬語や慇懃な態度で取り繕われる事を嫌う彼には、そのオリヴィの醸し出す雰囲気は心地良かった。


「そう言えば、お見合いはどうだったの?」

「ああ…お見合いというほどのものではないけどね。会ってきたよ。」


 二日前ミハエルは、トゥルコワン諜報部長官パトリックの屋敷を訪れ、彼の次女と面会した。

 十七歳だという次女は如何にも箱入りの令嬢といった感じで、世の中の綺麗な部分だけ見て育ってきたような女性だった。

 良く言えば清廉清楚、悪く言えば世間知らず。

 ミハエルの妹キリアと同年齢だったが、汎ゆることに目敏く、既に商才も発揮している妹と比べれば、まるで「お人形さん」のようだと感じたくらいだ。


「……残念だけど、彼女と一緒にはなれないね。私は、人の淀んだ感情や醜いところに惹かれてしまうんだ。清浄な空気だけで生きてきた彼女は、私の側に居たらすぐに壊れてしまうよ。」


 大して残念でもなさそうに言うミハエルを、オリヴィは可笑しそうに見つめる。


「政略結婚でも傍に居ること前提なんて、意外と純真なのね。」

「そうかい? 大事な得意先の娘さんを傷物にしたくないだけだよ。」

「パトさんを大事だと思ってるなら、私の処に来ちゃ駄目でしょ。お店を紹介してくれた人と同じ嬢に会いに来るのは、本当はいけないことなのよ?」


 口元の笑みは崩さずに、軽く咎めるように言うオリヴィ。

 だが、ミハエルは平然としている。


「マナー違反ではあっても、ルール違反では無いのだろう? だから、女将も何も言わなかった。」

「もう。――暗黙の了解って言葉、知ってる? 夜の街は、そういう明文化されていない掟を守って、楽しむところなのよ。」

「では何故、たった二回目でベッドに誘ってくれたんだい?」


 逆に誂うように言うミハエルに、オリヴィは呆れ顔をしながら体を起こした。

 そして、サイドテーブルの引き出しから一通の手紙を取り出す。


「これを、貴方に渡してくれって頼まれたからよ。」

「?」


 急に手渡された封書をひっくり返してみると、封蝋にはパトリックの印があった。

 たった一度、この店に連れて訪れた時のやり取りで、パトリックはミハエルが此処に一人で来ると見抜いていたのだ。

 流石のミハエルも、これには冷や汗を掻いた。


「……私は、個人の能力を恐ろしいと感じたのは、これが人生二度目だよ。」


 諜報部長官の肩書は伊達では無かった。

 なんのことはない、パトリックがお墨付きを出したからこそ、女将もオリヴィもミハエルのマナー違反を許してくれたのだ。


「フフ、でもパトさんも、流石に前室までだと思っていたでしょうね。主室に入れてあげるのを、決めたのは私よ。」


 ミハエルが振り返ると、オリヴィが先程までとは打って変わって、妖艶な表情で流し目を送っていた。


「だって貴方、親とはぐれた迷子みたいな眼をしてるんだもの。全てを持っているはずなのに、欲しいものは何一つ得られていないような、そんな眼。一体、何がそんなに淋しいのかしら……気になっちゃうわ。」

「参ったな。」


 苦笑したミハエルはグラスの酒を空にすると、再びベッドへと仰向けに倒れた。

 普段、人々をチェスの駒のように自由に動かしているつもりの自分が、法都プラトシューにきて以来、どうにも上手うわての大人達に見透かされているような気がする。

 寝転ぶ上から、ミハエルの顔の横に両手をついて、オリヴィが見下ろしてくる。まるで雨が降るかように舞い落ちる赤い髪を、ミハエルは綺麗だと思った。


「こういう時でも脱がないシャツ……淋しさに関係ある?」

「いや、これは隠している訳ではないよ。あまり見苦しいと、女性がその気にならないんじゃないかと思ってね。」


 つい先程の睦み合いで、そのシャツの中に手を這わせた時にも、ミハエルは別に拒みはしなかった。実際、それは彼にとって取り立てて隠したいようなものではない。

 オリヴィはそのたおやかな指先の感触で、ミハエルの半身の肌が、ところどころザラつき、固くなっていたり、逆に妙に滑らかだったりしているのを知った。


「………火傷に似ているけど、違うんだ。これは『熱砂病ねっさびょう』というやまいの痕だよ。ああ、子供の頃の話で、今は完治してるからご安心あれ。」


 熱砂病は、かつて不治の病と言われた恐るべき感染症であった。

 発症すると、高熱に魘われるだけでなく、まるで焼けた砂に纏わりつかれたように皮膚が爛れ、症状が進行すると髪まで色素が抜けて燃え尽きた灰のような色になる。

 ミハエルはまだ十歳の頃にこの病に罹り、生死の境を彷徨ったのだ。



  ― ◆ ―


 ミハエルが熱砂病に罹ると、それまで神童と持て囃していた財閥の者達は離れ、病と醜く爛れた皮膚を恐れ忌み嫌い、隔離した。

 彼を心配していたのはカリーヌ家譜代の側近と、弟ランシス。妹はまだ小さくて何も分かっていなかった。カリーヌ家以外で彼を本気助けたいと思っていた親戚は、大伯父のシルファンだけだった。

 『エンツォ』の当主シルファンは、その財力とコネクションを尽くして何とかミハエルを救おうとし、屋敷は各国から呼び寄せられた高名な医者や研究者で溢れたが、何せ不治の病である。髪色まで灰色に燻んだところまで進行してしまうと、手の施しようが無かった。

