第30話 セオドア(2)

 フィルマは、早朝になると仕事をするためにどこかへ行き、夜中になると戻ってきていた。


 真昼間も一瞬だけ俺の姿を確認するためには戻ってきていたが、その夜中の時間を、主に俺の世話に使っていた。


 月明かりの下で、洗面器にいれた水を運んできたりしたから、たまに木の根っこに足を取られて転んでいた。


「……鈍臭い奴だな」


 それなのに、俺が見つからないように細心の注意を払っているのだろう。


 四、五日もすれば起き上がることはできた。


 石のような体をゆっくりと動かしていると、体の小さなフィルマが俺の背中を一所懸命に支えていた。


 血がこびりついていた背中を拭いてくれて、洗い終えた服を、下手な手つきで縫い合わせる。


「何で、そこまでするんだ?お前はほとんど休めずに、大変だろう」


「大丈夫。おにいちゃんといる時は、安心できるから、平気なの」


 聞いても、よくわからない理由だった。


 やっぱり、俺が何もできないことが一番の理由のようだ。


 さらに十日が経った頃。


「おにいちゃん、見て。ここ、ちゃんと治りかけてる」


「お前、よくそんなエグい傷を見れるな」


 フィルマは俺の傷口を見て、初めて嬉しそうに笑っていた。


 どこかズレているところがある。


「また、新しいの貼るよ。これでもう治るかな?」


「待て、お前っ!!ぅぐっ……」


 またフィルマは、容赦なくあのシートを貼り付けてきた。


 最初ほどではなくても、激痛は体を襲う。


 体を捻って耐える俺を見て、おにいちゃん元気になったねと、ニコニコしていたのを怒りと共に覚えている。


 このガキ、いつか絶対に、泣いて詫びるまでイジメ倒してやると、誓ったほどだ。


 おかげで、痛みはあっても元通りに近いところまで体を動かせるようになっていた。


 フィルマがいない昼間に体を動かして、長旅に耐えられる体調へと整えていった。


 さらに十日が過ぎて。


「明日、日の出前には、俺はここからいなくなってるから」


 それを告げると、フィルマは寂しそうな顔をした。


 別れを悲しむように。


「俺みたいなやつを助けても、俺はお前を救ってやることなんかできないからな」


 俺は半人前の死にかけの子供で、大した力もなければただの捨て駒で、こいつをどうにかしてやることは到底できない。


「いらないから、大丈夫。元に戻るだけ。約束なんかいらない。おにいちゃんのことはすぐに忘れて、もう思い出さないようにするよ。ちょうどね、あと三日でここのお屋敷から別の所に行かなければならなかったの」


