破:吐息の絡む距離

「言っとくが、詫びのつもりじゃないぞ」

 婦人服ブランドの紙袋を手渡しながら、その人物、滝口涼はため息をついた。

「依頼主の妻が間男と店の中入ってってな。どうしようか悩んだ時にお前の顔が浮かんだんだ。それで――」

「まさか彼氏の服買いに来ましたって入っていったの?」

「まさか。彼女のプレゼントにって言ったさ」

「それで?」

「それでまぁ、うん、色々あって上司にバレた」

 バツの悪そうな目をしながらも、涼は苛立たしげな横顔を見せる。

 私に向けるのは気が引けて、それでも顔に出さずにはいられなくて、そっぽを向くしかなかったんだろう。

「あの人には職業倫理ってもんがないらしい。浮気調査を旦那から受けながら、妻からは離婚相談の依頼を受けてやがった。利益相反だろ。お陰で俺の仕事は猿芝居。バレて当然の尾行させられて、バレたからって謹慎処分だ」

 ぐちぐちと愚痴を零す涼の横顔を見ながら、そっと手を伸ばす。私より幾分大きな手を握ると、向こうも再びバツの悪そうな顔になって握り返してきた。

「その仕事、どうなったの?」

「なんも知らん間男が男気見せたよ」

「っていうと?」

「旦那に直談判して離婚成立。旦那も旦那で、どうにか体裁整える手段考えてたんだよ。忙しさにかまけて妻との時間を蔑ろにした、だから幸せにしてやってほしいとかなんとか、わざわざ上司まで立ち会わせて言いやがったらしい」

 なるほど、複雑な話だ。

 大人の世界はよく分からない。

 私も成人して四年が過ぎようとしているはずなのに、どうしてか大人の仲間入りはできていない気がしてくる。

「でもそれ、他の人には伝わらないんじゃない? 世間体は変わらないよね?」

「アホか。なんのために上司が立ち会ったと思ってる」

「えっ? えぇ……」

 夫からは浮気調査。

 妻からは離婚相談。

 二つの依頼を同時に受け、最後に離婚が成立したのなら夫からの依頼はどうなる。確かに浮気は確かめられたが、納得する結末ではないだろう。それも調査員の尾行が相手方にバレたのがキッカケとなれば……。

 いや、反対か。

 夫にしても離婚は避けられないと分かっていた。仮に離婚そのものは阻止できても、世間体を気にするなら離婚騒動が起きること自体が問題なのだ。

 だから穏便に済ませたかった。

 とはいえ鳶に油揚げをさらわれる間抜けを演じるのは御免。

 残る答えは一つ。

 理解のある夫を演じ、ダメージを最小限にする。そのために金を積んだか。

「つまり涼は円満離婚の生贄になったわけだ」

「俺よりシユの方が探偵に向いてるな」

 呟く涼の顔は真剣そのもの。

 涼は私の彼氏で、探偵だった。

 正確には探偵じゃなくて興信所の職員だけど、実際的には大差ない。どうあれ現実に蝶ネクタイの子供探偵は存在しないのだから。

「まぁお陰で、一年の休暇と結構な額のボーナス貰えたんだけどな」

 笑う涼に、意地悪な笑みを向けてみる。

「その休暇、どこまで休暇?」

「さてな。彼氏んとこ帰れって命令だ。シユのことは隠しときたかったんだが……」

「いいよ、別に。私もあの騒動のお陰で再生数ちょっと増えたし」

「割に合わねえよ」

「そうかな?」

 手を握り、並んで歩く私たちは、傍目にどう映るのだろう。

 そこは駅前だった。人通りは多いけど、わざわざ他人に目を向ける物好きはいない。男同士のカップルどころか、半裸で騒ぐ酔っ払いにも誰一人見向きしない……そんな街だ。

 チュニックの裾を揺らし、繋いでいた手を緩めて腕に絡める。

 と、じっとり湿度の高い視線が横顔に刺さった。

「……俺は浮気してないぞ」

「しばらくは一緒にいられるんだよね?」

「答えろよ」

「涼こそ」

「まぁ、そりゃ」

「じゃあ、今日はどこかで食べない?」

「いくらボーナス入っても夜景の見えるレストランとか知りません。材料買って帰るぞ」

 まぁいいけどさ。

 綺麗なホテルじゃなくて見飽きた部屋でも、涼に飽きることはない。

 ……涼も、私に飽きないでくれるといいんだけど。

「ていうか」

「ん?」

「あの家、帰っていいのか?」

 どういうことだろう。

 考えてみて、思い出した。

 配信は自分の部屋でするといっても、遮音性はそこまで高くない。隣の部屋……というかお隣さんとの間の壁は厚くとも、配信部屋と化している寝室とリビングでは微妙なところだ。