 それでもシルファンの命令で特効薬の開発を目指し、巨額の研究資金が投じられた。しかし、状況は中々変わらず、ミハエルは日に日に衰えていった。


 個室に一人ミハエルは、十歳にして己に死が迫っているのを理解し、世のすべてを儚んだ。

 ただ、自分を慕う弟妹の為にも最期は見苦しい姿を見せたくないと、屋敷の片隅で静かに死を待っていた。


 そんなある日の事だ。

 その日もいつもと変わらず、ベッドで横たわり、痛痒いガーゼの下の肌と、高熱に苦しみながらも、声も漏らさずおとなしく寝ていたミハエル。

 その病室のドアが、突然開く。

 食事の時間でも、診察の時間でもない。一体誰が…と、首だけ捻って扉を見れば、そこにいたのは自分と同じ年くらいの、おかっぱの少女だった。

 ミハエルは驚いた。医者と世話係以外でこの部屋に入って来る者はいない。まして子供など、弟のランシスでさえ入室を禁止されていた。


「だ、だれ…?」


 弱々しい声で何とか尋ねるミハエルに答えず、そのままベッドまで走ってきた少女は、包帯で巻かれたミハエルの手を両手で包みこんだ。


「だめ、だよ…うつる……」

「大丈夫、お父さんが『私にはもう感染らない』って言ってたもの。」


 少女は、少年を心配しながらも元気付けようと、無理矢理笑顔を作った。その左頬に赤い大きな痣があるのが、目に入る。


「あなたもすぐ治るよ、お父さんが治してくれるの。だから、諦めちゃ駄目!」

「あきら、め…」


 ああ、自分は隠しているつもりでも諦めている感情が顔に出ていたのか。

 いけない、これではカリーヌ家を継ぐ者としては失格だ……いや、もう死んでしまうのに失格も合格も無いか……でも、このコは治るって………。


 混濁していく意識の中でミハエルが最後に見たものは、少女の髪。

 窓の外から差し込む陽光に照らされた、白く薄光るだった。



  ― ◆ ―


「……それから、目を醒ましたのは三日後だった。私の体力も精神力も限界だったらしくてね。あと一歩、特効薬が間に合わなかったら危なかったかもしれない。」

「その女の子のお父様が、特効薬を?」


 瞳を見つめながら興味深げに聞いてくるオリヴィだったが、ミハエルは首を横に振った。


「――分からないんだ。その時、私は様々な医者の薬を飲んでいてね。報酬のためだろうが、殆どの医者が自分の新薬の効能を主張したみたいだ。実際、その後の熱砂病の治療に役立った薬もあったようだから、全てが嘘ではないだろう。ただ私は……その子の父上が作ってくれた薬が効いたと、信じているけどね。」


 その後ミハエルは順調に回復した。金色の髪は灰色となり、上半身の一部に火傷痕のような皮膚は残ったものの、体調的には半年ほどで完治した。

 彼はシルファンに礼を言うと共に、自分を救ってくれた医者とその娘を教えて欲しいと懇願したが、屋敷に出入りしていた医者と研究者があまりにも多く、特定は出来なかった。薬の効能を主張した医者達の中にも、該当する者はいなかった。


 あれはもしかして、夢うつつの中で自分が救いを求めて見出した幻想だったのだろうか?……いや、違う。確かに、あの子は自分の爛れた右手を優しく握ってくれたのだ。彼女は、実在する。そしてそれが、ミハエルの生きる希望となった。


 十三歳になると、ミハエルは正式に『エンツォ』の仕事に就いた。若過ぎる事を揶揄する親戚もいたが、実績で黙らせた。

 ミハエルは早々に、一国家以上の精度を誇る『エンツォ』の情報室に入り、その一員として仕事をこなしながらも銀髪の少女とその父を探し続けた。

 だが、見つからない。似たような特徴を持つ者がいれば、親が医者じゃなかったとしても会いにいったが、あの少女ではなかった。

 いつしか、ミハエルは銀髪の女性に強い拘りと執着を持つようになっていく。それでも、少女は見つからなかった。

 情報室長になり、ノルクベスト支部長になり。順調に出世し、いつしか『エンツォ』の次期当主候補に数えられるようになった。汎ゆるものが手に入る。しかし、彼が本当に欲しいものは手に入らなかった。

 仕方なく、彼はやり場のない感情と優れた才覚を、『エンツォ』の悲願にぶつけることにした。途方もなく巨大な目標に挑む事で、自らの空虚な心を埋めようとしたのだ。

 本当は、その銀髪の少女でしか埋められないと、知っていながら。


「その子のこと、今でも探してるの?」

「まさか。もう十二年も前の話だよ。我々が見つけられないのなら、誰にも見つけられないさ。」


 ミハエルは、『エンツォ』の情報室を信頼している。

 それでも見つけられないのならば、多分、なのだろう。治安の良い国ばかりではない。善意で治療する旅の医者が辿る道は、悲劇が待つことも多いのだ。


「………こんなことまで話したのは、初めてだな。」


 そう呟くミハエルの瞳の淋しさを、オリヴィは理解した。永遠に手に入らないものをそれでも乞う、満たされない想い。

 ならば、せめて一時いっときだけでも、忘れさせてみせよう。それが、この『ロ・ダン』で最も上位の嬢である、自分の矜持なのだから。


「ん……。」


 瞳を覗き込んだまま、赤毛に囲まれた美しい顔が舞い降りてくる。

 そしてその魅惑的な唇が、『もう昔話はおしまい』と、ミハエルの口を塞ぐのだった。


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