 その言葉通りに、フィルマはなんの見返りも期待していないようだ。


 ただ、最後の夜となる時も、フィルマは俺にくっついて寝ていた。


 ほんの一瞬だけ、一緒に来るか?と言うべきか迷った。


 でも、あんな雪しかない場所にこいつを連れて行ってどうする。


 下手すれば慣れない寒さで死ぬ。


 そして、こいつに人殺しをさせるのかと、すぐにその考えを捨てた。


 フィルマは、毛布の中に潜り込んで、俺の腰あたりにしがみついているのが定位置で、その日はいつもよりもさらに甘えるように俺にギュッとくっついていた。


 でも、もそもそと何か動いているなと思ったら、俺の手首にハンカチを巻いていた。


「何やってるんだ」


「おにいちゃんが、ちゃんと家族のところに帰れますように。おばあちゃんが私にしてくれたの。これ、大切なハンカチ。おにいちゃんにあげる」


 俺には家族なんかいないのに、しかもあれだけ会いたいと泣いていたばあちゃんの大切なハンカチを、バカじゃないのかと思っていたが、それを振り払うことはできなかった。


「気を付けて帰ってね」


「ああ」


 俺は言った通りに、寝ているフィルマを残して夜明け前にその場から立ち去っていた。


 一度だけ頭を撫でて、毛布をかけ直して。


 少しだけフィルマの寝顔を眺めながら思っていた。


 この後、こいつは一人で泣くのかと。


 ここで別れてしまえば、もう俺達の道が交わることなど無い。


 再会できることが奇跡のようなものなのだ。


 それでも、もし、次に生きてこいつに会えた時は、その時は何を投げ捨ててでも助けてやりたいと。


 だが、予想に反して思いがけず、再び巡り会う機会はあった。


 人生でどこでどうなれば、あの鼻垂れた貧相な子供が皇帝のベッドの上にいる皇妃になるのか。


 唖然としたのはほんの瞬きの間にも満たない。


 一目でわかった。


 あの時のガキだと。


 あの死んだような目。


 あのガキ、こんなところにいやがった。


 そして、どうしてジョエルに酷似しているのかと混乱したのも一瞬だった。


 カーティスはあの女のことをほとんど知らないから気付いていない。


 すぐに誰にも見られないうちに宮殿から連れ出さなければ、ジョエルを憎悪しているイグネイシャスにも何をされるかわからない。


 カーティスからもイグネイシャスからも隠さなければならない。


 何でこんな、最悪に近いややこしい状況にこいつは置かれているんだ。


 本人の意思なんか無関係に渦中に引き摺り込まれて。


 そして、目のやり場に困っている自分にもうんざりしていた。


 この育ち方はナイだろ。


 フィルマと再会してから、感情がずっと揺れ動かされっぱなしだった。


 それは、自分がこれまで生きてきた中で初めての経験で。




 ベッドの上で体を起こして、しばらく考え事をしていた。


 それが終わって、長い長いため息を吐いた。


 すぐ隣からはすぅすぅと穏やかな寝息が聞こえる。


 寝顔を見ていたら触れたくなって、起こさないように銀色の髪を掬い取った。


 あの夜会があった日から、家に帰るたびにフィルマから抱けとせがまれて、一晩相手をする羽目になった。


 俺がそれに罪悪感を覚えるのなら家に寄り付かなければいいのに、フィルマが俺の顔を見た途端に不安と安堵のない交ぜの表情に加えて、ほんの少しだけ嬉しそうな顔をするからだ。


 こんなところに閉じ込められて、たいした楽しみもなくて、俺なんかの帰りを待ってる。


 こいつはばあちゃんと離別してから、心安らぐ時が少しでもあったのか?


 ないから、こんな関係に縋ってきたんだろ。


 好きになるわけにはいかないのに。


 俺みたいな男に抱けとか、バカじゃないのか。


 あの日だ。


 会場中の男の視線を集め、他の奴が触れたのを見てイライラさせられて、母親の言動にはらわたが煮えくり返って、あっさりこいつの弱っているところにつけこんだ俺こそがバカだ。


 あの女がフィルマを抱きしめた時、反応が遅れた。


 いくら国では悪女として警戒されていても、母親なのだからと一瞬でも期待したのが間違いだった。


 フィルマの心も体も傷付けさせてしまって。


 でも、さらにそれに追い討ちをかけたのは、俺だ。


 ばあちゃんと一緒にいた時に見せた、子供じみた表情を、守ってあげなければならなかったのに。


 あの日、フィルマを助けられないのではないかと恐怖して、こいつに絶望を与えてしまったと後悔して、あの森で俺が所持していたナイフに触れてきた時は、さらなる恐怖感を味わった。