「まぁいいんじゃない? 彼氏がいるってことは公開情報なわけだし」

「単身赴任中なのと同棲中なのとじゃ、見る側は違うと思うんだけどな」

「そう?」

「そうだろ」

 同じだと思うけど。

「ていうか単身赴任って、私の配信見てくれてたんだ」

「……まぁ、そりゃあな」

 涼はまたバツの悪そうな顔で視線を泳がせた。

 何を言う気なんだろう。

 急かしたりはしない。待っていれば、涼はちゃんと言葉にしてくれる。

「そういやお前、もうちょい布面積広めのパンツ穿けよ」

「え、見ちゃうよ?」

「もっと見えちゃまずいもんを隠せ。垢消されるぞ」

 まぁ確かに。

 極論、紐一本で隠せる女のそれと違って、男のは普通の下着でも隠しきれない。

 ……ん?

「どうせ隠しきれないなら、やっぱり布の方を隠すべきでは?」

「お前の親に、どうか頼むって念押されてんだからな、俺は」

 それは、つまり……。

 つぅっと冷たいものが背筋を伝った。もう冬だ。そろそろ私の誕生日……って、もしかして。

「あのさ」

「なんだよ」

「涼の職場って探偵事務所なわけじゃん?」

「興信所な」

「やっぱり私の素性も調べたのかな」

「多分な。本当は俺なんか雇わなくてもやっていけんだよ、あそこ」

 そういうことか。

 人騒がせなコメントで再生数を恵んでくれた『Ryu』こと涼の上司は、ついでに誕生日プレゼントまで送ってくれたらしい。

「あのさ、涼。やっぱり……」

「今日は帰る」

「えー、なんでー!」

 これは本気だった。

 割と頑張って可愛い顔と声を作ってみたのに、歯牙にも掛けず一刀両断である。

 納得いかない。

 すぐ隣から睨んでいると、いつも折れてくれる涼が今回も折れてくれた。

「始末書片付けてそのまま深夜バス乗ってきたんだが、これ以上俺に何をさせようって?」

 ナニだよ。

 ネットに慣れ親しんだがために喉元まで出かかってしまった言葉を飲み込むのに要した、ほんの数秒の沈黙。

 それが誤った答えとして伝わってしまい、涼は満足げに欠伸を漏らした。

 嘘でしょ。

 まさか本当にお預けなの?



 泥のように眠る。

 そう言って寝室に消えた涼は、空が暗くなる頃に寝癖を付けて現れた。

「おは……ふあぁ」

 そして挨拶すら終えぬ間に大欠伸を漏らす。

「眠そうだね」

「寝すぎた」

 言いながらもむにゃむにゃと何かを食むように口を動かす姿は、なんとも庇護欲を唆られる。涼がこんな風に油断しきった姿を見せるのは私くらいのものだろう。

 それがとても嬉しくて、ぞくぞくと背徳的な快感を背筋に這い上がらせた。

 思わず手を伸ばす。

 怪訝そうに首を傾げた涼だったけど、すぐに何かを察した表情で手を返してきた。といっても、私の手を握ってくるわけじゃない。手と手が交差するように伸ばし、軽く顎に触れる。

 くいっと、引っ張るほどの力もなく引き寄せられた。

「っ……」

 いきなりの口付け。

 寝起きだったからだろう。早くも離れようとしたそれを追いすがると、すぐに察してくれた。

 熱く、ねっとりと舌が絡み合う。

 寝起きの唾液は涼の味がした。それで余計、貪るように求めてしまう。

 顎から頬へと移っていた手がまた離れていった。

 私と涼には十センチ以上の背丈の差がある。唇を合わせるために少し腰を下げていた涼の手は、私の太ももまで簡単に届いてしまった。舐める手付きで指が這い上がってくる。ぞくぞくとした快感。