 死ぬつもりで、死ぬのを躊躇しないやつほど恐ろしいやつはいない。


 俺のことなんか覚えてもいないくせに、まったく同じところにしがみついて寝て、泣きながら眠ることまで繰り返させたくなかったのに。


 結局、俺が自分で言った通りに、フィルマを救ってやることなんかできなかった。


 こんな自分が親になるのが信じられなかった。


 それはフィルマも同じだろう。


 だから、余計にフィルマの不安は計り知れない。


 俺が自分の子供をこの腕に抱くことなんかできないのに、無責任なことをしてしまっている。


 フィルマに何もかも押し付けて、俺は一人で満足してさっさと死んでいくのだろう。


 十年一緒にいたカーティスを今さら一人にはできなかった。


 引き返せなくなることがわかっていても、カーティスと運命を共にしなければならない。


 最初から決まっていたことだ。


 フィルマの存在が予定外だっただけで。


「せめてお前はちゃんと生きてくれ。俺みたいなクズのような人間のことは忘れて」


 寝ているフィルマに言葉をかけて、触れた髪に口付けをした。


 こんな俺でも、フィルマが大切だから自分で守りたかったはずだったのに。


 あの王太子の顔が浮かんできた。


『正直に言えば、ジョエルに似過ぎているあの子がエクルクスにくれば、母が発狂するから好ましくはないんだ。君はこれから、あの子を守るためにどうするつもりなのかな』


 別れ際、俺に問われたことだ。


 その日、イグネイシャスを見送って、それに答えるようにそのままフィルマが祖母と過ごした北西部の村に向かった。


 目的の屋敷に無断で侵入し、居室に向かう。


「無礼なやつは誰だい。名を名乗りな」


 初めて直接会ったレーニシュ夫人は、突然現れた俺に対して何の動揺も見せずに睨みつけてきた。


「フィルマの夫で、セオドア」


「フィルマの夫?じゃあ、あんたがあたしに手紙を寄越した者かい?あんた、あの子を無理矢理どうにかしたわけじゃないだろうね」


 夫人は、さらに鋭さを増した視線を俺に向けた。


「無理矢理、妻にはした」


「どうやら頭を撃ち抜かなければならないようだね」


 そう言って持っていた杖を俺に向けたから、仕込みの武器なのだろう。


「貴女に頼みがあってきた」


「…………」


 夫人が今度は見定めるように、じっと俺の顔を見た。


「この国はこれからどこも争いの場になる。フィルマのことを頼みたい」


「随分と無責任な男だね。自分でどうにかするつもりはないのかい」


「俺には無理だ。俺は、役立たずだった」


 そして、夫人の言葉通りに無責任な男だ。


「フィルマは、妊娠している。俺との子供だ」


 それを伝えた途端に、パンっという音と共に俺の腕を何かが掠めていった。


 灼熱感と痛みが同時に訪れる。


 夫人の持つ杖の先端が俺に向けられ、先からは煙が昇っていた。


「あんた、妊娠中の妻を他人に渡して、自分はどうするつもりだい?自分の欲を満たせば、後はあの子のことはどうでもいいのかい?」


 どこから見ても、俺がヤリ捨てにしようとしているようにしか見えないのは当然だ。


 けど、それでも、


「フィルマの事が大切だ。だから、貴女に頼みたい。海の向こうに、連れて行ってくれ」


「あんたの手の届かない所に連れ去れと?気に入らないね」


「フィルマには、生まれてくる子供と平穏な生活を送って欲しい」


「フィルマが望んだ子供だと、お前は言うんだね?」


「それは、わからない……」


 子供の服を縫うフィルマが、何を思っていたのかは俺にはわからない。


「情けない男だね。妻にそんなことも聞けないとは。ふんっ、無理矢理妻になんかするからさ。肝心な時に尻込んで何も聞けなくなる」


 ほぼ育ての親のあの人にも、似たようなことを言われた。


「もういい。あんたがただの意気地なしってことはよくわかった。フィルマはあたしがもらうとするよ。あんたは、さっさと何処かで野垂れ死にな」


 夫人から、追い払われるように手を振られた。


「フィルマと子供のことを、お願いします」


 最後に頭を下げて、踵を返し、そして、もう一度だけ夫人の方を向いた。


「米は、どこでなら手に入る?」


「米?」


「どこを探しても無いんだ。フィルマが、以前に食べたがっていた」


 夫人は何を言いたいのか、呆れたような視線を俺に向けた。


「最近は東の商人は警戒してこっちには来ないよ。帝都のはずれに住んでいる商人の個人宅になら少しは残っているはずさ。今ならまだ逃げ出さずに家にいるだろう。急いで手紙を書いてやるからそれを持って行きな」


 俺は再び夫人に頭を下げて、手紙を受け取ると、今度こそ屋敷を後にした。


 そして、フィルマの元に帰れることがどれだけ幸せか、それを思い知らされていた。













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