「んっ……ふぅっ」

 堪えきれずに声が漏れ出る。

 涼の指は遠慮するどころか一層の力を帯び、下着の中へ伸びてきた。尻を撫で、掴み、そのまま更に力が加わるのを予感……いいや期待する。

 けれど、そうはならなかった。

 ふっと離れた手が別のものを掴む。下着の紐だ。帰ると連絡を受け、迎えに行くからと穿いたそれ。解いて落ちる類いのものではないけど、結んだままの紐を掴んで下に引っ張られたら、勿論。

「ふえっ!? え、ちょ……ッ!」

 咄嗟に身を仰け反らせ、涼から離れるというより落ちかけた下着を足で止める。

「あれ、嫌だった?」

 しかし涼はけろりと言ってのけ、何食わぬ顔でくいくいと下着の紐を弄んでいた。疑問形の言葉が意味をなしていない。

「い、嫌じゃないけど……その、今日はてっきりしないのかと思ってたから」

「まぁそのつもりだったけど」

「だよねぇ!?」

「でもほら、起きたし。いくら眠くても、寝すぎてもう寝られないし。あとはまぁ」

 そう意地悪そうに目を細めた涼は、そして躊躇いもせず口にする。

「シユがしたそうだったから。なら俺もしたいし」

 ならってなんだよ、ならって。

 自分からはしたくないのか。いくら疲れていても、かれこれ……ええと、三週間ぶりの彼氏だぞ。こっちは部屋のカメラの前ならまだしも、駅前の人混みでするには未だ恥ずかしい格好して迎えにまで行ったのに。

 恨めしく睨んでみせるが、これっぽっちも迫力がないことは自覚していた。

 何もかも、この低い背が悪い。

 怒っているより物欲しそうに見える、とは涼の談。……まぁ、実際そうなのだから仕方ないのかもしれない。

 物欲しそうにしていた私に涼が応える。再びのキス。だけど今度は、太ももや尻ではなく腰に手を回された。きゅっと抱き寄せられれば、熱いそれが部屋着とスカートの薄い布越しに触れ合う。

 男同士。

 互いに男が好きというわけじゃないはずなのに、私にとっての涼と、涼にとっての私だけは例外だった。

 それが堪らなく嬉しくて、理性の箍が緩んでしまう。

「んッ……」

 触れ合い、押し付けたそれがビクンと跳ねる。

 涼は嫌がりもせず吸うようにしながら私の舌を貪って、腰に回したままだった腕に一層の力を込めた。全身のバランスが崩される。反射的に足を踏ん張ってしまったせいで、抵抗できなかった。

 涼の顔が離れる。

 寒い。

 そう思った次の瞬間、いつの間にか掴まれていた腕を強く引かれる。涼の思うがまま、ほんの数秒足らずで後ろから抱き締められる格好になった。

 腰に、熱いものを感じる。

 手も伸ばされた。脱げかけていた下着は最早、なんの意味もなさない。

 自分から爪先立ちになっておいて、私の口は思ってもいないことを言い出す。

「え、ねぇ、ここで……?」

「声は大丈夫だよ。今まで苦情来たことないんでしょ?」

 優しい声とは裏腹、手付きに容赦はない。

「あっ。ふ……、んッ」

 声はもう言葉を結べない。

 理性が蒸発していくのが手に取るように分かった。

 全身が熱くなる。

 立っていられなくなって、壁に手を付いた。それで涼は、支えるのをやめて押し付けるように突き上げてくる。

 自分の声を聞きたくない。

 きっと可愛らしさの欠片もない、獣みたいな声を上げているから。

 代わりに、耳元に涼の吐息を感じる。

 終わっても、まだ終わらなかった。壁を背にして涼に抱き着く。手が太ももの間に伸びてきた。抵抗はする気も起きない。そっと外に力を加えられただけで、自分から足を上げてしまう。

 ミニスカートでは、何も隠せはしなかった。

「涼、リョウ……っ」

 必死で呼ぶ。

 涼の声は聞こえなかった。意識が溶けていく。

 もう何度目だろう。

 自分の声も聞こえなくなって、涼との境界線も溶けて消える。

 乱れきった快楽だけが、脳と身体を支配していった。

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